第21話
マニュアル通りだかなんだか知らないけど、手慣れた感じで作業を進める看護師さんを、一歩引いたところから見守ることしかできない俺。
十五分かかったかかからなかったか。俺はもう時間の感覚がどこかにいってしまっていたので、よくわからなくなってしまっている。今は夕方なのか夜なのか、それさえもよくわからない。外の光がカーテンに遮られた今、時計のない部屋は初夏のどこにいるんだろう。
「ありがとうございます」
澄んだ声が耳に飛び込んできて、ここでようやく看護師さんの作業が終わったことを認識する。
「小早川さん、事務的なものがあるので、ちょっと」
「あ、はい」
姉さんは手招きされて部屋を出る。よって部屋には俺と幸の二人が図らずも残される。
こうなってしまってはかける言葉も見当たらない。酸素マスクさえとってしまえばそこにはいつもの幸の顔があって、それは今にも起きてきそうだった。
やっぱり、疑問の副詞は出てこない。脳のなにかがあの人たちによって破壊されたんだろう。もうどんな超人的な力も信じられるようになった。ある意味進化である。
無言の時間が続いた。どのくらい続いたかはやはりわからない。しばらくして姉さんが帰ってくるまで、本当に一言も話さなかった。
「帰るよ」
姉さんはそう一言だけ言うと、自分の荷物を肩にかけて部屋を後にした。
俺はその背中を追いかける。五年ぶりに再会した背中は、四年ぶりに再会した体に向けられていて。
どうしたものかな、俺はもう幸のことを振り返りもせずに、淡々とドアを閉めた。
川に隣接している病院なので、帰りにその河川敷に寄った。姉さんの提案だった。
「落ち着かないから川にでもいこっか」
その一言で俺と姉さんは川岸を歩く。汚いことで有名なこの川だが、実際に見るとそうでもない。
「…………あのさ、なんかごめんね。帰ってきてすぐに」
なんか喋らなきゃ、と思って絞り出したのがこれだった。
「謝らないで。私こそ焦って出てきちゃったから」
「いや、でも――」
「本当に悪いのは、あの会社よ」
サイクリングロードの上の石を軽く爪先で蹴飛ばす。その石は川の上で一回跳ねて沈んだ。
「姉さんは、あそこに囚われて、何か嫌なことされたの?」
「うーん、特にはされなかったかな」
「え、そうなの?」
「そうねー……」
顎に手を当てて考える姉さん。
「されなかったよ」
「そうなんだ……」
じゃあ幸の場合は本当にミスだったのかな。ミスにかこつけた殺人とかそういうのなら絶対に許さない覚悟でいたけど、事故なら多少は諦めがつかないでもない。
「幸ちゃんとはね、向こうで会ったよ。二年前にあそこを出るまで、幸ちゃんとは一応同じ部類にいたわけだし、召集されたのも五人とかだし、みんなで同じ部屋にいたときもあるからね」
「そうなの?」
「そうだよ。向こうは私が仁の姉だって気づいてた」
そうなのか、じゃあ幸は俺と再会したときから俺と姉さんの両方の居場所を知ってたってわけか。幸…………そうだったのか。
「ご飯も美味しかったし、勉強もそれなりにしたし、外に連れていってもらったりもしたし、彼氏もできたし」
「彼氏いたの⁉」
出て来いこの野郎どこの馬の骨だ。
「冗談。なんでそんなに顔赤くしてるのー? ねえねえ今どんな気持ち? ねえねえ」
「うるさい!」
「あっはは」
草木が風に揺れる。なんだか馬鹿馬鹿しくなって俺もちょっと吹き出す。ふたりして笑いあうなんていつぶりだろう。こんなこと昔は当たり前だったのに。
「…………ごめんね」
でも、そんな笑顔も消える。悲しそうな表情で、俺を見る。
「もういいよ」
俺はどうにかして姉さんを慰めたい。九州で一人放り出されて、どうやってここまで来たんだろう。ほんの数日の間にここまで帰って来た、それだけで、もう――
「だから、もう謝らないで」
自分では、気持ち悪いくらいに笑顔だったはずだ。幼なじみがたった今死んだなんて思えないほどに笑顔だったはずだ。
「ありがとう。でもね」
困ったように口元だけ笑うと、姉さんは口を開く。
「でも、知っちゃったなら――――仕方ないね」
「え…………?」
どう見ても純粋に悲しいだけのはずの表情が、いつのまにか歪んでいた。
「嫌、嫌…………!」
姉さんは首を左右に振る。さながら何かにとりつかれたように。頭の中の何かを振り払うように。
「ごめんね」
「だから謝らなくていいって――――!」
突如、右半身に力が加えられる。眩む視線。崩れる重心。こうなれば物理で習った力の法則通りに、より低いところに体は投げられる。
土手から川まで、高さはいくらあるだろうか。そんなこともどうでもよくなる。
小石散らばる地面に叩きつけられた身体に激痛が訪れる。
草を踏み分ける音はどこからか。狂った方向感覚から地面を探し当てると、自分に近寄る影を確認。それは、見慣れた顔。
「知りすぎるのは、良くないことなんだって」
涙目なのは俺か姉さんか。倒れた身体を両足で挟み込むように仁王立ちした姉さんは、俺の顔を見下ろす。
「どういうこと…………?」
「こんなこと、私だってしたくないよ!」
姉さんは、これまでに出したことのないはずの声量で叫ぶ。力任せに放たれたその言葉は、周りを無差別に突き刺す。
「でも、もう私は私じゃないから」
二百メートルほど先の橋にはいつも通り車が走っている。いつも通り。
「それって、どういう――」
言いかけたところで、顔に何かが零れてきた。その雫を人差し指で拭う。
「嫌だ…………」
いつの間にか、姉さんは泣いていた。抑えきれないものが堰を切って溢れだしてきたように、口に手を当てる。
「なんで…………なんで…………私だけ…………」
昔から変わらない、長い黒髪を揺らす。頬を伝うものは止めどなく流れて、足元の俺を打つ。
「姉さん…………」
大きく息を吸い込む。決壊した心から何もかも溢れだす。
「じゃあ、一緒に死のっか」
目尻に涙を浮かべた姉さんは、今日一番の笑顔でそう言った。今日一番の笑顔。百万ドルの笑顔。そこから飛び出したのは――死のっかの一言。
「ほら、もう私たち、あの会社から嫌がられてるの。知っちゃってるじゃん。だからね、私たちはここで死ななきゃいけないんだって。幸ちゃんの死亡後一時間以内に死なないと、自衛隊かなんかの人に殺されるらしいの。三十分たったから、そろそろ動かないと」
動く――それはつまり。
「じゃあ、そういうことだから」
さっきから、泣き顔と笑顔がぐちゃぐちゃに混ざって、もう何がなんだかわからなくなってしまっている姉さんが、ついに動いた。
目下に広がる川は、なだらかに流れる。時折降りてくるカモメが水面で何かをついばんで帰る。
ふと強大な黒い雰囲気を感じる。俺はそれに圧されて、痛む両足に力を入れて立ち上がる。
姉さんはそれを見ると、俺の両肩を両手でつかむ。目前に広がったのは、雄大に水平線に沈む夕日と、悲壮な顔つきで何かを呟く姉さんで。
重心が右に崩れる。もう何も見ることはしなかった。
――ごめんね。
聞こえてくる言葉に耳を傾けず、静かに俺は一秒後の未来に身を預ける。
ひとつの着水音。すぐにもうひとつの着水音。まだ冷たい川の水が、身体中を浸していく。
こんな世界、俺はどうして巻き込まれたんだろう。あの日の不運は、周りがこんなに崩壊して、自分の命までを奪うことになるほどの不運だったのか。ひとつの出来心で飛び込んだ奇妙な世界は、しかし俺の生命を奪ってしまった。
あの日、あの時。俺が少しの不運に耐えていれば、こんなことにはならなかったのに。
――――戻りたい。まだ普通の生活を送っていた、あの時に。
そう思った時、意識が途切れた。
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