女権国家の姫様たち

木根間鉄男

第1話女権国家の奴隷少年

 ―プロローグ―


 もし未来が見れるとしたら、あなたはどうするだろうか?

未来に起こるであろう失敗を回避する?それともギャンブルの結果を先読みし金儲けでもする?

まぁ人それぞれ意見はあるだろうが、結論から言えばそれはすべて自分のために使われるのだろう。

人生の出来レースを、勝ち組でゴールするために―

「いや、私は人助けをする。他人の未来を覗いて危険があればそれを防ぎたいんだ」

そういうやつもいるかもしれないが、それも結局は自分のため、しょせんは自己満足だ。

人助けをしている自分自身を、英雄視される自分に酔いしれようとしているその姿には吐き気すらこみ上げてきそうだ。

「じゃあお前は未来が見えるとしたらどうするんだ?」

「俺か?俺は…」


大事な人の笑顔を守る―


俺は英雄になることも、勝ち組になることも望んでいない。

俺の唯一つの望みは、今まで支えてくれた彼女を笑顔にすることだ。

彼女だけの未来を見て、彼女が幸せな笑顔を見せる未来だけを選ぶ、そのためなら道化を演じたって、たとえ悪人に成り果てたとしても構わない。


 彼女が俺の隣で寄り添って、ずっと笑顔でいてくれるなら―





 少女が、泣いている。

 何もない真っ黒な空間で独りぽつり、可愛らしい幼顔をくしゃくしゃに歪めて涙を流している。

 少女の手はまるで鮮やかなバラの花びらを纏ったかのように、真っ赤に染まっていた。その赤は、少女の纏っている純白の衣にも、涙に濡れる顔にも飛び散り咲いていた。

 その赤は、少女のものではない。その赤は、少女の罪の証、赤を纏い続ける、いや、体に染みこませることこそが少女への罰―

 真っ黒な空間に、一人の少年が現れた。少女よりも年上の見た目で、けれどもまだまだ幼い彼は、小さな腕を目一杯に広げて少女を包み込んだ。

「大丈夫…大丈夫だよ…」

 そう彼女に言い聞かせるように呟きながら、自らの体にも赤が付着するのも構わずに、少年は少女を強く抱きしめる。

 そうすることで彼女の罪と罰を共有するように―

「はぁ…またこれか…」

 美しくも儚い彼女らの抱擁を傍から見つめる存在、いわゆる俺がそこに立っていた。遠くから彼女らを見つめているのにもかかわらず、彼女らの声が、匂いが、感情がとても近くで、まるで目の前で展開されているかのように感じられる。この不思議な感覚、それは夢ならではの感じだ。

「この感じももう慣れちゃったんだよなぁ…」

 この光景を見たのは、初めてではない。今で何度目かはもう数えるのを諦めてわからない。けれど、初めのころはこの光景を見ただけで吐きそうになったことを覚えている。俺の心が、触れたくないところをむりやり触られて嫌悪感を覚えたせいだ。そしてこの夢は起きてからも脳裏から離れないという嫌な特性を持っている。当時は起きた瞬間思いっきり嘔吐したり貧血でふらつき倒れたりしていたっけ…。

 俺は1歩1歩、確かに地面(といっても周りの真っ黒な空間では地面という地面もわからなかったが)を踏みしめて彼女たちの元へ近づく。けれど進めど進めど彼女らとの距離は縮まらない。それもそのはずだ。これは夢といっても俺の記憶のリプレイに過ぎないのだから。

 後悔し、自身の無力を呪い、そしてこの不条理な世界を恨んだその日の―

「起き…い!起きなさい!」

 当時の無力な俺の忌むべき記憶―

「起きなさいよ!」

 今の俺を形作った儚い記憶―

「はぁ…起きろって言ってるでしょこのノロマ奴隷!」

「がはっ!」


 鳩尾に送り込まれたすさまじい衝撃に、俺の体は一気に夢の底から現実へと覚醒させられた。むりやり目覚めさせられた瞳を動かして周りを見る。窓から入り込む朝のさわやかな光に、それと対をなすような真っ黒なニーソに包み込まれたほっそりとした脚、そしてその上の方にあるスカートの下に隠されたしましま模様の三角形の秘密の布地…

(おぱんちゅ様じゃー!)

 春の中頃の温かくもさっぱりとした風が開いた窓から吹き抜ける。それが元から短いスカートの裾をひらひらと持ち上げて綺麗なまでにしましまパンツがこんにちはしていた。

「早く起きなさいって言ってるでしょバカお兄ちゃん!」

「ぐふっ!」

 綺麗なおみ足がまたも俺の鳩尾にヒットする。あまりの激痛にパンツどころじゃなくなった俺は勢いよく体を起こした。のろのろとしていればまた鳩尾に一発、今度はこぶしが入ってきそうな予感がしたからな…

「おはよう、絵里…」

 俺は左眼を抑えながら寝起きをむりやり覚醒させられた瞳で彼女の姿を見た。

 幼いがどこか強気な印象を受ける顔立ちに吸い込まれてしまいそうなほどに大きくてくりっとした澄んだ瞳、さらりとした綺麗な金色の髪、左側だけ小さな尻尾のように結ばれたサイドテールは朝風にふわふわと揺られていた。身長は150センチ中頃、ほっそりとしているが決して不健康そうな印象は受けない体つきに、16歳になったというのに少ししかない胸(ただしまだまだ成長途中だ)、明らかに成長途中の思春期の可愛らしい少女、そう、目の前にいる少女こそ俺の自慢の妹だ。

 美咲絵里(みさきえり)、それが俺の妹の名前だ。ちなみに俺は美咲慶次(けいじ)、彼女の1つ年上で正真正銘血の繋がった兄だ。

「おはようお兄ちゃん、ずいぶん遅いお目覚めじゃない?私のために朝ご飯を作るっていう使命はどうしたのよ?趣味の昔の文学…えっとなんだっけ…ラノベ?だっけ、を読んでてまた夜更かししたの?」

「いや、昨日は昔のアニメ鑑賞だ…それにまだ時間的にセーフだろ…目覚まし鳴ってないし…」

 枕元に置いてあった黒縁メガネをかけて自身のぼさっとした髪の毛を整えて左眼にかけながら俺は気だるげに答えた。ちらりと見た時計はまだ7時も指していない。これならまだ余裕で登校に間に合う時間だ。

「何言ってるの?今日からいつもと違う学校に行くんだよ?いつもの時間に起きてたら間に合うわけないじゃない!」

「え…?」

 そういえば絵里の制服がいつもと違うような…。そこで俺はハッとなり急いで階下に降りた。

「はぁ…ほんっとバカなお兄ちゃん…」

 背に妹のため息交じりの声を聞きながら…。


 朝ご飯を作りながらだが軽く歴史の授業をしようか。そこ、嫌な顔しないでくれよ。この話がないとストーリーがごちゃごちゃになるからな、我慢してくれよ。

 現在2055年、21世紀も半分すぎたこの世界、そこは昔(といっても2000年初期だが)の日本とは、いや、世界はずいぶんと様変わりしていた。

 2020年、世間が東京のオリンピックに騒いでいたころ、もう一つ世間で騒がれていたことがあった。それが男女平等運動だ。男女の権利を平等のものにしろという名目だが中身はまるっきり女性優遇のむちゃくちゃな運動だ。当時から映画館のレディースデイやら女性専用車両などの優遇ぶりが見てとれたが、彼ら、いや、女性が中心になっていたから彼女らといった方がいいか、はさらなる特権を求めて運動を開始した。彼女らはさまざまな手段を講じて(例えば政界に根回ししたり表の歴史では語られないようなことをしていたが)一人の女性を頂点に立てることに成功した。

 それがいわゆる、シンデレラと呼ばれる女性だ。シンデレラ、それは童話に出てくるお姫様だから皆知っているだろう。魔法にかけられてたった1夜ですべてを手に入れた女性の話だ。まぁ結構割愛したが許してくれ。

 ここでいうシンデレラはいわゆる愛称、いや、役職か。日本でいう総理大臣、アメリカでいうと大統領に当たる役職、それがシンデレラだ。そう、彼女たちは自分たちの中からトップを選出し、それを操り人形のようにしてすべてを得たのだ。

 その彼女たちの目的が、女性愛護法、通称シンデレラ法だ。その法を簡単に言えば、男を貶し、女性を讃えよ、というもの、いわゆる女尊男卑のマニュアルみたいなものだった。例えば男性の女性への暴行、あるいは暴言は犯罪である、とか、男性の地位を貶め女性の重要職への格上げを命じる、とか、当時でなくてもめちゃくちゃな法だということは明らかに分かった。そんな法律すぐに取り下げられるだろうと楽観視していた当時の人間だが、それは結局施行されることになった。まるで魔法にかけられたように世の中の女性のほとんどがその法に賛同したのだ。過去、それも武士が刀を振り回していた時代以前から続く女性差別への不満が、彼女らの大きな原動力となっていたのだ。

 こんな誰が見ても悪法だと思われるものだが、施行されると意外と効果を生んだ。まず女性が働きやすくなった、そういう点で日本の就業者割合が上がり経済が潤った。それに政治もすべて女性に預けたことも功をなした。昔から女性は肝っ玉などと呼ばれているだけあり攻撃的で意欲的で恐れ知らずな外交で成功をなし日本の外交経済は世界のトップクラスにまで引き上げられた。さらには要職を外されて工場や炭鉱などに派遣された男たちも、生まれ持っての力強さを発揮し予想外の効果を生んでいた。

 そういうわけで日本の経済は潤い外交もうまくいき、ついに日本は列強国の仲間入りというわけだ。それが2030年ごろの話だ。

 しかしそんな中やはり不満を抱く人間もいる。それは世の男性たちだ。彼らは社会の中で虐げられまるでごみ虫のごとく扱われるようになった。女性を養うだけの家畜同然の扱いに、ただただ種の繁栄のために勤しむ種馬のような扱いに、彼らは黙っていることができなかった。そこで起こったのが今も続く反シンデレラ法のクーデター活動だ。武力をもってこの悪法を廃するという古典的だが男性らしいその行動に、彼らは頼りっきりになっていた。現在彼らは10年ほど前の反政府グループの初代シンデレラ暗殺未遂事件のために派手な運動はできなくなっているが、それでも3か月に1度くらいはどこかで男性の復権をと叫んでいる。


「よし…あとは盛り付けだけだな」

 そうこう説明している間にも朝ご飯はできあがってきていた。あとは俺特性の半熟目玉焼きをトッピングすれば…

「あ、お兄ちゃん。私今日スクランブルエッグの気分なんだ」

「…マジかよ」

 仕方なく俺は自分の皿に目玉焼きを二つ乗せてまた卵を割る。普通なら文句言うなと言いたいところだが俺にはそれができない。あ、シンデレラ法が関係しているからとかではないぞ?確かに女性の頼みを断れば逮捕という項目があるがあくまで女性がそれを不快に思った時だけだ。つまり女性から告訴しなければセーフというわけである。

 ではなぜ断らないのか、それは俺が妹には逆らえない、絶対服従の奴隷だからだ。彼女の頼みだけは断ることができない、彼女が、絵里が笑ってくれるのなら、俺は泥水だって舐めるほどに服従している。まぁそういうわけで俺は絵里の頼みであるスクランブルエッグを作るために卵に塩コショウで下味をつけていく。


 また少し時間ができてしまったので今度は俺たちの学校の制度のお話だ。

 現在学校には2種類ある。1つは普通の学校だ。将来何の役に立つかわからない勉強を受けて皆と同じように楽しそうな笑顔を浮かべながら生活を送るごく普通の学校、つまらない日常を受け入れなければいけない平民の義務である。

 そしてもう1つが、シンデレラを養成するための学校である。国のトップであるシンデレラは12年で任期を終了し次のシンデレラへと受け継がれていく。シンデレラになったものには一生遊んで暮らしても使い切れないほどの財と権力が与えられる。世の女性たちのあこがれ、財力と権力の権化であるシンデレラになる女性を養成するのがこの学校の制度だ。

しかしなぜ学校という体裁をとるのか、その理由は簡単だ。シンデレラの資格が与えられるのは13~18歳までの少女と限定されているからだ。これは物語のシンデレラが少女だったことと、初代シンデレラが当時17歳だったことに起因する。シンデレラ選定の年にちょうどその年齢に達することができなかった女性たちは生まれながらにチャンスがなかったのだと切り捨てられる、幸せになる運命に見放されたと。

そのシンデレラの選定方法だがそれはさまざまでここ過去2回で見てもわかることだ。1回目の選抜、それは一番マナーが良くてまさにザ・お嬢様と言わんばかりの風貌が求められた。2回目は強さと気品が選ばれるための条件だった。とにかくこのばらばらの要望の全てに応えるために設立されたのがシンデレラ養成学校である。まぁ言い換えればお嬢様育成学校ともいえるけれど。

 そしてこの2055年、次のシンデレラが制定される1年前に、次に求められる要望が決まった。

最強の女性こそが、次のシンデレラだ―

その宣言の下血気盛んになった少女たちが集う学び舎の中へと放り込まれるのが俺たち美咲兄妹というわけである。

しかしなぜ男の俺も編入できるのか、それはシンデレラ養成学校のもう一つの設立理由である。騎士法、それは世の男たちに認められた最後のあがきだ、女性を守る騎士(ナイト)につくことで通常の男性よりも上位の地位を得ることができる法律だ。先ほども述べた通りこの女権国家には最大の敵がいる。それが例のクーデターだ。彼らから女性を守ることこそこの騎士法が定められた最大の要因である。けれども誰もが騎士になることを許されるわけではない。権力者の息子や財閥、貴族の跡取りなど一部の金持ちしかなれないのだ。その理由は簡単、騎士になるにはシンデレラ養成学校で騎士としての過程を修了してなおかつ暫定騎士、いわゆる騎士見習いとして卒業まで女性に仕えておく必要があるからだ。そしてその学校に入るには莫大な金が必要なわけで一般の人間には全く縁のない話なのだ。

だがそれにも特例はある。それは推薦編入制度だ。金はなくても力がある男性は学校側から声がかけられ無償で教育を受ける権利を勝ち取ることができるのだ。しかしその制度はここ数年誰も勝ち取ることができなかった幻の権利だ。その権利は女性にも適応され、俺も絵里もその編入制度を勝ち取ったわけだが、どうしてそれをもらえたのか不思議でたまらないのだ。


「ほんと、なんで俺たちが…」

 スクランブルエッグの最後の仕上げとして色合いのパセリを散らせながら俺は首をかしげながらそうつぶやいた。この疑問は最近ずっと俺にまとわりついていたものだが、結局いくら考えても答えなんて出なかった。最終的な結論としては学校に着いたら先生か誰かに聞いてみようというものだった。

「ほら、絵里お嬢様。ご注文のスクランブルエッグでございますよ」

「遅い!どれだけ待たせるのよ全くもう!使えないお兄ちゃんなんだから!」

「はいはい、それはすいませんでした」

「何よその口の利き方…訴えるわよ!」

 わざわざメニューを変更してあげたのにこの言われように少しむっとした俺はいたずらをすることに。

「あぁ、いいぞ。お好きなように。けど俺が捕まったら…絵里はずっと独りぼっちだからな」

「え…?」

「だって暴言を吐いた相手にはもう会えなくなっちゃうんだぜ?監視もつけられて絶対に会えない」

「うぅ…やだよぉ…お兄ちゃんと会えなくなっちゃうのやだぁ…私ずっとお兄ちゃんと一緒にいるもん…お兄ちゃんは私の奴隷なんだから…ずっと私のそばにいてくれなきゃヤダもん…!」

 少しやりすぎてしまったみたいだ。彼女の勝気な表情が見る見る間に歪んでいく。瞳はうるうると湿ってきて今にも泣きだしてしまいそうだ。

「ご、ごめんって…!冗談だよ、冗談!兄ちゃんはどこにもいかないから」

「ほんと…?」

「あぁ、ほんとだって。だって兄ちゃんはお前の奴隷だぞ?奴隷は勝手に自由をもらえない、そうだろ?」

「うん…」

「ほら、冷めないうちに食べちまおうぜ。学校に遅れちゃうぞ?」

「うん…分かった…食べる…いただきます…」

 どうにかして妹をなだめることに成功して一段落。少し冷めてしまった目玉焼きをつつきながら俺はテレビで朝のニュースを確認する。

「今日のゲストは異能力が社会に出て今年で30年ということで異能学の第1人者、榊原博士にお越しいただきました!」

 アナウンサーのやけに作ったような明るい声に導かれながら一人の女性がスタジオ内に入ってくる。彼女こそさっき紹介があった通り異能学の第1人者、榊原博士その人であり両親から捨てられた俺たちを育ててくれた人物でもあり、そして今から俺たちが通う学園の母体を作った人物でもある。

 そういえば異能についての説明もしなければいけないな。朝ご飯を食べるついでに説明しよう。

 異能、それは21世紀初頭まで人類の憧れだった力だが、中期に入ってからの目覚ましい科学の進歩により人類にその夢のような力が宿ったのだ。その能力は21世紀前半のラノベに出てきたような火を操るものや雷を操るものなどその通りの結果となって発現された。けれど現実もやはりラノベと同じで使える異能の種類は一人一つだ。現在は異能を2つ以上使えるようにするにはどうすればいいのかという研究が主流になっているが目覚ましい成果は出ていない。

 こうしたデメリットもあるがけれども異能の出現により社会は驚くほどの変化を遂げた。燃料などの資源を燃やして電気を作るやり方はもうなくなり今は電気の異能者による蓄電電気の供給になった。車も今や異能をもとにして作られたバッテリーで動くものとなっている。そのため地球の大気汚染も収まったわけだ。まぁ汚染された大気をもとのクリーンなモノに戻す技術はまだ開発されていないわけだが…それでも異能のおかげで人類の資材枯渇に環境汚染という最大の問題が解決されたことに変わりはなかった。

 しかし異能社会になった今、一見便利になったようにも見えるがそうではない。異能を使えない者、彼らが虐げられる社会になってしまったのだ。まぁ逆を言えば異能さえ使えれば円滑な社会生活が送れるというわけだ。ただし異能は誰にでも扱えるわけではない。頭に電極を差し込まれてショックを送ることで脳の奥底の神経を刺激して活性化させて新たな神経回路を築く、それが異能発現の原理だ。まぁ平たく言えば脳の使われていなかった部分には実は異能が眠っていたからそれを手術で使えるようにしたというわけだ。けれどその方法も全人類に通用するわけもなく、異能に適応し、さらにそれを自由に駆使して生きる人間なんて全人類の3割程度しかいないという話だ。異能に目覚めただけという人間なら世界の8割がそうなのだが、実際彼らが異能を操るにはそれ相応の実力が必要となる、生まれながらの異能への特性が。そういうわけで異能は発現したがうまく扱えない者がいる横で、完全な異能力者は順調に社会の上部に入り込んでいった。

 さっき言ったように電気を蓄える仕事のように異能者が独占する仕事についたり、その強大すぎる力を携えて社会の裏側を支配したりとさまざまだ。そして俺たちが今日から通う学校も、普段は異能力をうまく使えるように教える学校として機能しているのだ。

「そうか…まだ30年しかたってないんだな。意外と最近だよな」

「でも30年たっても世界の中でまともに異能を使える人は3割ぐらいってのはね」

「まぁ異能っていうのはまだよくわかってない部分もあるらしいしな。もう10年もすれば皆異能を普通に使えるようになってるんじゃないか?」

 トーストをかじりながら俺たちはそんな話を交わした。

「…って!こんなのんびり食べてちゃ遅刻しちゃうよお兄ちゃん!」

「おっと、そうだな」

「ただでさえ編入生ってことで目立つだろうし、そのうえ初日から遅刻なんてしたら怖い人に目をつけられちゃうよぉ…お兄ちゃん急いで急いで!」


…と言っていた絵里だが…

「よりにもよってあいつが忘れ物するって…」

どうにも新しい教科書を詰めたカバンと大切なものを忘れてきたらしく取りに帰ってしまった。さすがに兄妹まとめての遅刻はまずいので慌てる妹の背を見送り、まだ十分に見頃な桜並木の道を俺たちの新しい学校、クロノスシンデレラ学園へ向かって歩いていく。通学途中、堅苦しいスーツを身に纏った通勤途中の女性や少しくたびれた服装の、きっと工場での夜勤明けであろう疲れ切った男性とすれ違いながらも、俺の心はそんな日常風景とは打って変わりこの桜並木をどきどきとしながら歩いていく、これからの新たな学園生活を夢見ながら―

 ピンクに染まった大通りを抜けるとそこに大きくて厳粛な門が現れた。その奥の真白の巨大な校舎を守るように、それでいて登校してくる学生を温かく迎え入れる、そんな二つの顔を持つ門を、俺は大きく踏み出した一歩で越えた。

 が、その瞬間空気が変わった。

 それは例えば学園の敷地に入り厳粛な雰囲気に包まれたとかそういう気分的なものではなかった。正真正銘、俺の体に纏わりつく空気が、冷たく冷ややかに、まるで冬の雪山にいるみたいに凍りついた。

「ちょっとあんた!」

 寒気を感じて身を縮こませた俺の前に、一人の女の子が立ちふさがった。日の光を受けた北極の氷のように白銀に澄んだ綺麗な左右非対称のツインテールの髪の毛、雪のように白い肌、美麗ながらもどこか幼さの残る顔立ちの女の子が、白を基調とした制服のおかげでとても真っ白に感じる外見の印象の中でひときわ目立つ深紅の瞳を鋭く釣り上げてこちらを見ていた。身長は俺より小さいせいで少し見上げる形になっている。見た目での判断だが俺と同じ17歳くらいの女の子は、その容姿から氷の妖精のように思えた。

「あんた、ここがクロノスシンデレラ学園の敷地だってわかってるの!?」

「え?…あぁ、まぁ…」

 可愛らしくも鋭い声に、責められる口調のせいで俺はたじろいだ答えしか出せなかった。

「わかってるならさっさと出ていきなさいよこの変質者!」

 彼女が語気を強めた瞬間周りの空気がさらに凍てついた。きっとこの冷たい空気を操っているのが彼女なのだろう、と普段の俺なら冷静に分析していただろうが、いきなりの、しかもこの学園のファーストコンタクトした相手からの変質者呼ばわりについカッとなってしまった。

「いきなり変質者っていうのは失礼な奴だな…ほら、この通り制服着てるだろ」

 少しイヤミったらしく言ってやったが彼女はそれが気に入らなかったのか、また少し空気の温度が下がる。

「制服着てるからってここの生徒って決めつけられないわ。だって制服なんて注文すれば誰でも買えるもの。もし制服を着ただけでこの学園の可愛らしい女の子たちに変なことできると思ってるならそれは馬鹿にもほどがあるわね、この変態メガネ!」

「あ?変なことってなんだよ、変なことって」

「へ、変なことは変なことよ!そりゃもちろん…エッチなことよ!」

「へぇ…エッチなことかぁ…例えばどんなことだ?」

 しめたと思い俺は少し昔のラノベの恒例の質問をにやにやとした笑みを浮かべながら尋ねてみる。

「え、エッチなことの説明をするの!?」

 さすがに恥ずかしいのか真っ白な雪のような肌が見る見るうちに赤く染まっていく。その様はまるでタコを茹でている間のそれに似ていた。

「あぁ、そうだよ。俺バカだからエッチなことってなんだかわかんないなぁ…」

「そ、それは…その…男の人がかわいい女の子に興奮して…その…発情を抑えるために手当たり次第に女の子にずぷっと…」

「ずぷっと…?何をずぷっとするんだい…?」

「それは…その…えと…あの…お…おち…って何言わせようとしてるのこの変態!訴えるわよ愚民!」

 真っ赤なリンゴみたいに顔を染めて羞恥の涙を瞳に浮かべながら彼女は声を荒げた。空気の温度が下がりすぎて少し湿っている桜の花びらの表面に霜が張り始めていた。

「なっ…愚民って…お前、言って良いことと悪いことくらい…」

「男にまともな人権なんてあるわけないでしょ?本当に早く出ていかないと通報するわよ?」

「あぁ、できるものならしてみろって。何度でも言うが俺は冤罪だ!」

 さすがにここまで言われれば誰だって熱くなってしまう。周りの下がり続ける温度とは逆に、俺の心と怒りの感情の温度は上がり続けていた。

「どうせあんたが男だからっていう理由で罪にはなると思うけれど…でもその前に私が罰を与えてあげる…これは最後の忠告よ黒縁ロン毛の変態メガネ男!」

 俺ってロン毛じゃないんだけどな…。ただ事情があって人よりちょっと左髪を伸ばしているだけで…。そう反論しようとして止めた。これ以上焚き付けてはいけないと俺の中に残っていた冷静な部分が叫んだからだ。けれど彼女の怒りの沸点はもう限界を迎えてとうに溢れ返っていたようだ。

「もし全裸で土下座したら許してあげなくもないって思ってたけど…やっぱり考えが変わったわ!今ここで問答無用であなたを断罪するわ!」

 彼女はそう叫んで制服のスカートのポケットから長方形の物体を取り出した。2000年中期辺りに大ブームした折り畳み式の携帯ゲーム機のような大きさのそれを彼女は目の前に構えた。

「レイピアデバイス【シヴァ】…認証解除(ロックアウト)…武装開放(オープンギア)!」

 彼女がそう叫ぶとその長方形の物体が1秒も満たない間に彼女の腕ぐらいの長さのレイピアに姿を変えた。

「おいおい…デバイスまで使うってのは…」

「うるさい!問答無用!」

 デバイス、それは新時代の武器だ。普段は彼女が持っていた長方形の小型の箱のような形、もしくはペンライトのような筒状の物なのだが1度脳内の異能神経からの電気信号が伝わるとさっきのように一瞬で武器へと姿を変えるのだ。デバイスには剣はもちろん、銃、槍、斧、さらには弓など様々なタイプがある。ちなみに彼女の所持物はレイピアデバイス、武装展開時の軽さと安定のあるバランスで使いやすいとのことから世に出回っているデバイスではベスト5に入るほどの人気である。このデバイスの利点は持ち運びが便利だということと、プログラムで管理されているおかげで安全かつ強力な力を発揮できるということだ。まずデバイスの個人認証システム、いわゆる生体認証を採用しているおかげで他者の悪用が不可能な点だ。次にプログラムにより威力、射程、その他もろもろ様々な能力を自分の扱いやすいようにインストールして改造することができるのだ。そのため通常の、いや、21世紀初頭に出回っている武器よりも高い威力や安定性を発揮することができるのだ。そしてこの武器最大の特徴、それは異能が使えなければ使用できないということ。先ほども述べたがデバイスを展開するには脳の異能神経から信号を送らなければならない。ということは異能を持たない人間にはこのデバイスはただのガラクタ同然というわけである。異能を持つ者と持たない者、その力の格差が顕著に表れたのが、このデバイスというわけである。

「仕方ない…俺も、使うしかないか…」

 ポケットの中に手を入れて自身のデバイスを確認する。ぎゅっと強く握ると普段使い慣れた感覚が手の中にじわぁっと広がっていく。

「サイスデバイス【メリー】…ロックアウト…オープンギア!」

 ポケットから取り出すと同時に俺は自身のデバイス、メリーを展開させた。

「へぇ…鎌とは珍しい…しかも両鎌となるとさらにね…」

 俺の手の内で展開されたそれは、漆黒の鎌。童話の中の死神が持っているような一つ刃の物ではなく、先端に分かれた二つの刃がついている両鎌。なぜこのタイプかと言えばそれは俺の好きなレトロメディア、まぁ簡単に言えば21世紀初頭のアニメなどの娯楽メディアのことだ、のキャラクターが持っていたのを見て一目ぼれしたからだ。できる限りその鎌に似るようにデバイスにプログラムをインストールして調整し、ようやく完成させた代物だ。

「ま、どんな武器であれ…私が凍らせてあげる…さぁ…決闘をしましょう、変態さん」

「あぁ、そうだな」

 俺たちは互いのポケットから薄型の携帯端末を取り出す。使いやすさの観点から2015年のころから形は変わっていないその端末のディスプレイに決闘の申し入れの承認を行うかどうかの選択肢がホログラムで浮かび上がっていた。迷わず俺はその承認に手を触れる。本当は何もない空間のはずなのにそのホログラムが実態があるかのように触れたような感覚が手に伝わる。それと同時に浮き出たホログラムが崩れまた違う姿のホログラムを今度は俺たちの頭上に展開させた。

「白雪…霧華(きりか)っていうのか…」

「そういうあなたは…美咲慶次…フフッ…美咲って女の子みたいな名前ね」

 そこに浮かび上がったのは対戦相手の名前、白雪霧華(しらゆききりか)という文字と彼女の顔写真だった。霧華のデバイスからは俺の名前と顔写真が浮かび上がっている。

「ルールはデバイスの非殺傷設定のみ、時間は無制限、相手の体力がなくなるまで。私はシンデレラになるために闘わなくちゃいけないからここで変にケガするわけにはいかないのよ」

「オーケイ」

 さらなるデバイスの便利機能、それは非殺傷で相手と戦えることだ。相手を傷つけずに戦うことができる、それは訓練や軽いケンカなどで使われる。それでどうやって勝利を決めるのか、それは簡単だ。昔流行ったアクションゲーム、それを現実で行うのだ。自身の身体情報を細かに再現した体力ケージ、それをデバイスの能力、使用者の身体能力、さらに攻撃が当たった場所、強さによってデバイスから放たれた電子信号が相手の端末に受信され体力ケージが減るという仕組みだ。ルールもゲームと同じで相手の体力を先に0にした方が勝ち、というシンプルなものだ。

『デバイス…形態変更(モードチェンジ)!決闘形態(デュエルモード)!』

 お互いの声が重なりその瞬間デバイスの刃が消え代わりに俺の物には黒の光の刃が、霧華の物には青白い光を放つ光の刃が発現した。

「さて、変態慶次…最後に何か言い残すことはない?物理的には死にはしないけどきっと社会的にはこの後滅されると思うわよ?」

「白雪さん…俺は、負けないよ」

「むっ…ほんとに殺したくなってきたわ…早くショーを始めましょうよ!」

「あぁ…決闘…開始だ!」

 俺のその声とともに、俺のこの学園でのファーストバトルが、運命を揺るがせるほどのバトルが始まった―


 決闘、それは中世の騎士の時代から続く伝統的な戦いだ。互いの命のぶつかり合い、勝てば生を、負ければ死を得ることができる血の争い…だったはずなのだがいつからだろうか、このようなケンカの延長線のようなものに変わってしまった。互いが武器を手に取りどのような理由であれ勝てば官軍、すべて許されてしまうわけである。だからここで俺が負けてしまえば問答無用で変態のレッテルを貼られてしまうどころか、社会的に抹殺されてしまうこともあり得るわけだ。

「何ぼぉっとしてるのよ?あんたから来ないなら…私から行くわ!」

 彼女の左右非対称のしっぽがびゅんっと後方になびくほどの素早い勢いでこちらに向かってきた。これはたとえ非殺傷であれ真剣勝負、隙を見せた方が一気に敗北への道を辿るのだ。俺が考え事をしていた一瞬の隙をつき霧華はレイピアの先端をこちらに向けて飛び込んできた。青白い刃の先端が日の光を受けてきらりと殺人的な輝きを放つ。

 俺を貫かんばかりのレイピアの鋭い突きを身体を翻して避ける。しかし彼女は俺の逃げた先で今度は刀で人を切るような形でレイピアを振り下ろしてきたのだ。

(マジかよ…!?あの速度で突いてきたっていうのにすぐに態勢を立て直した!?)

 明らかに予想外の身体能力に俺は絶句するしかなかった。風を切るほどに素早かったレイピアの突き、しかしその速さを実現するにはある程度大きな力を込めないといけないわけで、避けられればそのまま地面に激突、とまではいかないが体勢を崩すと考えていたのだが…彼女は躱されたと分かった瞬間身体を飛び上がらせ上空でむりやりに体をねじり姿勢を整えて剣戟を繰り出してきたのだ。しかしこちらも負けてはいられない。鎌の持ち手の部分で攻撃を受け止める。キンっ!と鋭い音があたりに響いた。

「へぇ…私の攻撃を受け止められるなんてね…どこかで戦いを習ってたのかしら?」

「全部…独学だ!」

 手首のスナップをきかせて鎌を回転させて彼女の剣を吹き飛ばそうとするがその瞬間軽やかな身のこなしで彼女は身を引いていた。ちらりと空中に浮きあがるホログラム、そこに描かれている俺の体力ケージを確認する。

(やっぱり少し減ってるか…防御してもダメージが入るなんて敵ながらさすがだとしか言いようがないが…俺もまだ負けてられないんでね…!)

 削られた体力ケージはほんの少しだ、慌てるようなことでもない。

「さぁ…今度は俺の番だ」

 俺はぎゅっと鎌を握りなおして、そこで気づいた。鎌の持ち手がとても冷たいのだ。確認してみると鎌の持ち手に、さっき霧華の攻撃を防いだ部分を中心に氷が張り付いていた。

「ふふ…それが私の異能。この剣が触れたものはすべて凍ってしまう…それがたとえ非殺傷の戦闘であれね」

「氷の…異能使いか…」

「あ、一つ忠告だけどあんまりその氷に触れない方がいいよ?手に氷が張り付いて痛いことになるかも」

「忠告どうも…けど、余計なおせっかいだな」

 氷の上からぎゅっと鎌を握りなおして前進する。予想外の行動だったのか彼女が小さく動揺を見せるのを俺は見逃さなかった。隙は最大の命取り、今度は俺が反撃する番だ。

 体勢を低くして加速、そして彼女の目の前で急停止、今までの速度の反動を利用して鎌を横薙ぎに振るった。こうすることで自分自身の力以上のダメージを与えることができる…はずだった。確実に攻撃が当たった、そう思ったのに彼女の体力は減っていなかった。確かに手ごたえはあった、なのに彼女の体力は減らなかった。それもそのはず、なにせ俺が攻撃したのは霧華ではなく、ただの巨大な氷の塊だったからだ。

「氷…!?」

「フリーズガード…私を守る絶対の氷の盾よ」

 ステップを踏み後方に下がり彼女の氷の盾を観察する。巨大な、まるでマンガやゲームに出てくるクリスタルのようなイメージのそれは彼女を守るべくぷかぷかと地面から40~50センチくらいの空中で浮遊していた。あれほどの大きさだ、壊すという考えは捨てた方がいいだろう。俺は氷の盾を攻略する方法を頭の中で思案するべくすべての感覚をシャットアウトした。視覚も、聴覚も、嗅覚も、身体の感覚をすべて捨て去り思考だけに神経を集中させた。

一瞬ブラックアウトした視界に脳内で導き出された様々な戦術が高速で再生される、俺にすべての中から最適解を導き出させるために。まるで作業負荷をかけたパソコンのように熱を発する脳内から最高速で送られてくるイメージの断片をつなぎ合わせていき、パズルを完成させた。

 この間僅かコンマ1秒にも満たない―

 次に視界に色が戻った時には、俺の体はすでに行動に移っていた。何のためらいもなく、そして一片の狂いもなく、最適解の行動を身体は忠実に構築していく。

「フンっ!自棄になって突っ込んできたのかしら?けどそれはあまり賢くない選択ね。私のフリーズガードはどれだけ攻撃を叩き込まれたところで欠けることなんてないんだから!」

「誰がその盾を壊すなんて言った?」

「え?」

 彼女の氷の盾の弱点、それは空中に浮いているということだ。つまり地面と氷にできたわずかな、けれど大きな隙間は無防備というわけだ。つまりその下を潜り抜ければ相手の懐まで一瞬というわけだ。もしもその氷を落とされたら?いいや、彼女はそんなことはしない。なぜ盾が宙に浮いているのか、それを考えればわかることだ。宙に浮いているからこそあの巨体での縦横無尽な動きが可能になる、けれどそれが地面に落ちるとしたらだ、あの軽やかな動きも不可能になるだろう。つまり巨大な木偶の坊と成り果ててしまうというわけだ。まぁ仮に落とされたとしても寸での所で避ければいい。

「さぁ…これで終わりだ!」

 スライディングした姿勢のまま氷塊の下をすり抜けそして力強い跳躍、飛び上がる勢いで鎌で上方に向かって切り上げる…はずだった。俺の手は完璧だ、一つの穴もない、一つの大きな見落としがなければ…。

「私が自分の弱点を知らないと思ってるの?」

 にやりと笑った魔性の氷の少女、その笑みはまさに雪山に遭難した者を魅了するという雪女のように思えた。その少女が細い指をぱちんと鳴らす。するとパリンと、まるでガラスが割れたような鋭い音が俺の耳元で響き渡った。

 氷が、割れた―

 あの巨大な氷が、一瞬にしてバラバラに砕け散った―

「何…!?」

 割れた氷がまるで散弾のように、あられのように、俺の頭上に降りかかった。やられたと思い避けるがもう時は遅かった。後方に飛び退いたが氷の弾丸は跳弾のように地面に当たり跳ね返っては俺の体に吸い込まれていく。バチバチとした痛みが俺の体に走る。武器は非殺傷でも異能のダメージは体に直接響くのだ。しかもそのダメージは俺にとっては相当なもので、ケージは半分ほど削られてしまっていた。

「ちっ…」

 舌打ちを一つして額に流れた汗をぬぐう。もう一度鎌を握りなおしてキッと霧華の方をにらんだ。手に感じる氷の冷たさも、この戦いの熱さで忘れてしまっていた。

「美咲慶次!あなた私を舐めてるの!?なぜ能力を発動しないの!まさか異能が使えないわけじゃないわよね?」

「そんなことはないが…」

「出し惜しみ?それって私ごときに異能を使うまでもないっていう挑発でいいのかしら?」

 もう彼女には何を言っても悪い意味でしか受け取ってもらえないようだ。仕方ないなと内心でため息を吐く。

(仕方ないな…いきなり使うのは少しためらわれるけど…ま、いずれ使うことになるしな)

 俺は鎌の切っ先を下ろして相手に無防備なことをアピールする。俺が見せた最大の隙を彼女は挑発と受け取ったのだろう、見る見る間に怒りに顔を歪めていくのが分かった。

「やっぱりあなた舐めてるのね…そう…ほんとにぶっ殺したくなってきたわ…」

「あんまり女の子がぶっ殺すなんて汚い言葉使うんじゃないよ」

「うるさい!あぁもう!殺す!あんたが死んでももう一回殺すから!」

 怒りに身を任せて霧華が突っ込んでくる。けれどそれは俺の思惑通りの行動だった。人間怒りが溜まれば正常な判断が困難になり行動が単調になる傾向にある。そう、今の霧華がまさにそれだった。俺はそれを狙いわざと彼女を焚き付けたのだ。

「さて…力を…使うか…」

 能力を発動するために俺は自身の視界を覆っているグラスを取り…去ろうとした瞬間に背後から聞こえた大声に行動を止めた。

「おーにーいーちゃーん!」

「え、絵里…!」

 その声に行動を止めたのは俺だけでなく霧華もだった。レイピアを構えたまま誰?といったぽかんとした表情を浮かべているさまが滑稽で思わず吹き出してしまいそうになるのをひたすらに堪える。ガマンついでに絵里の方を見てみると彼女の瞳はいつも以上に釣り上がっており明らかに機嫌が悪いことが見て取れた。その背には忘れ物だったかばん、いいや、派手な装飾の棺桶が背負われていたが今はそこに触れるべきではないので割愛させてもらう。

「お兄ちゃんその女誰?」

「えっと…誰って言われても…」

「私は白雪霧華、あなたこそ誰よ?」

 俺が答えに渋っていると霧華の方から名乗ってしまった。あちゃーと内心で思う俺だがもう時は遅い。

「私は美咲絵里、そこにいるいかにもダメそうな男の妹よ」

「ダメそうって…ひどいな絵里…兄ちゃん悲しいよ…」

「うるさい。お兄ちゃんはちょっと黙っててよ」

「はい…」

 キッと鋭い視線を浴びせられて俺は恐怖に黙るしかなかった。いくら妹だからってあの視線は怖いのだ。まさに蛇に睨まれた蛙になった気分だ。

「あ、そうなの。早速だけど絵里さん」

「絵里でいいわよ。見たところ私の方が年下そうだし…白雪先輩」

 絵里がねっとりとした口調でそう言い放ったその言葉にまた空気の温度が下がった。しかもそれはさっきの、俺と言い争いをしていた時よりも格段と冷たいものだった。場の雰囲気とも相まってかピキピキと空気が音をたてて凍ってしまうような、そんな寒さだ。

「それじゃあ気を取り直して…早速だけど絵里、あなたのお兄さん、ううん、そこのゴミクズ男はね私にセクハラしたのよ」

(なっ…!?セクハラって…!?確かに調子に乗った節はあるけどあれはセクハラとしてはセーフじゃ…)

「ふ~ん…それで?」

「それでって…あなた、リアクションそれだけ?」

「そんなの驚くことじゃないわ。だってそれは嘘なんだもの、嘘吐き先輩」

「う、嘘じゃないわよ!何を根拠に言ってるのよ!」

 クールに受け答えしていく絵里のペースに完全に飲み込まれてしまった霧華。これこそ俺が危惧していた出来事だった。口喧嘩、特に俺が絡んだことになると絵里はいつもの数十倍にも頭も口も働くのだった…。

「だってお兄ちゃんは妹の私にしか興味がないどうしようもない変態なブラコン野郎だからよ。妹にしか性的興奮を得られない変態さんなの」

(あの…俺の方を見て明らかにひいた視線を向けるのやめてくれませんかね…)

 まるでドブ川に捨てられたエロ本を見るみたいに冷たく蔑んだ視線を向けてくる霧華に俺はいたたまれなくなる。確かにブラコンの節があるけど妹にしか興味がないっていうのは嘘だからな…ほ、ほんとに嘘なんだからな!

「お兄ちゃんにセクハラされたとか言ってほんとは自分から擦り寄っていってお兄ちゃんにばっさり切られたからそんなこと言ってるんじゃないの?この淫乱メスブタ!」

「そ、そんなわけないでしょ!?なんで私がこんな変態メガネに擦り寄らなくちゃいけないのよ!それに私が淫乱メスブタって?何を根拠に言ってるのよ!」

「その胸についてるでっかい脂肪の塊がその証拠よ。私のデータによればほぼ100%の割合で胸がでかい女は淫乱でメスブタだって出てるのよ!その忌々しい肉塊でお兄ちゃんをたぶらかしてたんでしょ!?」

 絵里にそう指摘されてバッと胸元を隠す霧華。今まで彼女の真っ白な妖精のような容姿に気を取られていてあまり胸元とかを確認していなかったが…確かに巨乳だ…。服の上からでも有り余るほどのプルプルとした二つの果実…きっと服の下にはじゅくじゅくに熟れた食べごろな瑞々しいおっぱいがあるのだろう…。

 しかしこれで黙る霧華ではなかった。絵里の体を一瞥すると今度はお嬢様みたいに手を口元へもっていき高らかに笑って見せた。

「アハハ!あなたそれひがみでしょ?何よその胸?まな板?まな板でも胸に仕込んでるのかしら?アハハ!」

「まな板?失礼ですが先輩、あなたの目はほんとに見えてます?私これでも膨らんではいるんですよ?よろしければいい眼科を紹介しますが?」

「アハハ!まな板がしゃべってるわ!これは傑作だわ!」

「これだから淫乱メスブタは…すぐに胸の大きさで人を図ろうとする小さい器の人間…あ、人としての器が全部胸に行ってしまった結果ね…かわいそう…」

「ぐぬぬ…」

 二人してにらみ合うその様は、まるで屏風によく描かれている虎と龍の睨み合いのように見えた。白虎と金龍の冷戦、絵にするならタイトルはこれだな。

「まぁ理由はともかくとして先輩はお兄ちゃんに手をあげた…それは謝ってもらうわよ?」

「なんで私がこの変態に謝らなくちゃいけないのよ?」

「誰がお兄ちゃんに謝れって言ったの?私によ?」

「むしろなんで絵里に謝らなくちゃいけないのよ?」

「なんでって…お兄ちゃんは私の奴隷であり私だけの所有物よ?人の物に勝手に傷をつけて、謝らないっていうのはどうかと思うんだけれど?」

(だから白雪さん…その蔑んだ眼は俺の心に刺さるのでやめてくれませんかね…)

「もしかして先輩って人の物に傷をつけても謝るなっていう非常識な教育を受けてきたっていうわけ、ないですよね?」

 絵里の挑発の言葉を、霧華は鼻で一笑した。

「ふふ…兄が変態なら妹も変態になるのね。何?お兄ちゃんは奴隷?所有物?アハハ!それはとんだシスコン、ううん、シスコンの度を通り過ぎてるわよ!何?兄妹でSMプレイのまねごと?やめた方がいいんじゃない?慶次も律義にそんなお遊びみたいなことに付き合って…あなただってそういうの嫌なんじゃないの?その頭のおかしい妹から離れた方がいいんじゃない?」

「や、やめろ白雪!それ以上言ったら…」

 ―プツン。

 今確かに、堪忍袋の緒が切れた音が聞こえた。もうこうなってしまえば俺にどうこうできる範囲を通り越した。

 絵里は霧華のもとに近づき思いっきり大声で叫んだ。

「お兄ちゃんは望んで私の奴隷になってくれた!私を一生守るために…こんな私のために…一生を捧げる奴隷になってくれたんだ!そんなお兄ちゃんが逃げるわけない!」

「な、何よ…急にそんなに怒って…」

「謝れ!今度は私じゃなくてお兄ちゃんに!お兄ちゃんの優しさを平気で踏みにじった…謝れ!」

「ふ、フン…私にキスでもしたら謝ってあげるわよ」

 明らかに怒りを露わにした絵里に霧華は戸惑うばかりだ。しかもまだ冗談じみた軽口を口にしている。いや、この怒りが本当かどうかもわからずにどういう反応をとればいいのか困っているのだろう。けれどこうなった絵里には冗談は通じない。たとえ相手がどんな意図でいった冗談でも…。

「ふ~ん…キスしたら、お兄ちゃんに謝るんだ…それじゃあ…」

 ―ちゅっ

 絵里が力任せに霧華の頭を下げてその唇に自身の唇を重ねた。

「や、やった!さすが絵里!俺にできないことを平然とやってのける!そこに痺れるあこがれるぅ!」

 これがマンガなら背景にずきゅーん!というエフェクトが描かれるだろう。まさにそれは突然で、危険なキスだった。

 唇が触れあったのはほんの一瞬、けれど霧華は顔を真っ赤にして慌てて呂律もあまり回ってない口で反論を述べた。

「にゃ、にゃにしてるのよ!冗談ってわかりなしゃいよ!」

「白雪…今のこいつに冗談は通じないんだ…俺のことになると途端に人が変わるからさ…」

「遅いわよその情報!うわぁぁぁん…私の初めて奪われちゃったよぉ…うぅ…最初は一番好きな男の子って決めてたのに…ひぐっ…初めてが女の子なんてヤダよぉ…」

「絵里…やりすぎなんじゃないか?」

 さすがに泣き出してしまった霧華を見ると俺もいたたまれなくなってくる。ぼろぼろと大粒の涙を流す彼女にティッシュを渡しながら絵里をなだめていく。

「フン…初めてをここまで大事に守ってきたのが間違いなのよ。私はもうとっくの昔に初めてをお兄ちゃんに捧げたから問題ないけど。お兄ちゃんってばあの時はずっと私とキスしたいって言って大変だったんだから…」

 それはお前の方だろう、しかもだいぶ昔、俺も忘れかけてきているガキの頃じゃないかと反論しようとするが彼女はもう自分だけのワールドに入ってしまっていた。うっとりと過去の俺とのキスを思い出して頬を染めて身悶えていた。

「ねぇお兄ちゃん…今から私とキスしよ?お兄ちゃんのためにこの淫乱とガマンしてキスしたんだよ?頑張った絵里にご褒美のキスちょうだいよぉ…」

 じっとりと潤ませた視線を可愛らしく上目遣い気味に俺に送ってくる。そうされるとどうにも俺の理性が揺らいでしまうが、これ以上事を荒立てたくはない。きっとここでキスすれば霧華が変態とか騒ぎ立ててまた絵里と口論になってしまう。さすがにこれ以上されると傍で見ている俺が霧華の能力のせいで凍死しかねない。

「君たち何をしている!…って霧華じゃないか。そんなに泣いてどうしたんだ?泣かされたのか?よしよし」

 と、俺たちの喧騒の間に長身の男子生徒が割り込んでくる。その生徒を見て今の自分たちがどこでケンカをしているのかを気付いて周りを見渡した。案の定登校途中の生徒たちの視線が一直線にこちらに集中していた。

(初日からやらかしちまった…)

 遅刻した方がよかったと思うほどの後悔が俺の中を無残にも通り過ぎていった。

「うわぁぁぁん!あいつらが…あいつらがぁ…!」

「あいつらにやられたんだね…って君たち編入生の美咲兄妹じゃないか」

 割り込んできたその生徒はゆっくりと立ち上がり俺たちの前に来た。何か文句を言われるかもと思い身構えたがどうやらそうではなかったようだ。彼は優しい声で、かつ爽やかに謝罪の言葉を述べた。

「ごめんね…僕のお嬢様が何か失礼をしたみたいで…でもあの子を恨まないでやってほしいんだ。ほんとはいい子だから…ほら、今日のことはちょっと手荒な歓迎とでも思ってさ」

「あぁ、いや…俺たちの方もちょっとやりすぎたっていうかなんというか…ってお嬢様?」

 さらりとした黒の髪の毛にあまり似合わない碧眼の瞳の少年が優しげに俺を覗いていた。日本風の顔立ちなのに碧眼はどこかミスマッチのように見えるが、それが彼の美形な顔を絶妙に際立たせていた。

「そういえば自己紹介がまだだったね。僕はランスロット。彼女、白雪霧華の暫定騎士をしているんだ。2年生だから君と同じさ、だから気軽に呼び捨てで呼んでくれよ。あ、絵里さんも飛び級で同学年だったね、だから君も呼び捨てでいいよ」

「え!?飛び級!?」

 と、ちょうど泣き止んだ霧華の驚きに裏返った声が耳に突き刺さった。

「じゃあ…もしかして…同級生ってことに…うぅ…やだぁ…」

 ついに日本も諸外国と同様に飛び級の制度を実施した。その理由は簡単だ。女性がシンデレラの座へと昇りつめるためにより高い教育を欲するからだ。シンデレラになるにはそれなりの教育や力が必要だ。けれど年齢=学年の制度では明らかに上級生、つまり上級の教育を受けられる年長者が有利になってしまうわけだ。その格差をなくすために取り入れられたのがこの飛び級制度なのだ。ただ絵里の場合は俺と同じ教室で勉強したいっていう不純な理由で飛び級試験に合格して見せたのだが…。

「何が嫌なのかしら?できれば聞かせてほしいところね、もちろん30字以内でまとめてね…霧華」

「ちょっ!?何呼び捨てにしてるのよ!?」

「だって同級生なんでしょ?なら呼び捨てにしてもいいかなって。ね、ランスロット?」

 笑顔の裏に明らかな脅しにも似た迫力を込めて絵里はランスロットを見た。

「えぇ、同級生になるわけですから呼び捨ての方が仲が深まるかもしれませんね」

 彼は先ほどからの朗らかな笑顔を浮かべていたがつつぅと額に一筋の冷や汗がこぼれていたのを、俺は見逃さなかった。

「あ、そういえば…僕は生徒会役員でね、君たちを生徒会室まで案内しないといけないんでした…ついうっかりです…霧華、一人で教室に戻れますか?」

「うん…大丈夫…」

「そうですか、やっぱり霧華は強い子ですね」

 ポンと彼女の頭に手を置いたランスロットはまるで霧華の父親のようにも見えた。

「さぁ、ついてきてください美咲兄妹。生徒会長が首を長くして待ってますよ」

「それじゃ行くか、絵里」

「うん、お兄ちゃん!あ、ちょっとまって。霧華…よかったね、もしお兄ちゃんに傷をつけてたら私が殺しちゃってたから。もし今度お兄ちゃんに近づいたら…分かってるよね?」

 霧華の氷よりも冷たい視線で絵里は彼女を睨んでいた。ぶるると身震いした霧華はそそくさと校舎の方面へ逃げて行ってしまった。

 それを見送ってからいつものように絵里の手を取り俺たちは校舎へと入っていく。

「あ、そういえば慶次君…キミ、もう少し後ろでデバイスを発動してたら退学でしたよ?校外でのデバイスの無断使用は禁止…覚えておいてくださいね」

「あ、あぁ…」

 新しく過ごす校舎に俺の乾いた笑い声が染みこんだ…。


「キミが美咲兄で…そっちが美咲妹ね。おけおけ。さて…ようこそクロノスシンデレラ養成学園へ。ボクはキミたちを歓迎するよ~」

「は、はぁ…」

 この学校の生徒会長、イリス会長とのありがたいお話、とランスロットに聞いて身構えていたのだが…今目の前にあるのは俺の予想の斜め上を、しかも悪い方向へぶっ飛んでいたイリス生徒会長の姿だった。窓から漏れる日を背にした会長は、まるで寝起きのぼさぼさ頭のようなクセっ毛だらけの茶髪の髪の毛に、これまた髪の毛と同じでさっきまで眠っていたんじゃないかと思われるほどにしばしばとしたたかれる眠そうなタレ目、極めつけはこちらまで眠たくしてくるような気の抜けた声だ。これが本当に生徒会長かと疑うほどに威厳というか威圧というか、そういう上位者に立つ要素が一つも感じられなかった。ぼさぼさのショートカットの髪の毛をわしわしとかきむしりふわぁとあくびをもらすその姿は、彼女の童顔で低身長、さらに少年のような顔立ちから明らかに可愛らしい男の子にしか見えないわけで…。

「な、なぁランスロット…会長って…ほんとに女なのか?」

 俺はこっそりと誰にも聞こえないような声で隣に立っているランスロットに耳打ちする。彼はこくりと首を縦に振ったが頷くまでの数秒の間が逆に俺の興味心を刺激した。しかしここで会長に本当に女?と聞くような愚かな真似はできない。どんな容姿でも、どんなに威厳を感じなくとも彼女は生徒会長なのだ。このシンデレラを養成する競争だらけの学校の頂点に立っているのだ、それなり、いや、相当の手練れなのだろう。普段はああやって本当の自分を隠しているだけで…

「ふわぁ…ねむねむ…ねぇ…ボクもうお布団に帰っていい?眠すぎて倒れちゃいそう…」

「会長…もう少しですから我慢してくださいまし…」

 無邪気な少年のような声を眠そうに歪めてそう言う会長に、彼女の座っている生徒会長の席の少し隣でずっとノートに何かを書いていた(きっと書記かなにかだろう)おっとりした和風美人の女生徒が呆れたような視線を向ける。和風の女生徒は制服を改造しているのか袖の部分が着物のようにゆったりと開いている。その特徴的で、けれど魅力的な制服姿の彼女に魅入っていると急に足に痛みが走った。見ると絵里の足が俺のつま先をぐりぐりと踏みにじっていた。しかも彼女の顔はとても不機嫌である。

「さ、それじゃ君たち兄妹には入学テストを受けてもらおう」

「入学、テストですか?」

 俺と絵里はお互いの顔を見合わせる。そんなこと事前の編入の手続きの際に聞いていなかったからだ。会長は言ってなかったかなとでも言いたげな顔で俺と絵里を交互に見るがやっぱり首を横に振るしかしなかった。

「まぁ簡単なテストさ。キミたちがこの学校にふさわしいかのテストだよ。これ以上の説明は神楽耶から求めてくれ」

「はぁ…またわたくしだよりですの、会長?はぁ…まぁいいですわ…」

 会長から指名された和風少女はため息をつきながらゆっくりと立ち上がった。立ち上がる際にその麗しくてすべっとしていそうな腰までありそうな黒の長髪がふわりと揺れた。その瞬間、なんだか抹茶のような奥深いいい香りがした。

「説明する前に自己紹介から…わたくしは佐竹神楽耶(さたけかぐや)。生徒会の書記担当ですわ。よろしくお願いしますわね、慶次さんに絵里さん」

 おっとりしているがはきはきとしゃべる彼女はやはり和風美人といっていいほどだった。声だけでも彼女がとても品があるというのがうかがい知れる。

「さて、あなたたちは今回のシンデレラ選定方法について知っているかしら?」

「えっと…確か、戦って一番強い女性を決めるって…」

「そう、正確には今年の12月から行われるシンデレラ武闘会、それに出場してトーナメント制のその大会を制することこそが次のシンデレラに求められた条件ですわ」

 物語のシンデレラが自身の運命のターニングポイントの舞踏会と、現代のシンデレラが生まれるターニングポイントである戦いの場、武闘会をかけたなんともなネーミングセンスである。しかしその名前を笑うものなどおらず、いや、正確に言えば戦いに勝てばシンデレラになれるという単純なルールに皆血が騒いだおかげで名前には誰も触れなかった。

「そこに参加するにはまず校内の予選、そしてわたくしたちの学校に与えられた出場権5枠を争う決勝戦に勝ち抜かなくてはいけませんの」

「つまりこの学校でのベスト5が全国のほかのシンデレラ候補が集う学校の代表と戦うってわけね。ま、別に私はシンデレラなんて興味ないんだけどね」

「あら?そうなの?ならなぜこの学園に?」

 心底不思議そうに尋ねる神楽耶。なにせこの世界の女性は必ずと言っていいほどシンデレラになりたいと願っているのだから。それは今目の前にいる神楽耶も、ましてや眠そうなイリス会長ですら例外ではないだろう。

「編入は授業料が免除されるって聞いたし、それに予選で勝ち進めば勝った分だけお金がもらえるって聞いたからよ」

 それは編入生への特権だ。学園の期待を背負って戦う編入生は勝つたびにその褒賞としてお金がもらえるのだ。もちろん俺たちはそのお金目当てでこの学校に編入を決めたのだ。

「お金のため…ですの…?」

 しかし神楽耶はぴんと来ていないようだった。この学校の生徒の大半は生まれながらにお嬢様だ。きっと彼女も生まれながらのお嬢様でお金のありがたみなんてほとんど知らないのだろう。

「私たちはいっぱいお金を稼いでいつか二人だけで一緒に暮らすの…誰も邪魔の入らないところでね。あと私たちを養ってくれてるおばさんにもお金を返さなくっちゃ」

「ふ~ん…」

 あまり興味なさそうに聞いていた神楽耶はささっと次の説明に移る。

「まぁあなた方がどのような理由であれこの学校に編入してきたからにはそれなりの力を見せていただかないといけませんわ。この学園を背負うかもしれない人材とあってはなおさらね」

「ま、そういうわけさ。ここで負ければ編入も取り消しだ。けれどキミたちなら大丈夫だろう?なにせここ数十年現れていなかった編入生なんだから…さぁ、そこの階段から地下闘技場に行きなよ。下ではキミたちの登場を待ちわびている子がいるからね」

 生徒会室の隅にある扉、そこを開けると階段があった。かろうじてランプだけで明かりをつないでいるそこをランスロットに導かれて下に降りる。その間俺たち兄妹はずっと手を握っていた。お互いの緊張を、不安を、そして、戦いへの興奮を共有するように、ぎゅっとぎゅっと、力強く握っていた。


 階段を下りた先、そこは先ほどまでのほのかな暗闇ではなく思いっきり電灯に照らされた廊下だった。この先数メートルのところにも階段があるので多分この地下は学園のどこからでも下りることができるのだと察することができる。ランスロットが先導して殺風景な廊下を進んでいく。

「君たちは装備の用意は大丈夫ですか?」

「あぁ、俺はさっきデバイスを展開してたからわかるだろ?」

「私も大丈夫。ちゃんとこの子を持ってきたからね」

 そういって絵里は背中のド派手な棺桶をポンポンと叩いて見せた。真っ赤な体に黒のリボンを意識したような装飾、さらに胴体の部分にはファンシーなコウモリや星のシールが貼られていて、その見た目からは明らかに死者を入れるという本来の役割から逸脱していた。

「それが絵里さんの武器ですか?僕にはどう見ても棺桶にしか見えないんですが…」

「ま、見てなさいよ。私が使い方を実演してあげるから」

「はは、楽しみにしてますよ」

 柔らかな笑みを浮かべていたランスロットだが急に表情を引き締めてその先を見た。そこは廊下の終着点、そして闘技場の本当の入り口だった。

「この先にあなたたちの対戦相手がいます…本当に準備は大丈夫ですか?」

「ふふ、私は大丈夫だよ、お兄ちゃんは?」

「大丈夫だ、問題ない」

 本当は大丈夫ではなかった。心の高ぶりが異常だったからだ。今までに感じたことのないほどの高揚感が俺の全身を包み込みどこかふわふわとし地に足がついていないようだ。自然と楽しみに笑みがこぼれ落ちてしまう。普通なら戦いに行く前は落ち着かなければならないが、この高ぶりもまた乙なものさ。

「今から行う戦いはさっきの決闘みたいに非殺傷の戦いではありません…ケガもするでしょうし…油断すれば、死ぬこともあります…引き返すなら、今のうちですよ?」

「はは、ランスロットは心配性だな。俺たちなら大丈夫だ、なぁ絵里?」

「もちろん!お兄ちゃんさえいれば私はどこでも問題ないし何をするにも怖くないんだから!」

 俺は絵里と一緒に闘技場への第一歩を踏み出した。俺たち二人ならば、何も怖くはない。それがたとえ死地に赴く一歩だとしても、後戻りできなくなる一歩でも、不思議と怖くはない。それほどまでの絶対的信頼が、生まれた時からずっと一緒にいる彼女にはあった。


「ここが…闘技場…」

 階段で結構地下深くまで下りたなと思ったが予想以上に下まで来ていたようだ。天井がとても高い。アパートでいえば4~5回の高さまでが入るくらいの高さの天井に、まるでドーム球場のような広さのそこには、一万人は余裕で収容できるほどの観客席と巨大な液晶、そしてステージを照らす無数のライトしかなかった。そしてそのライトの下、ステージの中央に二人の人影が立っていた。

「ようやくお出ましか…遅すぎて寝ちまうところだったぜ」

「何カッコつけようとしてるのよ気持ち悪い…けど、遅すぎて寝ちゃいそうっていうのは同感かも」

「彼らが君たちの対戦相手だよ。ちなみに僕は審判としてこの戦いを公平に見守っているからね。もしリタイアしたくなったらすぐに言うんだよ」

 鬱陶しいほどのお節介な言葉を残してランスロットはステージの端の方へ行ってしまった。そこでカメラを設置しているところを見るとこの戦いは多分生徒会室に中継されるのだろうな。

「遅くなってすまなかった。少しトラブルがあってな…俺は美咲慶次だ、こっちは妹の絵里」

「ご親切に挨拶どうも。俺はブルーノだ。こっちは俺の主の柚木文(ゆずきあや)だ」

「ちょっと!文も自分であいさつできるのに!リイネのくせに生意気!」

「ちょっ…!女っぽいからリイネって呼ぶなって何度も言ってるだろ!…お前らもだぞ!俺のことはブルーノと呼べ!」

 茶髪のおしゃれヘアーのブルーノに、頭のてっぺんからぴょこんとアンテナみたいなアホ毛が飛び出している淫乱ピンクのロングヘアの文が独特の雰囲気を醸し出していた。なんだか幼馴染のような安定した言い争いという雰囲気だ。

「で、ブルーノ。文たちはあの子たちを潰しちゃったらいいわけね!」

「まぁそうなるな」

 文はブルーノの答えを聞くと目を輝かせてふんふんと嬉しそうに鼻息を漏らす。そうするたびに自然と体が揺れておっぱいがプルプルと揺れて目のやり場に困る。あの文という子、霧華や神楽耶も巨乳だと思ったがさらに大きいぞ。しかもちょっとむちっとしているからかさらに肉感豊かなたおやかなものに見える。あそこに顔うずめたら気持ちいいんだろうなぁ…。さらに身長が絵里くらい小さいのでそれとのアンバランスさでさらに巨乳が引き立てられている。

「あれぇ?お兄ちゃんってちっちゃなおっぱい好きじゃなかったっけー?」

 絵里が殺意を込めた目でこちらを見ていた。まさに読心術とでも言えるほどに彼女は俺の思考を読み取っていた。

「うん、俺、ちっちゃなおっぱいだいすきー」

「むっ…すっごく棒読みっぽい…まぁいいや、お兄ちゃんはおっぱいがおっきいってだけで私から浮気しないもんね?」

「えぇ、そのとおりですよ」

「また片言…お兄ちゃん、闘ってるときは味方にも注意した方がいいかもね?」

 その言い方、暗に戦いのどさくさに紛れて俺を殺すぞって言ってる風にも聞こえるんですが、絵里さん…。

「そこ!文なしで盛り上がっちゃダメでしょ!文も混ぜなさいよ!」

「すまんな、こいつ頭のネジがちょっと緩いからさ。突拍子もなくて俺も手なずけるのに困ってるんだ」

「むむぅ…やっぱり今日のリイネ生意気!」

「だからリイネっていうな!」

「あの~…そろそろ始めてもらっても…」

 俺たちのバカなやり取りにとうとうランスロットが割り込んできた。さすがにやりすぎたと思い俺たちはまた真剣な顔で互いを睨んだ。

 体はさっきの霧華との戦いで十分に温まっている。心的興奮もだんだんと抑え込んでいたおかげで今はクリーンな状態だ。これならば十分な力を発揮できるだろう。

 俺は意識を集中させてまるでスイッチを入れるみたいにデバイスに意識を送り込む。すると体に仕込んでいた防御用のデバイスが一瞬で開くのが分かった。とても軽くて動きを阻害しない柔軟性、そのクセにありえないほどの強度を誇るそれは戦いの際には必ず欠かせないものだった。絵里たちも意識を集中させて防御デバイス、そして武器デバイスを展開させていく。

「ブルーノ、それ…ナックルデバイスじゃないか」

「ん?珍しいか?…まぁそうだな。あんまり使ってるやつ見たことないし」

「文のも珍しいでしょ?ほら見てみて~トンファーデバイスだよ」

 文はどうやら自己主張が激しい子みたいだ。いや、ただ単にブルーノが言うように頭がゆるゆるなだけか?

「お兄ちゃん、私はあの文って子と闘うから…そっちの男の方をよろしくね」

「あぁ、まかせろ」

「ん?絵里ちゃんは…棺桶?どうやって使うの?」

「ま、見てればわかるよ」

 俺も自分のデバイスを展開させて戦闘態勢をとる。少しブルーノたちと距離を取り後方からのスタートに。相手の武器は拳に装着するタイプの物、近接攻撃に超特化しているものだ。けれど俺の鎌は近距離、いや、どちらかと言えば中距離で本領を発揮するタイプだ。だから相手の間合いに入らずにかつこちらに有利な距離を保てば勝てるはずだ。まぁこれはあくまでも脳内の戦闘イメージ、本番の戦闘はどう転ぶかはわからないが、このセオリーを守っていれば勝つ確率はグーンと上がる。

「それでは…戦闘開始!」


 ランスロットのその掛け声とともに戦闘は始まった。

「まずは一撃、食らわせてやらないとな」

 タっとステップを踏み少し前進、そしてそのステップで踏み出した足が地上に着く前に体を回して全身の力を使い鎌を横薙ぎに。リズミカルかつスピード的に、滑らかにかつ大胆に、それが俺の戦闘のモットーだ。この一撃も滑らかでスピード的で、しかし威力は絶大なものに、なるはずだった。俺のこの攻撃は初手のステップの時点で崩されることになってしまったのだ。

「なっ!?は、早い…!」

 まるで人間とは思えないほどの爆発的な脚力で前方に跳躍したブルーノが、今俺の目の前にいた。そしてそれに気が付いたころには、俺の鳩尾には本日3度目の打撃が繰り出されることになった。しかしこの3撃目は以前の2発と比べると容赦もなければ愛もない。ただただ相手を屠るだけに鍛えぬいた拳の一撃に俺は後方に吹き飛んだ。しかし俺も負けてはいられない。吹き飛ぶ力を全身で受け流し、さらにその力を利用してまたステップを踏んだ。そのまま前進する。体で風を切り相手の元まで進みそこで鎌を横に薙いだ。

「よっと」

 しかしそれは簡単に避けられてしまう。けれどそれは、俺の予想通りの答えだ。横に薙いだ鎌を今度は逆向きに薙いだ。先端に二つの刃が付いた両鎌ならではの攻撃方法だ。これはあまり初手では使いたくなかったが、すばしっこい相手を消耗させて動きを鈍らせるための仕方ない必要経費だ。ブルーノもまさか逆向きに薙いでくるとは思っていなかったのか焦っている。これならば、と思ったがその攻撃もあっけなくかわされて刃は何もない空を切り裂いた。

「何!?」

「ふぅ…危ない危ない…やりますねぇ」

 本当なら避けられなかったはずだ。どうなっているか確認するためにブルーノを睨む。と、その足から何かジェット噴射のような青い炎が出ていた。

「まさか…ジェットシューズか?」

「あたりだよ。ガキのおもちゃでもこんな使い方ができるんだぜ?」

 ジェットシューズとは子供の中で大流行したおもちゃだ。小さなジェット噴射装置をつけて少しだが宙に浮けるというのとジェットを利用して速く走れるというのが売りのおもちゃだった。そんなものこの年齢でつけている奴がいるとは誰も考えやしないだろう。

「しかもお前、それ改造してるのかよ…」

「まぁね。よく見破ったな」

 感心したように言う彼だが見ればすぐにわかることだった。

「初手のあの速度もその靴のおかげってわけだな?」

「正解だ。いやぁ…なかなかの観察眼だね。やっぱりやりますねぇ」

 あまりにも舐め腐ったその態度に俺は一つ舌打ちをして返した。しかし仕組みが分かってしまえば簡単だ。あの靴の弱点をつけばいいのだ。幸いあれはジェット噴射にだけ重点を置いたものだから内蔵されたバッテリーはしょぼいものだ。本製品は確か3分も持たなかったはずだ。けれど相手はジェットを改造するほどの機械工だ、ならばバッテリーを交換してくるだろうと考えられるが、しかしそれでも多くて10分くらいだろう。それにバッテリーの場所さえ見つけてしまえばあれは金属の重りが付いたただの靴に成り果ててしまうのだ。まだ勝機はある。

 ぐっと鎌を握りなおして間合いを測る。この戦い、まだ始まったばかりだが相当にワクワクする。これが、命さえも奪ってしまう戦いの緊張感なのか…。もしここに入学したらこんな戦いをずっとできるのだろうか?そう考えるだけで口元にニヤリとした笑みが浮かんだ。ただ楽しいだけでなく、自身の力の向上につながるこの戦いを、俺は永遠に繰り返されることを望んだ。


「あなたはどんな拷問をされるのが好き?ハサミで切られるの?それともお薬?アイアンメイデンなんてのもなかなかにいいと思わない?」

「拷問…?う~ん…文、痛いのは嫌い!」

「大丈夫…痛くなんてないよ…だって私が傷つけるのは、体じゃなくて心だから」

 不敵な笑みを浮かべた絵里は背負っているファンシーな棺桶に手を触れた。するとその蓋がゆっくりと横にずれる。少し開かれた棺桶の中からおどろおどろしい闇が漏れ出した。

 それは比喩でも何でもない、正真正銘の闇だ。真っ黒で負のオーラを纏っているような瘴気が、彼女の背から漏れだしていた。その異常なまでの黒に、文は寒気と背に気持ちの悪い汗が伝うのを感じていた。

「さぁ…私のもとに来て…」

 絵里の声に応えるように溢れかえった闇が彼女の手のうちに集まっていき、一つの物質を作り上げていく。闇が完全にその形を作り終えるとともに自然と棺桶の蓋も閉まる。あとに残された闇は彼女の手の内で異様なほど巨大で歪な姿をしたハサミとなっていた。

 彼女の背ほどもある大きさの禍々しいまでに鋭いそのハサミを絵里は軽々と持ち上げて構える。両手で刃をチョキチョキと動かしていつも通りの感触が手に伝わるのを感じると彼女の中のスイッチが入った。

「あなたの悲鳴、聞かせてもらうわ」

 ゆっくりとそう言った彼女はハサミを構えて文の懐へ飛び込んだ。そして大きな刃で挟み込むようにして彼女の胴体への攻撃、しかしそれは彼女の両手に握られたトンファーによって防がれてしまった。カンっ!という鈍い音が戦場に響く。しかしそれで終わる絵里ではない。後方に下がりながらトンファーに防がれた刃を閉じていく。そして完全に刃が閉じ切るとそのまま力任せに彼女の体へ突き刺した。殺意を帯びた黒い光を放つ鋭い切っ先が文の胸元を狙う。が、文は手の内の得物でそれを防ぐ。けれど完全にその攻撃を防御することはできず、刃の切っ先を逸らすだけに終わった。

 ずしゅり―、と肩に突き刺さる刃、文はぎゅっと奥歯を噛み迫りくるだろう痛みに備えたが、彼女の体に痛みは走らなかった。

 しかし彼女には確実にダメージが入っていた。肉体的ではなく、精神的な。

 脳内にノイズのように声が走る、バケモノ、と―

 いつか聞いたその声が、その時に感じた恐怖の心が、文の心の中に蘇ってくる。自分自身がバケモノと呼ばれ、忌み嫌われ、苛まれていた時に感じたすべて、音も、映像も、ましてや匂いすらも蘇ってきたのだ。

「文はバケモノじゃない!」

 彼女は迫りくるノイズを振り払うように声を荒げた。それは自身の心の恐怖を吹き飛ばそうとしているようにも思えた。それが功を成したのか脳内のノイズは完全に消え去っていた。

「何をしたの…絵里ちゃん…」

 突然のフラッシュバックのようなノイズ、それが始まったのは絵里の攻撃を受けた時からだ。文は確信めいた口調で、彼女にそう迫った。

 尋ねたところで答えてくれないだろうと考えていた文だが、彼女の予想とは裏腹に絵里は自身の秘密を話し始めた。

「これが私の力…再来する恐怖(リピーテッドフィアー)。この闇でできたモノで傷つけられるのは、身体じゃなくて心、相手の奥底に眠った恐怖心をむりやり呼び起こす能力…その証拠に文が今感じたそれは、確かに怖かった時の記憶でしょ?」

 文にとってそれは怖かったで片付けられるものではなかったが、恐ろしい彼女の能力に力なくうなずくしかできなかった。

 けれど弱気を見せたのは一瞬、次に顔をあげた彼女はキッと絵里を睨んでいた。

「文はもう…バケモノじゃない!だって文は、自分のバケモノを完全に従えたんだから!」

 鬼気迫るその声とともに、彼女の纏っている雰囲気が、いや、姿が変わった。頭に犬型の獣の耳、お尻からも犬系統のしっぽが、口の端からちらりと見える鋭い犬歯、極めつけはその瞳だ、金色に光るそれは鋭くとがりまるで獲物を見つけた肉食獣そのものだった。絵里には今の文が、巨大なオオカミのように思えた。

「人狼…いえ、獣化の能力…」

 獣の本性丸出しで殺意を隠そうともせずに文が飛び込んできた。乱暴に振るわれるトンファーをハサミを横に向けて防いでいくが一撃一撃が重く腕が痺れそうになる。

「ま、これぐらいやってくれなくちゃ張り合いがないってものよ!」

 絵里はいったん後ろに下がり体勢を立て直す。少し不利に見えるこの状況で、彼女の口角は確かに不適に釣り上がっていた。


(あっちはあっちで盛り上がってるな)

 ちらりと横目で絵里たちの戦闘を見て俺はそう感じた。まぁ絵里なら並大抵の相手には負けないという絶対の自信があるが、それでもやはり妹の戦っている姿がどうにも気になってしまうのは兄としての性だ。しかしそれが俺にできた最大の隙だった。

「おら!よそ見してる暇はないぞ!」

「ぐっ…!」

 気づけば俺の目の前にブルーノが迫っていた。足をぐっと踏み込んで勢いをつけて飛び込んでくる拳、それは素人目にみても確実にこの一撃で相手を屠る威力を持っているとわかった。まるで巨大な弾丸が飛び込んでくる錯覚を覚えるその拳を、俺は限界ギリギリのタイミングで避けた。身体全体をばねのようにして左にステップを踏む、が完全に避けきれずに自身の服が拳に巻き込まれてびりりと少し破れてしまった。破れた布が拳の一撃でさらにバラバラの小さな布きれの集まりになってしまう。この一撃をもし自分の体で喰らっていたらと想像するだけでぞっとしてしまう。

 幸運にも避けきれた俺は次の攻撃へとつないでいく。相手は思いっきり地面に足を踏み込んでいる。そのため容易に避けることは不可能だろう。そう考えて鎌を振るったが、何かに弾かれてしまった。キンっ!と鋭くも鈍い音をたてて跳ね返すそれに、俺は既視感があった。霧華と戦った時の氷塊の盾、あれと似たようなものを感じたのだ。どうやら俺の既視感は当たっていたらしく、鎌が触れたところに人の顔ぐらいの大きさの円形の、まるで魔法陣みたいな光の盾が姿を現していた。が、俺がその姿を確認したのはほんの一瞬、攻撃が徒労に終わったのを見届けたそれはすぐに崩れて空気と一体化してしまった。

「また盾かよ…俺ってホントついてないな…」

「俺の守護盾(ガーディアン)は普通の盾じゃないんだぜ?戦車の主砲だって受け止めれるんだからな」

「まじかよ…」

 もしその話が本当ならば破るなんてことはできそうにもない。なにせこの盾は一発攻撃を入れれば消えてしまうのだ、霧華の永続的に存在する氷塊とは明らかに違っている。ならばその弱点は何か、それは、盾が張られる前に攻撃を入れることだ。フェイント攻撃を仕掛ければ、勝てる…!

 勝ちを確信した俺はさっそく盾の攻略を。まずは一撃、盾に防がれるのは予想通りだ。続けざまに二発、三発と攻撃速度を上げて喰らわせていく、が盾はどんな速さにも対応しているようで防がれてしまう。

「どうした?まさか勝てないと思って自棄になったのか?」

「そう見えるならご都合主義な腐った目を持ってるな。次の一撃で…俺はお前のガーディアンを破る!」

 そう宣言して俺は思いっきり飛び上がり落下の勢いをつけて鎌を振り下ろした。もちろんそれは光の盾に防がれてしまう。が、光の盾が張られた一瞬後、俺は鎌を回転させて柄の部分を先端に、盾の合間を縫ってブルーノの鳩尾へと一発かました。その盾のもう一つの弱点、それは接地面が小さいことだ。体全体を覆う盾だったらこのフェイント作戦は通用しなかっただろう。

「フンっ…フェイントか…小賢しい真似をするものだな。俺が自分の能力の弱点をわかってないとでも思ったのか?」

「防がれた…!?なんで…!?俺のフェイントは完璧だったはず…!」

「あぁ、確かに完璧だった。俺以外だとな。お前はさっき俺の目が腐ってるとか言ってたが、残念ながら俺は一般の人間より目はいい方でね。全部見えるんだよ」

 そう言って自分の目元をつんつんと指で小突くブルーノ。どうやら彼は動体視力がいいようで、俺のフェイントも見切られてしまったようだ。ならば、どうすればいい…?俺に残された勝ち目は…

「そろそろさ、お前の異能も見せてくれよ。この戦いの最中ずっとただの攻撃ばかりでさ…正直飽きた。編入の声がかかるんだからすげぇ異能を持ってるんだよな?」

 異能、か…。これはあまり人に見せたくなかったが、しょうがない。自身の能力は武闘会で上位に残るまでは見せないでおこうと思っていたが、この学園の生徒のレベルを甘く見すぎていたようだ。俺が今まで戦ってきた甘ちゃんたちとは、天と地ほどの差があったのだ。こうなれば方針を変更するしかない。

「わかった…俺の異能を…見せてやるぜ」

「ようやく本気を出してくれるってことか…いいよ来いよ!返り討ちにしてやるぜ!」


「ほらほら!さっきまでの威勢はどうしたの!?もしかして能力を発動した文にたじたじかな?」

「くっ…力が…強い…!腕が…持っていかれそう…!」

 さっきから獣化した文には防戦一方な絵里。あまりにも素早い攻撃と力任せで予想できない太刀筋からの一撃に防御も追いつかない。

(ちょっと危ないスイッチ入れちゃったかも…)

 自身の異能について心の中で文句を言う。たまにいるのだ、こうやって恐怖を見せるとスイッチが入るのが…。そうなるとたいてい手が付けられなくなって、普段ならお兄ちゃんがどうにかしてくれるのだが、今は絵里一人だ。

(ずっとお兄ちゃんに頼りっぱなしもダメだよね…私も一人でできるってこと…証明しなくちゃ!)

 兄のことを思うと、絵里の心の中には根拠のない自信がわいてくる。お兄ちゃんがほめてくれる、そう考えるだけで絵里の奥底に眠る力がわいてくるようなそんな錯覚に陥っている。自分の全てであるお兄ちゃんが、絵里の力の源なのだ。過去に暗闇から救ってくれた優しくて大事なお兄ちゃんを思うだけで、自然と力が出るのだ。そして今も、兄のことを思うだけでこんなにも胸の奥からぽかぽかとした力があふれてくる。

「文…ごめんね、私は、お兄ちゃんのためにも勝つよ…だから、ちょっと、ううん、結構怖い目に遭ってもらうけど…恨みっこなしだよ!」

「当たり前!勝負ごとに恨みも何も関係ない!だから…文が勝っても絵里ちゃんは文句言わないでね!」

「ふふ…それは保証できないかも…だって…最後に勝つのはこの私なんだから!」

 絵里はハサミを構えて文に突撃していく。ハサミの刃を開いて挟み込む形だ。しかしそれは華麗に避けられる、が絵里はそのままハサミを開いたまま勢いよく放り投げた。それはブーメランのように回転して文を襲う。けれどそれもやはりジャンプして避けられた。だがそれすらも予想していた絵里は、自身も空中に飛び上がりチャンスをうかがっていたのだ、漆黒の新たな得物を使うチャンスを。

「さぁいくよ…!ドライブカッター!」

 何も得物を持っていない絵里の手に、また闇が渦巻いていく。その闇はあのハサミが分解されて出てきたものだ。ハサミは一度ドロドロに溶けて、やがて別の形を作り上げる、まるで蝶がサナギの殻の中で成虫になるように。次に姿を現した得物、それは漆黒のフォルムはそのままに、今度は明らかに文でも見たことのあるものだった。刃についた無数の小さな突起、轟音をあげて唸るそれは、どこからどう見てもチェーンソーだ。

 絵里はそれを文の頭上から思いっきり振り下ろした。轟音をあげながら高速回転する刃が文を襲う。とっさにトンファーで防御するも回転する刃の前にそれは無力だった。ギャリギャリと嫌な音をたてながらトンファーに刃が食い込んでいく。

「ちっ…」

 文は小さく舌打ちをして上方に蹴りを入れた。どれだけおかしな体勢だろうと強化された文の蹴りは相当な力の物で、肉薄する絵里を吹き飛ばすには十分すぎた。けれど文はそれが失敗だったと、すぐに知ることになる。

「切断しろ、ギロチンブレイド!」

 絵里の手にはすでにチェーンソーはなく、代わりにあったのは鋭い刃だった。その姿は本当に刃だけ、柄も何もない、ただの刃だけ。横に広いそれが空中から落ちてくる様はまさにギロチンそのものだった。避けようと文は体を横にずらすが絵里もそれに喰らいついてくる。空中では避けられないと感じた文は着地してすぐに横に転がった。けれどそれでも避けることはできずに、足にギロチンの一撃が走った。

 バケモノ―

 また、頭の中にノイズ。それを振り払うように絵里に攻撃を加えようと近づいたが、その時には明らかに戦闘は終わっていた。絵里の手の内に握られていたのはムチだった。しなるそれを持ちニヤリと下卑た笑みを浮かべた彼女は、文にトドメの攻撃を喰らわせた。まるでいたずらをした子供をお仕置きするように何度も何度もムチを彼女の体に打ち付けた。

 バケモノ…くたばれ…来るな…消えろ…死ね…!

「うわぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!」

 絶叫にも似た大きな悲鳴とともに、文はこくりと首を落としてしまった。あまりの恐怖に、気を失ってしまったのだ。相手が戦えなくなったその瞬間、絵里の勝ちは揺るがぬものとなった。しかし彼女は勝ちを喜ぶことはなかった。彼女の頭を占めるのは、兄に加勢するということだけ。お兄ちゃんの助けになるということだけだった。

「お兄ちゃん!今援護するからね!」


「さぁ…キミの本当の力を見せてもらおうか!」

「あぁ…俺の本当の力を…」

 俺は武器を下ろして無防備に構える。

「何…!?ノーガード…?舐めてるのかお前?」

「いいや、舐めてなんかないさ…来いよ、俺の全力をもって叩き潰してやるよ」

「ふっ…面白い…ならお望みどおり…叩き潰してやんよ!」

 拳を構えたブルーノが飛び込んでくる。まるで機関車かと思うほどの速度の突進にひるむことなく、俺は世界を覆う邪魔なレンズを外した。何も覆うものがないクリーンな視界を、俺は切り捨てた。視界が唐突に色を失いブラックアウトする。何もかもをシャットアウトしていく、聴覚も、嗅覚も、すべてだ。今俺は世界から完全に隔離されている。自身がまるで虚無の中に立っているような不思議な感覚だ。この心地の良い虚無の中、俺は左眼にかかった髪をかき上げる。そしてその瞳で、世界の先を見た―。

 その目に移ったのは、自分自身の姿。ブルーノの攻撃にカウンターを決めようと胴体に鎌を振り下ろしている自分の姿だ。しかしそれもブルーノの盾にふさがれて不発に終わる。それだけではなく防がれてひるんだ一瞬の隙に体に重たい一撃を喰らっていた。体がエビのようにくの字に折れ曲がって飛ばされる俺を最後にその映像は途切れた。

(これじゃだめだな…今度はフェイントをかけてみるか…)

 脳内でイメージするとまたさっきの映像が再生される。今度の俺の行動はフェイントだ。だがそれも防がれて、結局結果は変わらなかった。

(相手が持っているのは攻撃を完全に防ぐ盾とあり得ないほどの動体視力、そしてジェットシューズ…守りは完璧っていうところか…だがそれも自分のわかっている範囲だ…)

 俺は脳内で様々な行動パターンをたててその映像を覗く。そして最適な解を、見つけ出した。それは完璧な、答えだった。霧華と戦った時のような先に起こる不確定な事象に左右される答えではなく、まるで正解が元から書かれた問題に答えるような、そんな確信めいた答えを、俺は見つけ出した。

 答えを導き出した俺の視界は上映を終了し普段の世界の情景を映し出した。だんだんと聴覚も、嗅覚も戻る。その感覚は映画館で上映が終わり館内の電灯が明るくなってきだしたときのそれに似ていた。ジワリと戻る感覚と同時に左眼に痛みが走った。ずきずきとして、それでいて灼けるような、まるで目の中で虫が暴れまわっているような、そんな形容しがたい痛みが襲い掛かってくる。けれどそれにかまっている暇はない。今の俺には時間がないのだ。脳内で導き出した回答を書く時間が―

 目の前に迫ってきているブルーノは俺が視覚をブラックアウトする直前のそれとほぼ変わらなかった。距離も何もかも、あの時と同じ。それもそのはず、俺が視界をアウトしてまた戻してきた時間、それは1秒にも満たないからだ。

「これで終わりだ…!最後の一発くれてやるよオラ!」

 ブルーノの拳が突き出される。が、それもさっきの映像で見たのと同じ軌道だ、慌てることはない。それにこの拳は脳内の俺が必ず避けていたものだ、避けきるのは簡単なことだ。映像通りに拳を避けて、さらに攻撃を加えて、フェイントをかける。けれどそれもやはり脳内映像と同じで防がれてしまう。だけど、それだけではなかった、俺には、完璧な回答が見えたのだから。

 にやりと自然と口角が上がるのを感じた。完璧に勝ちを確信したその瞬間に、笑みが漏れたのだ。鎌での攻撃、柄でのフェイント、しかしそのフェイントでさえ、囮だ。俺の本命は、一発目の切り裂きを成功させることにある。ブルーノは自身の盾に絶対の自信を持っている、躱せる攻撃でさえ、わざわざその盾で受け止めているのだ。だから俺は、そんなブルーノの慢心をついたのだ。柄のフェイントを確認したブルーノは盾を一度消して、また盾を召還する。そのタイムラグの間に、俺はまた鎌への一撃に力を加えた。まさかフェイントのフェイントが来るとは思っていなかった彼は盾を再構築するのに手間取り、俺の凶刃に駆られた。

「チェックメイトだ」

彼の首元に、まるで死神がそうするように鎌をかけて俺は勝利宣告をした。

「お兄ちゃん!今援護するからね!」

「おせーよ」

 愛しの妹の声が聞こえたのと同時に、ランスロットの試合終了を告げる宣言が観客のいない競技場に響き渡った。それは同時に、俺たち兄妹の入学を決定する一声だった。


「やぁやぁおめでとうキミたち!そして改めまして、ようこそ我が…ふわぁ…クロノスシンデレラ…むにゃむにゃ…養成学園へ…」

 相変わらず眠そうな会長の声を受けて俺たちの正式な入学が決まった。

「ふわぁ…ほんとこの学校の名前どうにかならないの?…長くて言いづらいよ…」

「はいはい、わかりましたから会長は少し黙っていてくださいまし」

 コホン、と場の緩んだ空気を正すために神楽耶が咳払いをした。

「さて…これからあなた達にはここでシンデレラを目指すために日々勉学や戦闘に勤しんでもらいますわ」

「私シンデレラに興味なんて…」

 興味なんてないと言おうとした絵里の頬をちょっとつねった。あまり余計なことを言って話の腰を折るのもどうかと思うので俺は目で続けてと彼女に促した。

「絵里はシンデレラに、慶次は騎士になるための訓練を積んでもらいますの…ですが、その第一歩としてキミたちにはパートナーを見つけてもらわなければいけませんわ。絵里は、まぁいなくても大丈夫なのですけれど、慶次、あなたはそうもいきませんの。暫定騎士として卒業まで女性に仕えなければ騎士としての資格を得ることはできませんのよ?」

 神楽耶は深刻そうにそう話したが、俺にはもうとっくに仕えるべき相手なんて決まっていた。彼女以外、仕えるべき相手なんていない。俺は隣にいる、絵里の方を見た。彼女もまたこちらを見ている。

「俺の主は、絵里だ」

「私の騎士は、お兄ちゃんよ」

 ほぼ同タイミングで、俺たちは宣言した。すべてを委ねる自身の相棒を。俺が、生涯かけて守るべき彼女の名を。

「ほんとに…いいんですの?」

「あぁ、もちろん」

 また同じタイミングで頷く。こんなに息の合っているペアなんて他にはいないだろう。

「別に兄妹で組んじゃいけないっていう縛りはないんだろ?」

「えぇ…ありませんわ…ただ、過去にもあまり前例はありませんの…」

「まぁいいじゃないか、美咲兄妹がああ言ってるし…ボクたちが口出しすることじゃないんじゃないか?」

「会長…」

 会長の寛大な心遣いに俺は頭を下げた。こういう人に気を配れるところが会長としての才なのだろうな。

「それじゃランスロット、美咲兄妹をクラスに連れて行ってあげて。必要な書類は追って生徒会の方から出すから適当に目を通してサインしておいて…ふわぁ…それじゃボクは…お昼寝…」

 会長は自身の机の引き出しから見るからにフカフカで寝心地のよさそうな枕を取り出してもう昼寝の準備万端だ。その姿に呆れ気味のランスロットの後を追って、俺は新しいクラスへと向かった、これからの新しい学園生活に胸を躍らせながら―。


「あぁー!あんたは!ちょっと変態!なんであんたが私のクラスなのよ!それに変態妹まで!どういうことか説明してランスロット!」

「いや、説明と言っても…この二人が僕たちのクラスに編入するっていうことで…これ以上のうまい説明は思いつかないな…」

 新しいクラス、高等部2年3組の扉を開けた瞬間、今朝も聞いた女の子の声が響き渡った。しかもいきなり変態と呼ばれたことでクラスの視線が少し冷たいものに変わってしまったし…しかも担任のなよ竹朱理先生もにこにこと笑って我関せずの態度を貫いてるし…

(もしかして…俺、このまま変態扱いされて…あぁ…グッバイバラ色の学園生活…)

「うわぁぁぁん!なんでこの二人と一緒なのよぉ!もう意味わかんないよぉ!」

 彼女の悲鳴が教室内にこだました。それは俺たちの恋が始まる、奇妙な合図だったように思えた…と、ラノベならこう書かれるだろうが決して俺たちの間に恋愛は生まれないだろう。あぁ、断じて言える、霧華とは恋愛は無理だ!なにせいきなり変態呼ばわりされてしかも絵里までも霧華にズバズバと泣かせるまでの物言いをして、好感度はマイナスからのスタートだ。そんな彼女の好感度をプラスにもっていき、さらにマックスまで高めようとするならばどれだけの時間がかかるだろうか…。

「お兄ちゃん?今、浮気の算段たてなかった?もしも恋するなら、とかそう思った時点で…分かってるよね?」

「は、はい…」

 しかも俺にはこの妹様がいる。あぁそうさ!俺は妹さえいれば満足なんだよ!

「おっ!慶次!まさか同じクラスなんてな!これって…運命?」

「ヤッホー絵里ちゃん!」

 そこにはさっき戦った二人もいた。

「あ、ちなみに…神楽耶さんもうちのクラスですからね」

 小声でそう言ったランスロット。どうやらこのクラスでは友達には困らなさそうだ。だんだんと高ぶっていく楽しげな学園生活の期待を胸に、俺たちは自己紹介を済ませた。


「なぁなぁ慶次!結局お前の能力って何だったんだよ?まったくわかんなかったんだけど…」

 初めての休み時間にやってきたのは先ほど退治したリイネ・ブルーノだった。まるで子供のように目を輝かせて俺の異能に興味津々のようだ。

「俺の力は…未来を見ることだ。ほんとは隠しておきたかったんだけど、特別だからな」

「すっげぇ!未来を見れるの!?うわぁ…羨ましい!」

 俺の能力、自身ではファイブアフタービジョンと呼んでいるが、はこの左眼で5秒先の未来を見ることができるのだ。いや、正確に言えば5秒後の未来を1秒間、つまり5~6秒の間に起こることを見ることができる。ただし使えば左眼に尋常じゃないほどの痛みが訪れるのでここぞというときに一度しか使えないが…。しかもこうして髪の毛やメガネで視界を遮っておかないと意図せず未来が見えてしまうし…。

「しかもね!お兄ちゃんは1秒間の未来を何度も脳内で見ることができるんだよ!」

「ちょ…絵里…それは内緒にしておこうと思ったのに…」

「あ、ごめんお兄ちゃん…けどいずれバレることじゃない?」

「まぁそうだけどさ…ってブルーノ…お前理解できてないな?」

 アホ面をさらしているブルーノのために俺は説明をする。

 俺の能力の欠点は一秒間しか未来を見れないということ。それは能力の限界が現実世界の一秒に起因するからだ。だから俺は現実世界の一秒を超越する技を編み出した。それが、長考だ。文字通り長く思考する、けれどそれは普通の長考とは違う。脳内の全ての神経を思考だけに使うのだ、視覚も、聴覚も、嗅覚も。そして思考速度を上げた脳内でシミュレーションするのだ、どう行動すれば最適な未来が得られるのかと。ちなみに俺の思考速度は常人の100倍、つまり通常の人間が1秒思考する間に俺の思考は100秒、つまり1分40秒の時間思考したことになるというわけだ。だから俺は未来が見える一秒間が、1分40秒に感じることができその間に未来を調節できるというわけだ。

「ま、これができるようになったのは最近でな。あ、ちなみに言っておくが異能とかでも何でもないぞ。だからお前も頑張ればできるって」

「俺にはそんなこと無理だ。しかも俺の中で一番大事な視覚を殺すってなるとやっぱりためらわれるな…」

「確かにお前の動体視力は異常なほどだったもんなぁ…」

 と、適当に話しているとふと、ブルーノの目つきが変わった。どう変わったとはあまり形容できないが、どこか野生的なものになったとでもいうべきか。

「なぁ…慶次ってさ…案外体格いいよな」

「!?」

 普通の言葉だというのに、俺の背に寒気に似たなにかが駆け抜けた。まるで巨大な虫が背中で這ったと思ってしまうぐらいの凄まじい寒気だ。

「ほっそりしてると思ってたけど…意外と筋肉質で…余分なお肉がついてないなと思ったけど…ちょっとだけお尻にいい感じに無駄なお肉がついてて…なるほどなるほど…」

 なんだこのさっきから全身に襲い掛かってくる寒気は!?それにブルーノの俺を見る瞳が完全に変わってしまっていた。それは獲物を品定めするときの獣の目だ。今から俺は、食べられてしまうというのか!?

「ちょっと…触らせてくれないか…いや…頼む!触らせてくれ!」

「ま、待て待てやめろやめろやめろ!絵里も見てないでこいつに何か言ってやれ!」

「お兄ちゃん…ごめん…私…そっち系の趣味の人は得意じゃなくて…助けられないかも…でも…キズモノにされたお兄ちゃんも…なかなかにそそるかも…」

 何とんでもないこと言っちゃってるんですかうちの妹様は!?兄の貞操、いや、処女の危機だというのにそそるってどういうことですか!?

「あぁ!誰か助けてー!掘られる!掘られるー!」

「大丈夫…観衆の前ではそんなことしないって…そういうことは密室で二人きりの時に…フフフ…」

「頼むって!なんでもするから!」

「ん?今何でもするって言った?」

 あぁ…これはダメだ…。ブルーノは、あっち系の、いわゆる、男色家という部類だったようだ。そして俺は今、そのターゲットにされているようでして…。

「はぁ…まったく何してるのよあんたたち…変態行為なら別のところでやりなさいよね」

「そうですわね。学園はそういういかがわしいことをする場ではないのですからわきまえなさいな」

「霧華に…神楽耶も!ありがとう助かった!」

「ちょっ!?いきなり呼び捨て!?」

「あらあら…見かけによらず大胆ね、気に入っちゃったわ」

 地獄にたらされた蜘蛛の糸のような二人に、とっさにがっついてしまったのが仇となったようだ。二人は頬を少し赤に染めて恥ずかしそうにしている。

「あ、ごめん…いや、だったか?クラスメイトになるんだし仲を深めるにはどうすればいいかなって俺なりに考えた結果なんだけど…」

「うぅ…そんなの言われたら…断れるわけないじゃん…」

 感心したようにうなずいた神楽耶とは別に、ぶつぶつと小声でつぶやき俯いてしまった霧華。しかもまた周りの温度が下がってきてるし。

「霧華、能力が漏れてますわよ?」

「え!?あ、ごめん!私ってばまた…」

「ふふ…慶次に呼び捨てにされて…興奮しちゃいましたの?」

 霧華の耳元で楽しそうに何かを呟いた神楽耶。その言葉は俺には聞こえなかったが見る見る間に彼女の顔は真っ赤になるのが分かった。

「ちょっと!私は興奮なんてしてない!」

「興奮はしてないけど…発情はしてるね。あかーく染まった顔で、わかりやすい…やっぱり淫乱メスブタだったんだ」

「誰が淫乱メスブタよ!このまな板!寸胴!」

「ぐぬぬ…!」

 一難去ってまた一難、俺の新しい生活はどうやら楽しいものになりそうな予感だった。ただ一つ、俺の貞操兼処女の危機を除いては…。


「ふぅ…やっと行ったか…」

 ランスロットが美咲兄妹をクラスに送り届けるのを見送ると、生徒会長イリスは息を吐いた。

「…で、結局キミの目当ては見れたのかな、神楽耶?」

 イリスは懐から大きな丸縁のメガネを取り出してそれをかける。するとイリスの雰囲気は一変、眠たそうな姿はどこへやら、美少年にも似た端正な顔をきりりと引き締めた。ただキリっとしたからといってイリスの特徴的なタレ目ではそれを見分けることが難しい、が人間観察が得意な神楽耶にはその微々たる変化も見て取ることができた。

「えぇ…予想以上に…」

 神楽耶はニヤリと不敵な笑みを浮かべた。その顔はおとなしそうな和風美人の顔つきが完全に崩れ去り、まるで悪人さながらのようだ。

「ま、そりゃそうだろうね。あの戦いを食い入るように見てたんだから」

 イリスは先ほどの様子とは明らかに違っている。声音も、喋り方も、明らかに別人だ。しかしそれが真のイリスの本性だ。この学園の敢然たる支配者としてのイリスが、そこにいるのだ。

「いやぁ、キミのあの表情、まるで恋人の勇姿を見ているようだったよ。もしかして、濡れた?」

 ニヤニヤとしたいやらしい笑みを浮かべるイリスのセクハラ発言に神楽耶は顔いっぱいに黒を浮かべて答えた。

「そういう会長こそ、前が大きく膨らんだんじゃありませんの?あの絵里という娘、なかなかに愛らしかったですし」

「ふふ、確かに愛らしかったけどボクの好みじゃないよ。…それにキミ…ボクは女だよ?なぜ前を大きく膨らませることができるんだい?」

「あら失礼。てっきりわたくし、会長は男の娘だと思ってましたから。校内でも噂になってますわよ?会長に暗がりに連れていかれて純潔を奪われたとかいう噂もありますわね…ま、なにせ見た目も声も思いっきり少年そのものなんですもの、男の娘だとしても驚きませんわ。それにもし会長が前を大きくしてしまいましたら通報しなければいけないところでしたしね」

 その言葉に頬を少しピクリと動かしただけのイリスだがビキビキと何かにひびが入ったような音を、確かに神楽耶は聞いた。イリスは表向きはニタニタとした笑みを浮かべてはいるが、それが明らかに貼り付けたものだということは、観察得意の神楽耶でなくても気づいただろう。

「ボクが男の娘だなんて…面白い冗談だ…そう思うだろ、ヤクザの娘さん?」

「!」

 ねっとりとした口調でそう言ったイリス、その言葉とともにゆっくりとデバイスの銃を神楽耶に向けていた。黒の銃身がきらりと光り神楽耶の怒りに満ちた顔を映していた。しかしただで銃口を向けられる神楽耶ではなかった。彼女は竹刀をイリスの喉元に突き立てていたのだ。イリスの言葉が終わるや否や彼女の傍にあった竹刀袋から取り出して突き立てたのだ、それも驚くべき速度で。きっと常人には突然神楽耶が竹刀を構えたように見えただろう。剣道部の神楽耶は常日頃から竹刀を持ち歩いているようにしているが、それを抜くのは練習のときか試合の時。今抜いていることこそ非常に珍しい。

「黙りなさい…それ以上言えば…殺すわよ…」

 肩をすくめるイリスに明らかな殺意を抱く神楽耶。その場に漂うびりびりとした沈黙。その場にいるだけで殺意に押しつぶされそうになるようなそれを打ち破ったのはイリスだった。

 やれやれといった風に全身の力を抜き懐に銃をしまう。それが合図だとでもいうように神楽耶も得物を下げた。場の空気も一瞬で緩まる。先ほどまでの緊張した殺意もそうだが、この歪なまでの緩和には恐ろしさすら感じられる。

「さて…本題だが…キミはどうしてあの二人に戦いをさせたんだ?こちらとしては試験なしでも編入を認めてもよかったんだが?」

 生徒会での根回しは大変だったんだぞとぼやきながらイリスは懐に手を入れる。次にそこから出てきたのはロリポップだった。まさに4次元ポケットのようなそこから出てきたロリポップの梱包を雑に破くと辺りに甘い香りが広がった。

「あの二人がなぜ、この学校に編入したのかを見るためですわ」

「ん?それはどういうことだい?やっぱりただの実力の確認のためだったと?」

 ロリポップを咥えて不思議そうに首をかしげるイリヤに、神楽耶は首を横に振ることで解を返した。

「わかりませんの?あの二人の力なら、もっと上の学校から声がかかってもおかしくないですわ…」

「確かにそうだね。未来予知に精神汚染…確かに強力だ、ほかの学校も喉から手が出るほど欲しいだろうね。ま、考えられるのは他のところよりもボクらの対応が良かったから、とかじゃないのかい?」

「いえ、違いますわ…あの二人は、この学園にしか推薦を受けていない…しかも、なぜ今になってですの?」

「う~ん…そうだね。あの強さならたとえ平民出身だからといってももっと前から声がかかっていてもおかしくない…たった1年2年で強くなったという線も考えにくいな」

 うんうんと唸るイリスの前に、神楽耶は2枚の紙を差し出した。

「あの二人の履歴書からまとめた資料ですわ…」

「うわぁ…名前と年齢、それ以外めちゃくちゃじゃないか。住所は二人おんなじにしているけど、ここって山奥だよね?よくこんないい加減な履歴書で通せたね。で、これはどうやって調べたのかな?やっぱり家の力かい?」

「…えぇ」

「ほんとキミは都合がいいね。普段は家のことを嫌っているのにいざとなれば家の力を利用して」

「それは自分でもわかってますわ…でも、恨んでいるからこそ必要な時には利用してやらないと…あちらもわたくしを利用しているんですから」

「ま、そういうものか…と、すまないね、話の腰を折ってしまったな。続けてくれ」

 イリスが少し頭を下げると神楽耶は深刻そうな表情でまた淡々と話し始めた。

「これは…何か裏があるのかもしれませんわ…あの二人を中心にした大きななにかが、起こる可能性もありますわね」

「あぁ、だからキミのクラスに入れてほしいと頼んだのか、監視目的のために」

 合点がいったという表情を浮かべたイリスだったがすぐにその顔はしかめ面になる。

「裏がある、ね…誰のどんな思惑か知らないけど…ボクの大好きな学校で好き勝手はさせないよ。生徒会長の威厳にかけてね」

 15歳ながらにしてこの学園のトップに立った秀才イリスは、怒り任せにロリポップを噛み砕く。バリボリという音が、不気味なほどの静寂を醸し出していた生徒会室に、やけに大きく響いた。


 学園での初めての一日が終わろうとしていた。まだ興奮で高鳴る俺の体に、オレンジの夕日が静かに降り注いでいる。

「お兄ちゃん、寮ってどんなところなのかな?」

「さぁな。行ってみてからのお楽しみだろう」

 現在俺たちはこれからの住処である寮へと向かっていた。家具は授業を受けている間に学園が雇ったという業者によって運ばれる手はずとなっていた。

「お、見えてきた…っておいおい…まさか…ここに…?冗談だろ…」

 俺は言葉を失ってしまった。それは寮がおんぼろ、というわけではなくその逆でとても豪華絢爛な作りだったからだ。まるで東京に立つおしゃれなマンションみたいだ、今朝まで住んでいた一軒家がとてもしょぼく感じるほどに…。

 俺たちに与えられた部屋もリッチだった。テレビでしか見たことのないホテルのスイートルームのような部屋に、いかにも平民臭いテーブルや本棚が置かれている。普段使い慣れたその家具たちもこの部屋にはやけにミスマッチにしか感じなかった。しかも用意された自室は以前の自室そのままの配置で家具が置かれていた。ただ一つを除いて…。

「あれ?ベッドがない…」

「お兄ちゃん!私の部屋もベッドがないよ!」

 そこからはベッドを探す大冒険だ。広い間取りの部屋を荒らしまわってやっとのことで見つけたのだが…。

「なんだよ…これ…バカなの?」

 またも言葉を失う結果となってしまった。たどり着いたのはピンクの部屋だった。壁も、天井も、床も、ましてやカーテンまでピンク。ピンクといっても派手なショッキングピンクというわけではなく少し薄い色のものだ。まるでエッチなことをするお店の一室みたいな雰囲気だ(まぁ俺は行ったことないけどさ)。その証拠にこの部屋にいるだけで本能が刺激されてムラムラとしてきてしまうのだ。そしてその部屋のちょうど中央にお求めのベッドはあったのだが…。それは俺たち兄妹が寝転んでも十分な広さを誇るダブルベッドで、しかもおあつらえ向きに高級そうなふかふかのモノであった。ふざけるなよと小声でぼやきながらベッドに近づくと、その上に一枚の紙が見つけられた。それは手紙で、差出人は、生徒会長のようだった。

「やぁやぁ、引っ越しご苦労様。これはとても仲がいいキミたち兄妹にボクからの編入祝いだ。部屋のムードも作ってやったし最高級のフカフカベッドならヤりすぎて疲れた腰もすぐに癒してくれるだろうし、何よりここは防音室だ、気兼ねなくしっぽり楽しんでくれ。あぁそれとヤるのは勝手だが避妊はしてくれよ?もし妊娠なんてしたらボクも責任が取れないし学園の地位も下がる。シンデレラ養成校で女学生妊娠!優秀な生徒の裏の顔は実の兄と毎夜ごとに淫行を繰り返す淫らなものだった!…って週刊誌に取り上げられたくはないだろう?ま、脅しはそこそこに、よい性活を。会長より。PS.避妊具は自分で用意してくれよ?」

 最悪の文面の手紙をびりびりに破り捨てる。が、どれだけ会長に向けて怒りを放ってもこの状況が変わるはずもなく…結局月明かりが街全体を照らすころ、俺たちは例のベッドに背中合わせで横になっていた。こんな状況では二人とも眠ることができず、ただ小さく呼吸する音だけが無音の部屋に嫌に大きく聞こえていた。

(おいおい…どうする、これ…)

 背に感じる妹の温もりとは逆に俺の背は冷や汗でべったりと濡れていた。絵里と一緒に寝るのは幼少期ぶりだが、その時から今に至るまでの空白の時間が、互いをどうしようもなく子供から大人へと成長させていた。身長も高くなり顔立ちもより愛らしくなった、胸とお尻の成長はノーコメントだが、それでも女性特有の丸みを帯びた柔らかな体つきになってきているのが、背中越しだが確かに感じられる。大人になりかけの絵里が、どうしようもなく俺の欲望を刺激する。兄妹ではだめだと頭ではわかっているが、体は正直でどうしようもない劣情が体内を駆け巡る。

(そ、そうだ…!なにか考え事をしよう!何か考えてたら自然と眠くなるはずだ!)

 そういえば、俺が絵里を意識し始めたのはいつからだろうか?もう俺は妹のことを、ただの妹と見れなくなってしまっている。どうしようもない兄だと思われるかもしれないが、仕方ないのだ。妹を、絵里を一生守るって決めた時に、世間一般でいう常識は崩れ去ったのかもしれない。あの宣言をした時の絵里の笑顔に、泣きそうで、けれど幸せそうに笑った彼女の顔に、俺はその時初めて女を感じた。今思い出すだけでも胸が締め付けられるほどにドキドキとするのだ。これは明らかに俺の初恋だ。そして今も、成長してからも余計に、俺は絵里のことを愛おしく思っている。だが不思議なことに絵里以外の女の子にも興味がわいてきているのも事実だった。特に霧華だ。今日出会ったばかりの彼女だが、どこか気になってしまうのだ。それが故意ではないと分かっているのだが、俺は彼女に興味がわいてきてしまっているのだ。どこか、俺と似た匂いを、感じるのだ。

(まさか俺ってやっぱり…M気質があるのかな?)

 妹に奴隷扱いされて、初対面に会った女の子にケンカ腰の罵倒を受けたというのに、不快に感じるどころかむしろ…気持ちいい。…って俺の性癖のことはどうでもいいんだよ。

 俺の本心はどちらなのだろうか?絵里か、霧華か、それとも別の誰かなのか…。あ、ブルーノは無しで。結局モヤがかかったようにかすんで見えない本心を探り出すことはできずに、気が付けば俺は眠りに落ちていた。


(嘘嘘!なんでお兄ちゃんと一緒に寝てるの!?うぅ…嬉しいような恥ずかしいような…でもこれはチャンスだよね!お兄ちゃんの気持ちを一気にゲットできるチャンス!…でも…お兄ちゃんにエッチな子って思われちゃったらどうしよ?嫌われちゃうかなぁ…あぁもう!どうすればいいのよ!)

 ベッドの中で悶々としていたのは慶次だけではなかった。絵里もまた、悶々として答えのない自問自答を繰り返していた。

(あ、でもお兄ちゃんってシスコンで変態だからエッチな妹って逆に好きかも…でもどこら辺までがエッチな子で済ませられるかな?下手したらビッチとか思われちゃう…寝てる間にしちゃうってのは…エッチな子?ビッチ?あ、起きてたら大丈夫か。お兄ちゃんを起こして…それでなんていうの!?まさかストレートに言うつもり?それともいつもの奴隷スタイル?)

 絵里の脳内では様々な誘惑方法が繰り返されていたが、どれも恥ずかしすぎて一人で頬を染める結果となってしまう。一度落ち着くために深呼吸をする。すると窓から入り込んだ涼しい風が一気に彼女の心をクールダウンさせてくれた。

(そういえば…お兄ちゃんと一緒に寝るのって久しぶりだな…いつからだろう、お兄ちゃんが一緒に寝てくれなくなったのは…。確かあの事件があった時だよね?)

 クールダウンした頭が過去の記憶を映し出した。忘れ去りたくてもべったりと脳内の奥底にまるで靴裏についたガムみたいにくっついているそれが頭の中にフィードバックしてきそうになるのを抑え込むように頭を振った。

(あの事件があったから、私とお兄ちゃんのこの関係があるんだよね…主と奴隷、ううん、今は騎士か。それに…私の好きって気持ちも…あの時お兄ちゃんに奪われちゃったんだよね…)

 絵里はあの時の頼もしくて優しくて、けれどどこか儚げな笑顔を浮かべていた兄に、恋に落ちたのだ。幼少期に兄を好きになる、ということはありえないことではないが、その心もいつかは忘れ去られるものだ。だけど絵里は、ずっとその心を持っている。今もずっと、心の奥底に隠し持っていて、いざとなれば兄の前にさらけ出す準備はできているのだ。けれど、どうにも彼女には勇気がなかったのだ。

(もしも、お兄ちゃんに嫌われたらどうしよう?確かにお兄ちゃんはどうしようもないシスコンだけど…それって私のことを妹としか見てないってことだよね…もしこの気持ちを伝えて…お兄ちゃんが気持ち悪いって思ったら…)

 冗談めかしに好きとは言えるのだが、やはり本気で好きと伝えるには勇気が、いや、それ以上の覚悟が必要だった。

(ううん…私、逃げてるんだ…お兄ちゃんに嫌われて…捨てられるのを、怖がってるんだ…)

 絵里はどうしようもなく兄に依存している自分を自覚していた。兄離れしなくてはと思っているが、兄がいなければ、自分の心は壊れてしまうと、自覚していたのだ。自分のことを救い上げてくれた兄の優しさに、彼女はずっと寄生しなければ生きてはいけないのだ。

「お兄ちゃん…私、どうしたら…」

「絵里…」

 思わず漏れ出たその声に兄が答えた。彼女はハッと口を閉ざして兄の方をちらりと見た。だけどそこにいたのは口の端からよだれを垂らしていかにもなアホ面をさらして眠っている兄の姿だった。

「ふぅ…お兄ちゃんってば変な寝顔…」

 ひとまず絵里は安堵の息を漏らしたあとふっと噴き出した。だらしない兄の口元を拭い兄に近づく。あの一瞬で出た冷や汗が服に張り付いて気持ち悪いなと感じながらも、彼女は眠ることにした。今日じゃなくてもいい、焦らなくてもいい、いつか、自身の気持ちを伝えるのだと決意しながら。彼女の手には、暖かな兄の手が握られていた。

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