レディアリアの滑稽なる観劇

 彼の指が彼女の白磁の肌をはじく。彼の指が彼女の黒鉛の髪をすく。とても丁寧に、優しく、柔らかく。それはそれは愛おしげに。

 彼が暮らしている粗末な屋根裏のひと部屋には、彼と彼女の他には何もない。彼は彼女の他にはティースプーンひとつ持ち込まなかった。食堂で他の住人と食卓を共にしようともしない。わたしは彼がまともに食事を摂っているのかどうかも知らない。

 大家と間借り人。わたしと彼の関係はそれ以上にはならない。いつか彼が彼女と共にこの家を出て行く日まで、それ以外にはなれない。

 狭苦しい部屋に音が満ちている。彼が立てば頭をぶつけてしまいそうな天井と床板の間に、グランドピアノひとつ押し込んだらあとは椅子くらいしか置けないほどの壁の間に、音が跳ねて、満ちて、わたしを押しつぶそうとする。

 このソナタは彼と彼女との甘い睦言なのだ。そこにわたしの居場所はない。彼と彼女が触れあい、囁きあうこの夕暮れのひとときに、片隅に座りこむわたしのなんと見苦しく場違いなことか。分かっている。だからこそ、わたしはここに座り続ける。彼と彼女の逢瀬をほんの少しでもかき乱したくて。

 そんなわたしの企みなど素知らぬように、彼は彼女に触れ続ける。わたしの存在など空気に溶けてしまったかのように振る舞う。ああ、なんて、なんて。




 やがて夕日がすっかり沈んでしまったころ、彼はようやく彼女から身を離した。ぼうっと熱に浮かされたようにとろけた瞳が部屋をさまよう。わたしの上を一度通り過ぎて、それからもう一度、わたしへ視線を向ける。


「今日も聴いてくださっていたんですね。お疲れさまです」


 やはり今日も気がついていなかったらしい。わたしがこの部屋へ入って来ていたことすら意識していない。そう、今日もだ。今日もいつも通りだった。

 彼女がいる限り、彼が私に目を向けることはない。私では彼女の当て馬にすらなれない。

 私にできるのは、ただ観ていることだけ。聴いていることだけ。

 彼と彼女、ただふたりのための歌劇を、私は一人きり、客席で観ているのだ。

 今日も、明日も。

 彼と彼女が私のそばにいる限り、永遠に。



<了>

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