嵐の前

 その夜、メアリーは父とエンハンスの対面を、少し緊張した面持ちで眺めていた。父は、メアリーのことを溺愛していた。そのメアリーと一つ屋根の下で、若い男が共に生活すると言うことを父が許可するだろうか? 二人が初めて顔を合わせるその瞬間まで、その様な不安がふつふつとわき上がるのを、彼女は止めることができなかった。

 しかし、メアリーの心配とは裏腹に、エンハンスとアンダーウッド刑事の初対面はなかなか友好的な始まりだった。

「君が、妻と娘を救ってくれたらしいね? 礼を言うよ。ありがとう」

 一通りの挨拶を交わした後、アンダーウッドはエンハンスにそう言ってほほえみかけた。

「いえ、たまたま居合わせただけですから。それに、見て見ぬふりはできない質で」

「よく分かるよ。俺も同じような物だ。おかげで、始末書の山だがね」

 アンダーウッドはそう言うと、大声で笑い、エンハンスの肩を力強く何度も叩いた。

 アンダーウッドは身長こそ標準的だったが、その服の上から張り出すように膨れ上がった筋肉からも推し量れるとおり、豪快な態度だった。それは昼間、この家を襲撃したモイーズなど相手にならないと思えた。だからこそ、モイーズはアンダーウッドのいない時間帯を狙ってやってきたに違いない。これでは、町中でも一目置かれるか、もしくは畏怖の対象となるだろう、エンハンスも叩かれた肩が痛むのか、表情を歪ませていた。

「それにしても」

 アンダーウッドはそれまでの笑顔が一転、険しい物へと変わる。

「君は一体、なんの目的でリンドンまできたのかね?」

 その鋭い眼光は間違いなく刑事のそれだった。もしその視線に犯罪者がさらされたなら、怯えて真実をなにもかもさらけ出してしまうか、それとも恐怖で身が竦み何も言えないかのどちらかだろう。

「先祖代々の悲願のために」

 しかしエンハンスはそのどちらでも無く、落ち着き払った態度でそんな応えを返す。そのあまりにも大仰な言葉に、アンダーウッドは目を点にしてエンハンスを見つめ返した。しかしその表情から、その言葉に嘘や冗談が混じっていないことを確認すると、アンダーウッドは一つ大きなため息を吐き、

「そうか、なら無理に聞き出すことはできないな」

 そう言って、険しい表情を引っ込めた。

「ありがとうございます」

 エンハンスは素直に礼を言った。

「何、気にすることは無い。時に、その悲願、我々に手伝えることは何かあるかい? いや、決して内容を教えてくれと言っているわけでは無い。ただ、妻達を助けていただいた、少しでもそのお礼をしたいと思ってな」

「申し出はありがたいのですが、今のところ、どのようにすれば良いのか、私自身、まだ皆目見当も付いていませんので。もし、ご協力をお願いする事が出てきたら、その時はお願いします」

「ああ、遠慮せず、何でも言ってくれ」

 アンダーウッドはそう言って口角を吊り上げて笑った。それは、エンハンスの目的がかなり困難で有ることを感じとったアンダーウッドなりの優しさの表現方法だった。

「お父さん、じゃあ、エンハンスは」

 それまでハラハラと二人の成り行きを見守っていたメアリーが口を挟む。

「うん?」

 アンダーウッドがその言葉に、その様な頓狂な声で応える。

「うちに泊まってもらっても良いの?」

「当たり前だろう? 元々そういう話だったじゃ無いか。何をいまさら」

 アンダーウッドはメアリーの心配をよそにその様な事を言う。

「もっとも、お前が嫌だというなら、俺もすぐさま反対に回るがな」

「そういう訳じゃ無いけど」

 メアリーは困ったような表情を浮かべる。

「ただし、娘とあまり親しくしすぎるのは禁止だぞ」

 不意に、今まで以上に険しい表情を浮かべ、エンハンスをにらみつける。その表情にさしものエンハンスも、一瞬怯んだ様子を見せた。

「まあ、そんな心配はしていないが。なにせメアリーの好みのタイプは、俺みたいな力強い男だからな」

 アンダーウッドはそう言って大声で笑ったため、彼はその隣でため息を吐くメアリーには気がつかなかった。

 その夜はエンハンスの歓迎会も兼ねたささやかな晩餐会が開かれる事となった。アンダーウッドはこの日、夜警の仕事があると言うことで、その晩餐会は短時間で終わったが、それでも、エンハンスがアンダーウッド家に好意的に迎えられたと十分に思える時間となった。

 晩餐会も終わり、エンハンスは彼にあてがわれた部屋へと向かう。彼の部屋は二階に有り、それほど広いという訳でも無かったが、それでも以前、学生を下宿させていた折は、二人が寝泊まりをしていた事もあるその部屋は、成人男性一人が寝起きするには十分な広さを持っていた。

 エンハンスは窓を開けると、外の景色を眺めてみる。

 近代的とは言いがたい石畳の道、その上を一頭の馬が、幌を引いて通り過ぎる、がたがたという音が響く。周囲に視線を巡らせればレンガ造りの家々、彼方には工場の煙突から立ち上る煙。その煙は容赦なく空を覆い、この街全体にどんよりとした気配を漂わせていた。少し遠くの丘にはこの地方を収める領主の城が、月明かりの下でもはっきりと見てとれる。しかし、それよりも威厳に溢れ、豪華絢爛なる建物が、エンハンスの視線を捕らえて放さなかった。

「先祖代々の悲願のためか」

 エンハンスは、彼がアンダーウッドにこの町に来た理由を尋ねられた時に応えた言葉を繰り返した。その言葉に嘘は無い、彼は、彼の親や祖父、そのまた上の世代、全ての悲願を達成するためにこの地に来たのだ。もっとも、どのようにすればその悲願が達成出来るのかは分からない。それだけ彼らの悲願は困難な代物だった。それもそのはずだ、もしたやすい事であるなら、彼の代までその問題が残って等はいないだろう。彼らは代々、その問題を解決するために尽力してきたのだから。

 エンハンスはその建物から視線を引きはがした。何とか横に向けた視線の先では大きな月が、静かに町を照らしていた。

「そうだ。あの、月のような存在で十分なんだ」

 エンハンスは独りごちる。

「こんばんは、良い月ですね」

 不意にそんな声をかけられる。エンハンスはきょろきょろと辺りを見回す。

「こっちです」

 その声は上から聞こえたような気がした。彼はその声に導かれるまま、視線を真上に向ける。

「ああ、メアリーさん。そんなところでどうしたのですか?」

 エンハンスは、彼に割り振られた部屋の真上にある張り出し窓から体を乗り出しているメアリーを見つけた。

「ここは、屋根裏部屋なんです。私のお気に入りの場所なんですよ」

「屋根裏部屋ですか、良いですね。その響きだけでわくわくしますよ」

 エンハンスはそんな言葉を発する。その言葉が意外だったのか、メアリーは少し目を白黒させていたが、

「よければ、上がってきませんか? ここは屋根裏ですから、お世辞にもきれいな場所とは言えませんけど、町も月も、そちらからよりはよく見えますよ」

 エンハンスはその言葉に甘え、メアリーの説明に従い屋根裏へと移動する。

「なるほど、よく見える」

 張り出し窓から上半身を出し、外の景色を眺めながら、エンハンスは感嘆の声を挙げる。

「わずかな差なんですけどね。少し違うだけで随分と違うでしょう?」

 メアリーの言葉に、エンハンスは、ええ、と軽く相づちを打つだけだった。エンハンスの様子はただただ、その景色を楽しんでいる、メアリーにはそう見えた。

「ホーネストさんは、ササックスから来られたのでしたよね?」

 わずかなためらいの後、意を決したようにメアリーが問いかける。エンハンスは窓の外を眺めながら、

「ええ。実家はそこで、小さな養蜂業を営んでいました。私の両親と兄だけで切り盛りする、本当に小さな養蜂場ですが、なんだかもう懐かしいとさえ感じますよ」と応える。

「ホーネストさん、ホーネストさんは、この町をどう思いますか?」

 声の調子に、どこかただ事ではない気配を感じ取ったエンハンスが、外を眺めることを止め、メアリーに顔を向ける。

「どう、というと?」

「私はこの町で生まれ育ちました。町の外にもほとんど行ったことがありません。だから、どこがとは言えないのですが、それでもこの町は何かおかしいような、そんな気がするのです」

「おかしいですか」

 エンハンスはそれだけを言うと、視線を再び窓の外へと向けた。

「ホーネストさんは、ササックスから来られたと言うことですから、私よりは外のことに詳しいと思います。そのあなたの目から見て、この町はどう思われますか?」

「ササックスはとても田舎で、この町とは大きく違います。二百年前、あなたの嫌いなアンロック・サーチャーが活躍した時代から、何も変わっていません。進化が止まっています。それは、全ての人材がこの町、リンドンに集まり、そしてこの町でほぼ全ての物事が完結しているからだと、私は思います」

「でも、この町だって、そんなに先進的なわけでは無いと思いますわ」

 メアリーはエンハンスの言葉に首を傾げる。

「ええ、その通りです。私達の町が遅れているのでは無い、この国が遅れているのです。この国の周辺にある国々と比べて」

 エンハンスの言葉に、メアリーは目を見張る。その様な事は初耳だったからだ。彼女自身、この国以外にも国があることは意識していながらも、それらの国がどのような場所なのかは考えたことが無かった。

「周辺の国ですか?」

 メアリーは彼女自身の驚きをその言葉に込めて問い返す。

「ええ、そうです。我々が住む国と、周辺諸国との国交は、有る一部の階級にしか許されていない、海外から得た進んだ知識は、一部の人間にしか与えられていないのですよ」

「よその国は、そんなに進んでいるのですか?」

 エンハンスの口ぶりから、メアリーはその様な疑問を口にした。

「ええ、生活の水準がまるで違います。我々は、石炭をエネルギーのメインとして使用していますが、海外では今は電気が主流です」

 その時、一台の蒸気機関自動車がけたたましい音を立て、煙を噴き上げながらメアリーの家の前にある道を走り抜けていく。

「本当に自動車というのは無粋で嫌になります。そもそも、この辺りは走行禁止区間なのに」

 すでに走り去り、姿が見えなくなっているのに、未だに響く耳障りな轟音に顔をしかめ、メアリーが怒りをあらわにする。

「緊急車両ですかね。とはいえ、一刻を争う時というのはどうしてもありますから、有用ではありますよ。要は使い方です。もっとも、海外では電気式の自動車というのも作られているようですが」

「電気ですか?」

 電気と聞いて、メアリーが思い浮かべるのは、雷だった。その様な恐ろしい物が、どうして生活に利用出来るのか、彼女には想像すら付かなかった。

「そうです。例えばそこにある街灯、こちらではガス灯が使われています。ガス灯はガス灯で素晴らしい発明ですが、海外では電気により明かりを作ります」

 電気により灯りを作る、とはいったいそれはどのような方法なのだろう? メアリーには、皆目見当も付かなかった。あの恐ろしい雷を人間が制御できるなんてとても思えないし、たとえ制御できたとしても、稲光は眩しすぎる。それに、あんなに大きな音を常に聞いていないといけないくらいなら暗い方がましなくらいだ。

 メアリーがエンハンスにそう伝えると、エンハンスは声を殺して笑い、

「いや、失敬。それは確かにあなたの仰有る通りです。それに、突然こんな話をされても、混乱しますね。今はこの辺りで止めておきましょう」

 エンハンスは、メアリーの理解が追いついていない様子に気がつき、その様に言って話を締め切った。

「いえ、でも、ありがとうございます」

 メアリーはまだ混乱していながらも、そう言って頭を下げる。

「メアリーさん、あなたが疑問を持っているとしたら、この町にでは無く、この国にです。そして、あなたがこの国に疑問を持ってくれている、その事が分かっただけでも、私にとっては大きな収穫です」

 エンハンスの言っている意味が分からず、メアリーは少し首をかしげる。その様子に、エンハンスは、ははは、と声を挙げて笑い、

「さらに混乱させたようで、すみません。今日はもう遅い、そろそろ休みましょう。お気に入りの場所を教えていただき、ありがとうございました」そう言って一人、屋根裏部屋を出て行く。

 後に残されたメアリーは、エンハンスが何者なのか、何が目的でこの町に来たのか、そして何より、どうして一部の階級しか知らないと彼自身が語った周辺諸国との交易について、当の彼自身が知っているのか、そう言った、彼が語った言葉により生まれた疑問に頭の中を支配されていた。

 海外では電気を使って様々な活動を行っている、というのは本当だろうか? もしかして、物を知らない馬鹿な娘をただからかっただけなのではないか? メアリーは、そう考えたとき、頭の中に雷鳴が響いたような気がして、身を震わせる。メアリー本人にも理解できない恐怖がその身を貫いていた。

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