探偵協会
メアリーとエンハンスの二人は、探偵協会へと通じる道、通称探偵通りを二人で歩いていた。目の前にそびえるその建物は、近付くにつれてその威容をますます強くする。それに伴って、その道に続く建物の作りも立派になっていった。どうやら、その辺りは高級住宅街になっているらしく、さらにいうなら、その辺りは探偵協会の関係者が多く住む通りなのだと、メアリーがエンハンスに説明していた。
「さっきまでの騒がしさが嘘のようですね」
その道を歩きながら、エンハンスはそんな感想を洩らす。
「はい、この辺りはいつもこんな感じです。高級住宅街ですから」
メアリーはどこか険のある表情で応える。
エンハンスは辺りを見回しながら、その言葉が事実で有る事を確認しつつ、何度か頷いていた。
「ホーネストさん、この後どうするのですか?」
メアリーが隣を歩くエンハンスに問いかける。
「そうですね、誰か目撃者を、と思ったのですが、この様子ではそれも難しそうですね」
エンハンスはそう言うと、大げさに肩をすくめてみせる。辺りには全くと言って良いほど、人の気配が無かった。
「喫茶店や、商店くらいはあるかと思ったんですけどね」
エンハンスはため息と共にそんな言葉を口にする。
「この辺りは、完全に住宅地ですから」
メアリーはそう言って、エンハンスの希望を否定する。
「その様ですね」
それでもあきらめきれないのか、エンハンスは周囲に目を配る。と、一軒の人家で、庭先の花壇を手入れしている老女を見つけた。
「こんにちは」
エンハンスが手を挙げ、気さくな様子で声を掛ける。突然の声に老女は顔を上げると、
「はい、はい、なんですか?」柔和な笑顔を浮かべ、ゆっくりと立ち上がる。
「実は、私達、人を探しているのですが」
「人捜し? それはまたどうしてですか?」
「いえ、昨日の事なのですが、この道を行ったところの広場で、スリに遭いまして、その時それを取り返してくれた探偵の方がいるのですよ。名前は聞けなかったのですが、大柄な男性で、P級の徽章を付けていたことは覚えているのですが」
「P級?」
「はい。ちょうど今くらいの時間だったのですが、その方は私達に財布を返してくれた後、この道を行ったように思うのです。その様な男性を昨日見ませんでしたか?」
「昨日、この時間にねえ。私は昨日も庭いじりをしていたから、誰かが通れば見ているとは思うけど、いかんせん、私ももう年だから、記憶力がねえ」
そう言って、老女は頬に手を当てる。
「そうですか。その方に一言お礼をと思ったのですが」
「その方は、P級の探偵さんだったのよね?」
老女の問いかけに、エンハンスは、はい、と応える。
「なら、モイーズさんかしら。昨日、ここを通ったかどうかは覚えていないけど、ここを通るP級の探偵さんというと、モイーズさんくらいだし」
「P級の方はあまりここを通らないのですか?」
老女の言葉に、エンハンスは首を傾げる。
「ええ。この道は、S級の方や、協会の上層部の家が多くありますし」
そう言って老婆は一軒の大きな家を指さした。
「例えばほら、あちらなんて、S級の、あら誰だったかしら? とにかく、何とかさんのお家だったりしますし」
老婆の示した先には、モイーズが殺されていた倉庫の数倍は有ろうかという敷地を持った大きな邸宅が建ち、探偵の力の強さを示していた。
「こちらに住んでいなくても、協会に用があるからでしょうね。そう言った方達が多く通る道らしくて、P級やH級の探偵の方は避けるんですよ。ほら、やっぱり、お偉いさんとはあまり顔を合わせたくないのでしょうねえ」
老女はそう言って微笑む。
「それなのに、モイーズさんはこの道を良く通っていたのですか?」
「ええ。何でも、S級の探偵の、なんとかさん、本当に嫌ね、年を取ると物忘れがひどくなって、ほらあのお宅」
そう言ってさっきの家を再び示し、
「あちらの方と仲が良いとかで、この道もよく通っていましたよ」
「では、その方かも知れませんね。今の時間に限らず、昨日、モイーズさんがこの道を通る姿を見かけませんでしたか?」
エンハンスが問いかける。しかし、老女は首を振り、
「覚えていませんねえ。通ったかも知れないし、通らなかったかも知れない。でも、どうしても会いたいというのなら、ほぼ毎日のようにこの道を通っていますから、ここで待ってみてはどうかしら? 顔を見たら、モイーズさんかどうかは分かるのでしょう?」
老女の提案に、エンハンスはそうですね、とだけ応え、礼を言ってその場を離れた。
「はっきりとしたことは分かりませんでしたね」
メアリーがそう言って話しかける。
「そうですね」
エンハンスは言葉少なに応える。その様子に、何か考えをまとめようとしているのだろうと感じたメアリーは、それ以上言葉を挟まず、ただエンハンスの隣を歩く。
そして二人は、探偵協会の敷地へと続く大きな門の前に到着した。見上げるばかりに大きな、その鉄柵でできた門の両脇には銃を携え、制服に身を包んだ衛兵が一人ずつ直立している。その四つの瞳はエンハンス達の一挙手一投足を見守っているが、声をかけようとはしない。ただ、少しでもおかしな行動を取ればすぐに飛びかかれる、その物腰が無言でそう語っているように見えて、メアリーは無性に不安になった。
「ホーネストさん」
不安になったメアリーが思わず、エンハンスの名を呼ぶ。
「大丈夫ですよ。何もやましいことをしているわけでは無いのですから」
エンハンスは落ち着いた様子でそう応えると、周囲を見回す。と、通用門から協会の中に入ろうとする、背広姿の男性が目に付いた。その男性は両手にも数着の背広を持ち、エンハンス達に不審げな視線を投げたが、それでも、何も言わずに中に入っていった。
「何、あの目、感じ悪いわ」
メアリーは思わず呟く。
「まあ、こんな場所で意味も無く立っている私達が怪しいのは間違いないですからね、仕方ないですよ」
エンハンスはそう言って宥めると、ここを離れましょう、とメアリーに告げた。
「どうするんですか?」
すでに歩き出しているエンハンスを追いかけながら、メアリーが問いかける。
「ちょっと気がついたことがあります」
エンハンスは前を向いたまま応える。
「気がついたこと?」
「ええ。そこで話します」
そう言って示したのは、街路樹の下だった。
二人は、協会の入り口から、木によって身を隠すような位置に身を置く。
「気がついた事って何ですか?」
メアリーが尋ねると、
「服です。モイーズが着ていた服の色が、昨日と今朝見た時で変わっていました」そう応えた。
「服ですか?」
メアリーはエンハンスの言葉を繰り返し、そして、昨日、背広の背中が大きく裂けていたことを思い出した。メアリーがその事をエンハンスに告げると、
「ええ、そうでしたね。たぶんですが、モイーズはあの後、着替えるために家に一旦帰ったか、もしくは仕立屋にでも行ったのではないかと思います」
メアリーも、それはありそうなことだと思った。破れた背広を修繕するためにも、また、新しい服を手に入れるためにも仕立屋に行くのは自然の行為だ。
「さっき、背広を数着持った男性が協会に入っていきました。たぶん、彼は協会お抱えの仕立屋なのだと思います。ですから、私は彼が出てくるのをここで待とうかと考えています」
「でも、モイーズがその仕立屋を使っていたとは限らないと思いますよ?」
「ええ、分かっています。ただ、そこを使っている可能性は高いとも思っています」
「どうしてですか?」
エンハンスの口ぶりがあまりにも自信ありげだったため、メアリーは思わず問い返していた。
「モイーズは、P級で有りながら、P級やH級の探偵があまり好んで通らない探偵通りを頻繁に使っていたと先ほど聞きました。その事から考えられることは、モイーズは極度の見栄っ張りでは無いかという事です。他の者とは違うということを誇示したいために、わざわざその様な道を通るのだろうと。とするなら、自らの衣装に対しても同じように考えるのでは無いでしょうか? そうすると、探偵協会が好んで使っている仕立屋を、わざわざ愛用していたとしてもおかしくはありません」
「なるほど」
メアリーはエンハンスの説明に思わず納得させられていた。
「もっとも、まだただの可能性でしか有りません。ですから、ここから先は私一人でも大丈夫ですので、メアリーさんは先に家に戻っていただいても構いませんよ?」
「でも」
「仕立屋がいつ出てくるかも分かりませんし、出てきたとしても、モイーズの情報を手に入れる事はできないかも知れません。無駄足になる可能性は高いですから」
しかし、エンハンスの提案にもメアリーは首を横に振り、
「乗りかかった船です。最後まで付き合いますよ。それに、気になるじゃ無いですか」と、微笑んだ。
「そうですか。では、彼が出てくるまでここで座って、少しお話をしましょうか。その方が周りから奇異に見られないですみます」
エンハンスはどこか安心したような態度を醸し出しながら微笑んだ。先ほどから数人の男性がメアリー達に不審そうな視線を向けながら通り過ぎて行くのが二人とも気になっていたのだ。特に、栗色の髪をし、シルクハットを手に、ステッキを脇に抱えた青年などはあからさまに二人に不審を抱いているらしく、立ち止まり、じっと視線を投げてきたりしたのだから、メアリーなどは羞恥で顔を赤くしたほどだ。
「食べませんか?」
エンハンスは、先ほど屋台で買ったリンゴを一つ、メアリーに差し出す。
「ちょっと、行儀は悪いですけど」
「大丈夫ですよ。これくらい、慣れています」
メアリーは微笑んでリンゴを受け取った。
仕立屋が出て来るのを待つ間に、メアリーはエンハンスの田舎のことを色々と聞き出していた。そして、ついには、一度、自分の目で直接その場所を見てみたい、とまで言い出していた。
「でも、本当に何もありませんよ」
エンハンスは苦笑を浮かべつつも、故郷をよく言われたことが嬉しいのか、まんざらでも無い表情を浮かべていたが、急に真顔になると、
「出てきました」と、メアリーの耳許に唇を寄せ、告げた。
メアリーも慌てて協会に目を向けると、ちょうど、先ほどの男性が、門番と会話を交わしている姿が目に入った。
「行きましょう」
エンハンスはそんな言葉と共に立ち上がる。そして、メアリーが立ち上がるのに手を貸した。二人は、できる限り自然に見える振る舞いをしながら、仕立屋と思しい男の後をつける。しばらく進むと、男は一軒の建物に入っていった。扉の上にスール・ロンドと言う看板が掛かっている。それが店の名前なのだろう。エンハンスはメアリーから、その場所は、先ほどの広場からも繋がる街路の一つで、この店のすぐ近くにリンドンの象徴として有名な時計塔があるのだと教えられた。
「となると、モイーズが昨日、ここに来たとしてもおかしくは無い訳か」
エンハンスは独りごちると、ためらう様子も無く、その店に足を向ける。扉には開店を示す札が掲げられてはいたが、店内に客のいる気配は無かった。
エンハンスは扉に手をかける。ゆっくりと引くと、扉に取り付けられたベルが甲高い音を鳴らす。
「いらっしゃいませ」
男性の声が店内に響く。小さなカウンターの奥にいる人物が先ほどの男性である事が、エンハンスとメアリーにはすぐに知れた。
「お邪魔します」
メアリーはおずおずとした態度で声を掛ける。
「何かご入り用でしょうか?」
男性はカウンターから声を掛ける。表情こそ柔和で、二人を歓待するような態度を示していたが、二人の身なりから、客では無いだろう事は気がついているのだろう。普通ならそのカウンターから出てきて接客するところなのだろうが、彼はそこから動こうとはしなかった。
メアリーは何となく、壁に吊り下げられている既製の背広に付けられている価格を見てみる。それは、彼女が常識として持っている、その手の背広に付けられる価格よりも数段高かった。
「ちょっと、お尋ねしますが」
「はい、なんでしょう?」
店主は笑顔のまま、首を傾げる。
「昨日、モイーズさんがこちらに来ませんでしたか?」
エンハンスは、今までとは違い、直截に尋ねる。店主にとっては予想外の言葉だったのだろう、彼は驚いた様な表情を浮かべた。
「探偵の方がよく利用する仕立屋がこの辺りにあると聞いたものですから、それはこちらでは?」
エンハンスの問いに、店主は困ったような表情で、あなたは? と問い返した。
「実は昨日、モイーズさんの服を破ってしまったのは私なんです。その責任を感じて、せめて、修繕費くらいなら弁償しようかと思ったのですが、昨日、こちらには来ませんでしたか?」
「ああ、そうでしたか」
エンハンスの言葉に、店主はあからさまに安心した様子を示す。
「確かに、昨日、破れた背広を持って来られましたよ。ただ、もうお代はいただいてしまっていますから、返すなら本人に……」
そこまで言ったところで店主は言葉に詰まる。
「どうかしましたか?」
エンハンスは首を傾げて問いかける。
「いえ」
店主はそう言って少しためらい、逡巡した後、
「隠す事でも無いのでお伝えしますが、モイーズさんは昨夜亡くなられたのだそうです」
その言葉に、エンハンスは驚いたふりをする。その態度は、エンハンスがそんな事はすでに百も承知である事を知っているメアリーですら、それが演技だとは思えないほどの驚きようだった。
「それはいったい、どうしてですか?」
エンハンスが身を乗り出して尋ねる。
「詳しいことは私も聞かされていないのですよ。ただ、殺されたとしか」
「殺された? 犯人はもう捕まっているのですか?」
エンハンスの問いかけに、仕立屋の店主は、
「ええ。今朝、すぐに逮捕されたと聞いています」
「そうですか、それは迅速なことですね」
エンハンスも体を乗り出すのを止めて、安心したような声を出す。
「ですから、あなたもその代金のことは忘れてしまうのが良いですよ。死人にお金は、無用の長物ですから」
「そうですね、そうします」
エンハンスはあっさりと言うと、
「でも、人生というのは何があるか分かりませんね。昨日はあんなに元気そうだったのに」
「そうですね。昨日、新しい服を卸したばかりでしたが、それも一回着ただけになってしまいました」
「新しい服ですか?」
エンハンスが相づちを打つ。
「ええ。昨日、閉店の一時間ほど前に来られて、既製品で良いから、一着くれと。かなり慌てていたらしくて、走ってこられたようでした。そして、背広が破れてしまったので修繕してもらえるかと言って、その時着ていた背広を置いて行かれました。そういえば、あの背広の修繕も無駄になってしまいました」
「そんなにあわてていたという事は、その後、何か用事でもあったのでしょうか?」
エンハンスの言葉に、店主は、さあ、そこまでは、と首をかしげ、
「ただ、あれがモイーズさんを見た最後と思うと、少し寂しくなりますね。モイーズさんにはいつもご贔屓にしてもらっていましたから」と、息を吐いた。
「そうなんですね。本当に、人生というのは一寸先は闇ですね」
エンハンスの言葉に店主は、本当に、と大きく頷く。そこでエンハンスはちらりと店に掛かっている時計に視線を送り、
「ところで、こちらの閉店は何時ですか?」
「七時です」
エンハンスの問いに、店主はそう応えた。
エンハンスとメアリーの二人は揃って店を出ると、少しも行かないうちにメアリーがエンハンスに話しかける。
「結局、モイーズの足取りは、はっきりとは分かりませんでしたね」
「え? あ、ああ、そうですね。ただ、想像をすることならできますよ」
メアリーの言葉に、一瞬虚を突かれたような声を出したエンハンスは、しかし、その様な言葉で逆にメアリーを驚かせた。どういうことですか、と尋ねるメアリーに、エンハンスは、
「良いですか? 昨日、どうしてモイーズがこの仕立屋に来ることになったのかを考えてみてください」
二人は、往来の真ん中で立ち話をするわけにも行かないため、道の端により、話し合う。
「それは、服が破れたから、新しい服が必要になったからですよね?」
「そうですね。ただ、服が破れたことをモイーズはすぐには気がつかなかった。気がついていれば、まっすぐにこの仕立屋に来たか、もしくは家に戻って新しい服に着替えたかしたでしょう」
「それはそうですね」
「それをしなかった理由は二つ考えられます」
エンハンスはそう言って指を二本立てる。
「二つですか?」
「はい。一つは、緊急の用事があったために、服のことは後回しにした場合、もう一つは破れていることに気がつかなかった場合です」
「気がつかなかったなんて事があるのですか?」
メアリーはエンハンスの言葉に首を傾げる。
「今回破れたのは背中の部分です。本人が着ている限り、自分自身で気がつくことはなかなかできません。となると、気がつく方法は二つ、服を脱いだ時か、他人に指摘された時です。この様に考えた場合、後回しにしたという場合も、同じくくりに実は入れる事ができます」
「つまり、早いうちに服が破れていることを指摘されたか、それともだいぶん経ってから指摘されたかの違いと言うことですね」
エンハンスの言葉を受けて、メアリーが自らの考えを述べる。
「そういう事です。そして、そうなると、可能性として考えられるのは一つしかありません。彼は、誰かと会っていたということです。もちろん、それが誰だったかまでは分かりませんし、何人と会っていたのか、また、何組とだったのかは分かりません。それでも、誰かと会っていたことはほぼ確実だと思います」
「でも、それで何かが分かるわけでは無いですよね」
メアリーはエンハンスの結論に、落胆とも付かない息を吐く。
「ええ。ですが、人と会っていたとするなら、かなりの大物であることは想像出来ますよ」
「どうしてですか?」
メアリーは、もう、今日何度目なのか分からない、質問の言葉を吐く。
「モイーズが、時間ぎりぎりに仕立屋に駆け込んだからです。もし、それほど立場が上の人物が相手でなければ、モイーズは、その相手を待たせてでも仕立屋に出向いたでしょう」
モイーズは探偵通りを好んで歩くほどの見栄っ張りだった。そして、メアリーの家に押しかけた時のことを考えると、彼は傲慢だった。この二つを考え合わせた場合、確かに、人を待たせてでも体裁を取り繕うとするのでは無いかと、メアリーにも思えた。
「とはいえ、その人物と会った後、仕立屋に出向いている以上、モイーズが会っていた人物が何者であれ、その人物が犯人であると考える根拠にはとうていなり得ませんが」
エンハンスの言葉に、メアリーは、自分がモイーズを殺した犯人を捜していることを今更ながらに思い出していた。
「私達は、犯人に近付いているのでしょうか?」
メアリーが思わず尋ねる。モイーズ殺害の犯人を追っていることを思い出したことにより、父が容疑者として拘束されているその事実を再認識し、全くと言って良いほど容疑者も浮かんでこない現状に、不安を覚えたのだろう。
「メアリーさん、我々は、捜査を始める前と比べて、格段に多くのことを知っています。モイーズがどのような人物だったかを大まかにではあれ、知ることができました。探偵に対して悪感情を抱いている人物がいることも知りました。そして、あの日のモイーズが取った行動に対しても大まかなことは掴みました。これは大きな進歩です。決して遠ざかってはいない。それに、犯人がモイーズの顔見知りである可能性は高いと思います」
エンハンスがそう言って、メアリーの不安を和らげる。
「顔見知りですか。でも、どうしてそう思うのです?」
「つまり、なぜモイーズが、仕立屋に行ったのかと言うことです」
「それはだって、服が破れていたから、その代わりを手に入れるためでしょう?」
「それはその通りですが、その時刻が問題です」
エンハンスはそう言うと、何時だったか、思い出してください、とメアリーに要求する。
「確か、閉店前、六時頃だったと思いますが」
「そうです。仕立屋の話が事実であれば、だいたい六時頃、モイーズは仕立屋を訪ねています。おかしいと思いませんか? わざわざその様な時間に仕立屋に行くこと自体が」
エンハンスの指摘の意味を、メアリーは必死に考える。
「いいですか、もう、夜も遅いそんな時間、わざわざ新しい服を入手しなくても、家に帰れば代わりの服くらい有るはずなんです。服を一着しか持っていない訳は無いのですから。それでいて、モイーズは仕立屋に行きました。しかもかなり急いで。これはつまり、そのすぐ後で人と会う約束があったことが想像出来ます。家に帰る暇も無いほどすぐに」
「待ってください、モイーズが仕立屋に顔を出したのが七時前とすると、死亡推定時刻は十時から一時の間ですから」
「ええ。その人物に殺された可能性は高いと思います」
エンハンスは自信ありげに頷いた。
「でも、結局容疑者の名前は浮かびませんよ」
「それは、我々がモイーズの交友関係を知ることのできない立場にいるからです。ただ、アンダーウッドさんを助け出すことだけなら、手持ちの情報だけでもできなくも無いですよ」
エンハンスがあまりにもさらりと言うので、メアリーは危うくその言葉を聞き逃すところだった。ただ、エンハンスの言葉の意味が分からない、とでも言いたげに、エンハンスの顔を見つめる。
「どうかしましたか?」
じっと見つめられることに居心地の悪さを感じたらしいエンハンスは思わず目をそらす。
「今、なんとおっしゃいましたか?」
メアリーはおずおずと尋ねる。
「アンダーウッドさんを助けられる、と言った事ですか?」
「それは、本当ですか?」
「冗談で、あなたを悲しませるようなことは言いませんよ」
エンハンスはそう言って微笑む。
「我々は、事件の裏にある真実の一端にすでに指をかけています。それを引き寄せる事ができれば、アンダーウッドさんを助け出すことは可能です。ただ、犯人を指摘するところまではまだできませんが」
その言葉に、メアリーは思わず歓喜の声を挙げ、エンハンスを抱きしめると、その頬にキスをした。
「ま、まだ喜ぶのは早いです。我々はまだアンダーウッドさんを助け出せていませんし、検証も残っていますので」
エンハンスが慌てて言うが、メアリーの感激はその程度の言葉では打ち消すことはできなかった。
メアリーの興奮が収まるのを待って、エンハンスがメアリーに提案する。
「とりあえず、今から倉庫街まで移動してみましょう」と。
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