SideB.1
「いらっしゃいませ!」
「ありがとうございました!」
元気一杯、声が響く。
店の外の通行人さえ、何事かと振り返る。
店の客は、複雑な表情で扉を開ける。
バイト仲間の高校生、歩は三宅の様子にため息をつく。
元気なのは良いけれど。
……狭い店内、耳が痛い。
週末。金曜日の昼下がり。
いつもにも増して気合が入る。
元気者大学生、三宅は、とにかくはりきっていた。
今日は給料日。歩にも理由はわかるのだが、それにしても……。
店の奥で、商品の整理をしていてさえ、三宅の表情が見えるようだ。
「ありがとうございました!」
きっと、頭を下げている三宅。
出て行く客に向けて、頭を下げているだろう三宅。
そのまま顔をあげ、必ず向かいのマンションを見てるのだろう三宅。
そして、幸せそうに笑うのだろう。
サンドイッチを乱暴においていたことに気付き、歩はまた一つため息をつく。
気持を落ち着けて、サンドイッチを並べなおす。
いつもと同じうららかな午後。
三宅がはりきり過ぎていることを覗けば、全く同じ午後のひととき。
「いらっしゃいませ!」
また新しい客が来た。
歩は商品整理を終え、バックルームに下がろうと腰をあげた。
「あ、多田吉さん。お疲れ様です」
三宅の知り合いのようだ。
歩はほんの少し背伸びをし、商品棚の向こうを見る。
若い、サラリーマンというにはどこか間の抜けた風の男だった。
着崩れたスーツが、ちょっと慌てた風にも見える。
多田吉は、そのまま商品を見るでもなく、レジに留まる。
本当は、私語は厳禁なんだけど。
どうせ他に客もおらず、ちょうど社員も店長もいない。
ささやかな好奇心もあった。
思いながら歩は、レジへ戻ろうと進路を変更する。
「三宅君……。和久井先生見なかった?」
開口一番、多田吉の言葉だった。
聞いたことのある名前。歩でも知ってる名前。
向かいのマンションに住む、やたらとテンションの高い作家先生だ。
時間を問わず現れる、コンビニのお得意様の一人である。
歩は苦い顔をする。本人の自覚もないまま。
「あけ……和久井先生ですか? 今日はどこへ行かれるとも聞いてませんよ」
さらりと三宅が答える。
このコンビニに位置は伊達ではない。
マンションから出れば、一目でわかる。
歩は三宅の脇をとおり、バックルームに入っていく。
なんとなく、三宅を見ていたくなかった。
どうせ、幸せそうに平然とした顔をしているのだろう。
「うん。和久井先生だし、逃亡することはないと思うんだけど……」
歩は、置いてあったジュースを取る。
そしてそれを一息に飲み込んだ。
多田吉の言葉は続く。
「仕事部屋にも、寝室にも、台所にも、お風呂場にもいなくって……」
「歩ちゃん! しばらくよろしく!」
「え?」
多田吉の言葉が終わる前だった。
店の扉が開いて閉じる。
驚いたのは、多田吉だけではない。
バックルームから飛び出した歩は、かろうじて三宅の背中だけを目撃した。
「三宅君! ちょっと待ってよ」
一瞬の間を起き、多田吉も後に続いた。
紺色のスーツを、振り乱して……。
店内には、歩一人が残されていた。
歩は、三度目のため息をつく。
「しっかたないなぁ……」
一人ごちてレジに立つ。
かばんの中の映画のチケットが、少しさびしい。
「いらっしゃいませ」
新たな客を、笑顔で迎えた。
車のタイミングを読み、勢い良く車道を渡る。
一世代前のマンションにはオートロックなど存在せず、管理人室の前を猛スピードで駆けぬける。
目指すは最上階。三宅は迷わず階段を選ぶ。
三宅の小柄なエプロン姿は、すでに三階部分に差し掛かっている。
送れてマンションに滑りこんだ多田吉は、一瞬躊躇しエレベータを選ぶ。
最上階、五階まで、スーツで駆けあがりたくはない。
やけに長く感じられる待ち時間の後、親子連れと入れ替わりで、
多田吉はエレベータに乗り込む。
エレベータは感情を逆なでするように、動き出す。
多田吉がエレベータに乗りこむ頃には、三宅は最上階に到達していた。
一番奥の和久井の部屋まで、一気に向かう。
鍵は合鍵。馴れた手つきで、開け放つ。
短くはないマンションの廊下。
コンビニの真正面の出入り口。
出かける和久井に三宅が気付かないはずはない。
バイトを始める前には、確かに和久井は部屋にいたのだから。
「せんせ、入りますよ!」
自前の大声で一言声をかけ、靴を脱ぎ捨て玄関を上がる。
勝手知ったるなんとやら。
手近な扉から和久井の姿を探す。
四畳半の寝室、六畳の客間、風呂場に化粧室も、鍵がかかっていない。
本人には使われない台所、居間件、仕事場にも影はなく……。
「明乃さん……」
つぶやくようにもらしたのは、和久井の名前。
三宅は、小さい体を精一杯ひねり、もう一度居間を見まわす。
仕事道具のパソコンは、電源を切られていた。
ディスプレイには熱もなく、切られてからしばらく経っていることが伺える。
机の上の封筒は、バイト前に三宅が見たまま、動いた様子はない。
玄関の音に、はっとして三宅は廊下へ振り返る。
遅れてきた多田吉だった。
多田吉のいう通り、和久井の姿がない。
締め切り直前の、追いこみの時間だというのに……!
「いないだろう? だから、心当たりないかとおもって……」
ネクタイをだらしなく緩めた多田吉が言う。
多田吉も、隅から隅まで探したに違いない。
多田吉が探していないとすれば。
三宅は無言で、最後の心当たりを探索にかかる。
台所の床下収納庫。最上階ならではの、天上近くの収納庫……。
「三宅君……?」
多田吉が、不思議そうに問うてくる。
しかし、人の入れるところなら、どこでも探してみなくてはなるまい。
三宅は、多田吉に答えず、和久井を探した。
探索結果は思わしくなかった。
和久井の姿が見つからないどころか、ビーチチェア一つが持ち出されているのがわかったきりだった。
当然、最上階ならではの広めのバルコニーにも、和久井の姿はない。
多田吉は泣きそうだった。
和久井の締め切りは今日。今日の午後六時。
持ち帰らなくては……大変なことになる。
確実に秒針を刻む時計が恨めしい。
そして三宅は、血の気の多そうな容姿とは裏腹に、貧血を起こしそうなほど蒼白になっていた。
過去、幾度となく迎えた締切日。三宅に無断で外出したことなど、一度もない。
少なくとも、三宅が知っている限りでは……。
和久井は、締め切りを何が何でも守る作家として有名だった。
ただし、締め切り日ではなく、締め切り時間、ではあったが。
予定通りに本を出版することに必要以上に情熱を傾けていた。
そんな和久井である。本人の意思でいなくなるわけがない。
そう考えて、三宅の思考はある一つの可能性に行きつく。
「……電話、させてください」
電話のそばに情けなくへたり込む多田吉を押し避けて、携帯電話の番号を押す。
なれた行動であるにもかかわらず、三宅の手元は震えてしまう。
これがきっと、最後の可能性。
これが外れたならば、別の……想像もしたくない理由を考えなければならない。
脇に座りこむ多田吉も、祈るような目を向ける。
コール音が、一回、二回……。
『おはようございます。』
のんびりとした、下山の声。
背後に聞こえる雑多な音は、ねずみの大合唱か……?
『用件は手短かにおねがいしますね。大事な大事なラットくんがお待ちかねだから。
あ、ラットくんて言ってもね、研究用の知能指数を上げた子で・・・』
「明乃さん、知らん?」
放っておけば、いつまででも話すだろう下山の言葉を無視して、三宅は問う。
声は上ずっていたかもしれない。
受話器を握り締める手が、痛い。
緊急時には、のんびり延々と話す下山に、付き合ってなどいられない。
『特に時間には……え? 三宅くんなの? 明乃さん? えっと明乃さんの今日の予定はぁ……』
「締め切りが一本。現在行方不明」
声が震える。
わざわざ聞く意味を理解して欲しい。
多田吉の祈るような視線も痛い。
期待される答えの場合、多田吉に聞かせるわけには行かないのだが。
『じゃ、家にいるんじゃないかなぁ?』
にこやかな声だった。
後で件のラットくんが高らかに鳴く。
無言で三宅は受話器を置いた。
したがって、和久井の行方は、誰にもわからないことになる。
はっきり言って、卒倒してしまってもおかしくないと三宅は自分で思う。
決して貧血の気があるわけではないが……。
落ち着けと、三宅は自分に言い聞かせる。
まだ、何かがあったと決まったわけではないのだ。
和久井のような人間が、早々簡単に「何か」に巻き込まれたままとは考えられない。
三宅は深呼吸を繰り返し。考える。
まず、和久井の部屋に表から出入りした人間がいるとは考えにくい。
多田吉も合鍵は持っている。三宅も持っている。
和久井は集中するとチャイムにも気付かないことがままある。
連載を持っている出版社には、そのため和久井の部屋の鍵が出回っている。
多田吉の証言は、玄関の鍵は常と変らなかった事を示している。
窓は全開。少なくとも、出て行く気はなかったようだ。
なくなっている物は、ビーチチェア。
そんなもんを持っていってもし方がない。和久井が使用していると見るべきか……?
ことん。
僅かな、僅かな音が響く。
三宅は、天井を仰ぐ。
聞こえなかったのか、すっかり涙目になった多田吉もつられて上を向く。
ここは最上階。これより上に何があるかといえば。
三宅はベランダへ駆け出す。
普通のベランダに屋上へのはしごがあるはずがない。
しかし、和久井にとって、一階上がる程度の高さなど、何でもない。
そして、窓が開いているのも道理である。自分をベランダに締め出すわけには行くまい。
屋根の端を飛びあがってつかむと、一息に三宅は体を持ち上げる。
白く光を反射する屋上の中ほどに、見なれた人影があった。
三宅は、心底安堵したように息を吐き出す。
下を見ると、バルコニーの隅から、屋上を見ようと努力する多田吉の姿があった。
三宅は多田吉に笑いかける。言葉はなくとも、通じるだろう。
和久井は、屋上の中央。ビーチチェアの上で、ぐっすりと午後の惰眠をむさぼっていた。
さっきの音は、持っていた雑誌が手から滑り落ちた音だ。
きっと、気分転換のつもりであがり、そのまま眠ってしまったのだろう。
幸せそうな和久井の寝顔。あまりにも無防備なそれ。
少し悪戯心を誘うような……。
「……」
思って三宅は一人赤面した。
三年くらい寿命の縮まったような顔で、多田吉は原稿を抱えて去っていった。
和久井はちょっと不機嫌そうな顔で、ビーチチェアをおろす。
そして、時を知らせる鐘が鳴る。
先ほどとは違った意味で蒼白になった三宅は、エプロンを翻して走り出す。
和久井は部屋に入り、元からあった封筒がなくなっていることに気付いた。
青い色の、厚めの封筒。
「…………ま……いいか」
思考は一瞬で中断された。
……夢の続きをみよう。
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