探偵の足取り

 辻馬車を使って一旦家に戻ったメアリーとエンハンスは、マーガレットに調査結果の簡単な報告をした。

 二人が出かける時もそうだったのだが、マーガレットは意外なほど落ち着いていた。その態度を疑問に思ったメアリーが、その事について尋ねると、あの人は誤解されやすいから、と答えた。いつかこういう日が来るかも知れない、以前からそう思っていたので、今更慌てたりはしない。正しいことをしているからといって、人から恨まれない等ということはあり得ない、逆に、世間様に顔向け出来ないようなことをしておきながら、それでも評価されている人間もいる、だからこそ、アンダーウッドは自らが正しいと信じることに従うように生きているのだ、と、良く語っていたらしい。

「へえ、あのお父さんが」

 その話を聞き終えて、メアリーはそんな感想を洩らした。

「ただ、馬鹿正直なだけだと思っていたわ」

 この時には彼女も、マーガレットの態度に影響されたのか、いつの間にか落ち着きを取り戻していた。

「そういう点も否定はできないけどね。私が思うに、その理由はきっと後付けなんじゃないかしら」

「お母さんも、結構ひどいことをいうのね」

 メアリーは呆れてその様な言葉を口にする。

「それにしても、あの人が見回りをしていた倉庫で死体が見つかったというのが不思議ね。どうしてあの人は死体を発見することができなかったのかしら?」

 マーガレットが首を傾げながらそんな疑問を口にする。

「だって、死体は使われていない倉庫の中にあったのよ? わざわざ中を調べたりはしないのじゃないかしら? 普通に考えたら、鍵も掛かっていただろうし」

「確かにそうね。でも、それなら逆に、どうして死体は発見されたの? あなたの言葉を借りるなら、そこは使われていない倉庫だったんでしょう? そんな所、誰も用も無しに入ったりしないと思うんだけど」

 その疑問に対し、メアリーは言葉に詰まってしまう。そして、エンハンスもまた、何か考え込むようにうつむいた。

「ハミルトンおじさんに、第一発見者について聞けないかしら?」

 メアリーが不意にその様な事を言う。

「それは難しいのじゃないかしら? ハミルトンさんだって、仕事上話せないこともあるでしょうし、こればかりは相手がいることだから、ハミルトンさんも簡単には漏らせないと思うわ」

「そうよね」

 メアリーもそう言って嘆息する。

「その辺りは一端忘れて、モイーズの昨夜の行動を追ってみませんか?」

 エンハンスがそんな提案をする。

「え?」

 メアリーが驚きの声を挙げるが、エンハンスは、

「我々で、事件を調べてみませんか?」そう言い直し、メアリーに提案した。

「確かに、メアリーはじっとしているのは性には合わないかも知れないわね」

 マーガレットがそう言って、エンハンスの提案に賛同に近い言葉を返す。

「でも」

 メアリーはそう言って躊躇する。

「無理にとは言いませんけどね」

 メアリーの態度に、探偵活動の真似事をするということに対する抵抗があるのだろう事を感じ取ったエンハンスは、そう言って手を振る。

「ホーネストさんは、父のえん罪は晴らされると思いますか?」

 メアリーが深刻そうな声で尋ねる。

「そうですね。脅すわけではありませんが、今のままだと難しいかも知れません」

 その言葉に、メアリーは表情を曇らせる。

「それはどうしてですか?」

 あまりショックを受けた様子の無いマーガレットが、言葉を無くしたメアリーの代わりに問いかけると、エンハンスは、

「捜査を担当している探偵が、アンダーウッドさんが犯人だと思い込んでいるように見えるからです」と応える。

「何か新しい情報が出てこない限り、これが覆されることは無いでしょう。それだけ、あのホワイトという探偵は、いえ、S級の探偵が持つ影響力は強いですから」

 エンハンスはそう言葉を続けると、メアリーはキッとまなじりを挙げると、

「そんな事、許されないわ」と、声を荒らげ、机を叩いた。

「まあ、落ち着きなさい。そうは言っても、S級の探偵が犯人だといえば、捜査陣は否応なくその方向に進んでしまうわよ。ウィルのような、探偵に対して反骨精神の強い人が捜査陣にいればまた話は別でしょうけど」

 マーガレットが落ち着いた態度でメアリーの興奮を諫めた後、その様に説明をする。

「それはそうだけど」

 メアリーは、母の冷静な様子に、一気に冷や水を浴びせられたように萎縮する。

「ホーネストさん、もしかして、こういう事に慣れているのでは無いですか?」

 言葉の出せないメアリーを放置し、マーガレットはエンハンスに問いかける。しかし、その問いに対し、エンハンスは明確な応えは返さず、

「お役に立てるかは分かりませんが、少し調べてみます」

 そう言って立ち上がる。

「ポリー、あなたもエンハンスさんと一緒に行ってあげなさい」

「でも」

 まだ、探偵行為に対する拒否感をぬぐいきれず、尻込みするメアリーに対し、

「ホーネストさんは、昨日この町に着いたばかりなのよ。道案内が必要じゃ無いの」

 マーガレットはそんな言葉でメアリーを説得する。それでも踏ん切りが付かない様子のメアリーに、

「あなたが探偵に対して良い感情を抱いていない事は知っているわ。でも、ホーネストさんはウィルのために何かをしようとしてくれているのよ。だから、それくらいは手伝っても罰は当たらないのじゃないかしら?」そう言って駄目を押す。

「そうね」

 メアリーはマーガレットに押し切られる形で首を縦に振っていた。

「でも、どうやって調べるんですか?」

 母の言葉に従い、エンハンスと共に家を出たメアリーは、石畳の道を歩きながら、エンハンスに問いかける。

「とりあえず、昨日、モイーズがここを出た後どこに向かったのかを調べてみましょう。そうすれば、彼がいつ、あの倉庫街に行ったのかが分かるかも知れません」

「そうですね。あの体ですから、色々と目立ったでしょうし」

 メアリーもエンハンスの言葉に同意する。

「でも、エンハンスさん、モイーズが何時に倉庫街に行ったのかが分かることに、何か意味があるんですか?」

「それはまだなんとも言えません。ただ、疑問ははっきりとさせておく方が良いと思いませんか? たとえ、それが何の意味も無いことだったとしてもです」

 エンハンスは真剣な表情で応える。しかしメアリーには、その言葉の裏にもっと別の意味が隠されているような、そんな気配を感じた。

「モイーズは、昨日、こちらに向かいましたね?」

 メアリーはそう言って、左側、西へと向かう道を指さす。

「ええ。ただ、こちらは倉庫街とは反対方向ですね」

 エンハンスがそちらに目を向けながら応える。

「あれは、まだ昼過ぎでしたから、別の場所に向かった後に倉庫街に向かったんでしょうね。たとえ、七時よりも前に倉庫に着いていたとしても、それだけの時間は十分あったと思います」

 メアリーがそう応えて歩き出す。エンハンスもその後を追うようにして足を動かした。

「こちらには何があるのでしょう?」

 エンハンスが、メアリーの横に並んで問いかける。

「そうですね、こちらは市街の中心ですから、人通りは激しくなります。だから、誰かにモイーズの姿は目撃されていると思いますよ」

「市街地ですか」

 メアリーの希望に満ちた言葉とは裏腹に、エンハンスはあまり喜びの感じられない声を出す。

「細かい路地を入ったのなら別ですが、普通に考えたなら、たぶん、この辺りを通ったと思います」

 メアリーがそう言ったのは、アンダーウッドの家から歩いて二〇分ほどの距離にある、ウイリアム四世広場だった。その広場から西に向かえば女王が住むダッキンガム宮殿、南に向かえばダウジング街と呼ばれる首相の住む官邸が、そこからさらに南に向かえばリンドンの象徴とも言える時計塔へと続き、まさにこの町の中心と呼ぶにふさわしい、賑やかな場所だった。

 大きな広場になったその場所には、野菜などを売る商人や総菜屋、果物などを売る露店が並び、呼び込みの声でとても騒がしい。その喧騒にふさわしく、人通りも激しく、人と肩をぶつけずに歩くことすら困難だった。

 エンハンスは物珍しげに辺りを見回す。彼は、この様な騒がしい場所にはまだ慣れていないのか、何度か人とぶつかり、その度に頭を下げていたが、相手は慣れた物なのか、あまり気にした様子も見せず、通り過ぎていく。

「大丈夫ですか?」

 メアリーが心配して尋ねるが、

「いやあ、これは大変な人出ですね。私の住んでいた町では、町の住人全てを集めてもここまでの人数にはなりませんでしたよ」

 エンハンスは、参ったとでも言いたげな表情で辺りを見回すと、そんな事を言う。

「ここは、いつもこんな感じですよ」

 メアリーはその様子に思わず微笑を浮かべる。

「そうなんですね。私はてっきりお祭りでも開かれているのかと思いましたよ」

 エンハンスはまるで子供の様に辺りを見回していたが、

「とりあえず、その辺にいる人に話を聞いてみましょうか」そう言って、広場の中央で時間をもてあましているらしい老人、露店を開く男性、花売りの女性など、昨日もその場にいたであろう人たちに声をかけていく。しかし、いくらモイーズが目立つ体型だったとしても、これだけの人通りのある中を通り過ぎる一人の男性を記憶に留めていた人物はなかなか見つからない。

「これだけ人の目があるのに!」

 メアリーは驚きの声を挙げる。

「人の目なんてそんな物ですよ。メアリーさんも、もし昨日ここを通った時にすれ違った人の事を覚えているかと問われたら、まず覚えていないでしょう? もちろん、その人物が知り合いやよっぽど記憶に残る特徴的な姿をしている場合は除きますが」

 エンハンスはメアリーにそう応えると、少し表情を曇らせる。そんなエンハンスの様子に不安を抱きながら見上げていると、

「あら、メアリーじゃない」

 そんな言葉と共に、メアリーは後ろから肩を叩かれた。メアリーが振り返ると、笑顔で手を振っている赤毛の女性を見つけ、目を見開く。

「リンダ? リンダじゃない? こんな所で何をしているの? 仕事は?」

 リンダと呼ばれた女性は耳の横に垂れていた後れ毛を少しいじりながら、

「今日は休みなのよ」と応え、頭に乗せている青い小さめのラウンドハットの位置を直す。

 リンダはロージェント・ストリートというリンドンの目抜き通り(ロージェント・ストリートは、ダッキンガム宮殿やウィリアム四世広場を繋ぎ、ダウジング街直前まで通じる、リンドンで最も賑やかな通り)にあるカフェで女給として働いている、そのような場所で働いているくらいだから、彼女は華やかな見た目をしており、メアリーにとっても自慢な友人だった。そのリンダが、平日の昼間にこんな所にいる、というのがメアリーには不思議だったのだ。

「そういうポリーこそ、こんな所で何をしているのよ?」

 と言ったところで、リンダはメアリーに連れがある事にやっと気がついたのか、不思議そうな表情をエンハンスに向ける。

「ああ、こちらはエンハンス・ホーネストさん。昨日から家に下宿しているのよ。ホーネストさん、彼女は私の友人でリンダ、リンダ・エバンスです」

 メアリーの紹介に、エンハンスはよろしくお願いします、と右手を差し出す。リンダもその手を取り、

「メアリーの親友の、リンダです。よろしくお願いします」と、親友という言葉を強調するように発音する。

「ところでホーネストさん、ホーネストさんは昨日からメアリーの所にお泊まりと言うことですけど、それ以前はどちらに?」

 リンダはエンハンスの手を握ったまま尋ねる。

「あなたがご存じかは分かりませんが、ササックスという小さな田舎町ですよ」

 エンハンスがそう応えると、リンダは目を輝かせ、

「まあ、ササックスですか? 私、一度あの街に行きたいと思っていたんですよ。静かで落ち着いた、とても良い場所だとお聞きしていますよ」と、エンハンスの手を離し、ササックスという土地に思いを馳せるように胸の前で両手を組む。

「なあに、ただ何も無いだけですよ」

「ちょっとリンダ、あなたがササックスに行きたいなんて初めて聞いたわよ。それ、本当?」

「当たり前じゃない。ササックスと言えば有名よ。だって」

 リンダはそこで言葉を切ると、

「まあ、あなたなら無理もないか」と、意味深な表情を浮かべる。

「いったい何よ?」

「別に。それよりも」リンダはそこで声を潜めると、

「男嫌いのあなたが、どういう風の吹き回しよ?」

「何がよ?」

「なにがって、二人でどこに行こうとしていたのよ?」

「どこって」

 メアリーは言葉に詰まる。まさか探偵の真似事をしているなんてとても言えない、なんと応えれば良いのかと口ごもっていると、

「私がこの街に来たばかりで色々と不案内な物ですから、無理を言ってメアリーさんに街を案内してもらっているんですよ」

 エンハンスがそんな説明をする。

「あら、そうなんですか」

 リンダはあっさりと納得すると、腕時計に目を落とし、まあ、こんな時間、と驚きの声を挙げた。

「この後、なにか予定が有るの?」

 メアリーが問うと、リンダは意味ありげに微笑み、まあね、とだけ言うと、二人に別れを告げ、急ぎ足で去って行った。

「あの子、上手くいっているのかしら?」

「どういう事です?」

 メアリーの呟きを聞きとがめたように、エンハンスが尋ねる。

「いえね、あの子、最近カフェに来るお客さんに気になる人がいると言っていたモノですから、その人と上手くいっているのかなっと」

「相手がどんな人かは聞いていないのですか?」

「ええ。いくら聞いても、あの子、教えてくれなくて。以前ならあの人とこんな話をした、とか、彼はこんな趣味みたいとか言ったように、こちらが聞いてもいないのに、どんな些細な事でも嬉しそうに話してくれたのに、今回に限ってはさっぱりで。でも、これが大人になる、と言うことなのかしら」

 と応えてから、メアリーは、こんな事をエンハンスに話す必要は無いし、彼に口さがない人間だと思われはしないかと思わず赤面する。

「大丈夫ですよ。心配しないでも、エバンスさんがメアリーさんに話してくれる時が来ますよ。だって、あなた方は親友なのでしょう? 彼女にも、あなたに話せない理由がきっとあるのですよ。今は、まだね」

 メアリーはリンダの心配をしているのか、それともリンダの距離が遠く感じられて寂しく感じているだけなのか、メアリー本人にも判別できていなかったが、エンハンスの言葉にはどこか安心を与えられるような、そんな力を感じていた。

 メアリーは笑顔を浮かべると、

「そうですね」と応える。そして、二人は捜査を再開することにした。と言っても、さっきからな何かが特別変わったわけではない。結局モイーズを目撃した人物はいないか、周囲に聞き込みをするしか無いのだ。こういう行為は探偵と言うよりはどちらかというと警察の仕事の範疇に入る。メアリーは改めて、警察が普段行っている捜査の大変さを認識した気がした。

 聞き込みをしながら広場の中央にある噴水辺りまで来た頃、路肩で果物を売る屋台を見つけ、エンハンスとメアリーはそちらに近づいて行く。

「お、兄ちゃん、何か買って行くかい? うちの果物はどれも新鮮だよ」

 エンハンスが声を掛けるよりも早く、向こうから声を掛けられた。

「このリンゴ、随分と不格好ですね」

 エンハンスは大きな車輪の付いた、手押し式の屋台に積まれている緑色をした形の整っていないリンゴを指さして疑問を口にする。

「ホーネストさん、これはブラムリーと言って、生食用ではなく調理用のリンゴなんですよ。アップルパイやアップルジュース、シードル(リンゴ酒)なんかにできるだけじゃなくて、お肉料理ともとても合うんですよ」

 メアリーがエンハンスの疑問に応えると、

「でもこのリンゴ、とてもおいしそう」と目を細める。

「お嬢ちゃん、お目が高い。うちのリンゴはね、ノッキンガムから直接取り寄せているんだ。もちろん、本来の使用用途である調理に使っても絶品だけどね、生で食べても十分いけるんだよ」

 店主は自信に溢れた態度で受け合う。

「じゃあせっかくなので、こちらのリンゴを四つ、もらえますか?」

 エンハンスがリンゴを指さして注文する。店主は威勢の良い返事と共に、リンゴを四つ、紙袋に詰め始めた。

「ちょっとお聞きしたいのですけど」

 その様子を眺めながら、エンハンスが問いかける。

「なんだい?」

「昨日、この辺りをモイーズという探偵が通ったと思うんですが、見ませんでしたか?」

「モイーズ? 探偵? すまないね、俺はそんな奴、知らないな。それに、もし通ったとしても、この人通りだぜ? いちいち覚えていられないね」

 男はリンゴの入った紙袋を差し出しながら応える。

「やっぱりそうですよね」

 エンハンスは、リンゴ四つ分の代金を払い、その紙袋を受け取る。

「ただ、探偵がこの辺りを通ったとするなら、あそこに向かったんじゃ無いのか?」

 男はそう言って南の方向を指さした。

「そちらに何があるんですか?」

「兄ちゃん、もしかしてよそ者かい? あっちに有る物といえば決まっている。首相官邸、と言いたいところだけどね、探偵協会さ。何せ、あの道は通称探偵通りと言うくらいだからな」

「探偵協会?」

 昨夜、エンハンスが目を留めた絢爛豪華な建物、それが男性の指さす先にかすかに見えていた。それが、探偵協会の建物である事を、エンハンスは改めて思い出していた。

「ああ、この辺りを牛耳る悪の枢軸、おっと、いけねえ、今のは冗談だぜ? もし奴らに聞かれでもしたら、命がいくつあっても足りやしねえ」

 男はそう言って大声を上げて笑う。それでも、この一言から、この男性の探偵に対する評価がうかがわれた。

「おじさん、おじさんもあまり探偵が好きじゃ無いのね」

 メアリーが、仲間を見つけた嬉しさから、その様な言葉を口にする。

「まあな、俺の仲間が何人か探偵の野郎に家に踏み込まれ、しょっ引かれているんだが、どれも気の良い奴らでよ、とても罪を犯すような奴じゃあねえんだ。そりゃ、俺たちはこんな、根無し草のような商売だ。お世辞にも柄が良いとはいわねえぜ? それでも、法に、いや、自らの信念に背くような奴らじゃあ、断じて無かった。それが、やれ、窃盗だ、やれ暴行だの、とても信じられねえ」

 男は感情の高ぶりを抑えようと苦労している気配をにじませながら、そんな話をする。

「それで、捕まった人たちは?」

「わからねえ。どれも死刑になるような重罪では無いから、たぶん、刑務所にでも入れられているんだろうさ」

 重苦しくなりそうな空気を、広場の中央で大道芸をしていた男性の大技が決まった瞬間に起こった人々の歓声がかき消す。

「ほほお、あいつは初めて見る奴だがなかなかすげえな」

 男がそのパフォーマンスを見て、その様な声を挙げた。それにつられるようにしてメアリーとエンハンスは後ろを振り向き、衆目を集めている大道芸人に目を向ける。ダボダボな服に、襟にフリルを付けた典型的な道化師の姿をしているその人物は、一つの芸が終わったところらしく、帽子を取り、恭しい礼をしていた。しかし、禿げ上がった頭の両脇に申し訳程度に添えられている毛髪が、その丁重な礼を滑稽なモノにしていた。

 道化師は続いてジャグリングの技術を披露しようと、観客に何か道具は無いかとジェスチャーで求めてる。道化師は声を出そうとはせず、その上、大きく真っ赤な唇が描かれた真っ白な仮面を付けているため、その表情は見えないのだが、それでも、彼が何を伝えようとしているのかを多くの人々が理解していた。

 観客の一人が、エンハンス達と話していた果物売りの屋台に目を留め、リンゴでジャグリングはできるかと道化師に尋ねる。道化師が頷くのを確認すると、観客が屋台に向かって走ってくる。

「兄ちゃん、何をしようとしているのかは知らねえが、気をつけなよ」

 果物売りの男はエンハンスにそう忠告する。

「え?」

 エンハンスが振り向くと、リンゴ売りの男性は何事も無かったかのように、観客の求めに応じ、数個のリンゴを提供していた。

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