猫と小宇宙

 やたらクッションに頭をこすりつけているな、とは思っていた。

 ただのマーキングだとみなしていたそれは、僕の理解以上に深刻な問題だったらしい。

 嫌がる愛猫をつかまえて頭頂部をのぞきこんでみれば、なんとまあ、見事な十円ハゲができていた。

 もっとよく確認しようとハゲ周辺の毛をかき分ける。

 ぶつ、という不吉な手応えとともに、鋭い爪が鼻先を横切った。

 怯んだすきに猫は僕の手からすり抜けて、ベッドの下へ潜り込んでしまった。

 しまった。どうやら愛猫の病状は未だ進行中らしい。

 僕の手のひらには、ごっそりと束になって抜け落ちた彼の毛が残されていた。

 な゛ぁ゛ぁ゛、という恨みがましい鳴き声。

 これはもう、今日一日は籠城の構えを崩さないだろう。

 困った。大変に困った。

 僕は思わず頭をおさえる。収まりかけていた鈍い痛みが、脳の奥から蘇りつつあった。

 猫のことをほったらかしにしていたわけではない。

 だが、ここ数日、餌やり以外ろくにかまってやれていなかったのは確かだ。

 その原因が、頭痛だ。

 元々偏頭痛持ちではあるけれど、ここ一週間ほど、症状が悪化している。

 ひどいときは、床に倒れて起き上がることすらままならないほどだ。

 だから、猫の病気に気が付かなかったのも仕方がない――わけがない。

 猫と僕、一匹と一人の暮らしでは、彼が頼れるのは僕しかいないのだ。たとえ体調不良であったとしても、飼い主(げぼく)としての責任を放棄していい理由にはならない。そう、たとえこのまま頭痛が悪化して死の淵に立ったとしても、だ。そのぐらいの覚悟がなければ、猫の飼い主(げぼく)になる資格はない。

 さあ、頭痛に負けている暇はないぞ。

 僕は腕まくりをし、平手で軽く自分の頬を叩く。気合が入った。

 が、相変わらず頭痛がひどいので、頬に一発右の拳を叩き込んだ。

「かゆみは痛みの一種だから、もっと大きな痛みでごまかすのがいいのよ」

 在りし日の母の教えだ。蚊に刺された僕の手に爪でばってんをつけながら、優しく微笑む母の幻が見える。

 痛みはさらに大きな痛みで打ち消すことができる。

 僕の試みは成功したらしく、痛みは意識の彼方へ退いていった。

 今のうちだ。

 洗濯ネットを両手にかまえ、僕は果敢にベッド下へとスライディングをキメた。




「アレルギーですね」


 獣医師は、特に悩む素振りもなくあっさりと診断をくだした。


「人間の皮脂でアレルギーを起こしています。毛が抜けたのは、かゆみから来るストレスと……単純にかきむしったことも関係していますね。あなた、よく猫ちゃんの頭をなでているのでは?」


 なでている。猫が膝に来るたびになでまわしているし、来てくれなくても自ら近寄ってなでくりまわしている。なんなら吸ってる。

 あまりにも猫がかわいいから、僕は己の衝動を御しきれないのだ。


「それ全部、やめてくださいね」


 無理。


「いや……猫ちゃんはこのまま入院の方がいいかもしれません。人間との暮らしは、この子にはあまりに酷だ」


 無理。

 そんなことになったら、猫不足で僕は3日と生きていられないだろう。

 もしも僕らを引き離してみろ。遺書にこの医院とお前の名前を書いてやるぞ。飼い主殺しの悪徳医院としてマスコミが押しかけてくるぞ。

 それでもいいのか。


「あのね。猫ちゃんだけじゃなくて、あなたにもアレルギーの疑いがあるんですよ。その頭痛、猫アレルギーじゃないんですか?」


 嘘だ! そんなことありえない! アレルギーならもっと鼻水が出たり、体中かゆかったりするはずじゃないか!


「アレルギーにもいろいろあるんですよ。一度、病院でちゃんと検査を受けてきてください。それまでは猫ちゃんは入院! お引き渡しできません!」


 いやだーーー!!




 僕はねばった。恥も外聞もなく床を転げ回り涙を流して懇願した。もとい脅したとも言う。

 だが、悲しいかな、医者という権力の前には無力だった。

 そしてさらに悲しいことに、検査の結果、僕が猫アレルギーであると判明してしまった。神も仏もない。

 しかし、だからといって猫を諦める僕ではない。

 僕はある方法で、猫とともにある生活を死守したのだ。


 シュコーッシュコーッ


『ほら猫〜。ご飯だぞ〜!』


 シュコーッシュコーッ


 猫はベッドの下から出てこない。

 だが、餌を置いたまま僕が充分距離をとれば、いずれ出てきて食べてくれることはわかっている。

 僕は猫を余計におびえさせないよう、そっとベッドから距離をとった。

 僕は猫とともに過ごす生活を守った。だがそれは、猫との触れ合いを諦めることと同義だった。

 猫は人間アレルギー。僕の存在は、ただそこにあるだけで猫を苦しめる。

 ならば、僕の身体を単純に猫と隔絶してしまえばいい。

 今の僕は、全身特殊スーツ――別名・宇宙服と呼ばれる素材で覆われている。

 宇宙空間において、人間はもろくか弱い存在だ。そこで生きるためには、気体すら行き来できないほど完璧に外界と人体とを遮断する必要がある。

 そのために開発されたのが、宇宙服。これさえあれば、僕の皮脂が猫に付着する心配は絶対にない。

 呼気が漏れ出ているのだけが気になるが、仕方ない。一度完全に気密状態にして着てみたところ、酸素不足でそのまま死にかけた。死ぬならせめて猫を実家に預けてから死にたい。

 隣の部屋から監視カメラごしに、餌を頬張る猫を見守る日々。

 今の僕には猫をなでることも吸うこともできない。

 だが、いつの日にか必ず、僕は猫とたわむれる生活を取り戻してみせる。

 その第一歩として、アメリカのとある研究機関に貯金の半分を寄付した。その機関では、人体を機械に置き換える――いわゆるアンドロイド化の研究をしている。実現すれば、僕の身体は金属でできた合成筋肉に、脳は情報チップに置き換わる。アンドロイドの身体から皮脂は出ない。つまりアレルギーとは無縁の身体が手に入るのだ。

 寄付は一度きりでは意味がない。これからも毎月、それなりの額を納めていかなければ。そのためには、受ける仕事の量を増やしたほうがいいだろう。

 餌をたいらげた猫が、モニターの向こうで満足そうに毛づくろいをしている。

 その小さな頭――薄く毛の生え始めた十円ハゲを指でなでて、僕はひとりごちる。

 待っていろ、猫。僕は絶対諦めないからな。

 仕事用に立ち上げたウィンドウの隣で、「勝手にすれば」と言わんばかりに猫があくびをするのが見えた。


<了>

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