第2話ぽっかりと空いた心と雨の屋上

「お兄ちゃん!一緒にソフトクリーム食べながら回ろうよ?もしかして嫌っていうの?そんなわけないよね?だってお兄ちゃんは私の奴隷だもん、断れるわけ、ないよねぇ?」

「慶次、あちらで今からショーが始まるみたいですわ、一緒に見に行きません?もちろん水がかかる席に座って二人でずぶ濡れになってそのあと…ウフフ…」

「け、慶次…!私と一緒に来なさいよ!この二人と一緒だと何か間違いが起こるかもしれないし…その…私は慶次のこと嫌いだからそういうのもないだろうし…あぁもぅ私ってば何言ってるの!?」

「慶次、女と一緒にいるときまずいよな?男の俺と一緒なら気兼ねなく回れるぞ。あ、もちろん隙を見てトイレに連れ込もうなんて思ってないからな?」

 可愛らしい白のワンピースを纏った絵里に、いつもの和風で清楚な感じとは打って変わったおしゃれな洋服を着こんだ神楽耶、そしてパーカーにスカートとシンプルだが可愛らしい服装をした霧華がなぜか俺を巡って言い争っている。

 どうしてこうなった―

 女の子3人プラスブルーノがワイワイと本人の意思も無視した争奪戦を繰り広げているが、その輪の中心である俺ははぁ、と大きくため息を吐くしかなかった。


 ことをさかのぼること約24時間前、つまり昨日のことだ。

 学園に編入して1週間が経過した。初めは新しい授業にドキドキとしていたが、人間とは慣れる生き物だとはよく言ったもので、もうそれらの授業には一種のつまらなさを覚えてしまっていた。戦闘訓練も、座学も、マナー講座もある程度数をこなせばどうっていうことはない、結局は同じことの繰り返しだ。まぁ一般の学校で受けていた授業より数十倍も楽しいのでいいのだが。そして例のピンクの寝室にも、残念ながら慣れてしまっていた。

 ただ一つ慣れないのがクラスの女子の視線だ。シンデレラ法で女尊男卑の世の中に変わってしまっているせいで男子は汚らしいものと名家のお嬢様は教え込まされているらしい。そういうわけで近づくと嫌な顔をされたり罵倒を浴びせられたりと散々だ。ランスロット曰くそれもいずれ慣れると笑っていたが、俺にはそれが到底先のことのように思えた。

 教室から見える少し散り始めた桜をぼぉっと見ていた俺のもとにいつもの連中が集まってくる。

「おにいちゃぁん助けてよぉ!文がセクハラするのぉ!」

「はぁ…また文の悲しい犠牲が一人増えましたわね…」

「ふっふっふっ…観念してよね、絵里ちゃん!そのお胸、頂戴いたす!」

「秘儀!霧華ガード!」

「キャッ!や、やめてよ!おっぱい触らないでぇ!…って慶次!?見ないで見ないでよぉ!」

「はぁ…お前ら、何やってんだよ…」

 いつもの女子メンバーがバカをやりながら近づいてくる。その楽しそうな雰囲気につられてか男子メンバーも集まってきた。

「文さん…すいませんが僕の主が嫌がってるのでやめてもらえますか?」

「そうだぞ!慶次は男の胸筋が好きなんだ!だからそんな脂肪の塊俺の慶次に見せつけるな!」

「おい…誰がいつ男の胸筋が好きって言ったよ…しかも俺の慶次ってどういうことだよ…」

 このバカ騒ぎにも1週間もすれば慣れるもので、初めは騒がしいと思っていたが今ではこれがなければどこか物足りなく感じていた。

「ふっふっふっ…よいではないかよいではないかぁ…っと隙ありぃ!」

「にゃっ!?ひゃんっ!く、くすぐったいよぉ…胸触んないでぇ…ちっちゃくて恥ずかしいのぉ…」

 まるで時代劇に出てくる悪代官のように両手でむりやり二人の女の子の胸を揉みしだいている文。彼女の手の中で霧華の大きなおっぱいがもにゅもにゅとマシュマロみたいに柔らかく、絵里のおっぱいがお餅みたいにもにゅりと形を変えるのに、俺の視界は奪われてしまっていた。やっぱり胸は女の子が一番だ、男の胸筋なんてくそくらえだ!

「はぁ…そろそろやめておいた方がいいですよ…」

「そうですわよ、文。いくら女の子が好きだからってこれ以上はダメですわ…見てみなさい、霧華も絵里も今にも爆発しそうな表情をしていましてよ?」

 二人の顔は恥じらいで赤く、けれどそれ以上に怒りの色が見て取れた。霧華に関しては冷気が漂ってきてしまっている。

「ざ~んねん。今回はこれで終了なのだ!」

 やっと解放されたことに安堵し二人は同時に息を吐いた。俺も残念で息が出そうになったが必死でこらえた。

「…と、そういえば…皆さんそろっていることですしこれをお渡ししませんと…」

「ん?なんだ、これ?」

 思い出したようにポケットから何か取り出した神楽耶、それは長方形の紙でそれを俺たちに一枚ずつ配っていった。見ると水族館のチケットのようだ。けれどこの水族館の名前は聞いたことがなかった。皆も同じみたいで首をひねっていた。

「わたくしのおじさまがもうすぐ水族館を開くということで皆さんをそこの視察に招待しようと思いましたの。美咲兄妹の歓迎会兼親睦会ということですわ」

「水族館か…久しぶりだな」

「おぉ水族館!文お魚大好き!じゅるり…」

 皆楽しそうに顔をほころばせる。俺も皆と同じで楽しい気持ちが抑えられなかった。何を隠そう俺は水族館が大好きなのだ。まるで海の中を散歩しているようにも感じられるあの不思議な空間には、何時間だっていられる自信はある。

「あ…でも、このチケットの日付、明日だよ?みんな大丈夫なの?あと1週間もないんでしょ、シンデレラ武闘会の選抜予選まで」

 絵里のその一言に皆思い出したように沈み込んでしまった。そう、運命を変える戦いまで1週間を切っている、その残された貴重な時間を遊びに使っていいのかと考えたからだ。けれど神楽耶はそんなこと関係ないという風に笑顔で答えた。

「1日ぐらい息抜きも必要ですわ。あまり根を詰めて訓練をしてケガをしても元も子もないですし…少しリラックスする時間を与えた方がメンタル面でもいい影響が出るはずですわ」

 その言葉に皆の心は一気にぐらついた。結局みんなは何か都合のいい言い訳がほしかっただけなのだろう。かくいう俺もその言葉に乗せられた一人であるが…。


 まぁそういう経緯で今現在俺たちは水族館に来ている。辺りに人はおらず客は俺たちだけ、まぁオープン前の水族館の視察だ、当然だろう。しかし改めて人のいない水族館を見渡すと不思議な気分に駆られる。まるで世界に俺たちだけしかいなくなったような、そんな錯覚を。

「お兄ちゃん!こんなメスブタどもと一緒にいないでさ、私と一緒に行こうよ!」

「メスブタは言いすぎなんじゃないですの…絵里さん?」

「またメスブタって言った!このまな板!」

「はぁ…お前ら…ここでもケンカかよ…」

「ほら慶次。ケンカしてる奴らは放っておいて俺たち二人で…」

「文、こいつお前の騎士だろ?どうにかしてくれよ…」

 ケンカをおっぱじめそうな雰囲気の彼女たちは置いておいて、俺は文にもう一人の厄介者をどうにかしてもらおうと考えたのだが…。

「え?別に男の子同士付き合うのは問題ないんじゃないの?女の子は女の子と、男の子は男の子と、これこそ正しい男女関係!というわけでさ、文に絵里ちゃん貸してほしいなぁ…」

「ダメだこいつら…ランスロットはどうするんだ?…あれ?ランスロット?」

 辺りを見渡すがランスロットは見つからない。確かに入館するときは一緒にいたのだが、どこに行ってしまったのだろうか。

「トイレなんじゃないか?それより慶次…あの三人…そろそろ止めないとやばいんじゃないか?」

 ブルーノに言われ三人を見た。するとそこはまさに地獄絵図寸前だった。冷気が漏れて、闇が漏れて、おしとやかな笑みの奥にどす黒い何かが見え隠れしていて…まさに一触即発の雰囲気だ。

「ほらお前ら、ケンカはやめろって言ってるだろ?こういう時こそ仲良く…」

「私を選ばないお兄ちゃんが悪いんでしょ!」

「そうですわ!慶次が誰と一緒に行くか決めないから悪いんですわ!」

「あんたがこの二人に手を出しかねない変態だから悪いんでしょ!」

 なぜ俺が悪者に…。どうにも理不尽な世界に俺は深いため息を落とすしかなかった。


「えへへ~お兄ちゃんとデート…嬉しいなぁ」

「デートってな、おい…」

「む?口答えする気?奴隷のくせに生意気!」

「はいはい、すいませんね」

 結局時間を決めて俺を貸し出す、ということでうまい具合に解決した。現在は絵里と一緒に館内を回っている。片手にはソフトクリーム、もう片方の手には絵里の手がしっかりと握られていた。ちなみに普段は館内は飲食禁止だ、神楽耶が特別に許可してくれている。

「お兄ちゃんとこうして水族館に来るっていつぶりだろ?」

 ぺろぺろとソフトクリームを舐めていた絵里がふとそうこぼした。

「そうだな…お前が中学校に上がる前くらいかな…」

 俺は絵里の方を向いて答えた。水槽に反射するキラキラとした不思議な光が真っ白なワンピースを着た彼女の横顔を照らしていた。その横顔が、いつか見た横顔とは違うことに俺は息をのんだ。無邪気そうに笑っていたその横顔が、すっかり大人びた笑みを浮かべるものとなっていたのだ。俺の知らない絵里の大人びた顔に、愛おしさと同時に、寂しさも感じていた。

「ん?どうしたの、お兄ちゃん?」

 けれどこちらを向いた彼女の顔は、まだまだ子供のころのそれだった。その証拠に鼻の頭にクリームがついていた。

「ぷっ…クリームつけたアホ面見せんじゃねぇよ」

 思わず吹き出してしまった俺をぷくぅと頬を膨らませて怒る絵里。けれど彼女は怒るといっても、どこか嬉しそうな表情を見せていた。きっと幸せなのだろう、俺がそうであるように。こうしていつまでも、仲のいい兄妹でいることに。

「…ったく…世話が焼けるのはどっちだよ」

 けれどこのままの関係では満足できない自分がいる。もっと上の、兄妹以上の関係を求める俺がいる。そいつが不意に表に出てきて、彼女の鼻の頭のクリームを指ですくい、口に放り込んだ。優しい甘さが、口の中いっぱいに広がった。

「お、お兄…ちゃん…?」

 少し薄暗い館内でもわかるほどに絵里の顔が赤く染まっていた。何か言葉を絞り出そうとしているのだろうが空回りしてまるで魚みたいに口をパクパクさせている。実際俺も頬が熱くなっているのが分かった。唐突に出てきてしまった隠し切れない欲望に身を委ねた自分を恥ずかしくも思い、嬉しくも思った。その証拠に水槽にほんのり移った俺の顔は、幸せそうにほころんでいた。

 結局俺たちはその後無言で館内を歩いた。頬の火照りも冷めずにずっとお互いを見れないまま、ただただゆっくりとそれを楽しむように歩いた。魚たちには、俺たちがどのように見えたのだろうか?その問いを嘲るように、水槽の魚たちは口をパクパクとさせるだけだった。


「ふはぁ…疲れた…」

 結局あの後神楽耶と霧華とも付き合わされたのだが…もう散々だ。神楽耶は子供みたいにイルカショーではしゃぎまわり挙句の果てにはイルカと一緒に泳ぐのだといって水槽に飛び込みかけたし、霧華に関してはずっと赤ら顔で文句を言われ続ける始末だ。まぁ二人の新たな面を見れたという意味では幸運だったが。

「ちぇっ…俺も慶次と回りたかったぜ…」

 唇を尖らせたブルーノは俺の予約待ちの女の子と文を連れて一緒に回ってくれていた。文の方は彼とは違い幸せそうに顔を綻ばせているが。

「あれ?ランスロット?もう…あいつどこ行っちゃったのよ…」

「ん?お前ら、ランスロットと回ってたんじゃなかったのか?」

「いいや、違うぞ」

「どこ行ったんだ?さすがにトイレっていうわけでもないし…ちょっと探してくる」

「あ、お兄ちゃん、私も!」

「いや、みんなは待っててくれよ。入れ違いになったら困るしさ、お土産でも見て待っててくれよ」

 俺はそのままランスロットを探しに行った。

 困難を極めるだろうと思った捜索も5分もかからずに終わった。たくさんの魚が入れられた大水槽の前で、彼は佇んでいた。ぼぉっと、どこか物思いを浮かべるような表情で、彼はそこにいたのだ。

「ランスロット!」

 じっと水槽を見つめ続けていた彼が俺の声に気付き笑みを浮かべた。けれどその笑みはいつもとは違う、どこか愁いを帯びたように思えた。

「一人でどうしたんだ?みんな心配してるぞ」

「すいません…どうにも僕は水族館というのが苦手でしてね…」

 頭の中にはてなを浮かべた俺に気付いたのか彼はゆっくりと話し始めた。

「この水槽の魚たちを見て、幸せだと思いますか?」

 その問いをされて、俺は水槽を見た。巨大なその中で魚たちが鱗をキラキラと輝かせながら自由気ままに泳いでいる。その様は誰がどう見ても幸せそうに見える。その問いに俺はこくりと首を縦に振って答えた。

「そうですか…けど、僕はそうは思わないんです。この巨大な檻の中、敵もいないしエサもちゃんともらえる、死という存在から完全に隔離された楽園のような場所で、彼らは本当に幸せでしょうか?しかも彼らはこれから見世物にされてしまう…それすら知らないでただ優雅に泳ぐことのどこに幸せがあるのか…」

 彼のその言葉と同じタイミングで、水槽の中に大量のエサが放り込まれた。イカや小魚の死骸がキラキラと光を放ちながらゆっくりと降ってくる様は、まさに水中に降る雪のように感じられた。

「僕は彼らと、周りの人間を重ねて見てしまうんです…権力も財も、生まれながらに持っていながらのうのうと何の努力もしない人たち…本当に幸せなのでしょうか?」

「それは…学園の生徒のことを言っているのか?」

「えぇ、権力に頼り横暴な振る舞いをしたり、財を見せびらかすようにしたり…本人は何の努力もしていないのにそれをまるで自分の力だと見せつけて下位の者を貶めようとする彼女たち…ね?慶次もそう思うでしょう?」

 その時ちょうど小さな魚の狙っていたエサが大きな魚に横取りされるのを俺は見た。彼はおろおろと戸惑った風に泳ぐがやがて次の標的を見つけ嬉しそうにそれにかぶりついていた。俺はそれにうなずくことも、首を横に振ることもできなかった。

「それに僕らも…逆らえばどうなるかわからない法の下、びくびくしながら権力者にしっぽを振って生きている…キミも屈辱を感じたことはありませんか、この女権国家に…」

 またも黙るしかできなかった。けれど、心の中ではそれに深くうなずいた。あの日に感じた忘れもしない屈辱を、どうしようもない自分自身の無力さを、俺は今も自身の胸の奥で飼っているのだから。

「だけど僕は、そんな生きながら死んでいるような世界で、生者を見つけた…それが、霧華だった」

「霧華が?それってもしかして…お前が霧華に仕えていることの理由か?」

 学園に入学してすぐに俺はこんな噂を耳にした。この学園の最強の騎士はランスロットだというものとか、彼が上級貴族の騎士の勧誘を何度も断ったとか、そういう類のものだ。いつか本人に聞こうと思っていたが面と向かってでは話しづらい内容だったのでここまで保留されていたのだ。

「えぇ…彼女は、ただひたすらに努力していた。名家の3女に生まれ、しかも上の姉たちよりも格段に異能の力が劣っていた彼女は人として扱ってもらえなかったようで…」

「あんなに力があるのに、劣っていたのか?」

「えぇ、上の姉は何でもバケモノ級の力を持っているとか…」

 それはよくある話だ。今や家督を継ぐのは長女と決まっている。次女以下は必要のないただの補欠としか思われていないのだが、彼女らにもチャンスは残されている。それが異能だ。異能がうまく扱えれば職にも困らないし、それに社会的に上位の地位と認められる。だけどそのどちらの条件も満たしていなかった幼い日の霧華の凄惨な暮らしは、想像に難くなかった。

「彼女は上の姉たちといつも比べられたそうですよ。それが悔しくて悔しくて、日々努力して、実力を高めてやっとこの学園に入学できた、と言ってましたね。けれどそれだけでは終わらず彼女は学園に入ってからもずっと努力をしていました。一人で隠れてね。それを見つけた僕はまるで一目惚れしたみたいに心を打たれて彼女の騎士にしてほしいと頼んでね…きっと彼女の努力と一人きりの強さに嫉妬にも似た感情を覚えたんでしょうね…一緒にいると僕自身も強くなれる、そう感じたんだと思います」

 恥ずかしげにハハ、と笑ったランスロット。けれどその顔には一種の誇りが見て取れた。俺は彼の話を聞き霧華は、いったいどれだけの苦痛を感じたのだろうかと思った。少ししか戦っていないが、彼女が見せたあの強さ、その正体がわかりキュッと胸が締め付けられた。

「けど…なんで俺にそんな話を?」

「だって君は最近の霧華のお気に入りですからね。よく話してくれますよ、君たち兄妹のことを。まぁ普段はあんな態度に口調ですが…彼女も悪気があるわけじゃないんですよ。だから、仲良くしてやってくださいね」

 俺はそれにうなずいて答える。霧華も俺と同じで、何かを感じているのかもしれないな、と思った。


 結局ランスロットと話し込んでしまい戻った時にはみんな飽き飽きとした表情を浮かべていたが俺たちを見て笑顔をこぼした。霧華はほっと息をついて彼に抱きよった。あの話を聞いた後だとあの二人の抱擁が信頼以上の意味を持つことに容易に気づくことができる。

「お兄ちゃんお疲れさま、はい、これ」

 と、俺のもとにやってきた絵里がペットボトルに入ったオレンジジュースを手渡してきた。礼を言って受け取り問答無用でそれを喉奥に流し込んだ。オレンジのほろ苦さとすっきりした甘さが俺の喉を十分に潤した。

「どう?おいしい?」

 ごくごくとそれを流し込みながら俺はうなずいた。

「よかった…ま、おいしいのは当然だよね!なにせ私の愛が入ってるんだから!」

 愛?なんだそれは?尋ねようとしたところで霧華は大声をあげた。

「あー!それさっきのジュース!慶次になんてもの飲ませてるのよこの変態妹!私見てたんだからね、こそこそと隠れてフタとか飲み口をべろべろしてたの!」

「え?」

 俺は慌てて絵里の方を見る。彼女は頬に手を当てて恥ずかしそうに体をくねらせていた。それが明らかに事実ということを物語っていた。

「マジか…」

 俺は驚くが心の奥ではガッツポーズをしている自分がいた。

「この淫乱発情ブラコン!」

「ふふん!なんとでも言いなさいよ!」

「あーあ…また始まっちゃったよ…」

 俺と霧華はともかく、絵里と霧華が仲良くなる時はずいぶん先のようだ。


 その後俺たちは近くのショッピングモールへ、そこのフードコートで少し早めの夕食をとり今はモールでそれぞれ思い思いの時を過ごしていた。かくいう俺もデバイスの新しいプログラムを物色したり、新刊を探したりしていた。もちろん絵里も一緒に。どうにも俺と離れたくない絵里はちょこちょこと俺の後についてきていた。

「絵里は何か見たいものとかないのか?」

「う~ん…ないかなぁ…」

「暇じゃないか?あ、そうだ、確かそこそこ有名な歌手がここでライブしてるって…」

「別にお兄ちゃんがいれば暇じゃないし大丈夫!」

「そうか」

 一通り見終わってしまい完全な手持ち無沙汰だ。時刻はまだ6時過ぎ、集合には1時間以上も早い。

「それじゃほかのみんなと合流するか?」

 絵里は少し恨めしそうに俺の方を見たがこくりとうなずいた。なので俺たちは誰かを探そうと歩を進めたのだが…。

「あれ?停電?」

 ふと、モール内の電灯がすべて落ちたのだ。暗闇の中絵里の手を探して握る。普通の停電ならこのようなことはいくら俺がシスコンだからってしないのだが、今は何か妙に心がざわついている。この停電が、店側のトラブルに思えないのだ。妹の手が少し震えている。大丈夫だという風に俺はその手を強く握り返した。

「お兄ちゃん…端末の電気を頼りにする?」

 絵里のその声に端末を出そうとしたが、やめた。耳に何者かが走る音が聞こえたからだ。それだけなら停電のトラブルでパニックになった誰かが走っているのかと思ったが、不自然なほどに統率のとれた足音だ。暗闇でこれほど正確な足音を鳴らせるだろうか?しかも周りの人間が付けた端末の電灯が不意に消えたり、ましてや悲鳴のような叫び声に混じって黙れ!とか殺すぞ!とか物騒なワードが聞こえてきたのだ。

「これは…まずいかもな…」

「どういうこと?」

「このモール…占拠されたかも…」

「え!?」

「しっ…静かに…」

 絵里があげた声も一瞬のことだったので見えない誰かには聞こえていないだろう。

 しかしこれは参ったぞ…。ショッピングモールが占拠されるってのは明らかにラノベの定番イベントだ。ここでヒロインたちと力を合わせてピンチを切り抜けるっていうのが鉄則だ。実際現実に起こってみるとどうにも実感がわかない。だが停電と、かすかに聞こえる叫び声に怒鳴り声が占拠の事実を物語っていた。

 俺は自慢の頭脳をフル回転させてこの状況を解析する。まずはタイミングだ、どういう目的があるにしてもなぜこの時間帯だ?普通占拠するなら昼間とか人が多い時間帯を狙うはず…いや、待てよ…確か今日は歌手のライブイベントがある…ライブを見に来ようと客が増えたこのタイミングを狙ったのか。次に占拠の目的だが、人質を取ることにあり虐殺目的ではないだろう。より多くの人質をとれる時間帯を狙ったことも、さらに現状で銃声が一発も聞こえないということがそれを物語っている。ならば人質との交換は金か。いや、人質を取り政治の交渉材料っていうこともある。例の反シンデレラ法の連中の仕業の可能性も高いが結局確証は5分5分だ。これは出たとこ勝負だろう。

「お兄ちゃん…何かわかった…?」

 小声で絵里が尋ねてくる。

「いや、まだ情報が足りない…ここにずっといるのもまずいし、いったん隠れるぞ。頭の中に見取り図は叩き込んでる。まずはあの非常口のランプを頼りにするんだ」


「隠れるって言ってもお兄ちゃん…」

「いや、批判は後にしてくれ…緊急事態なんだ、しょうがないだろ…」

「だからって…女子トイレって…非常事態じゃなかったらお兄ちゃん逮捕されてたよ?」

 現在非常口付近の女子トイレの個室で、しかも絵里と二人で潜伏中。とっさのことで二人で入ってしまったが、狭すぎる。互いの吐息も熱も、ましてや鼓動まで聞こえてしまうほどの距離だ、いくら緊急事態とはいえ絵里を意識してしまうには十分すぎる。

(うわ…絵里の匂いがすぐ近くで…石鹸のいい匂いだ…)

 頭一つ分小さな絵里の髪の毛からシャンプーみたいな石鹸みたいないい匂いがはじける。しかしその奥からも確かに女の子特有の甘い匂いがして、まるでフェロモンに当てられたようにぼぉっとしてしまう。

「ねぇお兄ちゃん…今、ドキドキしてるでしょ?」

「!?」

「こんなに近くにいるんだから…分かっちゃうよ…お兄ちゃんもわかるよね、私が…ドキドキしてるの…」

 絵里の肌が俺の肌に当たる。温かな熱を帯びた肌に触れただけで火傷しそうになってしまうほどに、俺の感覚は過敏になっていた。それと同時に絵里のドキドキが俺の中に流れ込んでくる。

「お兄ちゃん…こんな暗がりの密室で女の子と二人っきり…これがどういう意味か…分かるよね?」

 ごくり、と俺は唾液を飲み込んだ。俺だって健全な青少年だ、それがどういう意味かなんて言わなくてもわかる。しかし改めて絵里に言われるとどうしようもない劣情が襲い掛かってきてしまう。

 ごそごそ―

「!?」

 突然暗闇に衣擦れの音が響いた。とても近くでしたそれは、絵里が発したものだとすぐに分かった。彼女はもぞもぞと狭い密室で動く。そのせいで俺の体に絵里の柔らかな体のいろんなところが触れてしまっている。しかし今はそれを堪能している暇はなかった。俺の脳内は今や謎の衣擦れの音のことでいっぱいだったからだ。

「ふふ…お兄ちゃん…私が…今何してると思う?」

「な、なんだろうな…?」

「ほんとはわかってるくせに…こんな時でもマジメぶらなくていいんだよ?素直になっちゃいなさいよ…お兄ちゃん♪」

 ニヤニヤと笑う絵里の声、それはまさに悪魔的な響きを持って俺の脳内を揺さぶった。

「じゃあもう一回質問するね…お兄ちゃんは…私が今何をしていると思う?ヒントは、お洋服に関すること」

 もぞもぞと動く彼女に衣擦れの音、それが導き出す答えは一つしかない。

「もしかして…服、脱いでる?」

「正解…私は今ね、お兄ちゃんの前であられもない姿になろうとしてるんだよ…?どう?興奮するでしょ?」

「バカなことするなって…」

「むぅ…マジメは無しって言ったでしょ!目の前で女の子が服を脱いでるんだよ?男として次にしなくちゃいけないことってあるんじゃない?」

「そ、それは…けどそれってやっぱり兄妹の一線っていうかなんというか…」

「合意の上ならどうでもいいんじゃない?私はお兄ちゃんとしたいし、お兄ちゃんも私としたい、ほら、両思いじゃない?」

 それは両思いとは言わないんじゃないか、突っ込もうとしたがその言葉は遮られた、外から聞こえた足音に。

「お兄ちゃん、静かに…誰か…近づいてきてる…」

 その足音のおかげで俺の頭は一気にクールダウンした。コツコツと近づいてくる足音に俺は耳を澄ます。

「足音の間隔からして相手は一人…きっと成人近い男性だろう。武器も持っているな…ガチャガチャって鳴ってるから旧世代の銃、きっとライフル系統だろう」

「そっか…じゃあ私も武器を用意しておかないとね」

「いや、お前その前に服着ろって」

「は?服?」

「え?お前…服脱いでるんじゃ…」

「そんなの嘘に決まってるでしょ?こんな大変な時にほんとに服脱いでるって思ったの?ちょっと私が服を整えてただけで…お兄ちゃんはそんな妄想してたの?へぇ…エッチなんだお兄ちゃん♪」

 だまされた…。結局俺は絵里の手のひらの上で踊らされていたというわけか。それを知ってホッとしたと同時に、なんだか残念な思いが溢れているのは、気のせいだと信じたい。

「それじゃ気を取り直して…いくよ…」

 一瞬目の前の闇が歪んだ。かと思えばそれは彼女の手の中に集約されていく。闇から武器を作る、それが絵里の能力だ。普段はあのファンシーな棺の中の闇を使っているが今はそれがない、だが停電したここは天然の闇がよく取れる。この空間では彼女は無双できるというわけだ。

「こちら3階…制圧完了…」

 と、すぐ近くで男の声が聞こえた。きっと無線で連絡を取り合っているのだろう。俺たちは息を潜めてそいつが去るのを待つが、話はどうやら悪い方向に向かっているらしい。

「え?トイレの個室?いえ、調べてませんけど…いや、さすがにあの停電でここまで逃げられる奴なんて…えぇ、えぇ…分かりました。念のため、確認しておきます」

 そいつは次々とトイレの個室を開けていく。俺たちが隠れた一番奥の個室が開けられるのは時間の問題だが、開いた瞬間が敵さんの最後だということで。

「お兄ちゃん…手加減はした方がいい?」

「いや、別にいいだろう。悪人にかける情けなんてないよ」

「オッケイ」

 小声の会話が終わったと同時に扉が開くが、それと同時に絵里の容赦ない一撃が繰り出されたことは言うまでもないだろう。


「おっ…これ、暗視ゴーグルか、使えるな」

 伸びきった男を縛り上げて装備品を物色する。暗視ゴーグルに旧世代のアサルトライフル、無線機、それにサバイバルナイフ。制圧するには十分な装備だ。だが使用者の錬度が足りないな、絵里の一撃を受けただけで伸びきってしまうようじゃまだまだだ。

「よし…進むぞ、絵里…俺の手をちゃんと握ってろよ」

「うん」

 残念なことにゴーグルは一つしかない、というわけで俺がそれを装備して先陣をきることに。メガネの上からだと変な気分だが仕方ない。俺たちは変な騒ぎを起こさぬように敵はできるだけスルー、そのまま階段を下りて一階へ、きっとそこにボスがいると踏んだのだが、それは案の定当たりだった。

 一階の大広間の巨大ステージは照明で照らされていた。きっと非常用の電力をすべてステージ用照明に回しているのだろう。そしてその照明の下にいるまるでクマのような大男がボスなのだろう。一人だけ見るからに重武装でふんぞり返っている。周りの小物に指示をしていることからもそれが分かる。そしてステージの下には数多の人質がいた。皆手足を縛られて動けなくなっているようだ。

「さて…これからどうするか…」

 大広間に通じる通路の壁に隠れて邪魔なゴーグルを外してステージを確認する。ステージにはボスとその取り巻きが5人、人質を囲むようにさらに10人が配置されていた。皆手にはさっき奪ったものと同じライフルが握られていた。敵は全員男、つまりあれはシンデレラ法に反対する勢力だということがよく分かった。その証拠に人質の女性は外側に、つまりすぐに殺せるポジションに置かれていたからだ。

「人質を助ける?それともボスが先?」

「いや、そのどちらもダメだ…人質の命が危機にさらされる…」

 あの人数を相手にするのは少々まずい。まず数の問題でこちらが圧倒的に不利だ。そして人質も邪魔になる。助けに入った瞬間人質の中の誰かが見せしめに殺される。それでも助けようとした場合人質の虐殺が始まってしまうだろう。もし相手が人質を見せしめにしなくともあの数の銃だ、流れ弾に当たって死ぬということもあり得る。

「ねぇお兄ちゃん…あれ、霧華、だよね?文もブルーノもいるよ」

「は?」

 嘘だと思って絵里が指差した先を見たが、確かにそこにいたのは見間違うことない友人たちだった。

「何やってるのよ…!あんなのに捕まっちゃうなんて…!」

「いや、捕まるしかなかったんだと思うぞ…」

「どういうこと?」

「きっと能力を使おうとしたが人質を取られたんだろうな。大人しくしなけりゃここにいる奴らを皆殺しにするってな」

「そっか…」

 俺たちは敵の観察に必死で背後に近づく存在に気付かなかった。その気配を感じた瞬間には、もうすべてが遅かった。

「動くな…武器を捨てて両手を頭の上に置け…」

「そのままゆっくりと伏せろ…怪しい動きをすると、殺す」

「絵里…従え…」

 もし反発して俺たちが攻撃されてしまえば誰が彼女たちを助けるのか、これは戦略的降伏だ。次に繋げるための。男の声がさらに続ける。

「お前たちの狙いは何だ…言え…」

「は?」

「だから目的だ…どうして占拠した…言え」

 何かおかしい。今の会話から察すると、敵は俺たちをあちらの武装集団と勘違いしている。ならば話せばわかるはずだ。

「ま、待て…俺たちは敵、あいつらとは違う…ってランスロット!?」

 話そうとして後ろを振り向けば、そこにいたのはランスロットと神楽耶だった。二人ともゴーグルをつけて旧世代の銃を構えていた。

「その声…慶次か?じゃあそっちは絵里か…すまんな、こいつをつけてるとどうにも人の判別がつきにくくてな」

 確かに暗視ゴーグルは光を収集するだけだからな、顔や服の判別はつきにくい、間違えてしまうのも無理はなかった。

「いや、問題ない…それよりも…」

 今のこの現状を彼らに伝え作戦会議を始める。

「どうしますの?といっても行動をとるにしても人質が邪魔ですわね…」

「あぁ…そうなんだよ…どの行動でも人質が死ぬ…」

「それは厄介ですわね…」

「しかも相手の目的もわからないとなると…」

「いえ、それならわかりますわ」

 神楽耶のその言葉に驚き彼女を見る。彼女は得意げに無線機を掲げていた。

「これで情報も筒抜けですのよ」

「ま、霧華が繋いでくれたんだけどな。捕まるときに一悶着あったみたいで、そのどさくさに紛れて無線を奪ったんだ」

「神楽耶の手柄じゃないじゃん…」

 ならなぜ得意げにした、というツッコミは後回しに得た情報を共有することに。

「相手の目的はシンデレラ法の撤廃、そのために現在のシンデレラが法の撤廃を宣言するとともに今まで見下してきた男たちに謝罪するために自害しろというものだ。もし要求が通らない場合は一時間に一人殺すということらしい」

「ずいぶん分の悪い賭けだな…こんなむちゃくちゃな要求が通るわけない」

「いえ、そうでもありませんわ…あの人質の中に現議員とその娘がたくさんいますの。娘はどれもみな優秀な才能を認められて次のシンデレラの代には議員入りするといわれているほどですわ」

「は?なんで議員のお偉いさんたちが…」

「今日ここでお偉いさんの挨拶があるみたいで、ライブが終わった後に演説予定だったようですが…それを逆に利用されたわけですわね。しかもその演説というのが全国でほぼ同時に行われているわけで…」

 ランスロットが端末を開きその情報を見せてくれた。ニュースサイトのトップにでかでかと政界の大物が多数人質に!全国同時演説を狙った犯行か!?、という文字が躍り出ていた。

「じゃあほかの演説の場所もここと同じように占拠されている、と…相手もバカじゃないってことか…」

「あそこにいる議員は全員金で成り上がったような奴らですわ。けれど数を見越した人質ならばあんな奴らでも有効な手になりますのよ…」

「…で、敵の目的はわかったけど…他にも何かあるんでしょ、大切な情報」

「えぇ…今ステージの上にいるボス…あれが全国指名手配中の龍崎(りゅうざき)と呼ばれる男だということですわ…」

「…ごめん、説明よろしく」

「あの龍崎を知りませんの!?2代目新選組というテロ組織を立ち上げておきながらも様々なテロ組織に加担している、けれども名前以外の情報を一切残さない…強力な異能が使えるらしいのですけどその正体もわかっていない…まさに謎に包まれたテロリストですの!」

「そんな奴が顔見せていいのかよ…」

「きっと相手もこれで最後にするみたいですわね…全国規模でテロを起こしているのですから、あっちも玉砕覚悟なはずですわ」

 玉砕覚悟、か。それもまた厄介だ。相手が死ぬことを前提に戦っているならばきっとためらいもないはずだ。正面切って戦うのはますます厄介になってきた。

「ランスロット、ニュースに動きはあるか?」

 さっきから端末とにらめっこしているランスロットに尋ねるが彼は首を横に振るだけだった。

「ううん…さっきから進展なし。残った議員の連中もこの件は無視する方向で行くらしい。どれだけ犠牲を重ねてもテロに屈しないとかバカげたことを言ってますよ…その言動とこの騒ぎのせいで各地の男性も暴動を起こしていますね」

「おいおい…」

 政界の進展もなし、ならばこの場でどうにかしないといけないわけだ。幸い今目の前にいるのは大物テロリストだ、きっと主格だろう。その一人が潰されたとなればほかの暴動も収まるはずだ。

「まずは…いったん状況整理だ…少し様子を見る…」

「…と言うことですわ、霧華。また何かあれば無線で連絡を入れますの」

「えぇ、わかったわ」

 さっきからずっとつながっていたらしい無線から霧華の声が聞こえた。


「さてさて…これからどうしようか?」

 ランスロットとの通信が終わると霧華は小声で仲間内にそう尋ねた。ふくよかな胸の谷間に無線機を隠す文も彼女の騎士のブルーノも首を横に振り解を見つけられていないことを示した。かくいう霧華もどうしていいかわからずにうんうんと唸るのみだった。

「あっちの情報によればほかの場所も占拠されてる…けれどあいつを倒せばその暴動も落ち着くはず…」

 霧華はステージ上に立つ大男、龍崎を睨む。彼はそんな彼女の視線など眼中にないのか仲間たちに様々な指示を飛ばしていた。その指示を受けて銃を持った連中はてきぱきと動いていく。

「事件が動く何かがあれば…」

 彼女がそう願った瞬間にそれは起きた。一人の少女が立ち上がったのだ。彼女の手も霧華たちと同じで縛られていたのだが、どうやら脱出できたようだ。少女は果敢にも立ち上がり大声で叫んだ。

「あなたたち!自分が何をしているのかわかってるの?これは明らかに犯罪よ?こんなの決してうまくいくわけないわ!」

(まずいわね…泣き叫ぶならともかく…相手を挑発してどうするのよ…)

「このクズども!やっぱり男はみんな野蛮なんだわ!早く捕まって死刑になっちゃいなさいよ!」

 威勢がいいのはいいことだが、それが裏目に出ることがある。今が、それだ。彼女は龍崎たちの怒りを買ったのだ。むりやりにステージの上に引きずられていく少女を、霧華たちはただただ見ているしかなかった。

「何するのよ!穢れた手で触らないでくれる!?」

「同じ人間なのに穢れた、とは悲しいな…」

「何が同じ人間よ!男なんて虫けら以下の存在のクセに!」

 ぷつり、と確かに何かが切れた音が霧華の耳に聞こえた。それが聞こえた瞬間にはもう、事態は取り返しのつかない方向に向かっていた。

「ほう…聞いたか同志たちよ!これがかの悪法のもとに教育を受けた悲しい少女の末路だ!どうやら彼女はもう救いようがないらしい…なら俺たちのために最後はその命を役立ててやろうじゃないか!」

 大広間一帯に広がる彼の大声にも負けない声で彼の仲間が歓声の声をあげた。その声に気圧されたのか少女は先ほどまでの威勢のいい表情はどこへやら、今はおびえ切った小動物のような顔を浮かべている。

「喜べ…キミは記念すべき一人目の犠牲だ…」

「ひっ…」

(まずい!どうにかしないとあの子が…!)

 けれどそう思った時にはすべてが終わっていた。一発の銃声が、広間に響いた。それは開けた天井に反響し嫌に大きく聞こえた気がした。龍崎が銃を撃ったのだ。けれどそれは彼女の頭に向けて、ではなく上空に、例えるならリレーの開始のピストルを撃つときのように空に向かって撃ちだされた。

 それを見てほっとした表情を浮かべる少女と周りの人々、けれどそれもつかの間だった。次の瞬間には、少女のまるで人の者とは思えないほどの醜いうめき声とともに、彼女の頭に真っ赤な装飾が飾られていた。

 ほとばしる赤、赤、赤、それを見て叫ぶ、泣きわめく、吐く、数多の反応を見せる残された命、そしてその様を見て笑みを浮かべる殺人者。バタリ、と力なく崩れ落ちた真っ赤な頭の少女を見て、ブルーノは青ざめ、文は叫びをあげる中、霧華だけは奥歯をギリリと噛みしめて龍崎を睨んでいた。

「この少女は革命の第1の犠牲となった!次の犠牲になりたい奴は前に出ろ!英雄として讃えてやるよ」

 霧華には、殺人の瞬間が見えていた。打ち上げられた銃弾が、まるで速度を失って落ちてくるペットボトルロケットのように落下、そしてそれは綺麗な曲線を描き少女の頭に着弾したのだ。普通の銃弾ならありえないような動き、ならば考えられる線は一つしかなかった。

「文…無線出して…」

 泣き喚いていた文だがどうにか無線を周りの人間にばれないように取り出してスイッチを入れた。


「私よ…今の…見てた?」

「あぁ…はっきりな…」

 無線機越しにもわかる忌々しい霧華の声に俺はさっきの惨劇が脳裏によみがえってきた。無残に奪われた一つの魂、そのあまりにもあっけない散り様に血が出るほど強く奥歯をかみしめた。

「あれが龍崎の異能…きっと銃弾の軌道を自由に操ることができるのよ」

「サイコキネシスに似た能力ですわね…」

「そうね…あれは相当に厄介だわ…」

「でも、私たちの敵じゃないよね、お兄ちゃん?」

「え?」

 皆の注目が一斉に俺に集まる。事の中心の俺は苦笑いを浮かべるしかなかった。

「お兄ちゃんのあの力と、私の奥義があれば…できるよね?」

「あぁ…できると思うけど…でもどうやって隙を作るんだ?」

「隙さえあれば…勝てるのか?勝率は?」

 ランスロットの問いに、俺は自信をもって答えた。

「100%だ」

「本当か?」

 今度は絵里がうなずく。

「わかった…君たちの力に賭ける…」

「え?でも隙は…」

「大丈夫、それなら僕が作る。霧華、そういうわけだからサポートよろしく頼むよ」

「はぁ…分かった…でもやるからにはちゃんと勝ってよね」

「もちろん」

 無線を切ったのを合図に、俺たちの作戦は始まった。


「タイミングは一瞬…逃すんじゃないぞ…」

「もちろん!お兄ちゃんこそ緊張してできませんでした、なんてオチはやめてよね」

「大丈夫さ、俺のこの力には絶対の自信がある」

「あとは僕のサポートが万全かどうか、だけですね。ま、それも心配しないでくださいよ」

 ランスロットを中央に、俺と絵里は彼の手をぎゅっと握っていた。そのまま作戦の開始タイミングまで待つ。ドクンドクンと心臓が高ぶる。それは二人も同じようでつないだ手からそれが十分に伝わってきた。

「こんなのもう嫌よ!早く私たちを解放して!死にたくないの!」

 遠くで少女の、霧華の声が聞こえる。あちらも始めたようだ。

「どうして私たちなのよ!もうやだ…帰してよぉ!」

「うるさいぞそこのガキ!」

 一人の男が霧華に近づいたその瞬間、彼女の能力が発動しその男の足元が凍り付いた。それに続くように周りにいた男の足元も、銃も凍りついていく。

「何しやがるこの女!」

「殺せ!」

 響き渡る銃声、けれどそれは彼女の前に突如現れた氷塊によって防がれた。

 一瞬怯む敵、それが俺たちの突撃するタイミングだ。

「行くぞ!…停止する5(ストップオブファイブ)!」

 ランスロットがそう叫んだ瞬間周りの情景が止まった。その中を俺たちだけが動いている。それは俺の高速思考を使うときのように似ていた。

「君が5秒先を見るなら、僕は5秒時を止める能力を持っています。効果範囲は僕の触れているもの以外ですが、逆を言えば僕が触れている人間は止まった時を動けるというわけです」

 それが彼の能力だった。今俺たちは止まった時の中を必死に走っている。この5秒が、俺たちの王手をかける時間だ。

「ただし使えるのは1日1回きり…だから失敗すれば僕らはジ・エンドですね」

 止まった時の中、秒針が刻まれる音だけが耳に響く。カチ、カチ、カチ、あと2秒、けれど俺たちはもう、勝ちが決まる場所まで来ていた。

 バリン!と鏡が割れたような音が世界に響くのと同時に、世界にまた時が流れだした。

「な、何者だお前たち!?どこから出てきた!?」

 周りの人間が銃をこちらに向けるが、それも飛び出してきた神楽耶の剣戟によって叩き落とされる。

「小物に用はない…龍崎!俺を見ろ!」

 俺の声に龍崎は反応を示した。銃を構えて今にも引き金を引こうとした彼が振り返る。その瞬間俺の曝された左眼が、龍崎の視線と交差した。その瞬間、俺は能力を発動した。絵里曰く俺がこの力を発動すれば目が金色に光るらしい。その証拠に龍崎の瞳には、金色をした俺の左眼が映っていた。

「幸せな夢に、溺れろ」

 俺の隠された能力、それは人に5秒間だけ未来を見せる力だ。そしてその未来は、その人間にとって幸せな未来である。

「俺に…子供が…?パパ…?俺が…?あぁ…なんだこれ…暖かい…」

 幸せな悪夢(ハッピーナイトメア)それが俺の力、相手を幸福な未来の夢に縛り付ける。その証拠に彼はひとり自分の未来を見て幸せそうに顔をほころばせている。銃の引き金を引く気さえ起こっていないようだ。

「絵里!」

「わかってる!…幸せなところ悪いけど…絶望に染まれ!」

 呆けた龍崎の体に絵里の影の一撃が撃ち込まれた。その瞬間彼のまるで肉食動物の咆哮にも似た絶叫が響き渡った。絵里の力が発動して恐怖がよみがえったのだ。幸せの後の絶望はさぞ辛かろう。

「貫いて…虐殺の姫(ジェノサイド・オブ・プリンセス)」

 絶望に染まった彼の影から無数の槍が出現する。そしてそれは彼の体、いや、心をずたずたに突き刺した。

 絵里の最終奥義、虐殺の姫、それは相手の心が絶望に染まり切った時に発動できるもので、対象の心を再起不能なまでにめちゃくちゃにする。その証拠に彼はがくりと膝から崩れ落ちてまるで廃人のようにあーあーと意味もなくうめくだけだった。

 周りの敵たちも龍崎が再起不能になるのとほぼ同時に神楽耶たちに制圧されていた。あとに残るのは人質たちの歓喜の声だけだった。


「やったねお兄ちゃん!」

「あぁ、俺たちの大勝利だな」

 メガネをかけながら俺と絵里はガッツポーズを浮かべる。

「そうね。今日の功労賞はあなたたちで決まりですわね」

 竹刀をしまいながら神楽耶も笑っていた。

 ニュース速報によると龍崎が倒されたと同時に全国のほとんどの武装集団が降伏、もしくは逃げ出したようだ。一部がまだ占拠を続けているらしいがそれも警官隊で鎮圧されるだろう。

「やっぱり慶次なら助けに来てくれるって信じてたぜ!なにせ俺たちは離れられない運命で繋がって…げふっ!」

 鬱陶しいほどにくっついてきて運命論を述べようとするブルーノの鳩尾に一発撃ち込み黙らせる。

「な、ナイスパンチ…さすがだ慶次…」

「ほんとお前はこんな状況でも変わらないよな」

「そういう時はな…歪みねぇなっていうんだよ…ほら言ってみろよ。おいあくしろよ…ぐふっ…!また殴った…おやじにも殴られたことないのに…!」

疲れを感じてきている身体に彼の話はきつすぎる…ブルーノにはもう一発鳩尾への一撃を喰らってもらうことに。

「ふぅ…ほんと今日はもう疲れたよ…遊びに行ったと思ったら占拠されて…一学生のスケジュールじゃないって…」

「同感…早くお布団でゆっくり寝たいよぉ…」

 霧華も捕まったことなどあまり気にしていない風に笑っている。心に傷がついていなくて本当によかったと安堵した。が、その瞬間だった。突然ランスロットが大声をあげた。

「霧華!伏せろ!」

「え?」

 その瞬間世界は静止した。制止した世界に響くのは、一発の銃声。鼻につくような火薬のにおいが妙に神経を逆なでした。俺の目の前に、赤が飛び散った。それは先ほど見た赤と同じく、命の赤。けれど至近距離で放たれた生暖かなそれは、俺の顔をべったりと汚した。飛び散る赤がいやにスローモーションに見える。

「ランス…ロット…?」

 世界が動き出したときには、もうすべてが終わっていた。事も、彼の命も、何もかも。

「ねぇランスロット…起きてよ…何倒れてるのよ…私を…バカにしてるの…?」

 ばたりと倒れたのは、霧華の前に躍り出たランスロットだった。彼の頭蓋には大きな穴が開いており、そこからだらだらと血が、いや、それ以外の物も噴き出していた。

「冗談…でしょ?ランスロット…私とずっと一緒にいてくれるんじゃなかったの…?私と一緒に…私と一緒に…」

「霧華!上だ!」

 けれど霧華は俺の声を無視してランスロットだったモノに縋りついている。

「ちっ…」

 俺は舌打ちを一つ、床に落ちていたアサルトライフルを拾い上げて銃口を上に向ける。彼の頭に撃ち込まれた弾丸の射角を計算、そして敵が潜んでいるであろう場所を俺は一瞬で割り出した。そして銃弾を叩き込む。ががががっ!とものすごい音と反動とともに鉛の凶弾をばらまく銃口、そこから放たれた鉛はいまだ上階の手すりからスナイパーライフルを構えていたそいつに命中する。小さくうめき声をあげたそいつは上階から銃を投げ捨てて逃げる。命中しないと分かっていても、俺は弾倉に残った鉛をすべて逃げる背中に撃ち込まなければ気が済まなかった。

 空になった銃の先端から、灰色の煙が上がる。それはまるで、天に昇るランスロットの魂のようにも見えて、無性に涙が込み上げてきた。

「えぇ…お願いしますわ…できるだけ早く…わたくしも合流しますの…」

 どこかと通話していた神楽耶は端末をポケットにしまうと怒りに満ちた顔でこう言った。

「わたくしはあいつを追いかけますわ!絵里は霧華をお願いしますわ!それ以外はまだ敵が潜んでいないか探してくださいまし!」

「あぁ!」

「ねぇ…聞こえないの…ランスロット…ねぇ…返事して…お願い…」

 手が、服が血でべたべたになるにも関わらずに、霧華は21グラム軽くなったランスロットだったモノを抱きかかえる。その悲痛な慟哭は、ランスロットには届くことはなかった。


 外は真っ黒な雲で覆われていてまるで空が泣いているように思われるほど雨が降っていた。もう2日も降りやまぬ雨は桜の花びらを簡単に散らせてしまっていた。ランスロットが死んだあの事件から2日、その間に俺たちは嫌というほどに悲しみを噛みしめた。そして、世界の残酷さを知った。

 ランスロットが死んだからといって、世界は変わらなかった。結局は同じ日の繰り返し、朝起きて、ご飯を食べて、学校に行って、何も変わらない日々、欠けたランスロットというピースが初めから無かったかのように、日々は過ぎていった。そしてそんな不変の残酷な日々に、霧華の姿はなかった。

「今日も…霧華は休みか」

 窓の外から霧華の机に視線を移してぽつりと呟く。

「そう、みたいですわね…あの子、ランスロットの葬儀にも来ていませんでしたわ…大丈夫、なわけないですわよね…」

 2人欠けたいつものメンツの間にずっしりと外の黒雲より重い空気が広がった。

「今日も部屋に行ってみたけど…放っておいてって…いつもと同じ返事だったよ…」

「何よあの子…ランスロットが死んだのがショックだっていうのはわかるけど…なにも引きこもることないじゃない…私、霧華があんな弱い子だって思わなかった」

「絵里、それ以上はやめておけ…」

 絵里は霧華のことを思いやって言ったのかもしれないが、この場では悪口にしか聞こえない。絵里の言葉を遮るも、残るは重苦しい沈黙だけだ。

 ざぁざぁと降り注ぐ雨の音に交じって、ふとクラスメイトの誰かの話声が聞こえてきた。

「ねぇ、見た?あの子…学校に来てるんだって」

「嘘…2日前からずっと休んでるんじゃなかったの?」

「授業を受ける気分じゃないってことなんじゃない?なにせ騎士が死んじゃったからね。そりゃ授業どころじゃないよ」

 その話は明らかに霧華のことをさしているのが簡単に分かった。しかも彼女たちの話によれば霧華は今、学校にいるらしいのだ。俺はさらに聞き耳を立てる。

「ま、いい様よね。学園で最強の騎士をあんな名家の落ちこぼれが奪ったんだから。そのバチが当たったのよ」

「ぷっ…それは言っちゃだめでしょ?名家の落ちこぼれって本人に聞かれたら殺されちゃうよ?」

「いないからいいのいいの!それに死んじゃった騎士の子もかわいそうよね…あんな落ちこぼれの子守をさせられてさ…」

「アハハ!わかるわかる!それにお葬式にも来なかったんでしょ?助けたのに報われないよね」

「あいつら…!」

 俺は内側から溢れる怒りを抑えられなかった。普段は仲のよさそうな顔を浮かべているのに、いざとなればこのざまだ。さすが温室育ちのお嬢様といったところか、手の平返しの速度だけは一級品だ。確かに霧華にも悪いところがあるが、それでもあれは言い過ぎだ。それにランスロットのことまで貶めているとなると黙っていることなどできるわけない。

「お兄ちゃん、抑えて…」

 ぎゅっと握った拳に、絵里の暖かな手の平が被せられた。彼女の手はゆっくりと諭すように拳を擦る。

「ダメ…ガマンして…今お兄ちゃんがあの子たちに手を出したら…今までの努力が水の泡だよ?武闘会への参加権利を失っちゃう…男の子は厳しい目で見られちゃうから…」

「…分かった」

 絵里の言葉に不服ながらも怒りをどうにか抑え込む。そんな俺の様子を見てほっとした絵里は話している女子の輪に歩み寄り話しかけていた。

「ねぇ、それって霧華の話でしょ?あなたたち霧華を見たんだよね?どこに行ったか分かる?」

 それは普段の絵里の声とは違うよそ行きの、それでいて相手に不快感を与えない物になっていた。貼り付けたような笑顔を浮かべてまでも、絵里は霧華の居場所を聞き出そうとしているのだ。自身のプライドも捨てて。しかしそれはとある女生徒の一笑で無駄に終わってしまう。

「アハハ!あんな子放っておきなって!自分勝手でわがままでまるでお姫さまって感じの子と付き合ってたらあなたも死んじゃうんじゃない?」

「そうそう、死にたくなかったらさっさとどっかいっちゃいなさいよ」

 絵里の貼り付けた笑みが少し引きつる。彼女は少女グループに見えないように拳を握っている。自身の手のひらに爪が食い込んでしまうほど、強く強く、握っていた。

「霧華はそんな子じゃない…あなたたちに霧華の何が分かるのよ?さぁ、早く霧華のいた場所を教えなさいよ」

「何よこいつ…特待生か何だか知らないけど調子乗ってるんじゃない?」

「平民生まれのクセに…私たち貴族の娘にケンカ売る気?」

「はは、こいつ元から頭おかしいのよ!だっていっつもお兄ちゃんお兄ちゃんって下衆な男にくっついててさ!男なんてクズなものに媚売って何が楽しいの?あんたもあの落ちこぼれお嬢様もさぁ!」

 やばい…。今の絵里は完全に噴火寸前の火山だ。ぐつぐつと煮えたぎった怒りのマグマがまさに噴き上がらんとしていた。ぎゅっと握っていた拳から血の赤がちらりと見えた。奥歯もギリリと噛みしめて鋭い瞳で下衆な少女たちを睨んでいた。

「何よその目…あんた…私たちに逆らったらどうなるか…分かってるんでしょ?貴族様にケンカ売ってタダで済むとは…知らないわけじゃないでしょ?」

「殺す…私のことはいいけど…お兄ちゃんも…霧華のこともバカにしたお前らは…死んで当然だ…」

「はい、ストップですわ。さすがにこれ以上は見逃せませんのよ」

「か、神楽耶…」

 神楽耶が絵里と少女たちの間に割り込んだ。そして神楽耶は少女たちに何かを話しているようだ。その間ずっと絵里の手を、絵里が俺にしてくれたみたいにさすっていた。

「えぇ…あの子、階段を上ってました…それで…屋上に行っちゃいました…」

「そう、ありがとうね。あなたたちの協力、感謝するわ」

 少女たちに向けて神楽耶が笑顔を向ける。その完全なまでの笑顔は、一種の凶器を孕んでいるように見えたのか、少女たちは一目散にその場を去ってしまった。

「慶次、そういうことですわよ、屋上に急ぎなさい!絵里はわたくしが何とかなだめておいてあげますの。次の授業担当にも何かいい言い訳を考えておいてあげますわ。だから…あなたは霧華のことだけを考えていなさい」

「サンキュー神楽耶!絵里のこと、よろしくな!」

 俺は一目散に階段に向かう、が、教室を出る瞬間大切なことを言い忘れていたのに気づいた。また教室内にUターンして絵里の前に、そして彼女の頭を撫でて、

「ありがとな…俺のために、それに、霧華のためにも怒ってくれて…」

 それだけを伝えると俺はまた屋上に向かって足を進めた。早く、早く、誰よりも早く、屋上へ駆け上った。疲労で足がもつれて階段から足を踏み外しそうになる。けれども俺は歩を進める。屋上で独り、雨に打たれているであろう愁いを帯びた少女の元へと。


 吹きすさむ風で横殴りの雨の中曝される少女が一人、フェンス越しに階下を見下ろしていた。髪も服も、ましてや頬も濡れている。少女の今の感情はきっと誰もわからないだろう。雨で感情が流れ落ちてしまった、そんな風に見てとれるからだ。

 少女は空に手を伸ばした。少女が知りえる中で最も天に近づける建物の上から。

「ランスロット…」

 ぽつりとつぶやいたその声は、雨の中に消え去る。

「私…決めたよ…ランスロット…」

少女はふっと笑みを浮かべた。そして彼女は、フェンスから身を乗り出した。


「霧華!」

 俺は慌てて叫んだ。屋上へと出る扉についた小窓、そこから見えた少女は今にも天へ飛び出そうとしていたからだ。

「霧華―!」

 俺はもう一度叫ぶ。風雨すらも怯ませる大声で。

「え?慶次?…キャッ!」

 驚いた顔を向けた霧華だが、次の瞬間その表情は階下へ吸い込まれていく。

「霧華!」

 爆発的に地を蹴り、俺は駆けた。大事な友人を、これ以上失いたくないという意地が、俺のエンジンを吹かせた。ブーストをかけた速度で水飛沫を跳ね上げながら駆けぬけるが、まだ距離が足りない。

「頼む…メリー!届いてくれよぉ!」

 間一髪展開させたデバイスの柄に、引きがあった。下を確認するまでもない、それは紛れもなく霧華のものだ。

「はぁはぁ…しっかりつかまれよ…霧華!」

「う、うん…」

 霧華を引き上げる段階で彼女の手がデバイスから俺の手へと移る。二度と放すもんかとそれをぎゅっと握り、ぐいっと一気に引き上げた。

 引き上げた時には俺の体は雨と疲労の汗と、背中に流れた冷えたものでべちゃべちゃに濡れていた。霧華もずぶぬれで綺麗な髪の毛が肌にぴったりとくっついてしまっていて思わず笑みが漏れた。彼女も俺の笑みにつられてか、ふっと噴き出した。屋上に二人の雨坊主、互いの頬に流れた暖かい液体を流すには十分すぎる雨だった。

「ねぇ…慶次は何しにここに来たの?まさかこの雨の中日向ぼっことか頭のおかしなことは言わないよね?」

「お前は俺を何だと思ってるんだよ…違うよ、霧華が屋上に行ったって聞いたからいてもたってもいられなくて…ってお前こそ!なんで屋上にいるんだよ!?やっぱり飛び降りか!?」

 俺の勢いがすごかったのか霧華は一瞬びっくりしたような顔をする。そして勢いよく首を振る。

「違うよ!なんで私が飛び降りなんてしなくちゃいけないのよ!?バカじゃないの!せっかくランスロットが助けてくれた命を無駄にするわけないじゃない!」

「え?飛び降りじゃ…ないの?」

 じゃあさっき見た光景はなんだったんだろうか。フェンスから身を乗り出して完全に飛び降りる雰囲気だったのに。

「その…バカだとか、思わないでよね?」

「ん?…あ、あぁ…」

 頬を恥ずかしそうに染めて咳払いをした霧華が、俺の予想の斜め上をぶち抜く言葉を発した。

「大声、出そうと思ったのよ…」

「は?」

 あまりにも突拍子もなく馬鹿げた答えに、俺は間抜けな声をあげてしまう。

「だから…悩みを全部吹き飛ばそうとして大声出そうと思っただけ!ただほんとにそれだけ!なのに急に慶次が私のこと呼ぶから…ビックリして手すりから滑り落ちちゃったじゃない!全部慶次が悪いの!」

「マジかよ…」

 しかし大声を出すといわれればあの姿勢もどこか合点がいく。それにあの時に驚いた顔を見せたのも、俺がきたことに驚いたのではなく雨に濡れた手すりが滑ったことに驚いたのか。

「そ、そう、か…はは…アハハ!」

 すべて自分の空回りな思いこみだということが分かり、思わず笑みがこぼれた。心の奥底から、笑みが漏れだしてくる。滑稽すぎて恥ずかしくて、少し死にたくなった。

「何笑ってるのよ!謝りなさいよ!」

「はは…ごめんごめん…アハハ」

「真剣さが足りない!…って言いたいけど、私もちょっと思いつめすぎて慶次に心配かけてたみたい…ごめんね…」

「お、おう…」

 あの霧華が、自分から謝るのを見て俺の笑みは自然と止まった。まるで目の前の霧華が偽物に見えるほどの驚きが、俺の心を支配した。

「何よ、その顔…私が謝るのがそんなに珍しい?私だって自分が悪いって思ったらちゃんと謝るし!」

「そんなこと思ってないって…あ、そうだ。叫ぶって何を叫びたかったんだ?」

 あまりこの話題を引きずるのもまずいかなと思いとっさに話題を変える。

「えと…それは…ランスロットにさ、これからの私の決意を、知ってもらおうって…」

「決意?」

「うん…私は今までずっとランスロットに甘えていた…ランスロットの力に頼って、私自身それで満足してて…でも、それがダメだって思って…私自身、もっともっと頑張らなくちゃって…お姉ちゃんたちにも負けないほど、頑張らなくちゃって…弱い自分にバイバイしなくちゃ…」

「そこまで頑張らなくてもいいんじゃないか?」

「え…?」

 自然と俺の口が動いていた。無意識に言葉が口から溢れてくる。

「お前は十分に頑張ってるよ…新参の俺があんまり言えるわけじゃないけどさ…でも、お前は十分に強いよ」

「そんなこと…ないよ…私の強さは、ランスロットに頼ってたから…」

「いや、違う。お前の力はお前自身のモノだ。お前と剣を交えてわかったんだ。霧華の力は本物だって。何百人も相手してきた俺だからわかるんだ…ただ強いといわれているだけの剣と、本当に心から強い剣っていうのはわかる…霧華の強さは本物で、ランスロットはそれを認めていたはずだ」

 俺はランスロットが水族館で話したことを、霧華にも伝えた。霧華の努力と、心からの強さを羨んでいた彼の話を。

「ランスロットが…私のことをそんな風に見てたなんて…全然知らなかった…私は…ずっとランスロットに支えられてると思ったのに…」

「あいつ自身そんな風には思っていなかったと思うぞ。きっとあいつはお前にあこがれて、お前といることで自分も真に強くなろうって思ったんだろ…だからお前は、今のままのお前でいいんだよ、霧華…無理に強くなろうとしなくていいんだ…過ぎた力は、やがて身を滅ぼすだけなんだから…」

 最後のそれは、まさに自分自身に向けた言葉だった。俺自身すぎた力を持ちすぎたせいで苦悩もある。彼女にはその苦悩を、味わってほしくなかった。その苦悩により、彼女の本物の強さが濁るのが嫌だった。

「霧華の努力もきっといつか実る…なんなら俺がその手伝いをしてやってもいい…だから、強くなることにあまりにもこだわりすぎるのはやめろ…あと、お前は…自分にもっと自信を持つんだ…」

 俺はぎゅっと霧華の体を抱きしめた。雨に濡れて冷えた身体が、やけに熱く感じた。プルプルと震える肩に、嗚咽交じりの声。

「ありがとう…慶次…」

 そしてぽつりとつぶやいたその言葉は、雨にかき消えた。


「ねぇ慶次…私の騎士にならない?」

「は?」

 屋上に出る扉の前、互いに濡れた髪や肌を拭いている最中、ふと霧華がそんなことを言い出した。まさか冗談だろうと思って彼女を見たが、真剣そのものな瞳がこちらを射抜いていた。まるで穴が開く程な瞳に射抜かれて俺は言葉を出すことができなかった。鈍器で殴られたように揺れる頭ではそれを理解するまでに2,3度反復する必要があった。

「え?俺が…お前の騎士に?」

「うん…私、慶次に守ってもらいたい…」

「いや、でも、俺には絵里が…」

「ダブルブッキングは過去にも前例があるよ?」

 そういわれて言葉に詰まる俺。

「私のことを強いって言ってくれたのはランスロットと慶次だけ。みんなが私を落ちこぼれだっていうのに、あなたたちだけは強いって、頑張ってるって言ってくれた…私、とっても温かく感じたの…その温かさで私を守ってよ…慶次…」

 湿った瞳がキラキラと潤んだ輝きを見せる。思わず吸い込まれてしまいそうな眼から、俺は無意識に目を背けていた。

「それに、私だってシンデレラになりたいよ…そのために今まで積み重ねてきたのを、無駄にしたくないの…お願い…私の騎士になって…」

 最後の方は消え入りそうな小さな声だった。彼女は勇気を出して言ったのだろうが、俺はそれに頷くことはできなかった。

「ごめん…俺は絵里だけの騎士でいたいんだ…それに、シンデレラを目指す女の子に協力はできない…」

 霧華の顔が一瞬ぐしゃりと潰れた。けれど彼女は何とか立て直して笑みを浮かべる。だけぢもその笑みは指で突いたら壊れてしまいそうなほどにもろくて、俺の心を痛いほどに突き刺した。

「じゃあ…理由だけ教えてくれる?なんでそんなに絵里に執着するのか…それが分かれば、私納得するから…」

 悲しそうな霧華の笑みのせいで、他人には一生話すまいと決めていた過去の話が、ポロリと口から零れ落ちる。俺は記憶の底の暗い暗い部分を、今の俺を作り上げた根底について、霧華に隠すことなく吐き出した。


 昔両親は俺たちを捨てた。正確に言えば母親の友人である榊原の家に預けられることになったのだが、その理由は不明、しかも今まで音信の一つもない、となれば捨てられたという表現がやはり妥当だろう。最後に両親のことを見たのはきっと物心つくかつかないかの時、だから親の顔も声も、どんな人だったかも覚えているわけもなかった。榊原のおばさんは俺たちを本当の息子娘のように扱ってくれたが異能研究の第一人者であるあの人はめったに家に帰ってこなかった。だから俺たち兄妹は寄り添うようにずっと二人で生きてきた。二人は互いに手を取り合い過ごしてきたが、あるとき事件は起こった。

 それは俺が小学校卒業を半年前に控えたころの話だ。当時の絵里は今とは全く想像もできないほどに弱虫で恥ずかしがりやで、いつも俺の背にくっついて何かあれば泣きついてくるような娘だった。そのクセ頭の回転はやけに速く成績も学年でトップクラスだというのが重なり、彼女はイジメの対象となっていた。今も昔も、人より劣っている者が何か一つでもずば抜けていると、それは異端として潰されるのだ。罵倒や暴言は日常のこと、女の子なのに殴られたり蹴られたり、モノを隠されたりとさまざまだ。中には言葉にするのもはばかられる陰湿なイジメもあった。

 妹は毎日苦しんでいた。けれど俺は、ただ彼女を慰めるだけで何をすることもできなかった。本当ならイジメたやつらをフルボッコにしてやりたかった。いや、殺してやりたいとすら思った。けれどもできない理由があった。シンデレラ法の一つ、いかなる理由であれ男性は女性に手をあげてはいけない。そのせいで俺はイジメを受ける妹をただ見ていることしかできなかった。法を犯せばたとえ小学生でも連行され更生所へ放り込まれて少なくとも2~3年は出てこれない。その間妹は誰に頼るのか、か弱い妹には俺がついていなくちゃだめで、俺はどうしても絵里から離れるわけにはいかなかった。イジメはいつか終わる、今は絵里の番だがきっと飽きて次の標的に移るはずだと悔しさに奥歯を噛みしめながら思っていたのだが、そんなひよった考えが、取り返しのつかない事態を引き起こした。

 いつものように絵里を迎えに教室へ行ったがどこにも見当たらない。それどころか教室は異常なくらいに空っぽで、俺は背中にぞわりとした感覚を覚えた。背筋に流れる冷たい汗、自然と乾く喉に、浮かび上がる最悪の光景。俺はその場を離れて必死に絵里を探して、そして見つけたのは中庭でだった。けれどそこにいたのは絵里であって、絵里ではない、俺の知らない絵里の姿だった。真っ黒な憎悪と憎しみのオーラに支配された彼女はまさに、復讐の鬼と化していた。

 彼女の周りには二種類の少女がいた。一つは恐怖に顔を歪めた者、もう一つは、血まみれで倒れピクリとも動かない者。そのどちらにも共通するのは、絵里をいじめていた少女だということだ。

「ひっ…!来ないで…!」

 一人の少女に絵里が近づく。そしてその手に持った漆黒のチェーンソーで少女の体を引き裂いた。赤が少女の体から噴き出して、絵里の体に、純白の制服に鮮やかな飾りをつけていく。絵里の表情は恍惚に満ちていて、まるで殺戮を楽しむ悪魔のようだった。

「死ね…!」

「待て!絵里!」

 チェーンソーを振り下ろす寸前、絵里の体を抱きしめて止める。血に濡れた絵里の体はやけに冷たく感じられた。まるで凍り付いた心が露見しているかのように。

「絵里…頼む…帰って来てくれ…」

「お兄…ちゃん…?」

 と、絵里の瞳に光が戻った。その瞬間自分のしてきたことの重さに潰されて、彼女は泣き崩れた。じんわりと血が染みこんでいくのを感じながら、彼女は嗚咽に崩れた。自身のしてきた罪の重さと、鮮明な赤が見せる償いきれない罰が彼女の小さな体を押しつぶす。俺は、もう一度彼女の体を抱きしめた。今度は大きく包み込むように、ぎゅっと抱きしめた。

「大丈夫…大丈夫だよ…」

 そうすることで絵里の罪を、罰を、俺自身も背負おうとするように…。

「ごめんな…絵里…俺が、もっと強かったら…俺に、もっと力があれば…お前を助けられたのに…」

 絵里が少し落ち着いたのを確認して、俺は先ほど斬られた少女の前に立つ。

「ば、バケモノ…!犯罪者…!人殺し…!」

 怯え切った表情で少女は罵倒を放つ。けれどそれは俺にも、ましてや絵里にも通じることはなかった。

「黙れよ…もとはといえばお前らのせいだ…俺の絵里をぐちゃぐちゃに壊しやがって…!」

 俺は今まで耐えてきたすべてをぶちかますように、少女の顔面を殴った。ぐしゃりとひしゃげた顔から一本の歯が飛び出した。あまりの痛さに泣きだすかと思ったが、どうやらその一発で気絶してしまったらしい少女はもう動くことはなかった。

「お兄ちゃん…?大丈夫なの…?」

「ん?なんでだ?」

「だって女の子を殴ったら…怖いところに送られるんだよね?」

「あぁ…それか…いや…その…俺さ、決めたんだ。絵里を何が何でも守るって…だから、これがその最初の任務。絵里をいじめた悪い奴退治さ」

「私を…守る?」

「そう。俺は一生をかけて絵里を守る。俺の一生は絵里のために使う…いわば奴隷、かな?俺は絵里の奴隷になる。奴隷として、精いっぱいお前を守る!」

 子供ながらになんて変なことを言ってるんだと思われるが、当時の俺には真剣にそんな言葉しか出てこなかった。けれどその幼稚な言葉の羅列も、絵里を笑顔にするには十分すぎた。絵里のキラキラと輝く大きな瞳に俺の恥ずかしそうな笑顔だけが映りこんでいた。俺の瞳にも、絵里の笑顔だけが映っていただろう。

「えへへ…お兄ちゃんが…私の奴隷…じゃあ私からもお願いするね…お兄ちゃん…私の奴隷となって…一生私を守って!」

 その時の笑顔は、俺の常識の概念を奪うには十分すぎた。涙でぬれてくしゃくしゃになった顔で浮かべた笑みは、俺の心にしっかりと根付き、さらには恋心までを刺激した。

「あぁ…俺が…守ってやるからな、お嬢様…」

 それが俺の、初めての恋の始まりだった…。


 幸いというべきか、この事件で死者は出なかった。けれど彼女たちは重傷を負い入院、俺たち兄妹は別の学校へと転校することになった。彼女たちは俺たちに怯えきっていたのか殴られたことは何も話さなかった。そのおかげで俺はおとがめなし、ずっと絵里を守っていけるというわけだ。転校先で絵里は飛び級の試験を受けて俺と同じ学年になった。そのせいでずっとべたべたとくっついてきていたが悪い気はしなかった。ただ一つ問題があるとすれば、彼女の強力な異能と崩れた心が反応を起こして今のような性格になってしまったということだけだ。まぁそれも俺にとっては悪くないが。

 俺はその時すでに決意し、行動に移していた。絵里を守れるほど強くなる、まずは忌まわしいシンデレラ法を打ち崩す、と。あの法律さえなければ絵里が手を血に染めることもなかったし、ぐちゃぐちゃに心が崩されることもなかった。だから俺は強くなるために自身の目覚め始めていた能力を鍛えた。能力だけでなく戦いについても鍛えた。片っ端から街のゴロツキ連中や学校のいじめっ子を倒していった。今の俺の実力の基盤となるところだな。俺と同じく絵里も異能を鍛えた。体を傷つける能力を完全に消し去り心を傷つける能力へと。まるであの時の復讐を果たすかのように。

 そして俺の努力が実ったのか、この学校から推薦が届いた。


「…と、まぁ後はお前の知った通りだよ」

「そっか…話してくれてありがと…でさ、思ったんだけど…やっぱり慶次ってどうしようもないシスコンだよね?」

 あまりにもバカらしい言葉に俺は思わずずっこけそうになる。まぁ少し暗い話をしたのだからこれぐらいバカらしい言葉の方が助かるというものだ。

「ほんっとどうしようもない生まれ変わっても治らないぐらいのシスコン、だけど…優しくてとっても暖かい…話を聞いただけでもわかったよ…慶次がどれだけ暖かい心を持っているかって…」

「そ、そうか?」

「うん…きっと絵里も感じてるはずだよ…まるでお日様みたいなほっとするような暖かさを…」

 改めてそんなことを言われると恥ずかしさで顔が熱くなってしまう。俺は照れ隠しに髪を掻きむしり言葉を探すが、結局それは見つからなかった。少しの間沈黙が走る、がそれを打ち破ったのは電子音だった。互いのポケットから同時になりだした電子音、端末からの通知だ。俺たちは同時に自身のポケットから端末を取り出して開いた。

「メールだ…」

「あ…予選の第1回戦の組み合わせが決まったって」

「そういやいろいろあって忘れてたけど…予選って明後日からか」

「えと…どれどれ…」

 お互いに自分の名前をトーナメント表から探す。あまりにも多い名前の列に酔いそうになるのを我慢して俺はようやく自分の名前を見つけた。

「あったあった…美咲絵里・美咲慶次…相手は…永久音(とわね)マリ…?」

 相手の名前をクリックして情報を確認するがなぜかURLに繋がらない。故障かと思いほかの人物の名前をクリックしてみると何の問題もなく生徒情報のリンク先へ繋がった。ということは、この永久音マリという人物のURLが間違っているのか。神楽耶を通して生徒会長に文句を言ってもらおうと思っていた俺の横で、霧華がプルプルと肩を震わせていた。

「どうした?」

「見て、慶次…私の相手…」

 そこに書いてあった名前は…


「はぁはぁ…くそっ…」

 男は路地裏を走る。数日前に受けた左腕の銃創が癒えずにびりびりと痛むが、彼はそれを気にしている暇はなかった。背後に迫りくる悪魔のような存在から逃げることだけが、彼の心を占めていたからだ。

「はぁ…もう鬼ごっこも飽きましたわね…そろそろ終わりにしましょう?」

 背後の鬼がぱちんと指を鳴らす、と彼の目の前に炎の壁が突如出現した。轟々とそれは燃えて彼の進路を阻む。

「くそ…!なんで俺がこんな目に合わなくちゃいけねぇんだよ…!」

「それは…ボクの大事な生徒を殺したからさ」

 背後の鬼は一人ではなかった。鬼は3人、一人は振袖のように改造した制服を着ているいかにもな和風美人、一人は眼鏡をかけた小柄な少年のような者、そして残りの一人は狐のようなずる賢そうな顔をした男だった。どれも見たところ学生だ。大の大人の彼は、歳が随分と離れた学生に追い込まれていたのだ。

「殺したのは謝る…だから見逃してくれよ!」

「あなたが謝ると彼の命は戻ってくるのかしら…ねぇ?火鼠(ひねずみ)さんはどう思います?」

「そら当然戻ってきませんわな、お嬢」

 火鼠と呼ばれた男はいかにもな悪人の下っ端のような口調でそう答えた。その表情も悪人のような意地の悪そうな笑みを浮かべていた。

「そういうわけだ。ボクも彼女もあんたのような殺人者にかまっている暇はなくてね…」

「あ?じゃあ何で追いかけてきたんだよ!」

「ただ少しだけ気になることがありますのよ…あの日の襲撃には何か違和感のようなものを感じた…その解決のためにわたくしたちはあなたを追いかけている…本当ならあの場で殺すこともできましたのよ?」

 暗闇の中に浮かび上がる和風美人のにこやかとした笑みに彼はぞくりと背筋が震えた。本当に彼女なら、殺すことができたと本能で感じたからだ。

「さて…あんたが質問に答えたらボクたちもこれ以上は追いかけない。ただ、嘘をついたりすれば…」

 少年のようにいたずらっぽい顔にかけられたメガネがきらりと光る。その奥の眼光は確実に殺意に満ちていた。

「ボクは本気であんたを殺す…あんたみたいなクズの血で手を汚すのは不愉快だけどね」

「会長、それなら火鼠さんにやらせればいいだけですわ。死体も残らないほどに焼き尽くしてくれますのよ」

「へへ…あっしなら燃えカスすら残しませんで。ま、お望みならミディアムでもレアでも何でもござれですがいね」

「そうかい。神楽耶のところの騎士は頼もしいな」

「騎士、ではなくあっしはただのお嬢のファンクラブですぜ…」

「くそ…なんなんだよ…こいつら…!」

 殺意に満ちたり楽しそうに笑いあったり、そのあまりの豹変ぶりに彼は内心で戸惑うしかなかった。

「あぁ、ごめんごめん…あんたのことを忘れるところだったよ…って神楽耶、こういう時は端末を切っておいた方がいいんじゃないか?」

 突然端末が鳴り出してそれを確認する和風美人。そしてにやり、と口角を釣り上げた。

「楽しい試合ができそうですわね…」

「予選の組み合わせが届いたのか。あ、その結果はまだ皆に見せないでくれよ。生徒会役員の特権として1日早く届いてるんだから」

「えぇ、わかっていますわ、会長…さて、この人殺しのゴミをどう処理しましょうかね?」

「知ってることは全部話す!だから殺さないでくれ!頼む!」

 慌てふためきべらべらとしゃべる彼。結局情報よりも自分の命が大事だったようだ。一通りのことを聞き終えた彼女らはすでに男に興味はなかった。ただ、殺意を除いて。

「ありがとう…それじゃああんたはお役御免ってことで…人生からの退場をお願いしようかな」

「ひっ!見逃してくれるんじゃなかったのか!?」

 漆黒の銃身が彼の頭に突き付けられる。彼は大人だというのに恥ずかしげもなく涙と鼻水で顔をぐちゃぐちゃに濡らして命乞いする。

「残念だけど…ボクは約束を守る主義じゃなくてね…ま、人一人殺しておいて情報提供だけで助かろうっていう甘い話に乗ったあんたも悪いけどね」

「嫌だ…!死にたくない!助けてくれ!なんでもする!どんなことでもするから…!だから俺を見逃してくれよぉ!」

「はぁ…見苦しいな…せめてそういうのは死んだ後に閻魔様の前でやってもらいたいところだね…さて、そこで隠れている誰かさん?ほんとにこの人殺しちゃうけど…いいの?言っておくけどボクは本気だよ?」

 会長のその言葉とともに陰に隠れていた何者かが、姿を現した。彼女たちはその姿に思わずハッと息をのんだ。なにせ彼女は―


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