10

 私は暗澹たる気分を抱えながら黒田くんと話し合った。彼をパートナーとするのには相当な精神力が必要だったから。良い側面を見出だせたとしても、価値観の違う相手と同じ時間を過ごすことの辛さは他に例えようがない。それを置くとしても、私たちはある問題を認識せざるを得なかった。

 どうやって意中の相手を取り戻すか、ということだ。

 もしこれが中世の物語だとしたら、決闘でも何でもして奪い取ってしまえば良い。しかし、私たちは物語の中の登場人物ではないし、今の時代は決闘をすることさえ法律で禁じられている。それではどのようにして相手を土俵に上げるか、もし土俵に上げることができたとして私たちはどのような手段で戦えば良いのか、それが私には思いつかなかったのだ。


「考えてもダメなら、やってみるしかないだろ」


 それはいかにも黒田くんらしい直線的な考え方で、それだけに私の心に強く響いた。


「そうね、そうしましょう」


 私もまた、直線的な思考を経てそう答えた。






 行動を起こすにあたって最初の難関となるのは、野崎くんと小春が私たちを避けないかということだった。彼らが話し合いに応じてくれなければ、文字通り話は進まないのだから。しかし、私が話し合いの提案を小春に持ちかけたとき、彼女は意外にもあっさりとそれを受け入れた。彼女にそれだけの自信があったのか、それとも一挙にこの問題を解決しようとしたのか、それは分からなかった。

 話し合いにあたって、私のバイト先のカフェを使うことを彼女は承諾してくれて、彼女からもたった一つだけ条件を出してきた。

 雨天中止、それだけだ。

 私はそこに野崎くんの幻影を見たけれども、真っ白な雲が山の木々に影を落とすのを、遥か彼方から眺めているような心持ちがした。

 話し合いの当日、起き抜けにベッドから外を眺めた私は、青空が広がっているのを見て安堵した。もしもこの機会を逃すようなことがあれば、二度と野崎くんに追いつけないような気がしていたのだ。休日の朝のテレビはのどかな風景を映していた。世界は私たちの問題を全く無視して動いている、そのことを思い知らされたような気がした。

 話し合いは余裕をもって昼過ぎから始めることになっていた。ただ、私はカフェの場所を知らない黒田くんと待ち合わせるために少し早めに家を出た。多少は彼と打ち合わせしておきたいこともあった。前にも言ったように決闘をするわけではないのだから練習などは必要ないけれど、足並みを揃えておかなければきっと失敗すると思った。もっと素直に言えば、黒田くんの気持ちを確かめて私自身が安心したかったのだ。

 最寄りの駅の改札を出たとき、私は少し早く着き過ぎたかなと思ったけれど、もうそこには黒田くんの姿があった。いつもは軽装、極端に言えばジャージを着ていることもある彼が、珍しく締りのある格好をしていたので私は驚かされた。彼は彼なりに覚悟をしているのだ。私は自分のことばかり考え過ぎていて、そのことに今まで気付けずにいた。そのことを気付かせてくれただけでも、黒田くんには感謝しなければならなかった。


「おはよう」

「おう、おはよう」


 私たちはありきたりな挨拶をして、カフェへの道を歩き始めた。何度も通った道、何の変哲もない道。その道がどこへ通じているのか、今の私にはまだ分からなかった。






「僕は、表現者になりたいんだ」


 まず、野崎くんがそう言った。

 黒田くんが説明を求めると、野崎くんは表現者について語り始めた。表現者という言葉は一度だけ彼から聞いたことがあったけれど、それが意味するものを聞くのは初めてだった。


「僕が定義する表現者というのは、自分の内的世界を外的世界、つまり僕らが今認識している世界に問いかけ続ける者のことを言うんだ。それは義務的であるというよりも衝動的に、内側から湧いてくる自然な力によって成されるものなんだ。その目的はこの排他的な世界の中で自分という存在を確立すること。もっと言えば自分の力で世界をひっくり返すことができれば良いと思っている」


 彼の言葉が必ずしも分かりやすいものではなかったこともあって、私にはその全てが理解できたとは言い難かった。たとえ全てが理解できたとしても、私はそれを受け入れることができなかったと思う。黒田くんも小春も黙って聞いていたけれど、私は野崎くんの言葉を遮ってしまいたい衝動に駆られた。

 野崎くんが語り終えたとき、そこにはコーヒーの苦味のような落ち着かない沈黙が残った。彼の表現者としての能力は、少なくともこの場では十全に機能していたのだと思う。誰も口を開こうとしないので、半ば進行役のようにして私が疑問を提出した。


「小春は野崎くんの考え方に賛同しているの?」

「ええ。全てに盲従しているというわけではないけど、私は表現者としての彼を尊敬しているし、彼には才能があると思うわ」

「そのためには黒田くんを捨てなければならないの?」


 小春は少し間を置いてからそれに答えた。


「肉体は黒田くん、精神は野崎くん、そんなふうに都合良くやっていけるものではないから。そんなことをすれば、私はきっと壊れてしまうし、そうすべきではないと思ってる」


 小春の言葉もまた明確ではなかった。ただ、肉体を野崎くんに明け渡してはいない、そういうふうに理解することもできた。黒田くんも同じように理解したらしく、彼らの間に肉体関係がないらしいということは、黒田くんをいくらか落ち着かせたようだった。


「野崎くんは小春のことをどう思っているの?」

「良い共犯者だと思う。いつまでもこの関係が続くかは分からないけど、彼女は僕に良い刺激を与えてくれるから」


 小春はほんの僅かに俯いたようだった。野崎くんの言葉は、どこか小春という存在を軽視しているようにも思えた。


「一つ、訊いていいか」


 唐突に黒田くんが口を開いた。私が緊張を強いられる中、野崎くんは頷いた。


「表現という手段で自分の欲望を叶える、ってことで良いんだよな」

「極言すればそうなるね」

「その自分の欲望を叶えるということは、自分だけを幸せにするものなのか?」

「何を以て幸せとするか、それは人にもよるとも思うけど、僕の考える表現者が目指すものは自分の世界の構築であって、そこに他人が入り込む余地はない」

「小春を幸せにする気はないってことだな」


 黒田くんが低い声で呟いた。隣りに座っている私は少し恐ろしい気もしたけれど、同時に頼もしい味方を得た気分になった。

 彼が言いたいのは、野崎くんと歩むことでは小春に幸せな未来は訪れないのではないか、ということだ。少なくとも小春は自分を殺して野崎くんという個性に寄り添っていかなければならない。しかも、野崎くんの言うところによれば、その関係がずっと続くとは限らないのだ。野崎くんのどこまでも自分本位な考え方に、黒田くんは怒りを感じているのだ。

 そのことを即座に見抜いた黒田くんの洞察力と小春への想いに、私は今更ながら驚かされた。そして同時に、野崎くんの冷徹な考え方にも脅かされた。彼のような心根の優しい人が、どうしてそのような思考に辿り着いたのだろう? 彼がそうなってしまったのは、小春という外から来た存在が原因なのか、それとも彼の心の中に元々含まれていたものが原因なのか、それはよく分からなかった。


「小春はどう思ってるんだ? お前も詩を書いてただろ、一人の表現者としてこの男と一緒に生きていけると思うのか?」

「……私はそれで良いと思ってるわ」


 この問題の中心にいる野崎くんという人は、何という存在なのだろう! どこまでも自分本位なこの男に、私は惚れている。そのことが急に馬鹿らしく思えてきた。けれど、それが私の本当の気持ちなのだ。

 本当のことを言えば、私は野崎くんを殺してしまいたいと思っている。誤解のないように言えば、それは表現者としての野崎くんだ。私は彼の才能をいくらか認めながらも、その才能を潰してしまいたいと思っている。そんな私もまた、どこまでも自分本位な人間だった。


「少し休憩しましょう」


 次第に場の雰囲気が重くなってくるのを感じて、私はそう言った。こんなところで殴り合いでも始まってしまってはいけないから。私を含めて、野崎くん以外の全員が、少しほっとしたような表情になった。私と小春はア0イスコーヒーのお代わりを頼み、黒田くんはトイレに行った。

 野崎くんはというと、バッグからカメラを取り出して洗面台の方へ向かった。相変わらず自分の写真を撮るつもりでいるらしかった。

 席に残された私たち二人は、アイスコーヒーが運ばれてくるのを待ちながら言葉を交わすことなく俯いていた。道路に面したこの席に差し込む光が次第に弱々しくなってくるのを感じた。時計を見ると身体で感じていた以上に時間が経っていた。私たちはやはり黙ったまま俯いていた。

 先に黒田くんが戻ってきて、それから少しして野崎くんが戻ってきた。そこへアイスコーヒーが運ばれてきたので、話し合いを再開した。


「俺はお前の書くものが嫌いだ」


 今度もまた、黒田くんがいきなりそう言った。彼は小春の書く詩が嫌いなのだと。

 小春は視線を落としたままでこう言った。


「貴方、私の書いたものなんてまるで興味なさそうにしてたくせに」

「最初はそうだった。でも段々と関心が向くようになって、そして嫌いになった」


 私は小春の書いたものを読んだことがなかったら、黙って二人の表情を見比べていた。彼女が詩という形で表現しようとしているものは、何となくだけれど想像がついた。強くはないけれど決して消えることのない小さな炎。そうした芯の通ったものを、彼女は書いているのだろうと思った。


「お前の世界を分かってやることができなかったのは悪いと思ってる。でも、その男はお前の世界を理解しないどころか見ようともしてない。本当にお前はそれで構わないのか?」

「ええ、きっと構わない。もう私のちっぽけな世界に構っているのはやめて、彼の大きな世界の中に身体を埋めて生きていくわ」

「でもそれは」


 私は思わず口を出した。小春と黒田くんの視線が同時にこちらへ向く。


「でも、仮に野崎くんの世界と比べて小春の世界がちっぽけだとしても、それは貴女の世界の否定にはならないと思う。今までのように自分の思うままに表現すれば良いと思うの。だからどうして、貴女は自分を殺してまで野崎くんと一緒になりたいの?」

「理屈じゃないわ。私のこの野崎くんに対する感情が風邪のような、一時的な病のようなものだとしても、そこに煌めくものは一生かけても色褪せないものだと思う。私がいつか一人きりになったとしても、私はそれだけで生きていけるわ」


 小春はどこまでも寂しくて悲しい人だと感じずにはいられなかった。そのような人に対して、黒田くんの愛情は独り善がりであり過ぎたのかもしれない。それでも黒田くんは、小春が野崎くんに傾斜するのと同じように、小春に対して執着していた。果たして、私は自分の野崎くんに対する感情をここまで盲信できるだろうか?


「……」


 重苦しい沈黙を具象化するかのように、急速に黒い雲が流れ込んでくるのが見えた。私はこの対決が不首尾に終わろうとしていることを悟らずにはいられなかった。


「これで終わりね。私は野崎くんと一緒に歩いて行く。貴方達は勝手にすれば良いわ」


 小春と野崎くんが立ち上がる。私と黒田くんはそれを引き止めることもできず、二人が店の外へ出ていき、その後姿が見えなくなるのをただただ眺めていた。


「……力になれなくて悪かった」

「私こそ」


 私たち敗残者はお互いの傷を舐め合う気力さえなくなっていて、どうしようもなかった。

 店の前で別れた黒田くんを見送るうちに、小さな雨が尖兵となって私の身体を射抜いた。次第に強まる雨の中に立ちすくんで、私は雨とも涙とも知れぬ液体で顔をぐしゃぐしゃにしながら、再び歩み始めることすらできなかった。

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