道化師の最後
エンハンスとメアリーにアンダーウッドを加えた三人は、フランクの住まいがあるウエスト・エンド・リンドンへと足を運ぶ。
ウイリアム四世広場からロージェントストリートに入り、筋を一つずれた場所に建つそのフラットは、ウエストエンド中央警察のすぐ近く、スコットランドヤードからでも三マイルと離れていない距離にあった。
「確か、このフラットで、あいつは一人で住んでいるんだ。一人住まいなら怪我をしているとなると色々と大変だろう」
アンダーウッドは、よっぽどエンハンスの申し出が気に入ったのだろう、そう言うと、面白くて仕方が無い、とでも言いたげな表情で、エンハンスを眺める。
「さあ、行こうか」
アンダーウッドは先頭に立ち、フラットの門をくぐると、そこに記されている部屋番号を確認していく。
「ここだ」
一つの部屋の前で立ち止まり、エンハンスとメアリーにニヤリと笑ってみせる。
ノッカーを鳴らし、反応が無い事を確認すると、今度は手で扉を叩き、中に呼びかける。
「フランク、いないのか?」
しかし、部屋の中からはなんの反応も来なかった。
「留守なの?」
メアリーの問いに、アンダーウッドはそうかもな、と応え、ドアノブを掴む。
「うん、開いてるぞ?」
「アンダーウッドさん、気をつけてください」
無造作に扉を開けようとするアンダーウッドに、エンハンスが警告を与える。
「分かっているよ。これでも俺はプロだぜ?」
アンダーウッドはそう言うと、一端、ドアノブから手を離し、手袋をはめる。
「メアリー、下がっていろ」
アンダーウッドの注意を受け、メアリーがエンハンスの後ろに隠れる。アンダーウッドはその様子を確認すると、扉をゆっくりと開いた。
「こりゃあ、不法侵入だな」
そんな呟きを漏らしながら、玄関と続きになっているリビングへ、足を踏み入れた。
「おい、誰かいないのか?」
アンダーウッドは奥へ呼びかける。エンハンスはメアリーを後ろに庇ったまま、その後に続く。
「おい、大丈夫か?」
部屋の中程まで移動したところで、アンダーウッドがそんな声を挙げ、隣の部屋に駆け込んだ。エンハンスとメアリーもその後を追いかける。その部屋はベッドルームらしく、セミダブルのベッドが部屋の中央に置かれ、その上に一人の男性が横たわっていた。
「駄目だ、死んでいる」
アンダーウッドが男性の脈を見てそう宣言した。
ベッドの上の男性は、苦しそうにのど元をかきむしったような態勢で動きを止めていた。その男の様子から、呼吸困難と全身痙攣による窒息死であることは一目瞭然だった。たとえば、強い麻痺を摂取者に与える、トリカブトから採取できるアコニチンといった毒物により絶命したのでは無いかと、過去に看護婦を志したことのあるメアリーは推定した。
その人物の、禿頭の両脇にわずかに残った毛髪というどこかユーモラスな外見と、死に際した苦悶の表情という凄惨さが、逆にその非道さを際立たせていた。
「これは、死後八時間、その前後一時間といったところだな」
死後硬直の状態を確認したアンダーウッドが、そんな診断を下す。
「八時間というと、今朝の七時から九時ですか」
エンハンスがそう言って時計を確認する。
「お父さん、この男性は?」
「ああ、フランクだ。しかし、どうしてこんな事に?」
アンダーウッドは死体を見下ろしたまま、首を傾げた。
「ちょっと、こっちに来て下さい」
エンハンスが二人を呼びかける。
「おい、何をしているんだ?」
アンダーウッドが驚きの声を挙げたのは、エンハンスが、その部屋にあった衣装箪笥を開き、中をあらためていたからだ。
「二人ともこれを見てください」
そう言ってエンハンスが示したのは、道化師の衣装と仮面だった。
「どうして、こんな物があるの?」
メアリーが疑問の声を挙げる。
「あの日見た道化師が、フランクだったと言うことですよ」
エンハンスの説明に、メアリーは目を見張った。
「どういう事です?」
「たぶんフランクは、普段から道化師の姿で調査をしていたのだと思います。道化師の格好というのは、身許を隠すには最適ですから」
「そんな事はどうでも良い、早く通報しないと」
アンダーウッドのもっともな意見に、しかし、エンハンスは首を振り、
「どうか少しだけ、私にここを調べさせてください」
「それは駄目だ。一応、腐っても俺は刑事だからな。一般人が現場を荒らす事を黙認するわけにはいかない」
アンダーウッドがそう言って、部屋の外に移動するようにメアリー達を促すと、
「動くな!」そんな叫び声が響いた。
「お前達、そこで何をしている?」
そんな言葉と共に姿を現したのは、探偵のホワイトと数人の警官だった。
ホワイト達はアンダーウッド達に向けて拳銃を構えたまま、ベッドルームに移動してくる。そして、ベッドの上に横たわるフランクを眺めると、
「お前達がやったのか?」
「よく見てください。その遺体は少なくとも死後八時間程度は経過しています。もし我々が犯人だったら、八時間もここにいたことになりますが、そんな馬鹿な話は無いでしょう?」
エンハンスはそう言って肩をすくめてみせる。
「そんな事分かるものか。ここに何かを忘れたことを思い出し、取りに戻ったのかも知れない」
「そんな理由でわざわざ現場に三人で戻って来たりはしませんよ」
エンハンスが応えると、ホワイトは首を振り、
「言い訳は後でゆっくり聞かせてもらう。今はおとなしくしているんだな」
「ええ、おとなしくしていますよ。私は善良な市民ですから。しかし、皆さんはどうしてこちらに?」
「それはこちらの台詞です。アンダーウッド君、家に帰ったはずの君が、どうしてここにいるんだい?」
ホワイトはエンハンスにでは無く、アンダーウッドに視線を向けて尋ねる。
「彼のお見舞いですよ。以前、俺が彼に怪我をさせたのでね、気になっていたんです。残念ながら俺は自由を奪われていたので見舞いのタイミングが遅くなりましたが」
「ふん、見え透いた嘘を吐くな」
アンダーウッドの嫌味が効いたのか、ホワイトは口調も荒く言葉をたたきつける。
「嘘じゃあ無い、本当に見舞いに来たんだ。フランクがどんな顔色をしているかと思ってね。俺の顔を見たら、さぞや驚いて歓迎してくれるだろうと思ったのに」
アンダーウッドはベッドの上に視線を向けると、
「こんな歓迎のされ方をするとはね、逆に驚かされましたよ。まさかこんな事になっているとは想像もしていなかったのでね」
「御託はもう結構だ。とにかく、君たちのやったことは不法侵入という立派な犯罪だ。後で話はゆっくりと聞かせてもらうから、今はおとなしく黙って待っていろ」
有無を言わせぬ言葉に、アンダーウッドは大げさに肩をすくめ、メアリー達の元に向かう。
「ホワイトさん、こんな物がありました」
隣の部屋にいた刑事が声を挙げてベッドルームに躍り込んでくる。
「なんだ、一体?」
ホワイトはその警官から便せんを受け取ると、その上に目を走らせ、
「良かったな、お前達。どうやら、この男は自殺をしたらしい。君たちが殺人容疑で取り調べられることは無くなった。この男が、遺書を残していたことに感謝するんだな。もっとも、不法侵入の罪は消えないが」
「中に声を掛けても返事が無くて、鍵も掛かっていなかったのよ。それに……」
メアリーが苦情の声を挙げた。しかし、アンダーウッドが、
「無駄だ。今、俺たちが何を言ったところで、あいつは聞く耳もたんさ」そう言って、彼女の言葉を止めた。
その様な中で、エンハンスは一言も言葉を発さず、ただ、ホワイトの行動を見つめ続ける。
「おい、部外者は外に出しておけ」
その視線を嫌ったのか、ホワイトが近くにいた刑事にそんな指示を出す。
そして、ホワイト達がフランクの部屋を捜査している間、エンハンス達は場所を移され、軽い取り調べを受ける事になった。
それぞれがフランクの部屋に向かった経緯を説明した後、エンハンスとメアリーはまだ未成年と云う事もあり軽い注意を、アンダーウッドは唯一の成人だったこともあり強い叱責をそれぞれ受けた後、やっと解放された頃には、すでに日も完全に暮れていた。
三人が揃って家に帰ると、すでにマーガレットが夕食の準備を整え、彼らの戻るのを待っていた。マーガレットの用意した夕食を囲みつつ、メアリーが中心となり、その日の冒険譚を彼女に語って聞かせる。
マーガレットは、「まあ」だの、「そう」だのと適度に相づちを打ちつつ、話を聞いていく。そして、アンダーウッドの補足も交え、彼女も今回の事情にはかなり詳しくなっていた。
「でも、フランクはどうして自殺なんてしたのかしら?」
マーガレットがもっともな疑問を口にする。
「聞いたところでは、遺書には、自分がモイーズを殺した。捜査の手が伸びてきたために逃げ切れないと観念しての自殺だといった事が書かれていたらしい」
アンダーウッドがその問いに応えた。
「でも、捜査の手は本当にフランクに向いていたのかしら?」
マーガレットは再び尋ねる。
「いいや、そんな気配は無かったんだがな。確かに今日、ホワイト達がフランクに話を聞きに行く手はずにはなっていた。ホワイト達がフランクのフラットに現れたのはそのためだ。まあ、俺はその事を聞かされていなかったので、知らなかったけどな。それでも、それはただの事情聴取以上の物では無かったはず。何が、あいつをあそこまで追い詰めたのか」
そう言っているアンダーウッドに、今度はメアリーが、
「お父さん、その遺書は本物だったの?」
「そこまでは分からないさ。今頃は筆跡鑑定の最中だろう」
「たぶん、本人の筆跡と判定されるでしょうね。ただ、それでも本人が書いた物かどうかは分かりませんが」
それまで黙っていたエンハンスが不意に口を挟む。
「どういう意味だ?」
「そのままの意味です。筆跡鑑定の結果は、現実に即しているのか疑わしい」
「おい、俺たちの能力を疑っているのか?」
刑事であるアンダーウッドはその言葉を、警察全体に対する侮辱と受け取ったのだろう。そう、声を荒らげた。
「そうは言いません。ただ、いえ、止めておきます。まだ、何も確証はありませんから」
「随分と気になる発言だな」
アンダーウッドはそう言ってエンハンスに言葉の続きを促そうとしたが、彼は口を真一文字に結び、ただ首を振るだけで何も語ろうとはしなかったため、あきらめたように話を戻す。
「今日、ホワイト達がフランクのフラットに来たのは、あいつにモイーズを恨んでいた人物に心当たりが無いかを確認するためだったらしい」
「今更、そんな話だったの? そんな事、捜査の最初にするべき事じゃない」
メアリーが呆れたような声を出す。
「ああ。本当に、杜撰な話だ。奴さん、相当、俺を犯人にしたかったんだろう。そう云った基本をすっかり怠っていたのさ。だから今頃大慌てで街を駆けずり回っていやがる。いい気味だ、と言いたいところだが、そのおかげで殺人犯人が野放しになっちまっては後味が悪い。そういう意味では、犯人が自殺しただけましという奴だな」
「それで、フランクはどうしてモイーズを殺す必要があったの?」
「さあな。どうせ、金銭トラブルか、もしくは弱みを握られて脅されていたか、どんな理由にしろ、大した話じゃ無いさ。そして、その罪を俺にお仕着せようとしやがった。もしかすると、俺にやられた件で、モイーズに泣きついたのも、俺に罪を着せ、モイーズを亡き者にする、そういう計算の上だったかもしれねえな」
アンダーウッドはテーブルの上に置かれたスープに手を伸ばし、すでに空になっている事に気がついた。
「でも、モイーズはどうやって殺されたのかしら? 犯行時刻にあの倉庫にいなかったと云うことはホーネストさんが証明したけど、死体は倉庫で見つかった、その謎はまだ解けていないのよね?」
「さあな、そういうしちめんどくさい事は、俺の領分じゃ無いからな」
マーガレットにスープのおかわりを求めながら、アンダーウッドは応える。その応えに、メアリーは呆れたように息を吐いた。
「どうせ、夜が明けてから、船でも使って運んだんだろう。確かに、夜中の間は、あの港へ入ることは許可されない、それでも、四時以降は灯台も動き出す。それ以降なら、小さな船を使えば気付かれずに入り込むことはできるだろう」
アンダーウッドは、メアリーの無言の抗議に慌てたように自らの意見を開陳した。
「それは、難しいんじゃ無いかしら?」
スープのおかわりを手に、戻ってきたマーガレットが口を挟む。
「どうしてだ?」
「だって、現場の床には、死体から流れた血痕が残っていたんでしょう? その場で刺された訳では無いのなら、そういう事にはならないのじゃ無いかしら?」
「その事が、私もずっと気になっていました」
エンハンスも、マーガレットの疑問に同調する。
「流れ出た血の跡に異常があるようには、私には見えませんでした」
「しかし、犯行時刻、あそこにモイーズがいないことを示したのは君だろう?」
「それはその通りです。それでも、フランクはあの場所で殺されたとしか思えない」
エンハンスは顔をしかめると、小さく首を振る。
「ふん、遺書に、その辺りの真相が書かれているかも知れないな」
「だと良いのですが」
エンハンスは、その事にあまり期待が持てない、とでも言いたげに呟いた。
「それにしても、あの時、あの場所にいた道化師がフランクだったなんて」
メアリーがその場の空気を変えようとするかのように新たな話題を提出する。
「あの場所?」
「うん、お父さんが捕まっていた時、私とホーネストさんで、広場に聞き込みに行ったんだけど、その時、広場の中央で大道芸をしていた道化師がいたの。それがフランクだったなんて、驚きましたよね?」
メアリーは、最後、エンハンスに同意を求めるように声を掛ける。
「ええ、そうですね。あれは、もしかしたら我々を見張っていたのかも知れない」
エンハンスの言葉にメアリーは、え? と、驚きの声を挙げる。
「あの果物売りのリンドさんが捕まったことから考えて、そうじゃないかと、私は疑っているのです」
「あのおじさんが捕まったことが、どうして?」
「彼が捕まったのは、探偵に対し批判的な言動をしたからだと、私はにらんでいます」
エンハンスの言葉に、メアリーはあの時に果物売りの男性が話していた内容を思い出そうと努力する。そして、探偵協会を悪の枢軸と言っていたことや、彼の仲間が探偵により逮捕されたことに不満を持っているらしいことを話していたことを思い出した。
「でも、あの程度で、逮捕されるだなんて」
メアリーは思わず声を荒らげる。
「だからこそ、何とかしないといけないんだ」
エンハンスは珍しく感情を表に出して応じる。その時メアリーは、なんのためにエンハンスがこの町に来たのか、少しだけ理解出来たような気がした。
「あの時フランクは広場の中央にいた、それでいながら、私達の会話を聞いていた、それは、私達に注意を払っていなければとても無理です」
すでに落ち着きを取り戻したエンハンスが言葉を続ける。
「となると、フランクは我々を監視していたのだ、と考えても不都合は無い」
「じゃあ、あのおじさんは、私達と話したから捕まったというの?」
メアリーの問いに、エンハンスは小さく頷く。
突然、机を叩く音が室内に響いた。
「許せねえ、腐っていやがるとは思っていたが、そこまでだったなんて」
アンダーウッドが机を叩いた勢いで、その上に載っていた食器が大きな音を立てる。
「そして、その手先として働かなければいけない俺自身がもっと情けねえ」
アンダーウッドの悲嘆に、メアリーは言葉も無く、ただその様子を見守るしかできなかった。
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