第41話:ただいま/涙混じりの
ある個室に、一人の男と一人の女が険悪な空気の中で会話していた。
男の表情は窺えないが、その調子のいい――傍から聞けば気分を害するような声音で、男は心から楽しそうに下賤な笑い声をあげている。
「オットーのやつ、計画通りに動いたらしい。まったく、感情で動きが解らん輩はコントロールに困るなァ」
「…………」
「まぁいい。結果的に、計画は続く。くくっ」
女は、冷静であった。
いや、違う。寡黙であるようにも見えたが、その作っている両拳は、心なしか震えているようにも見える。
彼女が口答えしないのも、その震えを抑えるように口を強く噤んでいるだけである。男の言葉に、怒りを感じていると推測できる。
「しかし……オットーの奴、手加減をしたらしいな。誰も死んでいない。誰も傷ついていない。いや、アイ・A・イグリスは傷ついたか? まぁ、いい」
「…………」
「……お前、面白くないな」
個室の机と一緒にある椅子に座っていた男は立ち上がって、女が座っているベッドの目の前まで歩み寄る。女は顔に感情こそ表していなかったが、シーツを更に強く握る。彼女の作っていた拳は、怒りではなく。自分に襲いかかるであろう男への恐怖によるものであったようだ。
男は鋭い眼光で女を睨みつけながら、目の前で自慢するように拳を作る。
「いつものように躾けてもらいたいか? お前は基本的にクールを装っているが、心の中は俺に怯える仔羊に過ぎない。お前の首を絞めて、息も絶え絶えの中で、俺に助けを懇願するまで、その首筋に爪を突き立ててやってもいいのだぞ」
「……ッ」
――野蛮な男だ。
女ににじり寄る男に、その女は逃げ出せばいいのに逃げようとしない。気丈に立ち向かっている――わけではなく、恐らく男の恐怖に足が竦んでいるのだ。それほど、金髪の女は男に恐怖の感情を抱いている。自分の危機に身体が動かなくなるほど、それこそ仔羊のように。
――これでは程度が知れる。
「――まぁ、いい。俺は素晴らしく最高に気分がいいんだ……」
しかし、男は何かを考えたようで、恐怖する女に近づくのを止めた。作っていた拳も解く。
確かに男の様子は、この険悪な空気でも浮つくほど上機嫌であった。いや、これから行う事、これから起こる事に緊張と高揚を感じているようであったのだ。
安堵する女の表情を見る事をせずに、男はその野心と凶暴な本能に満ちた瞳を見開く。獰猛な目だ。鷹のように鋭く、狼のように気高く、蜘蛛のように狡猾なその瞳は、この男がいかに最低な人間かをありありと見せつけている。
「俺達の出番だ。計画を成就させ、力を示す。そうすれば、俺から解放されるかもしれんぞ?」
「…………」
女は応えない。だが、その瞳には僅かだが、恐怖に対抗しようとする灯火が見えた気がした。
◇◇Shift◇◇
私は陰鬱とした気持ちの中、予定より早く武蔵島に帰還した。
ヒューマ先生の奥さん、ツバキ博士の下で検査を受けて、頭の中にあるとされる通信端末を弄られた。博士曰く、取り外しは不可能だから通信ができないようにはした、らしい。
また、私の従者であるチキも博士の下で調整や、彼女のメモリーに何か異常がないかを調べられていた。結果を言えば、異常はあったので解決はしたとの事。その異常は、私と同じ外部からの通信接触らしい。
「…………」
「どウしました? オ嬢様」
「いえ……」
船を使い港へ降りる。迎えはいない。当然だ。ゴールデンウィークだし。実家に帰省しているだろうし、何より私の正体を知って、皆が私から離れていったのだろう。
先生は私を人間だと言ってくれたけど、私はまだその言葉を信じ切る事は出来ていなかった。頭に内在するのは、私の歪んだ出生と、失ってしまった小父や国の記憶。戸籍を失い、形こそヒューマ先生の養子となったらしいけれど、私はその先生の提案には反対だった。
――死にたい。
その感情こそが全てだった。
「行きましょウ、オ嬢様。武蔵島です!」
「うん……」
だけど、私はせめてゼミの仲間に感謝の言葉を告げたくて、ここまで帰ってきた。小父さんが一人でイギリスに返還された時に、絶対にこれだけはしておきたいと誓ったのだ。
私のために戦ってくれた瞬。そんな瞬を支えた優衣。私を救うと言ってくれたルビィさんに、そんなルビィさんのブルーラインを起動させたカエデ。放たれたウィルスのワクチンを作り上げたマルクに、ソフィア。私に語りかけてくれたヒューマ先生に、無理をして戦ってくれたキノナリ先生。
そして、最後まで私を『アイちゃん』と呼んでくれた、彼女に。別れの前に感謝の言葉を言っておきたかった。
「…………」
武蔵島は相変わらず武蔵島だった。港で働く人の活気もあるし、道中も自然が豊か。私がいつしか感じた、第二の故郷の姿――それはもう、幻だけど。
学寮へ徒歩で向かう。この瞳に焼き付けておきたかった。私が、私らしくあれたこの島を。この島で生活した数日間は、確かに私が私で感じた事なのだから。
「あ……」
「よっ」
学舎が見えてきた段階で、私は見慣れた黒スーツを見つけた。
実質的に、私を助けてくれた人――ヒューマ・シナプス。ヒューマ先生だ。黒スーツの前のボタンを開けて、中の白いカッターシャツを露出させている辺り、休憩時間なのだろう。
「お帰り。無事、島に戻ってこれたようだな」
「はい……でも」
「そう辛気臭い顔をするな。途中まで話相手になってやるよ」
先生は勝手にそう言って、進み行く私の横に並んだ。義父となるべき存在だが、やはり違和感しかない。私の頭の中には、未だにオットー小父さんの影がチラついていた。
「苗字、ミドルネームの変更は無し……でよかったんだよな」
「はい」
「まぁ、少なくともお前が、自意識を得た時から背負った名前だ。それでいいと思うぞ」
先生の声は優しくて、傷ついた私を溶かそうとしてくる。でも、私はそれを許容できない。
森を突き進む階段を上って、私はそこで先生が学舎に向かう事を悟った。先生が、黒のスーツの前のボタンを閉めたからだ。
「今後しばらく、お前に突っかかる奴は出てくるだろう。この時期の子供は多感だ。下手な噂はするし、女性のそういうのはドロドロしていると聞く。だから、しばらくは辛いだろう」
「…………」
「だが、お前には俺が付いている。それを忘れるなよ」
先生はそう言って、私の金色の髪を撫でて、そして学舎へ戻っていった。温かい、けれど小父さんで慣れ過ぎたから薄く感じるその感覚に、私自身は嫌悪感を抱いた。
学寮へ向かい、寮長さんが優しい笑みを浮かべて鍵を渡してくれる。505号室。久しぶりだ。
私は――孤独だと知った。船の中で、淡い希望を抱いていたんだ。仲間が港で待ってくれているって。でも、現実はそんな優しくない。ここに至るまで、私を待ってくれたのは先生だけだった。
「ァァ……」
失った。私は、島で得た初めての友達を失ったんだ。その事を認めてしまうと――私の口からは後悔の嗚咽しか漏れ出さない。瞳に涙は浮かばないけれど、それはたぶん、こうなるのは仕方がないと、どこかで諦めてしまっているから……。
廊下を抜けて、部屋へ向かう。504号室は静かであった。誰もいない。せめて、遠見ちゃんでもと思っていた私は、胸が痛む中、505号室へ進む。
――せめて、私がいた証を残せるように。
それだけを想って――
「――瞬。そこじゃない、右に五センチだ」
「マルク……細けぇよ」
「はいはい。さっさと働いて男性陣!」
「ソフィア、包丁の使い方、上手いですね」
「……慣れているから」
各々の懐かしい声が聞こえてくる。最初は幻聴かと思った。私の淡い希望が見せる、儚い空想かと。
でも、確かに聞こえたんだ。
私は不安を飲み込んで、取っ手を握る。幻でもいい。私は鬱屈とした感情を捨て置いて、勢いよく扉を開いた――
「ッ!? アイちゃん!」
「あれ! 早くね!? 予定ではあと一時間……」
「お前が遅いからだ。迅速な行動もできないとはな」
「何をぉ……!」
「バカ兄貴、黙って。アイが困惑してます」
「……アイ」
いた。いたんだ。ここにいたんだ。
マルクと一緒に瞬は、折り紙で作ったのであろう鎖状の飾りを飾ろうとしていて、ソフィアと優衣は何かしらの料理を作っている。そして、遠見ちゃんはそんな皆に指示を出しているようであった。
――困惑しちゃうよ……不法侵入だし、もう会えないと思っていたんだから。
「アイちゃん」
「えっ?」
「おかえり」
遠見ちゃんがそう言って、私に抱き着いてくる。暖かい。小父さんや、ヒューマ先生のそれとは違う、胸が熱くなる暖かさ。
こみ上げてくる。これまで止まってしまっていた物が。皆が見つめる中、私は瞳から漏れ出した涙を流しながら、その声に答える。
「……だだいまッ!」
心の中にあった陰鬱な気持ちは、その涙と一緒に私の中から消え去っていた。
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