第3話 杉内、使ってみる。

 ういーん、たん。

 自動ドアが閉まれば、そこはまたいつもの世界。道路には軽自動車が走り、自動販売機はつめた~い飲み物がおいてあり、道路の下には鉄道が並走している。なんの代わり映えもしない、いつもの世界。

 そういえば学校帰りだったので、もう時間も外れて人気のなくなった通学路を、ただ一人で歩く。なるほど夕暮れというのは太陽が大きく見える。目前に燃える恒星に目をくらませながら、前に進む。

「運ポイント、か……」

 すでに左手には青いリストバンドが装着されて、その出番を待っている。

 信号のない交差点を渡る。駅に向かうにはこの道を通らなくてはならない。もともと中高一貫校であるわれらが深山高校は、その総生徒数は千五百人を優に越え、マンモス校と化している。何年か前男子校だったのが共学になった、今なお発展途中の高校だ、別に男子校が共学になるのを成長というかというとそれは微妙である。

 誰もいない。

 交差点を渡ると、左手には空きマンションがある。マンションというか、ここはもともと国家公務員とかが住む公営の寮だった気がする。しかし何があったのか今度ここに認定こども園ができるらしい。ものすごい人数で朝とかここを通るけど大丈夫なのかな。絶対苦情来るだろ。少子化どこ行った。

 数人いるだけで、そこにはほとんど学生がいない。上空では鳥たちが啼いている。

 更に進んで歩道橋をわたれば駅についてしまう。ここまで幸か不幸か何も起きなかった。北行の列車が駅を抜ける。乗るのも北行なので、また更に十分ほど待つことになる。ついてねー。


 翌日。

 朝っぱらからへべれけのおっさんを隣にかかえて電車に乗ったので気分が悪い。臭いとかそういうのよりも肩に頭のせられんのがすごく嫌だ。対照的に気持ちよさげな顔見せられるとこっちはイラッと来んだよな。

 改札も無事に抜けられなかった。「係員のいる改札口へお回りに」なると、そこには半ギレの駅員がいて、半ギレのまま処理を済ませた。ツンデレかよ。男のツンデレとか需要ねー。


「でさー、私昨日寝れなくなっちゃってー」

「へー」

「夜中なのに勉強するのもなんかと思ってー」

「へー」

「ずっとー」

「へー」

「……トリ○アの泉なら終わったよ? 大分昔に」

「へー」

「それでー」

 こいつこんだけ生返事されても話続けるってどういうメンタルなの? 鋼鉄なの?

「なあ西口、そろそろ時間」

「ん? ……あと五分もあんじゃん。大丈夫だよ」

 価値観ってなんで他人と異なるんだろう。

「わかったわかった、帰ればいいんでしょ帰れば。顔がそう言ってるよ」

 ものわかりがよくて助かる。

 西口は最初ふてくされたような表情にはなったが、飲み込んで自らの席に戻っていった。


「知覚動詞とは……」

 高二になると、我が校では進路別にコースが設けられ、俺のように私立文系コースを選択する生徒というのは、いわばその学年におけるワースト四十人ということだ。つまり、「数学できないんだったら数学のない大学で実績稼いでね?」というようなクラス。なめてんだろ。

 現在大学入試の最大の鬼門、イングリッシュの授業を受けているが、これも、数学がなくなった分英語が倍増したことによる悲劇だ。

 つまるところ、眠い。

 中学受験は親に言われてやった。今でも公立の中学でいいと思っているし、この学校に来てからはずっと順位を底辺に保っている。英語、数学といった盤石の抑え陣が機能して、結局その辺の点数になってしまうのだ。何だ何だ、勉強しろだあ? 人間は元来数とは無縁な生き物なんだよ。火を起こせればそれで十分なの。

 腕を大きく机に放り投げる。

 なんともまあ後ろ向きなことなんだが、それはそれで良いとしよう。全員が前向きな授業なんてあるわけがない。

「では、この問題を――」

 まずい、指名の流れだ。


 ――当たるなっ……!


「――西口」

「あれ?」

 おかしいな、当たらなかった。いつもこの教師は寝ている生徒を重点的に当ててくるものなのだが。しかも今回俺は例外ではなかったのだが。

「どうした? 杉内」

 恐らく突然声をあげたからだろう。英語教師はこちらに向けて鋭い視線を飛ばすと、そう言ってきた。

「いえ、なんでも……ただ、俺寝てたのになって」

「何だよ当ててほしかったのか?」

「いえっ、別にそういうわけでは……」

「まあいい。寝てるって点では杉内と大差ないからな、西口さん?」

「はい、すみません……」

 どうやら彼女も寝ていたらしい。さすが私文。授業への取り組み方が違うね。

 ふう……危ないところだった……。

 こうなった以上寝てはいられないので、素直にイングリッシュをしようと思う。さて、筆記用具を手に取る――

 異変に気づいたのは、その時だった。


 右手のリストバンドに、78と記されていた。


 それは、昨日もらったリストバンドそのもので。

 その数字が減っているということは。

「ポイントを消費したってことか……?」

 運ポイント。突如として俺の生活に飛び込んできた、謎のポイント。それは、不可視の現象に効果を発揮する。

 赤いボタンを押さないと発動しないが、たぶん机の上に腕を乗っけたときにでも押していたんだろう。

「こうやって使うのか……」

 俺は一人呟く。

 先生の指名から外れる。なんと運のよかったことか。そして、それは不可視の現象。

 ……なのか?

 いや、先生の指名から外れるということは、他人――今の場合なら西口――に指名が回ることで可視化されるんじゃないか?

 それではどうして今、運ポイントが使われたのだろうか。

 今度聞いてみるか。

 いかにせよ、今日はついてる。そういうことだ。

 西口がイングリッシュの問題を間違えたところで授業は終わった。


「自分って、見えないんですよ」

「は?」

 放課後。俺は昨日訪れた例の建物に足を運んでいた。

 もちろん、話題は昼の出来事。

「じゃあ、自分の手は見られますか?」

「はい?」

「自分の手を見てください」

 ポイントの説明を受けたときのお姉さんは、淡々と、俺に質問攻めを浴びせてきた。ちょっと怖いまである。

「……はい、こうですか?」

 俺は両の手をわざとらしく顔の前に向ける。

「すばらしい」

 なんでだよ。

「じゃあ、次に首の裏側を見てください」

「はあ?」

「首の裏側を見てください」

 お姉さんは有無を言わせず態度で詰め寄る。大分怖いまである。

「首の裏側…………無理じゃないですか」

「そうです、無理なんです」

 じゃあなんでやらせたし。

「なんでやらせたんだ、とお思いのことでしょう」

 見透かされてたし。

「人間の首の可動域は、顔の中心から左右に120度ずつくらいです。それは、より広い範囲を見ることより、立体的に見ることを重視したからです。草食動物は、肉食獣が自らの近くにいるかどうかをできる限り早く察知しないといけない。殺されるからです。しかし、肉食獣は生きるために必要なものが異なります。それは、草食動物です」

 機械のようにがーっと喋ったお姉さんは、しかしここで息を吸う。この人も人間なんだな。

「肉食獣が草食動物を狩るためにまず必要とするのは、距離感です。標的と自らの間にある距離を正確につかめなければ、その標的を狩ることは叶いません」

「それで、つまり?」

「つまり――人間は、他者を視認することはできますが、自らについては、その一部しか視認できないんです」

 なるほど、わからん。

「先生に指名されるという行為は、他人から見れば『あっ、あいつ当てられてる』ってわかります。しかし、自分は『当てられている自分』を見ることはできません」

「あの、全然わかんないんですけど」

「だと思いました」

 バカにしてんのか。

「何はともあれ、自らの恥態を世に晒さなくてよかったじゃないですか。運ポイントも減ってることですし、使い方はこうなんですよ」

 もう付き合いきれんとばかりに適当にあしらった彼女は、そのまますたすたと自らの業務に戻ってしまった。

「なんなんだ……」

 つまり、不可視の出来事というのは「自分にとって不可視の出来事」ということなんだろう。つまり、指名されたということは自分では見えない、と?

 まあいっか。

 確かに醜態を晒さなくてよかったのは、運ポイントさまさまだった。これからも活用していこう。

 俺は先程まで切っていた赤ボタンを押す。これから先いつなんどきこいつが必要になるかわからない。突然の出来事にも対応できるよう、常にオンにしておこう。


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