07
洋食店を出た僕は、ざわざわとした気持ちを持ち帰ることができず、衝動的に電車の切符を買った。海を見に行くのだ。海まではそう遠くもなければ近くもない、そんな曖昧な距離だった。それは今の僕の心を反映しているように思えて面白くはなかったが、それでも海を見に行くと決めた以上は自分の心の声に従うことにした。
どうして海でなければならないのか。それは僕にも分からない。直感だ。
直感。僕は小春の言葉を思い出した。僕には表現者としての素質が欠けている、彼女はそう言った。彼女がどうしてあんなことを言い出したのか、電車に乗ってからも考えてみたが、どうしても分からなかった。
次に京子の顔が浮かんできた。あんなことを聞かされたのだから、意識せずにいるというのは無理な話だった。それでも、彼女をすぐに恋愛対象として見ることはできなかった。彼女との距離がある程度近い以上、すぐに方向転換するというのは難しいのだ。
僕は残酷なのだろうか? そうだとしても僕は気付かない。表現者なんてのは、そんなものだ。利己的で、自己中心的で、他人のことなんてこれっぽっちも考えない。そうでなければ満足に自分の中へ潜ることなんてできないし、世界へ向けて臆面もなく表現することなんてできない。
しかし、と僕は頭の中で考える。それらの資質は表現者になるための要件なのだろうか? 僕は自分を守るために理屈を並べ立てて、その中に閉じこもろうとしているのではないか、自分にとって最も大事なはずの表現者という概念を盾にして。そうであるとするなら、僕は真に残酷な男だ。いや、もっとどうしようもない、ろくでなしの!
……いや、やめよう。今の僕は自分が未熟であることを分かっていさえすれば良い。それ以上のことを考えるのは、無益だ。
車窓から海が見えたとき、それは住宅や洗濯物や電線の向こう、あるいはその切れ間にちらりと視界に入っただけだったけれども、僕の心は躍った。僕の故郷には海がなく、今暮らしている街も海が近いというわけではないから、海に行くのは本当に数えるほどしかない。それにこの海に来るのは初めてだったから、ほとんど初体験と言っても良かった。この海はどこかに繋がっているけれど、僕という存在には繋がってはいなかったのだ。
電車を降りた僕はたくさんの親子連れとぶつかった。考えてみれば、今は海に行く客が一番多い時期だった。しゅん、と心がしぼむ。海に行けば猥雑さでむせ返りそうになるだろう。海に入りたいわけでもないのだから、わざわざ砂浜の方へ歩いて行く必要もない。少しばかり、やはり帰ろうかと思わないではなかったが、引き返せないところまで来てしまっていた。
それで僕は海とは正反対の山手へ歩いて行くことにした。海を背にしてしまえば何の変哲もないところで、商店や雑居ビルを抜けて住宅街へと突き進んだ。ただ、どういうわけか、むせ返るような潮の香りは海から離れれば離れるほど強く鼻腔をくすぐった。そのために僕は海に親しみを感じさえした。海というものはどうしてあんなに何でも欲しがるのか、何でも呑み込もうとしたがるのか。その何でも欲しがる貪欲さは、まさに表現者の持つべき資質といえた。
表現者! 表現者表現者と口にするけれども、表現者とは一体何だろう。おそらく、僕と小春とでは表現者の定義が違う。そのことについさっきまで気付かなかったのは迂闊と言う他ない。では、僕が考える表現者とは?
表現者とは、自分の内的世界を世に、外的世界に問いかける者のことだ。それは義務的ではなく、衝動的でなければならない。例え自分の体液が緑であろうとも絶対的少数者であろうとも、それを批難し嘲弄する者に常に問いかけ続けなければならない。世界の片隅に自分の居場所を構築し、隙あらば世界を切り取り呑み込む、その野心に燃えていなければならない。
以前、僕は小春に対して、自分は人間に訴えかけていかなければならないと言った。しかしそれは、僕が人間である以上の話だ。もしも今後五十年の間に科学技術が進歩して、肉体という牢獄から魂が解き放たれるときが来るとするなら、そのときは喜んで肉体という人間の証を捨てるだろう。そうなれば海になって風になって、月や木星に語りかけることだろう。
話が飛躍した。つまり、表現者はそれくらいに進歩的な考えでなければならない。もっと言えば急進的に。極端な話をすれば、下劣ではあるが戦争だって一種の表現だ。国や体制のため、その他何だって構わないが、お互いの実現したい世界観を持ち寄って戦うのだから。戦争は人道的ではないが、極めて人間的ではある。
もちろん僕は平和的に表現していくつもりだ。僕が武器として選んだものがカメラであるからだ。そう考えてみれば、小春の武器はペンだったから、自然と表現者の定義が違ってくるのだろう。しかし、これからはそうであってはならない。共犯関係である以上、僕は同じ地点に立っていなければならない。
僕はようやく自分を恥じた。表現者というお題目を唱えながら、あれこれと理屈を述べながら、ちょっとしたことで腹を立ててしまった。僕はまだ、未熟者だ。……
そんなことを考えているうちに、いつの間にか坂の中腹に立っていた。それまでまっすぐに前を向いて歩いてきたのだが、そこでちらりと海の方に振り向いた。
斜面に沿って縫うように建ち並ぶ家々、ゆっくりと前進する電車、人で賑わう砂浜。時には電車の警笛も聞こえてきたが、後はほとんど意味を成さない雑音ばかりで、さすがに波の音までは聞こえてこなかった。絶景と言うには程遠かったが、決して無感動ではいられなかった。高みに立って俯瞰することで人の細々とした営みが、却って明瞭になるように思えた。
突然、叫び出したいような衝動に駆られた。この世界は、僕が認知し得る世界はなんて小さいのだろう! 今こうして視界一杯に広がる世界は広大なように思えるが、けれどもそれが全てだ。遠い異国で紛争が起こっていようが、飢餓が起こっていようが、認知しない限りは何も起こっていないのと同じだ。僕という存在は明らかに限界を抱えている。そのことが無性に悲しく思えてきたのだ。
この虚しさを解消するには、たった一つの手段しかない。自分の内的世界を豊かにするのだ。写真を撮って撮って撮って、とにかく撮るしかないのだ。そうすることで外的世界を切り取って自分の中に蓄積していく。それが僕にできる唯一のことだった。
ならば、今こうして世界を呆然と眺めていてもしょうがない。僕は海の方に振り向いたままの身体を走らせ、すぐさま家に帰ることにした。
家に帰り着いてバッテリーの充電を済ませると、すぐさまカメラを構えた。僕は興奮していた。それというのも、ある考えが頭をよぎったからだ。ひょっとすると、僕に必要な共犯者は小春などではなく、僕自身なのではないか? それはつまり、自分自身を写真に収めるということだ。
何故、自分自身を撮らなければならないのか。その考えに至ったのは理由がある。つまり、単純に言えば、自分自身を見つめ直すためだ。沈思黙考すれば良いではないかと言われるかもしれないが、それは違う。カメラに収めるという行動を通してしか、思考を変革し得ないからだ。
人の思考や感情というものは恐ろしく底が浅い。少なくとも僕自分の思考はそうだ。表現者になりたいという欲望、小春への憧れ、それらの源泉を辿っていけば行き着く先には虚無しかない。自分が後生大事にしているものを見つめ直せばきっと分かるはずだ、価値があると信じているものの根拠のなさを。仮にそれが自分の肉体であってさえも。
ああ、やはり僕の武器はペンではない。それを証明するには、カメラを使うしかない。世界でたった一つだけ価値を認めるとしたなら、それは僕にとってはカメラ以外にあり得ない。僕はこのカメラを使って、自分の価値を創造するのだ。
バッテリーの充電をするうちに流れた時間が雨雲を運んできていた。窓を伝って落ちていく雨粒を見ながら、僕はあることを思い立った。窓を開けて、手を外に出してみる。僕の身体が雨という概念とぶつかるのは、本当に久しぶりのことだった。掌の中に出来上がった水たまりに雨粒が弾けて、僕の耳をかすめた。以前は乾いた音に聞こえてきた雨音が今は豊饒なる音を響かせている。僕はその変化に驚きながらも、心の奥の緊張が解けていくような感覚を味わった。
僕は今、生まれ変わろうとしている。
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