7

真実とは皮肉なものですね。まさか初恋の相手が漂流人狩りとは……」

首を軽く振り俯うつむきながら考える。確かに皮肉な話だ、漂流者を狩る人間が潜んでいた場所は自分が生まれ育った町で、しかも相手はあの歩ちゃんだ。

私と同じく同じ町生まれ、途中まで一緒の学校で過ごし、同じ時間を共有した女の子。しかしどこで歯車が狂ったのか、彼女は遠い異国の地へと旅立ち、幼い頃に約束した手紙の遣り取りは結局一度も無かった。

ひょっとしたらあの時点からすでに歯車が狂っていたのかもしれない。いやその前から狂っていたとしたら?

もしもあの時声をかけていたら?

もしもあの時に悩みを聞いていたら?

もしもあの時に答えを出せれば?

もしあの時に戻れたら?

一度選択できなかった過去を考えるのは止めよう。こうあってほしいとか、もしもとか、一度過ぎた時間は元には二度と戻れない。時計みたいに針を戻せば戻る時間ではないのだから。

大切なのは今の選択肢から逃げずに道を選ぶこと。

例えそれが間違った道かもしれないけれど、その選んだ道を後悔しないために。

一瞬一瞬の今を忘れないために。今まで歩んだ道が無駄でも決して忘れないために。

だからいつまでも下を向いていては駄目だ。

上を向き、足を前にして進まないと!

「歩ちゃん何故ここに居るんだ? まさか夜のお散歩なんて、性質たちの悪い冗談は言わないでくれよ」

「あなた漂流人ね。私がここに居る理由は、あなたには関係ないでしょ?」

「教えてくれないか? 何で漂流人狩りなんかやっているのか」

「それは私の夢のため、そこいらに迷い蛍が存在するなら、本当ならこんなことしないのが一番だとは思うわ。しかしこの人間界ではめったにお目にかかれない。観察者に回収されてしまうためね。だから私は漂流人狩りをする。悪いとは思っているけれども、全ては私の夢を叶えるために」

「答えになっていないぞ」

「私にはどんなことをしてでも、叶えたい強い願いがあるの。そのためにはある条件があるの……」

「その条件とは何だ?」

「それはあなたたち漂流人の魂、迷い蛍を十三人分集めることが条件になる。集めた魂を使い、無力を発動してそれでやっと私の夢が叶い、媒体との契約を守れるわ」

「だからってそんなことが許されると思うのか! 漂流人が迷い蛍になることは死んだことを意味するんだぞ! 彼らにもそれぞれの想い出があったんだ。それをなんでぶち壊すようなことするんだ」

電車内で夢を叶えた迷い蛍のことを想い出し、悲しくなった。

彼らにも彼らなりの想いが、意思が存在していたのだから。

歩ちゃんの小さな口が大きく歪み、顔を月に向けながら、突然奇天烈な笑い声をあげたかと思うと、冷酷な笑みを浮かべた。

「何を言うかと思ったらそんなことを…… それが一体どうしたの? 漂流人とは既にこの人間世界では死んだ存在なのよ? 既に戸籍も存在も無いのよ? それを利用してこの世界で生きている人間が夢を叶ええようとしているの。私はただ誰にも真似できない、とても賢いリサイクルをしているだけなのに、それのどこがいけないってのよ! あなたもその中に組み込まれている一人なのよ!」

何も言い返せなかった。頭を硬い凶器で殴られたかのような鈍痛が走り、心も鋭利な刃物で引き裂かれたみたいだ。改めて自分が人間界に存在していない現実を思い知らされ、否定された気分になりとても悲しくなった。

もうこの世界では同僚も友達もいない。家族もいない。私の辿った証拠が一つも無い。

体も心もあり、存在だけが認識されるが、共に過ごした様々な思いでは共有されない。

良い出来事は少なく悪い出来事ばかりが多かった気がするが、それでも二十七年間培ってきた、私の思い出を全て否定された。それも昔の初恋相手に。

彼女は覚えてなかったみたいだったが、それでも私は覚えていた。

子供の他愛無い約束だったが、私だけが馬鹿みたいに覚えている。

ショックを隠せなかった。体が震え、足も小刻みに振動している。

ふいに右手が何かに包まれ、突然温かくなった。

最初は気も動転し冷たい指だったので、中々気づかなかった。

アルテミスのとても小さな手が私の右手を包み込むようにしっかりと握っている。

最初はお互いの指が冬の風に吹かれ、とても冷えきっていた指が今は互いの体温で温まりはじめ、今はとても温かい。

指の末端から、互いの体温で温まり、萎縮していた血管も元に戻り、温度の上がった血液がドクドクと濁流のように心臓に流れている。ああ、やはりどこか懐かしい手だ。

掴む手からアルテミスの想いが伝わってくる。

心配するな。お前は一人じゃない。私達が一緒だ! だから安心しろ。

アルテミスみたいに人の心がわかるなら、こう言っていたのだろう。

心に爽やかな風が吹き、引き裂かれた心が戻った。

これが言葉だったら逆に安心できなかったかもしれない。でも私が倒れこんだとき、アルテミスは大粒の涙を零し、心から心配してくれた。

他人の私のために、言葉はなかったが、あの仕草で信用できた。

時には言葉より態度で示されたほうが信頼できる。人間とは不思議な感情を持つ生き物だと初めて知った。

心にある決意を固め、アルテミスの細長く、器用そうな指がまだ不安げに時折軽く、びくっと引きつり動く。

これ以上アルテミスに心配をかけたくない。そう想うと、心が歩ちゃんに火傷きずつけられたときよりもよりも痛む。心は切り裂かれるよりも締め付けられるほうが、何倍も痛むのだとこれも初めて知り、小さな手を力強く握り締め、もう大丈夫だよと私も態度で返した。

彼女と一緒に居ると、初めてをたくさん教えてくれる。だから私も彼女に初めてをたくさん教えてあげたい。

だからここで終わるわけにはいかない。彼女に初めてを見せられなくなるからだ。

だから決意を固め、熱い火が宿った眼球を歩ちゃんの黒い瞳にぶつける。

「確かにそれは歩ちゃんの夢が叶う、とても幸せな話かもしれない。でもそれが本当に幸せなことではないとわからないのか?」

「……どういう意味かしら」

怪訝気に肩眉を上げ、不愉快そうな表情で訊ねてくる。

「俺達漂流人は確かに死んだ存在だ。だが本当に死んだ存在となるのは、一年間と期間が必要になる。その期間を待たずに、強制的に夢力で迷い蛍にして魂を狩る。それぞれの漂流人にもそれぞれの想いがあり、それぞれの意思がある。そんな人達の心を歩ちゃんは考えたことがあるのか? 歩みちゃんが今やっていることは人を殺す殺人なんだぞ!」

辺りを沈黙が支配した。歩ちゃんは目線を万年筆に数秒向けてから足元に伏せ、静かに佇んでいる。心を込めた説得が通じたのかな? などと思っているとふうーと彼女の小さな吐息が風に流れ聞こえたと思ったら、こちらにゆっくりとした足取りで向かってくる。

「……一体何を語るのかと思ったら、そんな子供じみた理屈を捏ね繰り出すなんて…… 語るに落ちたわね」

「説得はおそらく無駄ですよ…… 彼女は今、夢力の使い始めで、どんな夢でも叶う状態なので無力を使いたくてしかたありません。完全に夢力に支配されている暴走状態です。例えるなら、まるで麻薬でも打ち、幻覚に支配されているような状態です。だから私達の言葉は彼女には届きません」

静かな沈黙の後、今度は大きく吐息を漏らし、歩ちゃんは語りだした。

「確かにそんな言い方されたら、この私はどこか頭の狂った、大量殺人鬼って所になるのかしら? それとも愉快犯かしら? 様々な表現はあるけれど私の名前はどれかしら? あなたは知っているのかしら? 一昔前にこんな出来事があったことを? そのお話は、遠い外国で飛行機事故が起こり、高度四千m以上の冬山に墜落して、救出されるまで二ヶ月以上あった。食料もなくなり寒さと飢えに悩まされる彼らは一体何をしたと思う? なんと死んだ人を食べて生き残ったそうよ。とんでもないお話で信じられるかしら? でも仕方ないわね。だって生き延びるためには、それしか方法がないんですもの。罪の意識に悩んだでしょう。緊急避難の刑法により、罪には問われなかったけれど、もしあなたがそんな状態になったら、一体どんな行動をとるのかしら? 私は不思議でしょうがないわ。その状態でもあなたは今みたいな事を言えるのかしら? あなたも何故、私が何故こんな異常な行為をしているのかその訳がわかるのかしら? あなたは私の心を考えたことがあるのかしら? 私の何を知っているの? 法律上は問題のない行為を私はしているのよ。それをあなたは何故止めるの!」

「……ウルグアイ遭難事故だろ。知っているよ。その話を聞いた時は驚いた」

「あら、案外博識なのね。それなら私の言いたいことがわかるかしら?」

「ああ。わかるよ! 歩ちゃんの言いたいことは全部わかるよ! カルネアデスの板だと言いたいんだろ? 私は悪くないと言っているんだろ?  置かれた現実が、叶えたい夢が、媒体との契約内容が、犯した罪に悩み心が擦り切れて、今にも壊れそうだ。全部壊れる前に罪を贖う(あがな)つもりなんだろ。全部流れてきたよ! 歩ちゃんの思考が俺の頭の中に入ってきたときにわかったよ! 今まで歩んできた道が、過去が全部流れ込んだよ! だから自分を正当化して責任転換するのはもう終わりだ。俺が言っているのは法律だとかそんな次元じゃないよ。道義の世界。人道的な問題だ。心が潰れ折れないように、俺達漂流人が存在するんだ。だからその願いは歩ちゃんが一人で解決するんじゃない。俺達と一緒に解決するんだ。一緒に夢を叶えるんだ! だから俺を信じてくれ」

「……そう。あの時私の頭に侵入してきたのは、あなただったのね」

最初は、何故私の心がわかったのか、と驚いていた表情だったが、やがて納得したようだ。

右手を歩ちゃんの前に差し出す。

「救いの手は差し伸べたよ。後は歩ちゃん次第だ!」

迷っているような表情だったが、やがておずおずと右手を伸ばしてきた。

真っ直ぐに見る私の視線に耐えられなかったのか、目線を左手に移す。目線につられて私も歩ちゃんの左手に目が移る。どこかで見たことのある万年筆だと思っていたら、伸ばしかけていた腕の動きが、突然止まった。

「……やっぱり他人は信用できない」

いきなり左手に持っていた万年筆の先を右手に突き刺そうとした。

慌てて回避しようとしたが間に合わず、ペン先で甲を少し抉り取られた。

軽く肉が裂かれ、傷口はそれほど深くないが、思ったより血が出てくる。痛む傷口を押さえながら訊ねる。

「何で他人を信用できないんだ?」

「あなたには関係のないこと。やはり私は誰の助けも要らない。誰の同情も要らない。私一人で夢を叶える。だからお話はこれでおしまい。あなたとはここでお別れよ」

そう一方的に捲し立てて、私の傷口を見つめて後悔したような表情を見せる。

歩ちゃんの左手が万年筆を強く握り締め、爪が肉に食い込み出血している。わからない一体何が彼女をそこまで追い詰めたのだ。

「あなたとのお喋りは楽しかったわ。今回は見逃してあげるから、もう二度と会えないかもしれないわね。さようなら」

逃げられると思った。反射で歩みちゃんの左手を掴んで揉みあいになった。歩ちゃんの指先が空気を掴むようにしてもがき、私の首元をかすめた。ぶちっと嫌な音をたてて、銀の鎖が切れ、首から下にぶら下げて持ち歩いていた、切符の入ったケース入れが鎖ごと捥ぎ取られた。

一瞬気を取られた隙に掴んだ腕から逃げられ、体が雷に打たれたような衝撃が走り、頭の先から足先まで貫いた。

……やられた。まさかスタンガンを持っていたとは。女は男に気づかれないように、色んな武器を隠している。それは時に笑みで、時には涙、そしてスタンガンだ。

そんなくだらないことを考えながら、薄れいく意識の中、歩ちゃんの疲れきった、さよならが聞こえた。そして遠い昔の記憶が走馬灯のように蘇り始めた。

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