第19話

「私と別れてからどんな話してたの?」

「ん?」

 家に帰ると、夏帆がまずそう言ってきた。純真無垢とはこの事で、黒い会社が作ってきたものとは思えないほど。

「これからのこと」

「これから?」

 間違ってはない。姉が生きているかもしれない、俺が死ぬかもしれない。立場が逆になってしまったけど、どっちもこれからの話。

「これからどうするの?」

「これからね…………それはこれから考える」

「なにそれ」

 ふふっ。微笑のこぼれる夏帆は床に寝っ転がる。

「ったく」

 どうしようもないその姿に、俺はただ飯を作ることしかできなかった。


 ――死んでもらいます。

 ――明日死んでもらいます。

 布団に入ったタイミングで思い出してしまった。今日は所々でそのセリフを思い出してしまっていたが、この時間帯に思い出してしまうとこの事しか考えられなくなってしまう。頭の中をエンドレスでぐるぐるして、それで気づいたら朝。こんなのはざらである。

 もういくつ寝るとお正月。今から半年もたてば子供が口ずさむこの歌。もう一回寝ると俺は殺されているのだろうか。

 いや、なんだこの驚くほどの落ち着いた感じは。自分が死ぬんだぞ。明日死ぬんだぞ。

 最近インパクトのあることが起きすぎているせいかな。それもある。変な会社に巻き込まれたり、幼馴染みにあったり、幼馴染みが死にそうだったり、俺が死んだり、姉さんが生きてたり。

 なんだろう。もしかして死ぬのに慣れちゃったのかな。死んでいくことに慣れちゃったのかな。はたまた今度も生き返れるとか思ってるのかな。

 わからない。

 でも、明日死ぬんだろう。まあ死ぬんだろう。それはもういい。でも、このしっくりとこない感じはなんなんだろう。

 わからない。

 わからないまま、気づいたら朝だった。

 命日が始まる。


 今日は月曜日。国民の八割に嫌われているであろうこの日は、実に普通に始まった。

 起きた時間は普段と一緒。朝ごはんも普段と一緒。いってきますも普段と一緒。

 ドアを開けるとこれ以上ない快晴が待ち受けていて、視界を明るく照らす。

 一回死んだ交差点も、一回死んだ工事現場も通りすぎる。この建物は完成に近づいていた。無事に。

 三分刻みのダイヤを忠実に守って電車が滑り込む。単語帳片手に切羽詰まった表情の学生、カバン片手に切羽詰まった表情の大人、彼女の右手片手に切羽詰まった表情の大学生……世の中切羽詰まりすぎだろ。最後のやつは爆発してしまえ。

 非常停止ボタンとかも押されずに、なんのイレギュラーもなく進んだ。ここまで不運がないと逆に不安になってしまうのが不運続きの常連の性。じゃあいったいどうなればいいんだよ。

 駅から学校に向かう途中、後ろを振り返ったところ見知った影を見かけたがすぐに顔を前に向けた。今はお前と話すテンションじゃない。

 しかし。

「なーに無視してんのよ!」

「なんだよ」

 結局見つかってしまった。西口、なんたる視力。

「わざわざこっち追いかけてこなくてもいいじゃねえかよ」

「えー、話せる人と少しでも歩きたくない?」

「ない」

「なによ、それだから友達少ないんじゃないの?」

 余計なお世話だろ。

「…………どうかした?」

 右から西口が覗きこんでくる。

「なんかさっきから元気ないよ? 思い詰めてるみたい。何かあった?」

 こいつのこの鋭さ、もっと他のところで発揮すればいいのに。こんなところじゃなくてさ。

「別に。お前には関係ねえし」

「ふーん」

 あれ、突っ込んでこないな。どうしたんだろう。こいつこういうの首突っ込んでくると思ってたんだけど。

「よくわかんないけど、相談なら乗るよ? 私、こう見えても相談のプロだから。今まで乗った相談は星の数だよ」

 根拠のない自信に歪む顔は、それでもどこかに頼りがいのありそうな雰囲気を醸し出している。

 こいつになら――いや、やめよう。一時の気の緩みで物事を進めてはいけない。この腕にくっついているリストバンドもそんなようなことで始まったことのひとつ。ノリで決めるのはよくない。

 アスファルトの黒は熱を吸収するせいですぐに暑くなってしまう。現にこのアスファルトも暑くてたまらないというか、具体的にはくたばれ猛暑。

「で、どうなの?」

「また今度頼むわ、そんときよろしくな」

「はいよ」

 また今度。


 寝なかった。

 何年ぶり何度目の寝なかった一日だろう。中一から授業は寝るものだと思っていたせいで、完全に起きていた日は数えるほどしかないはずだ。ひーふーみー……いや、三度もあったかな。

 特別天然記念物レベルの一日を過ごした俺は、とりあえず授業中に殺されることを回避した。回避っつーか、ほんとに死ぬのかよくわかんないほどに何も起きなかった。

 むしろこうなると不安が止まらない。一日も残り八時間。その間に俺は誰の目にも止まることなくひっそりと命を落とすのだろうか。幸みたいに明確に身体的なダメージを受けるんなら実感はわくのだろう。でも、普通の一日を過ごしている俺にとって、この後どうなるのかは全く想像もつかない。

 電車に轢かれる、乗客が殺人鬼、空から鉄柱、車に轢かれる…………ありとあらゆる可能性を考えたがいずれもなかった。後半二つは実体験から来ています。

 無事家についてしまった。大丈夫かな、家に誰かいるとかないよね。

「…………ただいまー」

「おかえり」

 …………ん?

 今、おかえりって誰か言わなかったか?

 しまった、家に入られたか。

 人目につかずに人を殺すにはその人の家が一番いい。毒ガスでも刺突するのでも、人目につきにくい。

 そういうことか。謀ったな運株式会社。

 抜き足差し足。どうせ死ぬなら一気に突っ込んでもいいのだが、そういうわけにもいかないのが人間の弱さ。

 リビングが見えてくる。誰もいない。

 隣の部屋は畳が敷いてある。そこには姉の仏壇があって――


「…………姉さん?」


 そこには、自分の仏壇を眺める姉さんがいた。

「おかえり。そして――――ただいま」

「姉さん……」

「ねえ仁、私って――――死んだ?」

 すっかり大人びてしまった姉さん。五年という月日は長く、二つに結っていた髪はまっすぐ下ろしていて、外見も大人のそれだ。化粧とかはしていないみたいだけど、鼻の形とかに昔の面影を感じる。

「姉さん――ごめん、俺とか親戚で勝手に判断を早まっちゃって」

 俺は所々つっかえながらもその仏壇の経緯を話した。

「確かに五年もいなかったらさすがにそう思うよね、なるほど」

 姉さんは思いの外ものわかりがよく、若干笑っているようにも見える。

「でも、届けとかは出してないんだ。形だけ。なんの式もやってないし、身内の心の中で諦めようってことの一貫だったのかもしれない」

「そっか」

 姉さんは高校時代の自分の顔と向き合う。

「若いなー、あの頃は楽しかったなあー。高二だったかな…………あれ、仁って今高二だよね」

「あっ、うん。そうだよ」

「へえー……楽しい?」

「楽しい…………楽しかった」

「そう」

 姉さんは花やお供えもので豪勢に用意された仏壇を眺めていたが、やがて俺と向き合う。


「ただいま」


 その顔は、五年前と変わらずに。

「おかえり」

 だから俺も、最大限の笑顔で答えてやる。夕方の日差しが高層ビルで跳ね返って部屋に差し込んでくる。姉さんと俺はその光に照らされる。

 お互いに立ったまま、二メートルほどの距離があった。その距離は、死別したと思っていた二日前までの姉さんの距離とは打ってかわって近い距離。

 そして、その距離でさえも詰めて。

 姉さんの両手が、俺を包み込む。他の何でも再現しえない複雑な温かさが、俺を包み込む。

 姉さんが、生きている。


「ごめんね、ごめんね」


 嗚咽。耳元で響くこの音は、俺の一切の不安もかき消して。

「心配かけて、ごめんね」

 視界が潤む。ダメだ、ここで俺が泣いたらダメだ。辛かったのは姉さんなんだ。知らない人に囲まれて、よくわからないことさせられて、よくわからないまま解放されて、よくわからないままここまで来て――俺が泣いちゃダメだ。ダメなのに――

 温かい。

「ごめんね、ごめんね」

 耳元で延々と謝り続ける姉さん。もう謝らなくていい、泣かなくていい、それだけを言えばいいのに、それが出てこない。出せない。出したらもう止まらなくなりそうだから。

「ごめんね、ごめんね…………」

 そこで姉さんは謝るのをやめた。何かを思い出したようにハッと顔をあげると、両手で俺の腕を掴んで、


「そのリストバンド……」


 ああ、バレちゃったか。

「じゃあ、仁も……」

「まあね」

「そっか……」

 姉さんはつぶやくと、一度目を伏せたが、やがて俺と向き直ると、

「幸ちゃんが危ないの」

 姉さんは、俺の交遊関係をなぜかよく知っている。小五――姉さんが行方不明になる前――のとき、俺がよく誰と遊んでいたか話していたせいもあるかもしれない。幸も例外ではなかった。

「知ってるの?」

「知ってるも何も、何年か同じ部屋にいたんだもん。ていうか、どこまで知ってるの?」

「小早川さんから話は聞いてる」

「あの人までたどり着いたのね……」

 姉さんは少し驚いたような表情になると、

「とにかく、どこにいるか私は知ってるから、とりあえずそこに行くよ」

 姉さんは音速で準備を始める。

「ど、どうして姉さんがそんなに焦ってるの?」

 いつ帰ってきたのかは知らない。でも、そんなに長いこと家にいた訳じゃないはずだ。もう少しゆっくりしてからでもいいんじゃ。

 しかし、そんな俺の考えも、すぐに折られる。


「だって、だよ?」


 姉さんはそう言いながらも準備の手を止めない。何が入っているのかわからないケースとかもカバンに突っ込んでいる。なるほど女性の荷物はわからない。

「二時間? 二時間って?」

「え? 小早川さんから話聞いてたんじゃないの?」

 姉さんは一旦その手を止めると、


「幸ちゃん、あと二時間しか持たないのよ」


 視界が眩む。横にあった椅子の背もたれに右手をつく。全身の力が抜けるのを必死でこらえる。

「……誰が、そんなこと」

 絞り出したのは、逃げの一言。前に進まない、現実逃避の一言。

 最後に財布をカバンに入れたところで、姉さんの荷造りが終わる。俺も最低限のものだけポケットに突っ込んで準備を終わらせる。

「――行くよ」

 久々に見る姉さんの表情の中で、初めての暗い表情。わき上がる気持ちを抑えているのか、首を左右に激しく振る。

 玄関の奥はどうしようもなく明るい。普段通り、西日を中心に茜色に映える空の下、五年ぶりに姉さんと歩く。

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