第8話 病室の蝶
花帆の席の空白ばかりがぽっかりと目立つ。特に変わりない日常、でも真一にとって唯一、自分の絵を必要としてくれている女の子のいなくなった日常。
担任は、花帆が昨日の帰り道の途中で交通事故に遭ったこと、犯人はまだ捕まっていないので皆も注意するようにということを伝えた。
「おい、坂部。あんた、昨日は花帆と会ってないわけ?」
唯は、朝一番で真一に食って掛かってきた。花帆は命には別条ないらしく、今は県の中央病院で治療を受けている。花帆が無事と知っているからか、唯の体はいつにもまして血が吹き出すような風をまとっていた。
「…うん、昨日は、俺も待ってみたんだけど、会えなくて」
「なんっだよもう使えねえな、なんだかんだでいつもグダグダと一緒にいるくせに、肝心の日には別行動って!花帆の帰る姿も見てないの?轢き逃げ犯人のこと、ちらっとでも見てないわけ?」
「え…轢き逃げって、このご時世に?」
「時世なんて関係ないのよ、外道はいつだっているもんなの!」
大体何よ交通事故って、200年前じゃあるまいし、自動車もオートサイクルもほとんど通ってないっていうのに。唯は独り言ともとれる文句をぶつぶつとぼやき続ける。真一は何も返すことができないまま、未だ美術室に置きっぱなしの蝶の群れのことを想った。
唯は今日、花帆の見舞いに行くという。真一がアオスジアゲハの絵を持って行って欲しいと頼んだら、有無を言わさず「一緒に来い」との審判が下った。
真一は大人しく、蝶の絵を持って唯の後に続く。唯なら、ひょっとするとあの赤髪の少年とも対等に渡り合えるかもしれない。そんなことを想いながら病院まで来たが、病室の前で花帆の名札を見たとき、急に緊張が込み上げてきた。
「なあ、僕やっぱり帰るよ」
「はあ?今更何言ってんのよここまで来ておいて。ほらさっさと入るよ、怖いならそのちょうちょの絵で顔隠してたら?」
「いや、その前に芹沢、俺が来ること知らないだろうし、女子っていきなり男子に来られたら困るんじゃ…」
「面会時間中に誰に見られて困ることもしてないでしょ!大丈夫、行くよ!」
尻込みする真一の腕を無理やり引っ張って、唯は病室に踏み込んだ。
「…花帆……」
花帆のその姿に、流石の唯も言葉を失った。
「…その声は、唯だ」
花帆の目を覆う包帯。腕から伸びる点滴の管と、頭から伸びる脳波測定器のコード。花帆は無数の紐と包帯によって、ベッドに括りつけられていた。
「花帆、目が見えないの?」
「そうみたい。でも、これからの治療で治る見込みは全然あるんだって。体の方はほとんど怪我もないし、今は脳検査の結果待ちだけどそっちも多分大丈夫だと思う」
「…そっか。退院のめどは立ってる?」
「んー。ここから根気よく入院していろんな治療して、検査しての繰り返しだから、まだわかんない。それまで、アオスジアゲハはお預けだなあ」
真一はギクッとして、手に持っている蝶の絵を握りしめた。花帆は、真一がここにいることに気付いていないはずだ。
そのまま気配を消して帰りたいと思ったが、そうは唯が許さなった。
「おい、何突っ立ってんだよ。あ、花帆、実は今日もう一人連れてきたんだけど、さっきから何もしゃべらなくてね。ほら、なんか言えよ、ほんとに役立たずだな」
「…あの、芹沢?」
「その声は、もしかして坂部君?」
花帆の目の動きを見ることはできないが、目以外の表情のすべてで喜んでくれていると、真一には思えた。
「うん、そう。アオスジアゲハの絵を持って来たんだけど…どうしようか」
「おお、早いね、もう仕上がったんだ。手抜きしてないでしょうね、ありがとう、嬉しい!」
花帆は一息に感情を吐き出したあと、しばらく考えてから言った。
「んー、せっかくだから、この部屋に飾ってよ。目が治ったら一番に見たいし。あ、あと、リスザルとバオバブの木とカサブランカって花も描いて欲しいな、あとはアフリカゾウもね」
「わがままだなあ」
そう言うと、花帆は心底嬉しそうに笑った。
「いいでしょ別に。これくらいの希望がないと、私、夢の世界から帰ってこられなくなっちゃうよ」
花帆が嬉しそうにしているのを見て、さっきまで薄い氷の膜に覆われているみたいに指を動かすのも大変そうに固まっていた唯も、元気が戻って来たみたいだ。
「よし分かった。私が責任を持って描かせるよ。そう言えば、担当は近藤先生なんだって?」
「そう、近藤良太君のお父さん。だから安心だよ」
「そうだね、良かったね」
花帆がうとうとし始めた頃、二人も病室を出た。うたたねをする花帆からは金色の眠りの粉みたいなものが出ているようで、二人とも穏やかで眠たい気持ちになったのだが、一歩病室から出ると、そのまどろみは不安に変わって二人を襲った。
なんで花帆が。なんで犯人は捕まらないのか。花帆の目はどうなってしまうのか。
その日から二人は放課後ちょくちょく病室に寄り、真一は完成した絵を飾るようになった。花帆の周辺はいつしか真一の絵でいっぱいになっていったが、アフリカゾウの絵は、まだ描けない。
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