第一章 杉内

第1話 杉内、ついてない。

「この場合の最大値はいくつでしょうか? 今日は……二十日か。二十番、杉内」

「えっ」

 高校二年生になった。春の昼下がり、だんだんとその暖かさを取り戻しつつあるこの東京のとあるところ。俺は、別段やりたいわけでもない数学の授業を受けていた。去年は五段階評価で二。赤点ギリギリだったはずの数学はついに赤点になってしまった。それでも進級させる辺り、この学校における赤点の無用の長物感は半端無い。

「えっと……」

 が、いかんせんここで指名されてはどうしようもない。さして聞いてもいなかった授業。俺の脳内ではXは二乗になっていない。いつの間に増殖を果たしたんだ。

「軸によって場合分けして考えてみろ」

 教師による助け船は、果たして使い物にならなかった。場合分け? 知らない子ですね。

「……すみません」

「……ああ、俺もお前を当てて悪かった。迂闊だったよ」

 お前よくそんなこと生徒に言えんな。

「つまり、この式を平方完成して……」

 何だかんだ自分で解説を始めた数学教師に俺は感謝の気持ちを胸一杯に膨らませて眠りについた。ごめんなさい先生。


「あっ」

 四限目の授業が終わり、昼食の時間となった。個々の愛の詰まった手作り弁当があちらこちらで広げられるなか、俺もコンビニで買った弁当を出す。これなんで面積広くて体積小さいんだろな。カバンに入らないから右手に持たなくちゃいけなくて、めんどくさいことこの上ない。

 しかも、今日といったら。

「箸もらうの忘れたー……」

 店員が箸を入れてくれなかったのだ。

「どうしよ……」

 正直、箸を忘れたのは初めてだ。自分で弁当を作るときはもちろん、コンビニとかで買ったときもだ。

 さて、どうするか。

 周囲にはもうすでに食べ終えてなんか騒いでるやつもいる。うるせえな、昼休みくらい静かにしてろよ。

「食べないの?」

 と、横から覗き込む影。長髪が右目の隅に入る。

「……諸事情あって」

 俺はそちらを見ずに適当に受け流す。諸事情。なんともいい響きだ。本題をぼかしつつあまり突っ込んでもらいたくないということを示唆している表現。

「食欲ないのん?」

 が、しかし、そんなセオリーはこやつの前では無いも同然である。

「ねえ、こっち向いてよ」

「なんだようるせえな西口」

 先程から俺にしつこく話しかけてくるのは、高校の時同じクラスになった西口欅という女子である。身長はわずかに……いや、もうこの際だから言うとかなり小さめ。小学生くらい。

「……なんかちょっとバカにしたでしょ」

「自意識過剰なんだよ」

 西口の侮れない点は、まずその鋭い勘。女の勘とかよく言われるが、そんなものは比にならない。この前なんてこいつに数学の点数見破られたし。ざけんなこのやろう。

「ねえ、どうしたの? 昼休み終わっちゃうよ?」

 両サイドに結ったツインテールが俺の右の頬に当たる。周り見よ?

「もしかして、箸無いとか?」

「お前ほんと鋭いな」

「へっへへー、それほどでもー……ある?」

 小さく自慢した西口は、そのまま小さく微笑んだ。お前ほんとちっせぇな。

「……何度も言うけど150はあるよ?」

「別になんも言ってねえぞ」

「気になるのー。なんか杉内くんが黙ると私をバカにしてるようにしか思えないのー」

 風評被害だ。

「まあ箸忘れたのは事実なんだけどね。こうなっちまったもんはもうどうしようもないのかね」

 まあ別に昼抜きでもいいんだけどね。そんなに苦でもないし。

「あー、ちょっと待って」

 そう言って、西口は外に走っていってしまった。それはもう疾風のごとく。すばしっこい。やっぱ小学生なんじゃねぇの?

「はあーあ」

 しかしながら、もう昼休みを半分消費したのも事実。することもなくなった俺は、机に全体重を預けると、そのまままどろんでしまった。

 が、刹那。

「杉内くーん‼」

 俺の右耳を突き刺したのは、さっきまで横にあった声。

「うるっせえななんだよ……」

 俺は周囲に人が少なかったことに安堵しつつ、その声に答える。

「お箸、もらってきたよ!」

 満面の笑みでそう言うと、西口はその手に握られたものを差し出す。

「おま……これ、どこから?」

 それは、一膳の割り箸。

「職員室からもらってきた」

「お前よくあそこに出入りしようと思うよな。俺絶対無理。敵しかいないじゃん」

「そんなにビビることもないと思うけど……まあいいや、これからはこういうときちゃんとそうするんだよ?」

 優しく諭されてしまった。ちきしょう、なんか悔しいな。

 しかし、背に腹は代えられん。俺は戴いた割り箸を二つに割る。割り方が下手くそだったのか、きれいに二つに割れなかった。気持ちよくねぇな。

 ハンバーグは美味かった。普通に。


「二十五点以下は追試でーす。明日の放課後三時四十分からD組でやりますのでよろしく。サボったら赤点候補生になりますよー」

 帰りのホームルームで、担任はそう言い放った。ちなみに俺は二十五点。「以下」という基準にはまってしまった。あと一点取ってたら回避したのに……ついてない。

 カバンを引っ掴んで歩き出す。何て言うのかな、帰ったら勉強するってことにしとこう。実際はゲームするだけ。

 しかし、教室と廊下の狭間に設けられたドアを越えようとしたところで、後ろから声を掛けられる。

「……杉内、何帰ろうとしてんだ」

 われらが担任、岸だ。

「? いや、何でって、放課後だからですよ。授業もうないですよね?」

「……お前よくそんないけしゃあしゃあと言えるな。お前今日掃除だぞ? サボるにしては堂々としてんな」

「は? だって昨日佐々木だったじゃないですか」

「バカ野郎。いつから掃除は一人だけの仕事になったんだ? 昨日佐々木が一人でやってたんだぞ。そのことへの感謝の気持ちを胸に、今日改めてお前一人でやれ」

「えー……あっ、じゃあ、俺明日の勉強するんで」

「『じゃあ』っていった時点でお前だめだろ。許されるか。どうせ勉強なんてしないんだろ?」

 何だかんだ生徒を丸め込んでくるのがこの教師の嫌なところである。マジふざけんな。

 くっそ、ついてねえ。


「何でこんなに俺の人生ってついてねえんだ!」

 正直、たまったもんじゃない。家に帰る道すがら、俺は人気がないことを確認して叫ぶ。やだもんね、路上で人が叫んでたら。俺も変人扱いはできれば受けたくないし、可能な限りは常人でいたい。

「数学わかんない箸入ってない掃除当番! ついてないついてないついてない!」

 ほんとに久々に心の底から叫んだ。スポーツ観戦とかもしなければアイドルのライブにも行かない。喝もいれなければあっぱれもいれないし、日頃から大声を出すことからは遠ざかっている。

 だから、こんだけ叫べるということに自分でも驚いたくらい。

「……誰もいないよな……?」

 なんかここまで結構ついてなかったために、もうこのままだと誰かに見られちゃってるパターンも視野にいれなければならない。厄日というのは何が起こるかわからんし、どんな不条理でも可能にさせてしまうのだ。

 改めて周囲を確認するが、特に誰もいなかった。いくら神様でも、やっていいことと悪いことの区別くらいはつくみたいだ。だったらやりすぎです神様。

「ん?」

 と、ここで、とある違和感を感じる。

 それは、俺が今まさにわたろうとしている丁字路の右手――普段は通らない道――の方に、かすかに光が見える。

「何だ……?」

 蛍光灯、白熱灯の類いではないその光。それは、最近まで確か自販機だったはずのところから発されていた。

 それは、まるで来るものを招き入れるかのようで。

 そして、招かれるものとして、俺は例外ではなかった。

 興味がなかったといえば嘘になる。しかし、興味があったと言っても嘘になる。

 ただ、俺のなかでわずかな何かが、あの空間に引き寄せられた。

 そこからは早かった。

 光の中心まで移動すると、そこには一軒の建物があった。公民館みたいな。そんな感じ。

 その窓に、先程の光が映えている。

 わけもわからずたどり着いたその建物の看板には、こう書いてあった。


「運株式会社」


 運――英語のluckという単語の日本語訳――と名乗るその会社は、やはり来るものを拒まずだった。暖かなその光は、俺の全身を包み込んでくれる。

 ――入ってみるか。

 俺は、そのドアを開けた。


 このとき、俺は、今日が厄日であるということをすっかり忘れていた。

 

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