くもりぞらのいえなきこ
助けてくれないかなぁ、と思っている。
思っているだけで、特に言葉に出したりはしない。ただ、助けてくれないかなぁ、と思っている。
私の目の前を通りすぎたサラリーマンは、こちらを一瞥もしなかった。そのわりには、道端に寝そべる野良猫なんかに相好を崩して鮭の切り身をやっている。
当然という顔をして魚を頬張る猫は、ちらりと私を見て、ふふんと鼻を鳴らした。生まれもった種族の優位性を鼻にかけた、嫌な笑いだ。
「わたしは可愛いから奴隷がいっぱいいるのよ。悔しかったらあなたも猫になれば?」とでも言いたげな瞳である。悔しい。
私がぎりぎりと歯ぎしりしているうちに、サラリーマンは去り、猫は女子高生から次の貢ぎものを献上されていた。ピンポン球ほどもある、大きないちごだ。真っ赤な肌には水滴が光り、つやつやと実においしそうないちご。ああ、羨ましい。
でも、私は別にお腹が減っているわけではない。それよりも、もっと切実に、差し迫った問題に悩まされているのだ。
だから、もう3日も前から『誰か助けてくれオーラ』を発しながらここで待っているというのに、私に気づいてくれたのは、隣でいちごをかじっている白猫だけとは何と言う残酷な運命だろう。
嘆く私の頭上で、灰色の雲がごろごろと不穏な音を鳴らす。
いよいよ本当にやばい。今すぐにでも助けてもらえなければ、私は明日の朝日どころか今夜の月さえ見られないだろう。
本当は、私をここに置き去りにした張本人に迎えに来て欲しかった。さもなければ、心優しくかわいい清楚な黒髪の少女にそっと手を差し伸べて欲しかった。いっそのこと18歳越えのおばさんでもいいから助けて欲しかった。
だが、もうそんな我がままも言っていられないらしい。
仕方がない! お前で妥協しよう。だから私をここから救い出したまえ! さあ!
私は猫へ手を伸ばす。
「はっ」
鼻で笑われた。
同じ笑いでも先程の「ふふん」とは全く異なる、心からの侮蔑がこもっている。お前、猫がそんな声出していいと思っているのか。さっきの女子高生に見せてやりたい。
ぽつり、と冷たい雫が1滴、私の手に落ちた。雫はしばらく手の上で形を保って、ほどなく私の中に染みこんでいく。
来た。私が空を振り仰ぐと同時に、無数の雨粒が顔に降り注ぐ。たちまちのうちに頭は水を吸い、順に手が、体が、脚が、もったりと重くなっていく。
私がはまりこんでいる溝はみるみるうちに茶色い汚水で満たされた。体が徐々に水の勢いに圧倒され、溝の奥、先の見えない暗闇へと押し込まれていく。
ああ、もう駄目だ。
いよいよ死を覚悟した、その時。
鋭い牙が、ずぶりと首の後ろに突き刺さった。
猫にくわえられていると気づいたときには、もうぐいぐいと引っ張られていた。首の皮膚……というか布がぎちぎちと危険な音をたてる。
たっぷり水を吸った私はさぞかし重かっただろう。下水道からやっとのことで私を引っ張りあげた猫は、肩で息をついていた。
なんだ、お前いい猫だったんじゃないか。
ありがとう――と伝える前に、みぞおちに猫パンチが喰いこんだ。私の腹が、がぼっと音を立てて水を吐く。
顔に、胸に、執拗な猫パンチを受け、私は吸い込んだ水を強制的に吐かされた。
そして、再び私をくわえた猫は、商店街のひさしの下を歩き出す。
どこへ行くのか、と聞きたいところだが、残念、私は声が出ない。
まあ、行き先がどこであれ、例えそれがゴミ捨て場だったとしても、あのまま下水に流れて溺れ死ぬよりはよっぽどマシだろう。
ふと、すれ違った子どもが猫を指さして叫ぶ。
「ママー! 猫さんがお人形もってるよ!」
その声を背に、私たちはどこへともなく歩き去った。
<おしまい>
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