殺された探偵

 次の日の朝、メアリーはいつもよりも早く目を覚ました。窓の外にはいつものごとく深い霧が掛かっている。いまや、このリンドンの街に霧のかからない日は無かった。そのためまだまだ薄暗いのだが、部屋の中にある掛け時計が七時を指し、既に朝が来ていることを教えてくれていた。

 メアリーは一年前までこの時間にはすでに起き出し、学校へ行く準備を終えていたものだが、卒業した今、彼女が早く起きる理由は特には無くなっていた。この時代、女性の働き口などほとんど無い。タイピストか看護婦、家政婦、ベビーシッターに教師、これは家庭教師も含むが、そして、店の売り子、これが女性が就く事のできる職業のほぼ全てだった。メアリーも一時は看護婦を志し、その系統の学校に通っていた。そして、卒業後は就職を希望したメアリーだったが、その思いはあっさりと打ち砕かれた。就職希望者に対し、働き口があまりにも少なすぎるため、どうしても競争が激しくなるのだ。そのため、就職希望者の間では、求人相手の気に入られるためにおべんちゃらを言ったり、賄賂を贈るという行為が横行していた。しかしメアリーの性格的に、自分がそういう行為をするということがどうしても受け入れられなかった。そういう点は父親のアンダーウッドと似ていると言える。かといって大学に進学するには、彼女の家は貧しかった。いくらメアリーの成績が良かろうと(実際に、彼女は学校でも優秀な生徒の一人だった)、この街では一部の裕福な人間しか進学を望むことはできない。ましてや女性が最高学府に進むなど以ての外だという意見もまだまだ根強い。そのため、今のメアリーは就職も進学もする事ができず、その結果、彼女は何の目的も無く、家の手伝いをする事によって、毎日をただ空虚に過ごしているだけとなっていた。

「このままではいけない」

 彼女はいつもそう思っていた。ただ、何をしたら良いのかが分からない、何ができるのかも分からない、このまま結婚して、家庭に入るのだろうか? 近頃はその様な事を思いつつあった。もっとも、彼女にはその様な相手もいないのだが。

 とはいえ、過去、メアリーにそういった浮いた話が無かったわけでは無い。事実、親しくしていた異性は何人かいた。しかし、そのどれもが親しい友人の域を出ることは無く、すぐに疎遠となっていった。というのも彼女の父親が刑事のアンダーウッドである事を知った多くの男性は、一瞬軽蔑の表情を浮かべた後、メアリーに対する態度がぞんざいになるか、与しやすいとでも考えるのか、歯の浮くような言葉を並べ、下品な視線を向けてくるか、といったような不愉快な経験を何度もる味わわされたからだ。彼らは警察よりも探偵を優れた存在であると認識し、あまつさえ刑事などは取るに足らない存在だと考えているのであろう事がありありと感じられた。確かに、この街の警察官の多くはもともと街の鼻つまみ者であったり、落伍者であったりする場合も多い。そのため、警察全体を馬鹿にする風潮は、特に男性に多く蔓延していた。その結果、彼女は男性という存在に対し不信感を抱き、いつしか少し距離をとるようになってしまった。彼女はそれだけ父を誇りに思っている、とはいえ、それを父に対して素直に態度に出したりはできないのだが。

 その時、不意にエンハンスの姿が思い浮かんだ。彼は、父に対し敬意を持って接してくれていた様に感じた。今の時代、そういう人物はなかなか貴重だった。それにしても、彼はいったいどのような目的でこの町に来たのだろう? その疑問が、彼女の頭を支配していたため、昨夜はなかなか寝付けず、また、その疑問のために今朝は早く目を覚ましてしまったのだろう、メアリーはその様に想像した。

 二度寝をする、その考えも魅力的だったが、あまりにも自堕落になると言うのは彼女の理性が許さなかった。そこで彼女はベッドから体を起こすと、身支度を調え、一階に下りていく。

「あら、今日は早いのね」

 朝食の準備をしていたマーガレットが、娘の姿に驚いた声を挙げる。

「うん、ちょっとね。何か手伝おうか?」

「じゃあ、玄関先の掃除でもしてくれるかしら? そろそろお父さんも帰ってくる頃だし」

 マーガレットの言葉に、メアリーは、はーいと、軽い返事をし、掃除道具を手に庭へと出る。そういえば、昨日は夜警だと言うことで、夜に出かけていった、彼女は今更にマーガレットの言葉でその事を思い出す。

 玄関を開けると、目の前には白い霧が立ちこめていた。いまやリンドンの名物となっているこの霧は、工場から出される煙による物だと言われている。それを聞く限りでは決して良い物では無いのだが、それでも、朝靄とも言えるこの景色はどこか幻想的で美しい物だと、メアリーは思わずにはいられなかった。

 箒を片手に、家の前の石畳を掃き掃除する。箒をリズミカルに動かし埃を払いながら、今日は何か良いことがあるかもしれない、などと根拠も無く機嫌を良くしていた。

 その時、メアリーの箒が立てる音とは別に、足音が聞こえてくる。こんな時間にこの辺りを通るのは、暇を持て余した老人が散歩をしているか、遅刻をしそうな学生くらいだ。そんな事を思いながら足音を聞いていると、その足音はどうもメアリーの家に向かって来ているように思えた。

「もしかして、お父さんかしら?」

 メアリーは独りごちると、箒を掃く手を止め、その足音がする方向に目を向けた。霧のためにはっきりとは見えないが、確かに人影がこちらに近付いてきている。

「やあ、おはようございます」

 ただの人影だった存在が明確に人の姿を現した時、その人物は、メアリーにそんな声をかけてきた。メアリーはその姿に驚いた様に目を見張る。

「おはようございます。ホーネストさん、どちらかへお出かけでしたの?」

 彼女はそう言って、突然現れたエンハンスの姿をまじまじと見つめる。今日の彼は、キャスケットにワイシャツ、蝶ネクタイ、そして吊りズボンといういささか幼い出で立ちで、昨日抱いた頼りがいのある人物という印象は若干薄らいだが、それが逆に親近感を与えてくれた。

「ただの散歩ですよ。この辺りがどんな場所か、見ておこうと思いまして」

 エンハンスは帽子を取り、乱れた髪の毛を少し気にしながら応える。

「まあ、そうですか。でも、この辺りには何も面白い物は無かったでしょう?」

 メアリーは謙遜などでは無く、心からそのように思っていた。この街に誇れるような物など一つも無いと本当に考えているのだ。

「そうでもありませんよ。少し行ったところにある墓地や、教会が美しく、感心していたところです」

 メアリーはエンハンスのその言葉に首を傾げた。ハイゲイト墓地や聖マーガレット教会などならいざ知らず、この近所にある墓地も教会も彼女にとっては見慣れた物で、目を惹くような物では決して無いからだ。それでもエンハンスが感心したという物をわざわざ否定する必要も無い、メアリーは、そうですか、と軽く返すに留めた。

「ええ。ただ、この辺りの地形には参りました。路地を一つ間違えただけで、すっかり迷ってしまいましたよ。やはり、都会は違いますね。私の生まれた場所では、路地なんて物すら無く、長い一本道を進むと、次の家、またその道を行くと次の家というように、迷う事なんて決して有りませんでしたから」

 エンハンスはそう言うと、本当に参りましたよ、と繰り返し、さわやかに笑った。

「霧のせいもあると思いますけどね」

 メアリーは一応の助け船を入れる。

「そう、霧ですよ。この霧、一体ぜんたい、いつもこんな感じなのですか?」

 エンハンスはどこか興奮気味に問いかける。

「そうですねえ、今日は特別濃いような、そんな気もしますが、霧自体は結構な頻度で発生しますよ」

「なるほど、なら、この霧にも早く慣れないといけませんね」

「すぐに慣れますよ」

 メアリーは笑って応える。

「そうだと良いですが」

 エンハンスがそんな台詞をうつむき加減に呟いたが、すぐに顔を上げる。

「どうかしましたか?」

 その動作があまりにも急だったため、メアリーは思わず問いかけていた。

「静かに、誰かの足音がします。かなり急いでいる、これは警察?」

 エンハンスは何故かその様な事を言う。霧で視界が効かないことを嘆いていた人物が、その霧の中で、こちらに向かってくる人物に気がつき、あまつさえ、その人物を警察だ、等という、その異常さにメアリーは首を傾げる。心のどこかで、まさか、と言う思いもあった。しかし、そんな事を思っていると

「大変だ!」と、エンハンスとは別の男性の声が聞こえてきた。

「あら?」

 その声に聞き覚えが有るような気がしたメアリーはそんな声を挙げ、声のした方向に目をこらす。まだはっきりとは見えないが、一人、メアリー達のいる場所に向かって、すごい勢いで走ってきている人物がいることだけは理解出来た。

「大変だ!」

 メアリー達の方向に走ってくる男性が再びそんな声を挙げる。メアリーにはその声にやはり声に聞き覚えがあり、今回はその人物が誰なのかもなんとなく見当が付いた。

「ハミルトンおじさん?」

 メアリーがその人影に向けて声をかける。

「その声はメアリーちゃんかい? これは良いところに」

 メアリーにハミルトンと呼ばれた男性はメアリーの呼びかけにそう応えると、よりいっそう足を速めてメアリーの元へとたどり着いた。

「やっぱりおじさん、いったいどうしたんですか? そんなに慌てて?」

 霧の中から姿を現した男性は切らした息を整えるために大きく深呼吸をしている。メアリーはふと気付いて、エンハンスに、

「こちらはジェラルド・ハミルトンさん、父の幼なじみで、同僚なんです」と紹介したところで、彼女はハミルトンが警察官である事を再認識した。先ほどエンハンスは、こちらに向かってくる人物を警察だと言わなかっただろうか? でも、そんなまさか、と心の中で思っていると、エンハンスは制帽を脱ぎ、額からたれてくる汗をぬぐう。そして、

「メアリーちゃん、大変なんだ、ウィルの奴が逮捕された」怒鳴るような声でそう告げた。

 メアリーにはその言葉の意味がすぐには理解出来なかった。ウィルというのは、彼女の父親、ウイリアム・アンダーウッドの愛称であると言うことはすぐに理解出来た。しかし、父と逮捕と言う言葉が、彼女の中ではどうしても繋がらなかったのだ。

「ハミルトンさん、いったい何があったのですか?」

 混乱している様子のメアリーに代わり、エンハンスがハミルトンに問いかける。ハミルトンは、一瞬エンハンスをうさんくさそうな目で見る。

「私は、エンハンス・ホーネストと言いますして、昨日からアンダーウッドさんの家でお世話になっている者です」

 ハミルトンはそれでも警戒の視線を解きはしなかったが、先ほど、メアリーが彼に自分の紹介をしていたことを思いだし、一応の警戒を解いた。

「詳しくは分からない、ただ、リンドン東部ラッピングにある空き倉庫で男性の死体が見つかったんだが、あの野郎、あろうことかその犯人が、ウィルだと言いやがるんだよ。何でも、犯行推定時刻にちょうど、あいつがその辺りを警邏していたというのがその理由だ」

「それは、おかしくないでしょうか? いくら犯行現場の近くにいたからと行って、警邏中の警官を犯人だと考えるのは、突飛を通り越していると思うのですが」

 エンハンスの落ち着いた物言いに、ハミルトンも多少の落ち着きを取り戻したのか、少し声のトーンを抑えると、

「俺もそう思うさ。それでも、何でも、被害者を殺す動機がウィルにはあると言うことなんだ」

「父が、人を殺す動機なんて持っているわけ有りません」

 メアリーが声を荒らげる。

「それはもちろんだ。当然そうだ」

 ハミルトンはメアリーを宥めるためにそう言って同意した後、ただ、と付け足す。

「お偉いさんが言うには、明確な動機なんだそうだ。なんでも、最近、二人の間で諍いがあったらしくてな」

「いったい殺された人物とは誰なのですか?」

 エンハンスは、彼が知っている人物の名前が出ることは無いだろうとは思いながらも、一応のつもりで尋ねる。

「なんでも、アンドルー・モイーズというらしい。この男が、P級とはいえ探偵の端くれでな、尚更ウィルの立場が悪くなっているんだ。あいつ、昔から探偵嫌いだからな」

 父が探偵嫌いであるという話を、メアリーは初めて聞いた。しかし、思い返してみると、父は昔から、探偵に対して色々と不満をこぼしていたような気がしてくるのだ。例えば、警察は、探偵の協力を拒むことができない、捜査権を持っているのは警察なのだが、探偵が出張ると、そちらに主導権を奪われてしまう、その事が気に入らないと言うことは良く聞いていたような記憶があった。

 と言うことは、私の探偵嫌いは父親譲りだったんだ、とメアリーはどこか安心している自分を感じていた。それだけ、今は探偵に対して好意的で無ければいけない世の中なのだ。

「モイーズというと、大柄で、赤毛の男ですか?」

「ああ。あんた、知っているのか?」

「一応、知っていると言っていいと思います。少しですが、言葉も交わしましたから」

「本当か? それはいつ、どこでのことだ?」

 ハミルトンが勢い込んで尋ねてくる。その様子に、エンハンスとメアリーは思わず顔を見合わせた。そうして、二人は、昨日、この場所で起こったことをハミルトンに説明する。

「ふむ、そんな事が」

 二人の話を聞き終えたハミルトンがそう言って納得した様子を見せる。

「つまり、二人の間にあったいざこざというのはその事なんだな」

 ハミルトンはそう言って一人で納得する。

「しかし、それはおかしくは無いでしょうか?」

 得心顔のハミルトンにエンハンスが待ったをかける。

「変というと?」

「アンダーウッドさんと、モイーズとは面識すら無かったはずです。その様な状況で、いきなり殺人まで発展するでしょうか?」

「それは、一方的に恨まれていると云う事もある。向こうから因縁をつけてきた様な状況でならあり得るだろう。突然襲い掛かってきた、その反撃で相手を死に至らしめてしまったとも考えられる」

「ちょっとおじさん、おじさんはいったいどっちの味方なの?」

 メアリーの言葉にハミルトンは汗を拭き、

「もちろん、ウィルさ。今のはただの一般論でな、しかしな、メアリーちゃん」

 そんなハミルトンとメアリーの会話を遮るように、

「では聞きますが、凶器はなんだったのでしょうか?」エンハンスがハミルトンに尋ねる。

 先ほどの質問はこれを聞き出すためのきっかけ作りだったのだろう。エンハンスはハミルトンに情報の提供を求めた。

「何でも、刃渡り二十センチ程度のナイフだったそうだ」

「アンダーウッドさんは、普段からその様なナイフを携帯していたのですか?」

 この質問はハミルトンにでは無く、メアリーに向けられた。

「いいえ、父は刃物をあまり好まなかったから。それに、二十センチというと、これくらいでしょう?」

 メアリーは二本の人差し指で大体の長さを示しながら、

「これじゃあ、普段から持ち歩けるような長さじゃ無いわ」

 父の逮捕と言う異常事態のためか、メアリーはさっきまでの丁寧な口調は影を潜め、普段の彼女が表面へと現れていた。

「となると、事前に準備をしていたと云う事になります。しかし、昨日のモイーズの様子を考えると、二人の間に会う約束など有ったとは思えない。もし約束があったとするなら、この家に来る必要など有りはしないのだから」

 エンハンスはそう言うと、つまり、と言葉を続ける。

「アンダーウッドさんが犯人である可能性はきわめて低いと考えられます」

 感情的には父は犯人では無い、と確信を持っていたが、それを論理的に説明はできなかったメアリーはエンハンスのその言葉に勇気づけられたように強く頷く。そして、

「おじさん、お父さんには会えないの?」と、ハミルトンに尋ねた。

「今はまだ取り調べ中だから、無理だろうな」

 ハミルトンは無念さを表情ににじませて応える。

「事件現場に案内していただくことはできませんか?」

 エンハンスがハミルトンにそんな事を言う。

「いや、しかし、それは」

 ハミルトンは困ったようにしどろもどろになる。一警官でしかないハミルトンにはその様な権限は当然無いのだろう。それでも、

「近くまで案内していただけるだけで結構です。その後はこちらで何とかしますから」

 そう宣言したエンハンスの言葉には強い自信がにじんでいた。

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