第3話 戦闘機と少女
受験がないとはいえ、3年生になったらすぐに就職活動が始まる。真一の先輩たちもなんとなく落ち着かないし、公欠や早退が増えてきた。
義務教育が小学校で終了した今、高卒で就く仕事はかなり限られてくる。したがって、就活もその準備も楽じゃない。
だから、一高では高校2年の5月には修学旅行に行ってしまう。真一の祖父や曽祖父の時代には「キョウト」や「オキナワ」に行っていたこともあるらしいが、今はもう岐阜より西に行く道はない。
それどころか。80年前に首都機能が完全に停止してから「トーキョー」にすら行くことができなくなってしまった。
もっとも、その頃にはトーキョーにはとっくに人は住んでいなかったし、山に「護られている」Y県に少数の住民が流れてきただけで事なきを得た。特に真一たちの生活にはあまり影響もなかった。
そして何より、首都の水没ごときを嘆くには、日本はあまりにも遅すぎた。海の近くや平地からどんどん人が住めなくなってきた世界では、Y県はもう、世界でも類を見ない大規模な山岳都市になっていた。
「…やあ、坂部君」
真一は今日も美術室で絵を描いて、日が傾きかけた頃に校舎を出た。山岳都市特有のこう配の急な斜面に作られた見晴らしの良い階段を下っていると、すべて下りきった先に花帆が待っていた。
「…やあ、今日は美術室に来なかったね」
「うん、邪魔しちゃ悪いと思って。制作は進んだ?」
「うん、タンチョウは仕上がったから、今度持ってって。次の優先順位は、何?」
「んー、アオスジアゲハ?」
「君は夢で空を飛びたいんだね」
「うん、まあね。だから、ここで待ってたの」
…待ってた?え、待て待て、一体、誰を?
「…え、っと、あの」
「だってほら、夕焼けなんて一日のうちでも相当きれいな時間じゃない?空がこんな色になっちゃうんだもの、見ないと損だよ」
真一が訊ねる前に、花帆は勝手にしゃべりながら真一の手を引いた。拍子抜けした真一は、そのまま無抵抗に花帆に連れられて歩く。
「ほら、ここ、そんなに高いところじゃないけど、ビルにも木にも邪魔されないで太陽が沈むのが見えるんだよ」
「…本当だ。夕日を見るには穴場だね」
「でしょう?」
花帆は満足そうに笑った。その笑顔に、真一はなんとなく嫌な予感を覚える。
「…まさか君、僕にここから見える夕焼けを描け、なんて言う気じゃないだろうな」
「あっはは、すごい、よくわかったね!」
そう言うと、花帆はやっと真一の方を向いた。
「そう、描いてよ。そしたら私、その絵を持って真夜中のこの場所に来るから」
「夜、来て何するの?」
「星空に、その絵を見せるの。うっかり恋に落ちちゃうかもしれないね、この夕焼けはこんなにきれいなんだもの」
二人の頭上を、一機の機体が水平加速の状態で通過した。オレンジ色の飛行機雲が、すうと空を分断して、やがて消えていく。
「…飛行機雲が短い。夕日も赤いし、明日も晴れるな」
「あの雲のこと、飛行機雲って呼んじゃうよね。もう飛行機なんて飛ばないのに」
高度八五〇〇メートルの上空には、目には見えない「バリア」がある。高校生たちからそう気楽に呼ばれているその防護壁は、山々の頂上から噴射されるエネルギー体によって構築されていて、それは研究所の管轄であるものだった。
詳しいメカニズムはわからないけど、それを知りたいと思うには「バリア」はあまりにも身近過ぎる。地面や水がどうしてここに存在するのかを考えている高校生などいないように。
さっきの一機に続いて、二機目も後を追いかけていった。二筋の飛行機雲が描く空の道は、あっという間に夕日に焼き尽くされるようにして見えなくなる。
「…ねえ、あのバリアの向こうで、今も誰かが戦っているんだよね」
「…そうだな」
「この世界、いつまで持つのかなあ」
真一は、てっきり花帆が戦闘中の誰かを想った発言をするものだと思っていたから、不意を突かれてわずかに鳥肌が立った。
「…なんてね、帰ろうか」
花帆は背中を向けていて、その表情は見えない。真一は、音も届かない上空で今も続いている戦闘に、思いを馳せる。階段とスロープだらけのこの街に複雑な影を落としながら、ビルの谷間に日が沈んでいく。
詳しいことは何も聞かされていない真一みたいな子どもにも、今がちっとも平和ではないらしいということは、わかっていた。
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