先生とわたくし
「ふざけんなくっそ!」
堅い板を叩く音とがらの悪い罵声が天井を揺らしました。
今日はこれで三度目。『寝るまでは今日のうち』の決まりごとをなぞるなら、ちょうど九度目です。
わたくしの先生は、お仕事に行き詰まっているとき、拳を振るって手近なものに鬱憤をぶつけられるのです。そしてお仕事が行き詰るときというのは即ち締め切りの前の日なのです。加えて先生が余裕を持って仕事を納められたことはかつてありません。ええ一度も。
はて。
ここでわたくしは首を横に傾けます。今日明日に締め切りを控えたお仕事は無いはずですが。
先生は昨夜から二階の書斎にこもっていらっしゃいます。それから数えて九度の罵声。ということはお休みになってはいらっしゃらないでしょう。壁際の柱時計は丑三つ時を知らせて鳴り出しました。
ぼーん、と間延びした音が反響して薄れて消える頃
「畜生が!」
どんっと鈍い音。これで十度目ですね。おめでとうございます先生。記録は更新されました。
音からして、今日は文机が虐待にあっているのでしょう。
聞き慣れた罵声も、回数が二桁に至るとなっては流石に心配です。このままでは先生の手が壊れてしまいます。大事な仕事道具ですのに。
わたくしは先生のご様子を見に行くことに決めました。
先生はどんなに苛立っていらしても、わたくしには絶対に手をおあげになられません。お怒りにもなられません。そのことはよくよく承知しております。
でもわたくし、大きな物音は苦手ですの。万が一にも先生に怒鳴られてはかないません。
そうっと。そうっと。忍び足で書斎の扉を押し開けました。
「あの、先生。根を詰めてはお体に障りますわ」
半身だけ室内に乗り出して声をかけます。
先生のお姿は見えません。扉の前に積まれた本のせいです。
「先生?」
お返事がありません。先程まであんなに騒いでいらしたのに。
急いで文机に駆け寄るとなんとまあ。先生はたいぷらいたあの前に突っ伏していらっしゃいます。
「先生! しっかりなさって!」
わたくしは先生の頭をゆすって呼びかけました。
先生の手は、右も左も、ひらが真っ赤になっています。小指はさらに赤く腫れ上がっています。きっと拳で堅い樫の文机を殴ったりしたからでしょう。
なぜこんな無茶を。
「——トモエか。まだ寝ていなかったのか」
ようやっと目を開けた先生は、そんなことをおっしゃいました。まったくこの人ときたら。先生が働いていらっしゃるのに、勝手に休む秘書がありますか。
「いいところに来たなトモエ。危うく寝てしまうところだったよ」
あら。お休みでいらしたの?
それなのにお邪魔をして……。ああ、わたくしとんだ役立たずです。
「はは。応援してくれてるのかい? ありがとう。あと少しなんだ」
お茶のひとつも淹れられない役立たずに、お礼など結構です!
「すまない」
ええ。どうなさったのですか? 眉が下がっていますよ先生。
「もうすぐお前と出会って二年目の記念日だろう? その日は一緒にゆっくり過ごしたくてさ。だから久しぶりに頑張ってみたんだが……慣れないことはするものじゃないな」
あらあら。
あらあらまあまあ。
まったくこの人ときたら。どれだけわたくしを幸せにしたら気が済むのでしょう。
わかりました。そういうことならわたくしも腰を据えてお伴致します。
ですからその前に。まずはお茶でも飲んでひと息つきましょう。
わたくしは、盆に置かれたていぽっとを先生に指し示しました。中の紅茶はとっくの昔に冷えきっています。わたくしの舌にはちょうどいい塩梅ですが、先生がお飲みになるなら淹れ直さなくてはなりませんね。
「そうだな。お茶にしようか」
口元を少しだけ緩めて、先生は腰を浮かします。
「トモエ。もらいものの焼き菓子がまだあったろう。そこの棚から探しておくれ」
はい先生。あの『まどれえぬ』とか言うふかふかしたのですね。わたくしはあのお菓子が好きです。あれは先生がくださったお布団に噛み心地がそっくりですから。
ふと。文机から飛び降りようとしたわたくしを先生が抱き上げました。
「お前の毛皮は本当にもこもこだなぁ。ああ癒される」
……お菓子を取りに行けません先生。それにわたくしは『もこもこ』なんてしてません! 失礼な!
ねえ先生。わたくしは先生のおそばにいられるだけで嬉しいのです。ですからこれからもずっとわたくしをおそばに置いてくださいましね。
それでときたま先生とお茶をいただけたなら——わたくしは大層幸せです。それはもう。肉球が真っ赤になるほど。
<了>
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