閉ざされた空間
メアリーは憤懣やる方無い、と言った態度で足音を踏みならしながら進んでいく。エンハンスはその後ろを歩きながら、彼女を宥めようといろいろな言葉をかけていた。
「ホーネストさん、父は犯人では無いと言ってくれたのはあなたじゃ無いですか。それなのに、どうして明言しなかったんですか?」
メアリーは勢いよく振り向くと、そんな言葉をエンハンスにかける。
「確かに、私はアンダーウッドさんが犯人では無いと確信しています。それでも証拠が無い。それなのに、動機がある、機会もある、さらに言うなら、現場は閉ざされた空間だったとなると、今は何を言ったところであの人には受け入れてもらえませんよ」
「そう、問題はあいつよ。何さ、人を見下したような態度をとって。お高くとまってるんじゃないわよ。あら、失礼」
不意に、自らの言葉の乱れに気がついたのか、メアリーは恥ずかしそうに口元を押さえた。
「確かに、彼はあまり付き合いたいと思う人物ではありませんでしたが、それでも、S級の探偵です。裏で何を考えているのか」
エンハンスはメアリーの口調を気にした風も無く、ただ、警戒の言葉を口にする。
「もしかすると、我々に尾行を付けているかも知れませんよ」
「え?」
メアリーは驚いて振り向く。一瞬、建物の影に誰かが隠れたように見えたのは気のせいだっただろうか?
「まあ、そうでは無くとも、我々は容疑者の身内です。警戒されてしかるべきですからね」
エンハンスはこともなげに言う、しかし、メアリーにとっては、自分が尾行の対象になっているかも知れないと思うこと、それ自体が面白く無いことだった。
「私、やっぱり探偵を好きになれそうにありません」
メアリーが歩きながらそんな事を言う。
「まあ、無理もないですね。こんな横暴な態度を取られたら」
エンハンスはそう言って、メアリーに対し、同情の気持ちを見せる。
「でしょう?」
メアリーはエンハンスの言葉に大きく頷き、嬉しそうに笑う。しかし、エンハンスはその瞬間、真面目な表情に代わり、
「さて」と何かを見つめながら独りごちた。
メアリーが怪訝に思い、その視線の先を辿る。ここは海に面した倉庫街なのだが、一種の島のような形になっており、この島に渡るためには橋を渡らなければならない、その橋の一つが彼の視線の先に存在した。
橋の近くには小さな監視小屋が有り、そこに開けられた窓から、一人の老人が顔を出しているのが見えた。
「ちょっと聞き込みをしてみよう」
エンハンスはメアリーに話すというよりは、独り言に似た口ぶりでそう言うと、その小屋に足を向けた。
「おはようございます」
エンハンスがその老人に向けて挨拶をする。老人は一瞬驚いた表情を見せた後、笑顔を見せ、おはよう、と返した。
「見ない顔だね?」
老人は笑顔を浮かべたまま、二人の様子を観察する。
「ええ。昨日、この町に着いたばかりなので」
エンハンスはそう応えると、ところで、と声を潜める。
「なんだか、あちらの方が騒がしい様ですが、何かあったのでしょうか?」
「お前さん達、知らないで来たのかい? そうか、わしはてっきり」
老人はそう言うと、うさんくさそうにエンハンスを眺めていたが、
「まあ、良い、昨日来たばかりで事件に出会すとは、お前さんも運が無いな」
「事件?」
エンハンスはその単語を、さも、今初めて聞いたかのような態度で繰り返す。
「ああ、何でも殺人があったらしいぞ。さっきまでわしも事情聴取という奴を受けていてな。と言うのも、わしがここの見張り人だからなんだけどな」
二人が詳しく聞き出そうとする前から、老人は嬉しそうに話し出す。彼にとっても、殺人事件に対して重要な証言が出来ると言うことが珍しい体験だったのだろう。人に話したくてたまらないという思いがその表情に現れていた。
「いったい何があったのですか?」
エンハンスも興味が引かれたという態度で身を乗り出す。
「それがの、わしは昨日の夜、ずっとこの橋の見張りをしていたんだ。初めてこの町に来たお前さんには分からんだろうが、町からこの倉庫街に入るためには必ずこの橋を渡らなければならん。当然川沿いの倉庫だから、船の行き来はあるが、基本、夜は入れんことになっておる。暗くて危険だしな。つまり、夜の間はここを通らなければこの中に入ることはできんのさ」
老人はエンハンスの態度に気をよくしたのか、嬉しそうに話し出す。エンハンスもその言葉に真剣に耳を傾ける、その態度が、尚更老人の興を乗せたのだろう、エンハンスが相づちを打つまでも無く、彼は話し続けた。
「つまり、おじいさんの目の前を犯人が通ったということですか?」
ある程度の話を聞き終えたところで、エンハンスがそんな言葉を挟む。
「ああ、そういう事になるな。それも、驚くことに、その男は警官だった。以前からわしとも顔なじみでな、あの夜も挨拶を交わしたくらいだよ」
「それは、何時頃のことですか?」
「わしがここに詰めてから、二時間という所だったから、九時頃かな。彼がここを出て行ったのは十一時頃、随分とゆっくりと見回りをする物だと思っていたが、まさかね」
殺人を犯していたとは、言外にその様な気持ちを込めて、老人は言葉を締めくくった。
「と言うことは、おじいさんは昨夜の七時からずっとここにいたわけですか?」
メアリーが問いかけると、老人は、ああ、と頷き
「それが仕事だからの」
そう言うと、胸を張った。
「となると、おじいさんは被害者も見かけたのですか?」
エンハンスの問いに、老人は少し驚いた様な表情を浮かべ、
「それがの、不思議なことに見ておらんのさ。もちろん、七時よりも前にここを通ったのなら、当然見ていないわけだから、何にもおかしくは無いが」
「七時よりも前には、見張りはいないのですか?」
エンハンスの言葉に老人は首を振り、
「見張りは一往いるが、わざわざ確認はしない事になっている。物騒なことこの上ないが、昼は人の出入りも多い、確認しきれないというのが実情だ」
「となると、おじいさんがここにいる間に他に怪しい人物は?」
「誰も通らなんだよ」
老人は再び首を振る。
「なるほど、しかし、七時から今までとは随分と大変ですね。もうすぐ九時ですから、十四時間もここにいるわけですか」
「普段は、六時まで起きて見張りをすれば、後は奥のベッドで仮眠を取るなりなんなりしてから家に帰るんだが、今日はほれ、事件があったから」
「ああ、なるほど、それは災難でしたね」
「本当だよ。おかげで一時間ほどしか仮眠をとれず、たたき起こされたかと思ったら、ついさっきまで一時間以上質問攻め、本当に参ったわい。まだ朝食も摂れとらん」
老人は言葉とは裏腹に、嬉しそうな表情を浮かべる。
「それで、私達がさっきここを通った時には会わなかったのですね」
「まあ、そうなるの」
もしその時、この老人がいれば当然エンハンスの目に入っただろうし、逆にこの老人はハミルトンと一緒に歩いているエンハンス達を目撃したことだろう。もしその様子を見ていたなら、警官と一緒に事件現場に向かって行ったエンハンス達に不審を覚え、ここまでざっくばらんに話してはくれなかったかも知れない。そう考えると、エンハンスは幸運だったと思わざるを得なかった。
「そういえば、おじいさんの目の前を通ったと言っていた、その犯人はどうしたのですか? まだ逃げているとか?」
「いやいや、もう逮捕されたらしい。さすがはホワイトさん、S級の探偵なだけはある。知っているかい? といっても、昨日着いたばかりのあんたには無理な話か。あのホワイトさんは、この町一番の名探偵として誉れが高い方でね、今までも、いくつもの難事件を瞬く間に解決してきている。そこらにいるP級やH級とはやっぱり器が違うね」
「そうですか、それは安心ですね」
エンハンスは父が完全な犯人扱いをされていることに腹を立てているメアリーに、堪えるようにとでも言いたげな視線を送り、
「では、私はそろそろ帰ります。滞在初日からこれだと先が思いやられますよ」
そう言って、エンハンスは歩き出した。メアリーもその後に続く。その瞳には怒りが燃えていたが、エンハンスはできるだけ、それに気がつかないふりをしていた。
「ホーネストさん、父は犯人ではありませんよ」
老人の耳が届かないだろう場所まで移動すると、早速メアリーが食って掛かる。
「分かっていますよ。それでも、いろいろな情報は得られたでは無いですか」
エンハンスはメアリーの怒りを諫めるように手を振ると、そんな事を言う。
「どこがですか? 父以外、怪しい人物はいなかった、そう明言されたんですよ」
「確かにその通りですが、それは、アンダーウッドさんが即座に逮捕されてしまったからそうなったわけです。もし、まだ犯人が捕まっていないと言う状態だった場合、あの方は誰も怪しい人物は通らなかったと証言したことでしょう」
「そうは言っても」
メアリーは不安そうな表情で呟く。
「メアリーさんの不安は分かりますよ。私だって早くなんとかしたいという気持ちを持っています。とはいえ、事件解決の為には情報収集は不可欠です。とりあえず、当面の問題は何故、あの老人が被害者を見ていないのか。そして、何故、他の怪しい人物を誰も見なかったのか。この二点ですね」
「確かに、おじいさんがモイーズの姿を見ていない以上、モイーズが何時にここに来たのかは不明ですね。例えば、こういうのはどうでしょう? 犯人と被害者は七時よりも前に、一緒にか前後してかは分かりませんが、あの倉庫に向かった。そこで、一緒にただ時間をつぶして過ごしたのか、それとも何かの作業を行っていたのかは分かりませんが、十時を過ぎてから、犯人はモイーズを殺害した。犯行を終えた犯人は、橋の見張りがいなくなる六時まで倉庫街に潜んだ後、ここから逃げだした」
「確かに、それならあの老人が被害者の姿も、犯人の姿も見ていないことの説明はできますね。ただその場合、何故モイーズはこの倉庫街に来たのか、そして、犯人は何故この倉庫街で犯行に及んだのか、また、何故犯行を十時以降に行わなければならなかったのか、さらに、あまりにも長い時間、この倉庫街で過ごす必要が出てきます。七時以前から六時までとなると、十二時間近い計算になりますが、どうして、その様な事をする必要があったのか、それらに説明が付きません」
「例えば、犯人はこの倉庫で作業をしていた作業員の一人だったとか」
「それなら、七時以降に倉庫街に入ったとしても問題は無いでしょう。何人かの作業員の入場は確認されていますから。ただ、作業員内に怪しい人物がいなかったということは、先ほどホワイトさんが言っていましたから、アリバイの裏でも取れたのでしょう。倉庫作業は、基本一人では行いませんから、確認も容易だったと思いますよ」
エンハンスの言葉を聞いて、メアリーは考え込んでしまう。
「この事件において、大切なことはただ一つです。何故、犯人はこの様な倉庫街という閉ざされた空間で犯行に及んだのか。もしこの事件が計画的な犯行で有り、衝動的な殺人で無いとするならば、ですが」
「そんな理由が分かるのですか?」
メアリーの言葉にエンハンスは首を振ると、
「その理由が分かれば、この事件の九割は解決している、その様な気がします」と、メアリーに告げた。
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