第6話 深海潜水

「さてみなさん、心を静めるのです。誰か一人が吹き出せば、みんなが心の内側から戻ってきてしまう。戻ってこないように、自分の自意識の深く深くまで潜ってきてください」


 未だかつてない緊張感の中、座禅は始まった。緊張しすぎて、真一は頭の皮膚がぴりぴりしてきた。かつらのせいなんじゃないかとも思ったが、しかし、自分だけ外すわけにはいくまい。このわけのわからない状況の中で、秩序を乱すことがどんな波紋を呼ぶかわからない。真一がかつらを取ることによって、またクーデターでも起こされたら座禅時間が長引いてしまうかもしれない。

 真一は大人しく、僧侶の言う通り自分の中に深く深く潜る。


 誰もいない想像の海の中を、ザトウクジラになった真一は進む。水は冷たく新しく、頬を滑らかに撫でていく。ふと何かの気配を感じて、意識の中の真一は目を見開いた。何かが見えたというより、剣道の訓練によって鍛えられた勘、殺気を読む力が働いている気がする。誰か、いる。この深い海の底に、自分以外誰が…

 目の前に現れた少女は、人魚のようにまったく自然にそこに揺蕩っていた。驚くべきは、彼女の顔が、それはまるで…


「はい、やめ。どうです、30分とは意外に短かったでしょう」


 和尚の声が、静まり返った本堂に響いた。

 生徒は一斉に息をつき、それからまたあちこちで悲鳴を上げながらかつらを放り投げ始めた。

 真一は黙ってかつらを取った。良太が何か話しかけてきているのだけれど、うまく耳に入らない。まるで水の中にいるみたいだ。

 曖昧に笑って返事をして、真一は初めて花帆の方を見た。花帆は、真一の方を見ていたような気がしたのだけれど、真一がそちらを向くとすぐに目をそらしてしまった。彼女の親友の唯の「まじ最悪だったーーー!」という声だけが、真一の耳にやっと残った。



 本堂を出るとき、うっすらと開いたままのふすまの隙間から隣の部屋の様子が見えた。こっそりのぞき込むと、なるほど和尚の言う通り、真一と同じくらいの年の子どもたちが、同じハゲかつらを被って神妙な面持ちで座禅を組んでいた。


「うわあ、マジでやってる。てかさっきまで俺たちもやってたんだよな」


 いつの間にか横に来ていた良太ものぞき込んで、ひそひそと話しかけてきた。


「こうして客観的に見てみると、やっぱかなりやばい風景だよな」


 真一はそう言って、その場を離れた。宿舎は離れになっているので、本堂から続く外の渡り廊下を二人は歩く。

 柱の陰に赤い毛の塊が見えたとき、二人はまず野良猫だろうと思ったから、それが人であると気付いた時に随分びっくりしてしまった。二人のびっくりの気配に触発されて、その赤髪の少年も振り返る。


「…一高生か」

「あ、えっと…はい」


 暗闇でもなお燃えるような髪の赤さと少年の射抜くような目に、真一は思わず敬語で返した。


「…とっとと失せろや。お前らみてえな甘ったれ坊ちゃんどもに、用なんかねえんだよ」


 よくあるチンピラの脅し文句だと思うこともできたが、恐らく彼が座禅からエスケープしてきた富士高の生徒であると想像できたため、二人は逆らわずに黙って走った。コミュニケーションがとれないと囁かれる富士高生。その中でもさらにやばそうなやつ。



 

 宿舎に付いたところで、良太はやっと声を出した。


「なんだよあいつ、富士高生だよな。どうせ嫉妬だよ、俺たちにいちゃもんつけるくらいなら、最初から進学なんかせずに中卒でも小卒でも働けばいいんだ。義務教育なんて小学校で終わりなんだからさ」


 真一は曖昧に笑いながら、しかしどうしても同じように思うことはできなかった。

 一方的な敵意。睨む少年のあの目。あの敵意は、嫉妬なんかじゃない。そんな相対的なものから生まれた感情じゃない。あれはまっすぐ真一たちに向けられた、絶対的な敵意だったように感じた。


 宿泊室では、男子たちは枕を集めてひそひそと語り合っていた。積極的に関わる良太の熱量に、真一はげんなりしていた。さっき絡んできた少年も気になるし、そうでなくても、とてもじゃないが恋バナに加わる気分ではない。


「なあ、真一…っておい、なんだよ寝てんじゃねーよ」


 ぶつぶつ文句を言いながら遠ざかる良太の声を、真一は毛布で遮断した。

言えない。恋バナなんてできる気分じゃない。あの時、自分の意識の海の底深くで出会った人魚のような少女が、あの日一緒に夕日を見ていた花帆の顔をしていたなんて。

 今の話のネタにするには、少し新鮮過ぎる。言えない。



 

 うつらうつらしている花帆の横で、唯が誰かと話をしている。


「てかさ、あのハゲかつら、まじ最悪だったよね。あれ結局どうすんだろ、使い捨てかな?そうじゃなかったら困る、すごい汚いおっさんとかが使ったかつらを、私が被ってたかもしれないってことじゃんか!」


 笑い声になる一歩手前の息の音が、花帆の耳まで満たす。


「だいじょう、ぶ、だよ…」


 ほとんど寝息と変わらない声で、夢うつつの花帆は答える。


「あれ、あのままだいじに、けんきゅ、じょ…」


 何故花帆がそれを知っていたのか、花帆自身にもわからない。何故花帆は自意識の海の中で真一の姿を見たのか、それは言われなくとも花帆自身が一番わかっている。ただちょっと不思議なのは、花帆の自意識の中で作られた真一の姿、いうなれば

が、何故花帆と同じように驚いた表情をしていたのか。

 わからない疑問は花帆の瞼の裏側をグルグルと周り、次第に溶けて消えていった。

 花帆の寝言は誰にも聞こえず、したがって誰も花帆を起こさなかった。だから、夢の中で花帆は好きなだけ、タンチョウと雪原を走り回ることができた。

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