第7話 自意識の海と蝶の世界

 修学旅行が終わったあと、第4回進路希望調査があった。全150人の学年のほとんどの生徒は就職希望、教員や医師など一部の専門職を希望する者が、地元の小学校より規模の小さい大学へと進学する。真一は研究所への就職を希望したが、「そこで何を専門にやりたいのか」まで描くことはできなかった。

 進路調査票を前に、真一はシャープペンシルを何度もノックしては芯を長くのばし、また引っ込める動作を繰り返していた。別に何があるわけじゃない、ただ、芯が少しずつ削れて黒い粉が紙を汚すのを、見つめていた。


「おーい、坂部!花帆見なかった?」


 威勢よく美術室に飛び込んできたのは、花帆の親友の唯だった。


「いや、来てないけど」

「何だー、絶対ここだと思ったのに。ねえ、あんたどっかに心当たりない?」


 真一は暮れゆく窓の外を眺めて、ちょっと考えてから「いいや」といった。


「何だよもう、使えないなあ。あーあ、今日はもう帰ろうかな」


 花帆と唯の関係は、真一が想像する「女子同士」の関係よりもさばけていた。面白いから一緒にいる。面倒なことがあれば、別に一人でも大丈夫。でもだから、無駄な束縛もなくお互いの自由意思をもって親友を続けているようなところもあって、傍で見ていて少し不思議な気持ちになる。


 唯が帰ったところで、真一も帰路に就く。きっと真一を待っていたわけではないし、真一もまた彼女に会うためにここを通ったわけではないのだが、あの階段の下で真一と花帆はまた出会った。


「…やあ、今日は遅かったね」


 花帆は、真一に向けて少し萎れたような笑顔を見せた。


「…まあ、ね。君のリクエストの蝶の構図を考えてたら、時間が経っちゃってて。お友達が君のこと探していたよ」

「ああ、唯か。今日は黙って出てきちゃったからな。でも、私が見つからないとなったらあの子はさっさと帰るよ、私と同じ」

「…そのようだね。新村さんはさっさと帰ったよ」

「ねえ、修学旅行の夜のこと、覚えてる?」


 ぎく、と、真一の背中に冷たいものが走った。夜、あの座禅の夜のことだろうか。


「…まあ、一応、ね」


 花帆はその答えを待ってから、ゆっくりと振り返った。思えば、あの座禅の夜に自意識の海で会って以来、花帆の顔を合わせるのは久しぶりなような気がする。


「…私、私ね。よく思い出せないの」


 …へ?真一は危うく膝がガクッと崩れそうになった。


「私ね、座禅を組んだことは覚えているんだけど、そのあと、あのかつらを外してから朝起きるまでの記憶が、全然ないの」


 考えてみれば当然で、花帆は真一の自意識の中に現れただけで、二人は特別なことなどちっともしていないのだ。


「…そうなんだ。疲れてさっさと寝ちゃったんじゃない?」

「うん、そうならいいんだけど、ね」


 花帆の歯切れは妙に悪い。先ほど真一の立てた安直な仮説に、全く同意はしていないようだ。真一の2歩先を行く花帆は、背中を向けたまま話を続けた。


「ま、いいや。ねえ蝶の絵はいつ仕上がるの?」

「もう次の催促?まだ下書き段階だよ。旅行の前タンチョウが仕上がったばかりじゃないか」

「そう、タンチョウの夢は最近よく見るの。毎晩あの絵を見てイメージトレーニングしているからかな」


 でも、飛べないの。一緒に歩いているだけ。花帆はそう言って、両手を大きく広げて翼の真似をした。すっかり日の落ち切った群青色の世界を、白いブラウスの羽根が羽ばたく。


「じゃあ、うんと飛べそうな絵にするよ。たくさんの蝶が一斉に舞い上がるところとか」

「うん、お願い」


 そう言って彼女はくるっと半回転して真一と向き直った。その瞳が不安に揺れているのに真一は気づいたような気がしたが、何も言えなかった。ただ、早く蝶の絵を描こうと思った。


 夕焼け空を背景に一面の蝶が舞い上がる姿をやっと描き終えた日、真一は蝶の絵を持って美術室で待った。日が暮れかけても花帆が来ないので、またあの階段の下に立って日が落ちるまで待った。


 翌日、真一は花帆が事故に遭ったことを知った。

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