第20話
病院というのは、国道を越えた先にあるバス停からバスで五分ほどのところにある。合わせて二十分くらい。
大きい病院だ。その辺のマンションくらい、下手すればそれよりも大きい建物が俺らを待っていた。
自動ドアの奥にはたくさんの人がいて、喫茶店やら受付やら様々な施設が配置されていたが、姉さんは迷いなくそのうちからエレベーターの方向に進むと、すぐやって来たエレベーターに九階に行けと指示する。
「ここ、来たことあったっけ」
「昔ね」
広いエレベーターであったが、二人で乗るとなると広すぎてスペースをもて余してしまう。四つ角の対角にお互いに立つ。
途中のどの階にも停まることなく、まっすぐ九階に着く。
「西病棟…………こっちか」
俺は姉さんのあとに続いて自動ドアの奥に入る。地図を三秒眺めた姉さんは、若干早足で歩く。
何歩歩いたか。姉さんは一部屋の個室の前で立ち止まると、そのドアを二回ノックする。返事が聞こえるか聞こえないかのところでドアを開けると、看護師さんが一人、ベッドの横で何やら作業をしていた。
「どちら様でしょう…………?」
怪訝そうな表情の看護師さんに、姉さんは笑顔を向ける。
「小早川です」
――小早川?
「小早川さんですか、わかりました」
看護師さんはなんのこともない、むしろ安心したような表情になって立ち上がる。
「現在、心拍数が安定期に入りました。一時とても厳しい状態だったのですが、現在は正常値に戻って、一時間がたとうとしています」
「そうですか、ありがとうございます」
滞りなく話を進める姉さんと看護師さん。看護師さんはニコッと笑うと、部屋をあとにした。
「だって」
「あ、うん」
ここで姉さんが振り返ってきた。緊張が一気に解けたような、そんな表情。
しかし、姉さんは、俺の顔をじっと見ると、
「あれ? どうかした?」
「ん? あ、いや……ちょっと」
「ちょっと、何?」
「気になることがあってさ」
「気になること?」
俺は小さく首を縦に振る。でも、これを言ったら何かが変わってしまいそうで。俺と姉さんの間の、何かが変わってしまいそうで。
部屋に三つの呼吸音が交錯する。外から機械音が飛び込んでくる。看護師さんが開けっぱなしのドアを閉めた。最後に閉めなかったのは俺だ。
「言ってごらん?」
しかし、その声が俺を突き動かした。鼓動が早まる。点滴の滴が、またひとつ体に注がれる。
「小早川って…………どういうこと?」
姉さんの目付きが変わった。周りをキョロキョロしているが、看護師さんはさっき出ていったので、ここには俺と幸しか残っていない。ていうかまだ幸の顔を見られていないのではやく見させていただきたいのですが。
「…………幸ちゃんをこんなにしたのはあの会社。私もそこの支配の犠牲者。私はあの会社について何一つよく思ってない。ただ衣食住をくれた。最低限のことはできた。完全に非人道的であったかと言われるとそうでもない。それがあの会社。しかも――」
姉さんは幸の顔のほうを振り返る。姉さんの後ろから、背伸びをしてようやくその顔を捉えた。数日前に出会ったときはまだ話もできたし、表情豊かだったが、今やその口元は酸素マスクに包まれ、不規則な呼吸のリズムを刻んでいるのみだ。
姉さんは顔をそちらに向けたまま、
「最期の面倒も、きっちり見てくれる」
「……姉さん?」
「結局、自分らでまいた種は自分らで回収するのがあの会社。だから完全に悪い訳じゃないのかもしれないね」
「そうなんだ……」
俺には見えない、見せない一面。客側の俺ではなく、運営サイドに回った姉さんには、別の運株式会社像があったようだ。
「小早川さんは病院を手配すると、家で意識を失った幸ちゃんを連れてきた。幸ちゃん、研究対象から外れたあとも偽名を使ってこの会社に関わってたんだってね」
「知られてたのかよ」
「あんたの名前から私にたどり着くぐらい、研究対象への情報には気を遣ってるんだと思う。犯罪紛いのことをしてるからね」
今永涼羽と田中幸。二枚の看板で世の中を生き抜いてきたこの少女。今はどちらの姿なんだろう。わからない。
「だからこそ、自分らのミスは自分らで回避する。そこで、なんだかんだこのまま戸籍の抹消までしてくれるらしいわ」
戸籍の抹消。それが合法かつ普通に終われば、幸の死はよくある例として扱われる。そうすれば事件性を匂わすことなく事態を収束できるってことか。
「もっとも、国家のプロジェクトだから、よほどのことがない限り大丈夫なんだろうけどね」
姉さんは俺の肩を押す。
「あんたも見てきなさい。大事な幼なじみでしょ」
姉さんは一歩引いて、俺にスペースを開けた。酸素マスク越しの彼女の顔は、この前会ったときと何ら変わりない。
「幸…………」
久々に見る。こんなまじまじとこいつの顔を見たことは無いが、茶髪のショートカットがよく似合っていた。
ベッドには柵が取り付けられていて、人工的なその境界はどこかわれわれに言いようのない拒絶を与える。越えてはいけない、なにか大事な一線のような。
「もうそろそろかな……」
姉さんが呟く。
「そろそろって?」
思わず聞き返してしまった。時計を見る姉さん。その視線に思わずつられて時計を見る。
「楽しかった?」
唐突に、姉さんはそう言った。視線は病床に臥している幸の方に向けられていて、その表情は複雑だった。悲しいのか、辛いのか。様々な感情が混じりあう。それが、人が死ぬということ。
「楽しかった……小学校の頃以来だけど、あの頃のことはたまに思いだすよ」
「そう……楽しかったんだ。よかったね」
「うん……」
九階の部屋からは国道を走る大量の車が見える。その奥から夕日が差してきて、部屋を照らす。
暖かい。
そんな光は、三人を照らす。俺も、姉さんも、そして――幸も。
どうして。そんな副詞は最近使わなくなった。あらゆる超常現象は存在するものだと思えてきた。右腕にくっついた青いリストバンドは俺を変えた。俺を取り巻く日常をかき乱した。
そして、今俺はここにいる。
幸はどう思ってるんだろう。何日か前までは意志を持っていた。会話もできた。そんな人が、それなのに、それなのに――まぶたのひとつも動かない。
柵に手を掛ける。白に包まれた幼なじみは、何を見ているのだろうか。
日差しは相変わらず部屋を駆け回る。
少しでいい、少しでいい。声を聞きたい。あの笑顔が見たい。それだけでいい。それだけで――
光が強くなる。雲が動いたようだ。
「……………………じん……………………くん?」
「幸?」
落としていた視線を上げる。姉さんもベッドに駆け寄る。
「俺だよ、幸!」
「幸ちゃん? 分かるの⁉」
突然のことに動転した俺と姉さんに、幸は少しだけ、ほんの少しだけ、まぶたを動かした。それは、差し込む夕方の日差しが眩しそうに。
そこから、幸は声を出さない。体も動かさなくなった。
それでも、今のは――
「――――たのし…………かっ…………」
その声が途切れるのと、看護師さんが飛び込んでくるのと、ほぼ同時だった。看護師さんは幸の顔を覗き込むと、神妙な面持ちで部屋を後にした。焦っている様子はなかった。
しばらくして白衣に身を包んだ医者が入ってきた。ライトだか、名前が他にあるんだか知らない、ドラマでしか見たことのないあの器具を左手に持って。
ドラマでしか見たことない動作をして、ドラマでしか聞いたことのない台詞を言った。気がついたら俺を除く三人が頭を下げていた。つられて俺も頭を下げる。
幼なじみは目を閉じたまま。それでも少し笑顔のように見える。
泣き崩れる姉さんの横で、俺は医者の言葉と向き合う。すべてを告げる、その言葉と。
――――ご臨終です。
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