蒸気機関
「倉庫街へですか?」
「ええ。ここから倉庫街までどれくらいの時間が掛かるのか、確認しておかないと」
メアリーの疑問の言葉にエンハンスは応える。
「でも、どうやって移動するつもりなんですか?」
「そうですね、できる限り早い方法が良いのですが」
エンハンスは腕を組んで考え込む。
「ここから一番早く倉庫街に移動する方法って何か分かりますか?」
エンハンスの問いに、メアリーも首をかしげ、
「そうですね、辻馬車か、自動車じゃないでしょうか? ここから直接ラッピング方面に向かう乗合馬車は確か無かったので」
「そこにちょうど辻馬車がありますね。ちょっと聞いてみましょうか」
エンハンスの視線の先に、一台の馬車が停まっていた。馭者が大きな欠伸をしているところを見ると、客も無く暇を持て余している事は明白だった。
「ちょっとすみません」
エンハンスが声を掛けると、馭者の男性は欠伸を引っ込め、はい、はい、なんでしょう? と、営業用の笑顔を浮かべる。
「ここから、ラッピングの倉庫街に行きたいんですけど、どれくらいの時間が掛かりますか?」
「ここからかい? そうだねえ、道の混み具合にも寄るだろうけど、一時間程は掛かるかな。どうした、乗っていくかい?」
「一時間ですか。結構遠いですね。もっと早く行く方法は無いですか?」
「そうだね。最短で移動するなら、船が一番早いだろうね。すぐそこにセームズ川が流れているし、ラッピングの倉庫街も川と隣接しているんだから。とはいえ、船なんて普通は持っていないからね、現実的には自動車かな。と言っても、自動車だって持っている人は限られるが。と言う事で我々のような庶民にとっては、辻馬車しか無いというわけだ。どうだい、乗っていくかい?」
馭者がもう一度尋ねてきたが、エンハンスは手を振り、
「いえ、結構です。一時間では間に合いそうもありませんので、時間に間に合わせることはあきらめて乗合馬車を使うことにします」
「乗合馬車? ここからラッピングまで行くとなるとかなりの遠回りになりますぜ? まあ、無理にとは言わねえが」
馭者はエンハンスの判断に不満そうだったが無理強いをしようとはせず、再び欠伸をすると、話は終わったとでも言うように目を閉じた。
ホーネストは少し歩き、先ほどの辻馬車が見えない位置まで移動すると、そこに止まっていた軽馬車に声を掛ける。今度の馭者は先ほどの男とは違い、まじめな男らしく、シャンと背筋を伸ばし、客を待っていた。
「すみません、ここからラッピングまでどれくらいの時間が掛かりますか?」
同じ質問をしたが、返ってくる応えは同じ、一時間くらい、と言う物だった。
「ホーネストさん、それでどうするんですか?」
「そうですね、せっかくですから、乗っていきましょう」
エンハンスは馭者に乗っていくことを伝えると、馭者は二人のために幌になった座席の扉を開け、エンハンス達を中に通すと、自身は運転席に座り、鞭を振った。
「この後どうするんですか?」
ゴトゴトと揺れる荷馬車の中で、メアリーはエンハンスに尋ねる。
「そうですね、できれば自動車での所要時間も確認しておきたいところなんですが」
「それは無理ですよ。このリンドンで車に乗っている人なんて本当にごくわずかですよ。この街で自動車を見るとしたら、それこそ警察車両とか、救急車両、後は乗合自動車みたいな公共的な物くらいです。個人でお持ちになられているのなんて、女王陛下くらいじゃないかしら。女王陛下も、蒸気自動車の発する音がうるさすぎるからと言って、めったにお乗りになられないそうですし」
蒸気機関自動車が生まれたのは、二百年以上昔である。産業革命により、蒸気機関が爆発的に発達したのだから、馬に変わる動力として蒸気の力を利用しようとするのは当然の発想だったのかもしれない、それでも、蒸気機関自動車が実用に足るまでになるのは、それほど単純な物では無かった。
第一の問題は、そのサイズだった。初めて蒸気機関自動車が開発されたとき、大の大人二人分に余るくらいの大きさの動力を積みながら、だいたい時速二マイル(約三・二キロメートル)に満たない速度でしか走ることができなかった。これでは歩いた方が速いくらいで、この速さが第二の問題だった。
様々な研究、開発の末、自動車が実用に供されるには百年近くの時間が掛かった。
動力の小型化を実現するための蒸気機関の高性能化はもちろんのこと、高出力も実現し、二十人程度の乗客を乗せ、運行する乗合自動車がついに登場したのだ。その速度は時速四〇マイル(約六四キロメートル)にも達する。これは早馬の優に倍以上の速度となる。
しかし、乗合自動車はあまり普及しなかった。なぜなら、走行時の音が問題だったからだ。
数マイル先からでも聞こえてくるその走行音に、多くの人たちが耐えられなかったのだ。結果、乗合自動車はある限られた区間のみを走ることが許されるにとどまった。今メアリー達がいる探偵通りからラッピングへは市街地のど真ん中を通らなければ行くことはできず、当然走行禁止区域だ。
それでも、多くの人達が蒸気機関自動車の研究開発に注力し、ついに個人用の蒸気機関自動車が誕生したのは、ここ数年の出来事だった。
「そうですね。となると、一往は考えなくても良いでしょうか」
エンハンスはそれでもどこか不服そうだったが、とりあえず納得の姿勢を見せる。
「でも、自動車で移動したとして、到着時間はそんなに大きく変わる物でしょうか?」
メアリーの疑問にエンハンスは応えない。と言うよりも、彼自身、自動車に乗ったことが無いので分からないのだろう。
「自動車は最高時速で四〇マイルは出ると聞きました。馬車が一〇マイルですから、速くなるのは間違いないと思いますよ。ただ、道路の問題もあると聞いたことはありますが」
「きちんと舗装されていないと、車輪が嵌まって走れなくなるとか聞きますね」
メアリーも、伝聞による知識を口にする。彼女も当然、自動車に乗った経験などは無いため、その話題は自然、伝聞か想像が主となってしまうのだ。
メアリーもエンハンスも、これでは埒が明かないと感じたのだろう。二人とも黙り込んでしまう。馬車はリンドンの街を南北に縦断するセームズ川を右手に眺めながら順調に走り続けていた。川の上にはいくつもの蒸気船が走っている。その中の何隻かは今から二人が向かおうとしているラッピングの倉庫街に向かうのだろうか。
「そろそろ、リンドン塔が見えてきますよ」
沈黙に耐えかねたのか、メアリーがエンハンスに告げる。
「リンドン塔と言うことは、目的地はもう少しですね」
エンハンスもそちらに視線を向ける。リンドン塔はこのリンドンでも有数の観光地となっている。その塔が経てきた長い歴史を考えるなら、このリンドン塔は、リンドンでも最も深い歴史を持った建物と言えるだろう。リンドン塔はもともと、一一世紀にイングランドを征服したウイリアム一世の命令により外敵からロンドンを守る城塞として作られた。しかし、長い歴史の間にその役割は様々に変遷し、たとえば、国王が居住する宮殿として一七世紀中頃まで使用されたかと思えば、その後、銀行や造幣局、天文台に動物園などの目的で利用されてきた。中には監獄として使われた時期もあり、多くの人たちが処刑もされたという暗い歴史もある。その中には決して悪人ではなく、無実の罪により命を奪われた人たちもいる。無念を抱いた幽霊が、今でも塔の中をさまよっているという噂すら有るくらいだ。
そしてメアリーは、無念を抱えたまま、無実の罪で処刑された人達と、父の現在の境遇を重ね合わせ、泣きそうになった。このまま父の無実を証明できなければ、父は縛り首になってしまう。その事実に今更ながらに気がついたのだ。
「大丈夫ですよ。アンダーウッドさんは必ず助け出しますから」
メアリーの様子に気がついたエンハンスがそう言ってメアリーの手を握る。エンハンスの優しい声に、何故か安心している自分にメアリーは気がついた。エンハンスは純然たる善意から少しでも自分を元気づけようとしてくれている、そういった意図を感じ、メアリーも思わずその手を握り返す。
そしていつの間にか、右手の景色はセームズ川からリンドン塔へと変わっていた。リンドン塔は、現在では観光地として有名な場所なので、何人もの観光客らしい人達がたむろしている姿が見える。その誰もが楽しそうな様子で、その場所に暗い歴史があるなんておいそれとは信じられないくらいだった。
リンドン塔を過ぎるとすぐに馬車は速度を緩める。目的地であるラッピングへと到着したのだ。エンハンスは適当なところで馬車を止めてもらうと、馭者に四シリングを支払い、馬車を降りる。
「一時間一三分」
エンハンスは懐中時計を取り出すと、ここまでに掛かった時間を確認する。その結果は馭者の言ったことが正しいことを裏付けるだけだった。
「そうなると、あの仕立屋を出て七時までにここに来るなんてとても無理ですね」
メアリーが確認すると、エンハンスは小さく頷き、懐中時計をポケットにしまう。
エンハンスは何かを考えているのか、メアリーに何も言わなかった。メアリーは何をして良いか分からず、周囲に視線を巡らせる。と、突然一点を見つめ、あれ? と、驚きの声を挙げた。彼女が何を見つけたのかと、エンハンスがメアリーの見ている方向に視線を向けると、青いラウンドハットを被った女性が一人、こちらに背を向けて立っていることに彼も気がついた。
「リンダ?」
メアリーがそちらに近づき、背後から声をかけると、声をかけられた女性はびくりと体を震わし、恐る恐る振り返った。
「あら、メアリー、こんな所で奇遇ね。何をしているの?」
「何って、さっきも言ったじゃない。ホーネストさんに街を案内しているのよ。そういうあなたは」
と言ったところで、今度はメアリーが、二〇歳前後のシルクハットにスーツ姿の男性がリンダの隣にいる事に気がついた。
「あら、こちらの方は?」
メアリーはそう言ってから、しまった、とでも言いたげな表情を浮かべる。彼が、リンダがメアリーに隠していたあの人物である可能性に発言をしてから思い至ったからだ。
「ええと、彼は、そう、エドワード・ウィギンスさん。私のお友達なのよ」
「エバンスさん、こちらの方は?」
ウィギンスはリンダにメアリー達の事を尋ねる。
「私はメアリー・アンダーウッドと言います。リンダの腹心の友です」
さっきのお返しだとでも言いいたいのか、腹心の部分に力を込めて名乗る。しかし、ウィギンスはその名前に聞き覚えがあるようで、
「ああ、あなたがメアリーさんでしたか。エバンスさんからよくお名前は聞いていますよ。お会いできて光栄です。あの、アンダーウッドさんのお嬢さんだとか?」
ウィギンスはそう言うとシルクハットを脱ぎ、右手をメアリーに差し出してくる。
「まあ、父を知っているのですか?」
メアリーは、その手を握り返し、尋ねる。
「もちろんです。この街で彼を知らない人はまずいないでしょう。なに一つ疾しいことの無い聖人の様な人くらいでは無いですか? 彼の名前を知らずに過ごせる人なんて」
「それでは、ウィギンスさんは聖人では無いのですね」
メアリーは、ウィギンスの物言いがおかしかったのか、思わず笑いだす。
「ええ。人並みには悪いことも考えていますよ」
ウィギンスはそう言うとウインクをしてみせる。その仕草に、なかなか茶目っ気のある男性だと、メアリーは好感を持った。
「そしてこちらが、エンハンス・ホーネストさん。昨日ササックスから来られて、今はメアリーの家で下宿をされているの」
リンダの説明を受け、エンハンスがウィギンスに向けて右手を差し出す。
「よろしくお願いします」
そんな言葉をお互いに掛け合いながら、二人は握手を交わした。
「ササックスから来られたということですが、どのような目的で?」
「まあ、色々です。田舎に引っ込んでいては分からない事も多いですからね見聞を広めるため、ということにしておいてください」
エンハンスははぐらかすような言葉で応える。
「僕も、以前から一度はササックスに行きたいと思っていたんですよ。確か、リンドンから六〇マイルくらいでしたか、汽車や自動車なら二時間もあれば着きますからね」
「自動車と言えば、ついさっき、自動車が遠くを走っていくのを見ましてね、ササックスには自動車なんて高級品ありませんから初めて見たんですけど、いやあ、速い物ですね」
エンハンスが突然そんな話を始める。それがあまりにも唐突すぎるのでメアリーは目を白黒させながらエンハンスの表情を見上げてしまったが、エンハンスは片目をつむって、彼女に黙っているようにと合図をする。
「そうでしょうね。最高時速で五〇マイル近くは出ますから。あれを知ってしまうと、馬車なんて欠伸が出るくらい遅く感じてしまいます」
「そんなに速いんですか? 例えばここから時計塔まで行くにはどれくらい掛かるか分かりますか?」
「時計塔ですか? ここからだとそうですね、三〇分もかからないでしょう。ただ、ここからあそこまで行こうと思っても、一般車両は走行を禁止されていますからね。実際は無理な話です。あの音がうるさいというのは理解しますが、そんな法律はさっさと撤廃した方が、色々と便利になると思うのですけどね」
ウィギンスの言葉に、リンダは頷き、
「本当にそうよ。メアリーも一度車に乗ってみなさいな。景色が風のように後ろに流れて行くのよ。あんな爽快な事ってそうは無いわ」
「リンダ? あなた、自動車に乗ったことがあるの?」
メアリーが驚いて尋ねると、リンダはどこか誇らしげに、
「ええ、何度か。うちのカフェに来るお客さんの中に自動車を運転できる人がいるのよ。その人にこっそり乗せてもらったことがあるの」
リンダがそんなことを言い出すとすぐ、ウィギンスが一度咳払いをする。すると、リンダはあわてたように、
「ああ、今の話はオフレコでお願い。内緒だったのよ。でも、メアリーなら約束を守ってくれるわ。大丈夫」
「それは大丈夫だけど」
メアリーは不安そうにウィギンスの様子をうかがう。あんな話を聞いて焼き餅でも焼いているのではないかと心配したのだ。しかし、ウィギンスはことさら腹を立てている様子も無く、なんの話も聞かなかったかのような澄まし顔を浮かべている。
「あの、ごめんなさい、メアリー。私たち、この後演劇を見る事になっているのよ。悪いんだけど」
リンダはメアリーの手を取り、申し訳なさそうな表情を浮かべる。
「こちらこそごめんなさい。気が利かないで。その髪型、とても素敵よドレスも決まっている」
「ありがとう。それじゃあね」
二人はハグとキスで別れると、すぐにメアリーはエンハンスに尋ねる。
「あの、ホーネストさん、どうしてあんな事を聞いたんですか?」
「あんな事?」
「自動車でどれくらいの時間が掛かるのか、と言う話ですよ」
「ああ、そのことですか。ウィギンスさんはたぶん、蒸気機関自動車運転の資格を持っていますよ」
「え? でも、どうしてそう思われるんですか?」
「彼の手がコークスで汚れていましたから」
二人が握手を交わした時に確認したのだろう。そんな説明をする。
「でも、コークスなら、工場で働いていても付くと思いますけど」
「それはもちろんそうです。ただ、彼の様子はブルーカラーと言うには洗練されていました。それなのに手にコークスを付けている。そういう職業は何かと考えたとき、運転手ではないかという考えが浮かんだのですよ。例えば貴族付きの運転手みたいなね。現に彼は自動車について並々ならぬ愛着を持っているようでしたでしょう?」
「確かにそれは感じましたが」
「たぶん、エバンスさんが乗ったという車を運転していたのも彼でしょうね。彼女を車に乗せた事をわざわざ秘密にする以上、車は彼の持ち物というわけではなく、彼の雇い主の物なのでしょう」
「そうかもしれませんね。でも、それで何か分かるんですか?」
「いいえ、まだなんとも。では、そろそろアンダーウッドさんを助けに行きましょう」
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