SideA:3(END)

 大江遊はいつも通り、定時一〇分前に駐車場に到着する。

 青い車を降りてカードを取り出し、入口の警備員に挨拶する。

 フレックス制度のあるこの会社では、定時出社はそう多くない。

 やたらと広く表面だけは潔癖そうに綺麗なエントランスを抜け、エレベータに辿りつく。

 下行きのボタンを押すのは、大江ただ一人である。

 人を上の階で下ろした空のエレベータが、一階まで下りてくる。

 多くの場合エレベータは一階で降り返し、一〇階までの片道を働き、再び降下する。

 下行き表示のまま、静かに扉が開く。

 乗ったのは大江一人だった。


 もともとこのビルは地上一〇階、地下三階建てである。

 地上部分は数々のオフィスが並び、地下一階には購買、地下二階には倉庫がある。

 そして地下三階には、ビルの耐震構造のための空間と、寂しく隔絶された車庫があるだけだった。

 その車庫には、地上から直接車両を入れることの出来るスロープが付属していた。

 ビルに勤務する約二千人の一般社員の誰も知らない空間。


 当然のように押したボタンの数字は、地下三階。

 今、定時五分前。


 駐車場側の窓から、聞き覚えのある声がずっと響いていた。

 採光のよいはめこみ窓の向うで、稀に水滴が踊っている。

「お子様」が「水遊び」をしているのだ。

 晴れた空に、気持ちよさそうな正午近い日差し。

 机の脇の、小学生くらいの少女の写真は、日差しを浴びて楽しげに笑っている。

 日向でほんわか待っているのは、緑の包みのお弁当。

 心和む一時。・・・気付く余裕があったなら。


 *


 一般のサラリーマンが、正午の金を心待ちにしている瞬間。

 方義力は、トラックの中身に囲まれた青い空間の真中で、唸っていた。

 青く反射するブラウン管に映し出されているのは、一通の電子メール。月刊誌「ヒーロー」編集長から、先ほど届いたものである。

 内容は……方義の顔を渋らせるだけの文字が踊っていた。

 方義はざっとメールに目を通すと、簡潔な文を送り主に返す。

『報告ありがとう。引き続き頼む。』

 そして、画面を切り変える。

 メール受信までやっていたことは、必要経費の算出だった。

 今回は少なく押さえられたものの、赤字は毎度のことである。

 全く、順調に行かないものだ。

 まだ全ての作業が終わっているわけでもない。

 花の回収と、処分を行わなければならないのだ。

 もっとも処分手続きに関しては、大江の分析結果待ちであるのだが。

 ほのかな甘い香が部屋中に満ちている。

 作りに欠陥でもあったのか単に作りが古いだけか、換気の悪い部屋の中は青いバラの香で満ちていた。

 嗅覚が麻痺してしまい、方義には感じることも出来ないでいたが。

 青いバラ。世間に発表した場合に一体どれほどの価値を生むのか、方義には想像もつかない。

 しかし、そんなことをするわけには行かないのだ。

 格好悪くても、赤字続きであっても。会社とはそんな所であるのだ。

 溜息をつき、時計を見る。十一時五七分。もう昼休みか。

 隣のカレンダーが目に入る。一週間後に赤い丸がついている。

 ふっと、方義は頬をほころばす。

 写真の少女が笑いかける。

 なんだか今日は、いつもにも増して愛しく思える。

「飯にするかな」

 少し元気が出てきたところで、コーヒーを煎れに席を立つ。

「もう昼前っすねっ。」

 オートロックの外れる音。そして、扉が開く。

 多田吉正人がずぶぬれの姿で入ってくる。

 何時の間にか、表の声は止んでいたのだ。

「うわ、甘いなー。方義さん、辛くないっすか?」

 言いつつ、トラックのキーを自分の机に置く。後ろで静かに扉が締まる。

 方義はポットへ近寄り、カップにインスタントコーヒーと湯を注ぐ。

 ……なんだか湯の温度が低い。飲めないほどではないが……。

「なんでそんなにびしょびしょなのさ。」

 ミルクだけを入れてかき混ぜながら、方義は問い掛ける。

 多田吉は今朝からトラックを洗っていた。

 トリモチつきのままでレンタル業者に返すわけにはいくまい。

 それにしても、先ほどまでの楽しげな声と、このずぶぬれ加減は行き過ぎではないか。

 あまりとやかく言う方ではないが、仮にも就業時間中なのだから。

 きーんこーんかーんこーん……。

 正午を知らせるチャイムが、ビル中に響き渡る。

 方義の声などお構いもせずに、多田吉は濡れたシャツを脱ぐ。

 常勤者二名、非常勤者一名、全員男のこの部屋では、別段気になる行動ではない。

 気になる行動ではないのだが……。

 方義はミルクをかき混ぜる。

「思ったよりトラックって大きいんすね。警備員さんにも手伝ってもらったけど、時間食っちゃいましたよ。」

 カバンからタオルを取りだし、上半身を拭き始める。

 常に携行するスポーツタオル。洗濯しすぎてくたびれているのか、なんだか給水が良くない気がする。

 ざしざし髪を拭く。ざしざしざしざし髪を拭く。

 日向で洗車していた多田吉は、水を浴びても尚少々熱い感じがしていた。

 空気が篭っているからか、この部屋ではさらにそれを強く感じる気がする。

 多少残った水分は妙に暑苦しく纏わりついている感じがする。

 甘い匂いに刺激されたのか、無性にのどが乾いてきた。

 タオルを頭に載せたまま、コーヒーでも飲もうと、ポットに近寄る。

 はっとしたように、場所を譲る方義をちょっと不思議に思いつつ、多田吉は湯を注ごうと……。

 ぷす。

 温度が低いのも通り。湯が切れていた。

 湯は廊下の端の給湯室から取ってこなければならない。

 そして……さすがにこの姿で、廊下を歩くわけにはいくまい。

 ここへ配属された女性社員がたまたまいないだけであり、社内には女性社員など、うざうざ存在するのだ。

 多田吉はタオルをとり、一歩歩離れてざしざし拭いた。

 拭きながらぼんやり悩んだ。

 行動が頭より早い多田吉が、悩むようなことではないのだが。

 ざしざし手元ばかりが動いている気がしていた。

 吸われない水滴が弾けとぶ。

 水滴と一緒に、多田吉の思考も散漫になる……。

 さすがに会社で上半身裸はカッコ悪いよなぁ。

 でも、まだ服は着たくないしなぁ。

 なんでこんなに暑いんだろう。

 そうだよな、格好悪いよなぁ。

 昨日だって、トリモチまみれになるし。

 そういや俺って格好悪いよなぁ。

 大江さんみたいに、腹黒くなくて良いけど、せめて方義さんくらいに仕事きっちりこなしたいよなぁ。

 方義さん、お湯取ってきてくれないかなぁ。

 考えつつ、多田吉はちらりと方義を覗き見る。

 方義の常とは違う熱っぽい目がそこにはあった。


 方義は、勉強の変わりに鍛え上げられた多田吉の筋肉に見とれていた。

 毎日と言って良いほど見なれた身体。

 文系出身で、かつ中年の域に突入した方義とは、比べるべくも無い引き締まった姿態。

 ほんのり上気した血色の良い肌……。

 こんなにこいつは生き生きとしていただろうか。

 トラック洗いでびしょぬれになるほど、お子様だと言うのに。

 入社三年かそこらで、確かにまだまだ半人前で。

 世話も焼けるし、騒ぎも起こす。

 しかしその分、方義が捨てざる得なかったものを持っている。

 うらやましいのだろうか?

 いや、そんなことはない。それではいけない。

 方義は望んで今、このステータスを手に入れたのだから。

 それでも多田吉から、多田吉の若い姿態から目が離せないでいた。

 こいつは、こんなに格好良かっただろうか。

 ヒーローの赤が似合うほどにも……。

 なんとなく、思考にもやがかかる中、そのことばかりが方義の脳裏を駆け巡っていた。


 研究室の自分のデスクで解析結果を受け取った大江は、白衣のまま研究室を出た。

 エレベータを待つ間、ざっと内容に目を通す。

 通報当初に聞いた内容と、違いはない。

 昼飯に出かける社員で一杯のエレベータに乗り、二階で降りる。

 降りる人など予想外だったのか、迷惑そうな様子にも、大江はひるまない。

 ゆっくり壁際を歩きながら、さらに解析結果を読む。

 予想される症状も、通報の通りである。

 大江は廊下を曲がる。

 一旦折れて、廊下の採光は悪くなる。

 この辺りまで来ると、出入り口のある部屋は少なくなる。人通りもそれに応じる。

 目的の部屋は突き当たりだ。

 麻薬に近しい成分が検出された。

 ごくごく微量でも毎日嗅ぎつづけると、思考力の低下を促す。

 そして、香水に使用されるような成分も認められた。

 バラなのだから、ある意味当然ではある。

 そして、隅の隅の、研究助手のコメントに注意が行く。

『この成分は、フェロモン系の香水のパターンに似ています』

 大江は、扉の前に辿りつく。

 なんとなく。いや、確信めいて。

 大江は扉を開けることをためらっていた……。

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