09

 私の進むべき道は決まった。次の段階に進むべきだ。

 けれども、ここで一呼吸置くべきだという気がした。それは直感だ。次の段階に足を踏み入れてしまうと、きっともう元の日常には戻れなくなってしまうだろう。だから私は、今ここにある日常を大切にしたいと思った。

 私の日常。朝起きてまずするのはシャワーを浴びることだ。いつからか習慣になってしまったその作業は、一つの儀式のようなものになっていて、それなくしては一日を始めることができない。とは言っても、私は特別綺麗好きというわけでもない。それにいくら皮膚の上を擦ったところで、その身の内に潜む穢れは取り除けない、そのことは分かっている。同じことをするにしても、そのことが分かっているのと分かっていないのとではまるで違うのではないかと思う。

 シャワーを浴びた後は食事をとる。和食のときもあれば洋食のときもある。気分次第だ。それから荷物を点検して外出ようにめかしこんで家を出る。

 朝はとにかく早く起きる。シャワーを浴びたり食事をしっかりとるからというのもあるけれど、混雑する時間帯に電車に乗るのを避けるためというのが大きい。電車の中では本を読んだり音楽を聴いたりネットを見たりする。どうやって過ごすかは、やはり気分次第だ。

 それから大学の授業に出て、バイトに向かうまでの時間を大学の中で過ごす。ご飯を食べたり図書室で調べ物をしたり、友達と他愛のないことを話したり。バイトのない日は友達と出かけたりすることもある。友達は多くはないけれど、決して少なくもない。それでも深い付き合いというのはなかなかない。そういう友達と出会えるのは、高校までなのかもしれないと思う。

 バイト先までは電車で向かう。変わったことは特にない。バイトは今の大学に入った直後に始めたもので、オーナーは優しいし特別忙しいというわけではないからとても働きやすい。野崎くんを紹介したことで時給も上がって、余裕が出てきたと思う。お給料の使い道は色々あるけれど、学費や貯金に回しているせいもあって、自由に使える額は少ない。だから野崎くんに食事を奢ってもらっていたときはとても助かった。

 バイトを終えたら自由時間だ。外食をして帰るときもあるし、どこかでお弁当を買うこともあるし、自分で作ることもある。一人暮らしの自炊というのはあまり効率が良くないし、毎日料理をするのは疲れるから、大抵はお弁当やレトルト食品などで済ませる。料理を作る相手がいれば、また事情も変わってくるのだけれど。

 バイトの後は自由時間と言ったけれども、それからどこかへ出かけることは外食を除いてほとんどない。また電車に乗って、駅から自宅までの途中にあるコンビニに寄って、そのまま帰る。ご飯を食べてお風呂に入って、何かしらのことをして時間がきたら眠る。それだけだ。

 周りの友達に比べれば、とても模範的な生活をしていると思う。だから他人は私のことを強い人間だと言う。でもそれは違う。私は弱い人間だから、規則的な生活をすることで何とか真っ当に生きていられるのだ。そうしなければ、私という存在は粉々に砕けてしまうだろう。

 私という存在に光を与えてくれるのは、希望や予感といったものだ。私はきっと野崎くんと結ばれる。彼が表現者になれると信じている病的な確信、それと全く同質の予感が私の中にはある。

 きっかけは些細なことだった。

 去年の末に、ある飲み会があった。主催者は数人のグループで、学内ギネス記録を目指すだの何だのと言って、とにかく学内の暇な人間を集めて大規模な会にしたいらしかった。野崎くんはそういう集まりが好きな方ではないから、どういう経緯でその場に顔を出していたのかは分からないけれど、私たちはそこで顔を合わせた。私たちはその前に何度か話したことがあったので、このときも自然と二人で話すようになった。その頃は私も彼に特別な感情を抱いていなかったから、度々他の友人に呼ばれて席を外したりしたのだけれど、彼はその間も一人でビールを飲んだりしていた。この人は孤独なんだ、と何となくそう思った。とにかくこのときは色々なことが起こって、例えば私がある男の子に告白されたりしたから、野崎くんのことを深く考える余裕がなかった。

 二次会に行こうという声が出始める時間になって、私はようやく様々なしがらみから解放された。私が野崎くんのところへ戻ったとき、彼はテーブルに突っ伏して眠っていた。必然的に彼の介抱をすることになった私は、悪いとは思ったけれど、彼の頬を思いっきりつねって目覚めさせた。ようやく起きた彼は、寝ぼけ眼で私の顔を見つめてきた。


「どうしたの?」


 彼は私の問いには答えず、


「僕は表現者になりたいんだ」


 とだけ言った。周りの喧騒が一時的に止んだかのように、その声は私の耳によく響いた。そのときの彼は瞳の輝きがまるで違って見えた。ああ、この人はきっと何かを成し遂げるんだろうなと納得させられるような光を感じた。けれど、表現者というのはとても曖昧な言葉だったから、結局彼が何をしたいのかは分からなかった。

 その直後、全てを押し流す水の奔流のように一次会の終了が告げられた。私は野崎くんにしがみつく余裕もないままに流されて、二次会へと運ばれていった。彼がその後どのようにして帰って行ったのか、私は知らない。私はといえば、告白してくれた男の子の猛攻に耐えられず、二人で朝を迎えることになり、そのまま恋人同士になった。

 結局、私も快楽に溺れるくだらない存在なのかもしれない。だから野崎くんの瞳の純粋な輝きに惹かれたのだろう。でも、それはあくまでも予感の範疇を出ず、私は新しい恋人との時間に没頭することにした。最初はそんなつもりでいたけれど、次第に新しい彼に本気になり、野崎くんとも新しい年度を迎えるまでは一度も顔を合わさなかった。純粋な恋心というものは幻想だ。私は自己擁護の意味を込めてそう言える。

 では、今の私を突き動かしているものは何だろう? 私は、その黒々とした感情の塊を解剖するのが怖い。きっとそこには生まれたての雛のような、弱々しく若い何かがあるに違いないから。浅い感情だけがそこにあるだろうから。

 それでも私は進んで行くだろう。何故なら、私は野崎くんのことが好きだから。






 大学の食堂に入り、ある一角を占拠している集団に近付いた。十数個もの瞳が一斉に私を射抜いた。どれもこれも嫌な視線で、その中で最も鈍くいやらしいものが黒田くんの瞳だった。


「黒田くん、ちょっと話があるの」

「クロダくぅん、ちょっとハナシがあるのぉ」


 彼の取り巻きの一人がふざけた口調で私の言葉を真似してみせると、下劣な笑いが連鎖して起こった。それでも私は挫けずに言葉を続けた。


「小春のことよ」


 さっと笑いが引いて、黒田くんの表情が強張った。彼らの間では、野崎くんに奪われてしまった小春のことはタブーなのだろう。


「おい、どういうつもりだ」


 彼が低い声で恫喝するようにして言った。いつの間にか私たちを取り巻く雰囲気は緊張していて、私たちのやりとりを物珍しそうに眺めている視線を感じた。こうして人目がある以上は彼も乱暴なことはしないだろうし、きっと私も彼と二人きりではできないようなことをできるはずだ。


「実は私と貴女は共通点があるの」

「何のことだ」

「お互いに好きな相手を奪われた、それだけよ」

「お前の乗り心地が悪かったんだろ?」


 彼の取り巻きの一人が茶化すように言った。


「黙ってろ!」


 しかし、黒田くんがすぐにそれを制した。そのとき、私は緊張の最中にありながらも勝利を確信した。


「私たち、協力できると思わない?」

「……」


 黙考の後、彼は首を横に振った。


「消えろ。お前に用はねえよ」

「……分かったわ。もし気が変わったら、いつでも声をかけて」


 私の目論見はそうして不首尾に終わったけれども、いつか風向きが変わるに違いない。そうでなければ、私は一人で戦わなければならないのだから、きっとそうであってほしいと願った。






 そもそも黒田くんというのはどんな人物なのだろう。

 学内で彼を知る人々の間で共有されている一般的なイメージとしては、粗暴で利己的で女好きで、つまり性格の悪さで知られている。私もそれ以上のことはほとんど知らないし、知りたいと思ったこともない。そんな彼なのにと言うべきか、そんな彼だからと言うべきか、彼はあの小春と付き合っていた。小春は目の覚めるような美人だったから、この二人の仲はたちまち有名になった。少なくとも彼らの仲は良好だったはずだ。

 そんな彼らの関係が唐突に終わってしまったのは、小春が野崎くんという存在に惹かれてしまったからだったけれど、そのときに私は少しばかり意外な思いをした。私の知る限りでは、黒田くんが突然の事態に対して何かしらの行動を起こすことはなかったのだ。彼が大人しく引き下がった、私にはそのように見えたのだ。単純に考えれば、実は黒田くんと小春との関係が冷え込み始めていたからだと言えるのかもしれない。だから私が黒田くんに接触したのは、一つの大きな賭けだった。もしこれが上手くいかなければ、私もあっさりと引き下がらざるを得なかった。

 その黒田くんと再会したのはきっかり三日後、私が授業を終えて学内を歩いているときだった。私は低く威圧的な彼の声が好きではなかったけれども、このときばかりは声をかけられて初めて嬉しいと思えた。


「ちょっと話がある」


 返事をするよりも先に彼はずんずんと歩き始めてしまったので、私はその後を付いて行く形になった。

 彼が話し合いの場に選んだのは喫煙スペースだった。小春と同じく喫煙者の彼が選ぶには妥当な場所だといえたけれど、私には野崎くんとの思い出がある場所だったから、少し複雑な思いがした。そういえば、あのときに私たちを卑猥な言葉でからかってきたのは、他でもない黒田くんのグループだった。そう考えれば、さらに複雑さは増すのだった。


「小春のことよね」

「それ以外に用事はないからな」


 憎たらしくも思えたけれど、意外にも素直に呼びかけに応じてくれそうだったから、私はほっとした。もちろん、まだ事が済んだわけではないから、私は表情を緩めずに話を続けた。


「小春のこと、好きなのね」

「あれは俺の女だからな」


 それは間違っても野崎くんからは飛び出さない言葉、しかも傲慢な言葉だった。ただ、あるいはその傲慢さこそが彼の魅力なのかもしれなかった。男であっても女であっても、分かりやすい人間というのは好かれやすい。


「取り戻したい?」

「取り戻すも何も……いや、強がっても無駄だな。そう、取り戻したいんだ」


 そうでなければ話は進まないから、少しばかり肩の荷が下りた心地になった。と同時に、ある根本的な疑問をぶつけてみたい衝動に駆られた。


「悪く思わないでね。小春のどこがそんなに良いの?」

「見た目……が良いのは言わなくても分かるよな。あいつは頭も良いし、どう言えば良いのか分からんが、才能がある」

「感性が優れているってこと?」

「そう、それだ」


 野崎くんから聞いていた話によれば、小春には文芸の才能があるらしい。そのことを黒田くんも知っているのはおかしくないけれど、その価値を理解しているということで何となく新鮮な気持ちにさせられた。彼は粗暴で下劣なだけの人間ではないのだ。


「今まで何も行動を起こさなかったのは何故?」

「諦めるつもりでいた、それだけだ」


 諦めるつもりでいた。そうであるとしたなら、私のこの行動は黒田くんの運命さえ変えてしまうかもしれない。それはいかにも大げさな表現だけれど、このときの私にはそう感じられた。


「お前もあの男の才能に惚れてるんだろ?」

「違うわ」


 私は咄嗟にそう言ってしまったけれど、そこには複雑な意味があった。一つには野崎くんが才能だけの人間ではないということがあって、彼から才能を取り払っても私は彼を愛することができた。そしてもっと大事なことは、私は彼の才能を理解できていないのだ。

 私はそんな複雑な心境をどう説明しようか悩んだ。彼はそれを察したかのように、


「事情があるんだな」


 と言ってくれた。

 こうして向かい合って話していると、黒田くんにも良い側面があることがよく分かった。小春を悪い意味で学内の有名人にした原因の一つが彼の存在だったから、良い「側面」と呼ぶ以上のことはしたくなかったけれども。


「ああそうだ、小春の魅力の大事な部分を忘れてた」

「何?」


 彼は少年のような笑顔を浮かべてこう言った。


「セックスが上手いんだ」

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