08
夏休みが明けてから一週間が経った頃、私はバイト先のオーナーから相談を持ちかけられた。オーナーが言うには、野崎くんとの連絡がつかないということだった。私は何度か野崎くんに電話をかけてみたけれど繋がらず、嫌な予感がして小春に連絡をとった。
彼女と直接顔を合わせるのは久しぶりだったので、私は妙な緊張を強いられた。今でも野崎くんへの気持ちが残っているのがはっきりと分かった。
私が野崎くんとの連絡がとれないことを告げると、彼女はひどく困惑した様子を見せ、先日起こった出来事を語ってくれた。
「彼、どうしたのかしら」
彼女がいつになく悲観的な表情を浮かべていたから、私も少し不安になってきた。それと同時に彼女が深刻に考えるのを慰めることで、私自身が必要以上に思い悩むことをせずに済んだ。
「大丈夫、彼はそんなに弱くないから」
それにしても、しばらく会わないうちに事情が変わってきているなと思った。最初は野崎くんの片想いでしかなかったのが、今ではここまで彼女を不安にさせるほどに関係が親密になっている。表現者とモデルの関係を逸脱しているわけではないのだろうけど、その枠の中で関係が親密になったようだった。
「彼のこと、まだ好きなの?」
小春が不意に問いかけてきた。それが真正面からの質問だったから、
「どうかな」
と濁すことしかできなかった。私は自分自身の気持ちを理解しているけれども、あえて今この状況下で本心を明かすのは得策ではないように思われたから。
それから、三日経った。お昼を過ぎた頃に私のところへ電話がかかってきた。野崎くんだった。
最初は彼の言葉がよく聞き取れなかった。しばらく他人と話していないんだ、と何事もなかったかのように彼が言うのを聞き取るので精一杯だった。どこかで会えないかと尋ねると、その次の日に大学で会おうと約束してくれた。
翌日、学食の前で待っていた私は、遠くからやって来る人影を認めた。いつもと変わらない様子の、あの野崎くんの姿だった。髪や髭が伸び放題になって頬がこけていたりするのではないかと心配していたので、一先ず安心はできた。でも、彼が近付いて来るにつれて、その気持ちは取り払われてしまった。漠然とした言い方になるけれど、雰囲気がどこか変わってしまったのを感じ取ることができた。そしてまた、どこか後戻りのできない残酷な時間の流れを感じさせもした。
間近で目を合わせたとき、その瞳の奇妙な輝きに私は見てはいけないものを見てしまったかのような気持ちにさせられた。それでもしばらく見つめていると、彼の方から口を開いた。
「人が多いな、どこか別のところで食べよう」
彼は以前までのように人混みを嫌う素振りをしてみせた。けれども、やはりその感情の中身がどこか変わってしまったようだった。以前は人混みが苦手でどうしようもなかったのが、今では面倒だから嫌い、という程度に変質してしまったように思えたのだ。単純に考えればそれは良いことなのかもしれないけれど、何故か私を不安にさせた。
結局、私たちは春先に再会したあの食堂に出かけた。そこも客が多くて落ち着いて話のできるような雰囲気ではなかった。私はその場で深い話をするのを諦め、大学への帰り道で彼に問いかけた。
「今まで何をしていたの?」
「いつも通りだ。家にこもって写真を撮ってたんだ」
彼は何でもないといった感じでそう答えた。
「家の中にこもって、何を撮っていたの?」
「自分だよ」
私はすぐにはその意味が分からなかった。
「自分自身を?」
「考え方が変わったんだ」
どこか上の空の様子で彼は答えた。
やはりその意味が分からなかったので、私は写真を見せてほしいと頼んだ。彼は意外にもあっさりと応じてくれた。
写真を見た瞬間、包み隠されていた意味がじわりと溶け出してきて、肌が戦慄するのを感じた。鏡の前に立って自分自身の姿を収めた写真、そのデータが何十枚、いや何百枚も保存されていたのだ。
それはたしかに自分自身を撮ったもの、それ以上でもそれ以下でもなかった。ただ、そんなものを何百枚も撮り続ける意味が私には分からなかった。
「どうしてこんな写真を?」
「これが真の表現方法だと気付いたんだ。世界は自分の中にあって、僕はその世界の全てを写真に収めるつもりでいるんだ」
よどみなく答える彼の表情は、まるで狂人のそれのようだった。私は今までに狂人という存在を間近に見たことはなかったが、そう感じさせるのには充分過ぎるほどの材料が揃っていた。
「小春は、あの子のことはもう良いの?」
「ああ、そうだね。彼女には悪いことをしたと思ってる。僕から連絡をしておくよ」
それから彼とはいくつかのことを話した。でも、私はひどく気分が落ち込んで、何を話したのかよく覚えていない。学内で彼と別れたとき、私は言いようのない安堵を覚えた。今の彼と接し続けることは、あまりにも悲しかったから。
胸の塞がったような苦しみがしばらく続いた。それからの野崎くんは授業やバイトをしっかりとこなしていき、以前よりも快活になったように見えた。傍目には良い傾向であるように思えるかもしれないけれど、その実態を知る身としては複雑な気分だった。私は美味しいもの、好きなものを食べてもどこか味気なく感じて、次第に食欲も減っていった。
学内で彼が悪い意味で有名になるのに時間はかからなかった。暇があれば自分の写真を撮るような行為はどうしても人目に付いたから。私は何もできないまま、彼の噂を耳にするごとに無力感を味わった。
しばらくして、彼が小春と行動を共にしているらしいという噂を聞いた。すっかり有名になってしまった野崎くんと、目の覚めるような美しさの小春。この二人が合わさることで、彼らはますます奇異な存在になってしまった。私はそれまで抑えこんでいたものが暴発するような激しい感情を身の内に抱いた。小春が彼の側にいるのはまだ許せるとしても、どうして彼の狂気じみた行いを止めないのだろう? 私はすぐさま小春を呼び出した。
「どういうつもり?」
最早、感情を抑えていられるような状況ではなかった。喧嘩腰になってしまうことに躊躇はしなかった。
「だって、彼はいよいよ本物になろうとしているのよ」
「今の彼は普通じゃない、どこかおかしいのよ。表現者だなんてよく分からないものを志した結果があれなのだとしたら、すぐにやめるべきだわ」
「自分の写真を撮り続けることがどうしておかしいの? 個人の信念を否定することの方がずっとおかしいわ」
「仮に今は大丈夫だとしても、いつかきっと、決定的におかしくなってしまう。それを黙って見ていられないのよ」
私と小春の意見はことごとく食い違った。
「京子、貴女って臆病なのね。野崎くんから聞いたわ、名前も知らない女の子からキスされたって。他人を使って彼のことを試すようなことをしながら、自分自身は何もしないのね。今回も貴女は何もできずに終わるのよ」
「今まではそうだったかもしれない。でも、もう違うわ。今だったらはっきりと言える、私は野崎くんのことが好き」
それは私の心からの叫びだった。ここで宣言しなければ野崎くんがどこか遠くへ行ってしまうような気がして、私は心を揺らしながらもそう言ったのだ。
「立派な宣戦布告ね。この機会に一つだけ良いことを教えてあげる。彼はね、貴女の気持ちを知ってるのよ」
「どうして」
「私が言ったの。でも、それを知っても彼は揺るがなかった。それが答えなのよ」
胃に穴が空いてしまいそうな苦しみがまたやってきた。でも、それを表に出すわけにはいかない。例え小春の言うことが真実だったとしても、私はもう後には退けないのだ。
「貴女は野崎くんのことをどう思っているの」
「好きよ。どこか頼りなくて、特別見た目が良いとは言えないけど、彼には何かが備わっているの。私はそれを信じているから、どこまでも付いて行ける」
「貴女のやり方はフェアじゃないわ。野崎くんともう一人の彼を両天秤にかけて、自分だけが得しようとしている」
「そうね、利己的に過ぎるのかもしれない。今までの私は表現者を目指していたから、それで良かったのね。でも、これからは彼のために尽くすわ、何だってする、本当よ」
「もう一人の彼のことは捨てるの?」
「……ええ」
本当は彼女だって強くないのだ。返答に要したその一瞬の間が、そのことを如実に示していた。その一瞬が、私を力づけてくれた。もしかしたら、その一瞬が全てを結果づけるかもしれないと思えたほどだ。
「私たち、もう後戻りはできないわね」
「そうね。でも、元から特別に親しかったわけでもないわ」
「そうかもしれない。じゃあ、さようなら」
私の進むべき道は決まった。もう一人の彼に会うべきだ、あの黒田くんに。
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