「望みが希(うすい)」と書いてきぼうと読む

 眼鏡を踏みつぶした、と言って午前2時に電話をかけてきた阿呆がいた。

 その阿呆は電話口で泣きながら「前が見えなくてレポートが書けない」だの「課題ができなければ単位が」だの喚いたが、その課題とやらを終わらせて穏やかな心持ちで寝ていた私にはなんの関係もない話だ。さっさと通話を切ってふかふかの布団をかぶり直した。



 それが5時間前のこと。

 降り注ぐ朝日の中、今爽やかな起床を果たした私の目に映ったのは、私の鞄をあさる阿呆の姿だった。

 踏み潰された割りにはヒビひとつ無い眼鏡をかけた阿呆は、鞄から紙を取り出しては内容を見て放り出すという作業を黙々と続けている。私の視線には気づいていないらしい。

 私はとりあえず開け放たれた窓を閉める。次いで、何か鋭利なもので切り取られたらしい窓ガラスの写真を取った。阿呆がなおも作業に熱中していることを確認したので、冷蔵庫から水を取り出して、ペットボトルからそのまま一口。

 その間に阿呆は鞄をあさり終わったらしい。絶望の面持ちで、床に散らばった紙を端から検分し直している。

 私は阿呆の後ろに立ち、汗ばんだ背中に冷たい水をたっぷり注ぎこんであげた。


「あひゃぃっ」


 甲高い悲鳴をあげて倒れる阿呆を、鞄からなるべく遠くに蹴り飛ばす。貴様は女子か。


「ぎゃあ! あああぁあ……」


 頭を抱えて縮こまる阿呆。悲鳴もか細くなっていく。どこかに頭を打ったようだ。そのまま死ねばいいのに。


「なにやってんの、お前」


 私は一応尋ねてやった。もっとも、私にはこの阿呆がなんのために人の部屋に不法侵入したのかはよくわかっている。それでもあえて尋ねるのは、弁明の機会を与えてやろうという親切心だ。


「そ、そういえば眼鏡のスペアがお前の部屋にあったよなーって気がして。探しに来たっていうか」


 そうか。じゃあお前の耳にかかってるそれは眼鏡じゃない訳だな。


「ごめんなさい。本当はレポート写させてもらいに来ました」


 そうか。で、眼鏡じゃないなら壊れても問題ないよな。だって眼鏡じゃないんだもんな。

 私の手の中で、阿呆の顔から剥ぎ取った眼鏡によく似た何かが綺麗な弓なりにしなる。

 ちなみに、レポートは学校で印刷するつもりだったのでまだ物質的には存在していない。馬鹿め。


「嘘をついて安眠を妨害したばかりか不法侵入まで犯し、大変申しわけございませんでした! 何卒俺の眼鏡だけはお許しください!」


 阿呆の土下座を見るのは、これで何度目だろうか。その安い頭に免じて眼鏡は許してやろう。

 もしもし、警察ですか。

 そう言ってケータイを耳に当てた途端、阿呆は土下座スタイルのまま、額を床に打ち付けだした。床に傷がついたら弁償させよう。


「おい、害虫」


「はい」


「お前がうちの窓ガラスを壊すのはこれで何度目だ」


「3度、くらい?」


「5度目だな。それで、課題を写させろと言ったのは何度目だ」


「3度……」


「喜べ、記念すべき10度目だ」


「わあい」


「そうか、嬉しいか。私もだ。これでもうお前の顔を見ることもないな。留年おめでとう」


 阿呆が私の脚にすがりつく。蹴り飛ばす。

 だが、このまま見捨ててストーカーにでもなられては私も困る。


「おい、豚」


「ぶひぃ」


「まず、まき散らしたプリントを全部拾い集めろ」


「はい」


「あと、窓ガラスは弁償しろ。5回分全部」


「……はい」


「それと、お前が頭を打ちつけて床が傷ついた。それも弁償」


「えー! それくらいで」


「豚箱に行くか、豚」


「喜んでお支払いしますぶひぃ」


 こんなものか。

 時計を見ると、ちょうど午前8時。登校して、授業前に課題を刷ることを考えれば、もう出なければまずい。

 阿呆改め豚を玄関に蹴りだし、適当に身支度を整える。

 鞄を持って外に出たところで、豚がコンクリに額をつけて待っていた。


「今日は写させないぞ」


 絶望の表情でまとわりつく豚を払いのけて、言ってやる。


「あの先生は一週間ぐらいなら待ってくれるからな」


 豚もとい阿呆の顔が、みるみる希望に満ちていく。

 馬鹿め。

 私は自慢ではないが、あまり勤勉とは言い難い生徒だ。

 阿呆が今朝、なんとか取り繕おうとトラジコメディを繰り広げ、そして私がこれから印刷しようとしているレポートは、本来ならば先週が提出期限だったものだ。

 講義をサボりすぎて課題のスケジュールすらろくに把握していない阿呆には知るよしもないことだが。

 私の安眠を害した罪は重いのだ。



<了>

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