#3
《俺たちのために働くなら、命は助ける》と、彼は言った。この、人でない人たちのために働くとは、一体どういうことなのだろう。まさか——私が女だから、そんなことを?女にしかできないような仕事を、させられるかもしれない……?
「そういえば、まだ名前を聞いてなかったな、君の。」
その人は、鏡の前からローテーブルの方へと身を乗りだし、私の瞳を覗き込んだ。これを言ってしまえば、もう後には退けない気がした。私はひとつ息を飲んで、口を開いた。
「
楽屋の中を、視線が交錯する。あいつ、キセっていうんだ。あの白髪女が。ちゃんと聞いたか?マイバラキセだぞ。そんな言葉が聞こえてきそうだった。
「キセ。実は俺たちも、丁度人手が足りなくて困ってたんだ。こうなったのは、半分ミヤギのせいだし」
突然、聞き慣れぬ言葉が耳に入る。ミヤギって、人名?私以外の全員の視線が、私を飛び越えて後方へと注がれる。私も一緒になりゆっくり振り返ると、ドアの前に縮こまって立っている、あの端整な顔立ちの男性の姿があった。
「……はい」
申し訳なさそうに、彼は項垂れていた。どういうことなのか意味がわからなくて、私は姿勢を直した。直後、隣から
「お前が彼女を教育しろ」
という甘い声。私は思わず、その人の方を振り向く。
きょういく?
「はい、僕は構いません。」
そして、それに対し毅然と即答するミヤギという男性。
ち、ちょっと待ってよ。結局私は、働くって、何するの?教育って、何されるの??やっぱりこれって、生きてる方が地獄なのでは???
「わっ、私そんな!」
私は思わず、テーブルに手をかけて身を乗りだした。驚きの視線が、私に集中しているのを肌で感じる。
「あの、その……経験とか、ないし、やっぱり……む、無理です、そんな、卑猥なこと……!」
勇気と声を絞り出して言ってみたけれど、室内は恐ろしいほど静まり返っていた。この感じは、まるで——スベった、という感覚に近い気がした。
「ひわい?」
ぽつり、と誰かが呟く。その瞬間に、楽屋に割れんばかりの爆笑が響き渡る。
えっ、なにこれ。
はっとして目の前の男性を見ると、そこに姿はなかった。お腹を抱えて転げ回っていたからだ。隣を見遣ると、頭を抱えて表情を隠し、肩を揺らしている。
なに?なに。違うの?なんなの?
「なぁに勘違いしちゃってんのー!あっはは、君、やっぱ可愛いわあ!」
楽屋の隅にいた一人が私に接近し、軽く肩を抱いた。思わず、わっと小さく声が漏れる。
「別に俺はいいけどね?ヒワイなお仕事、してくれてもっ♥あイタッ」
そのままの勢いでずいっと顔を近づけられたけど、さっきと同様、カツラを拾ってくれた人が頭をはたき、首を捕まえてずるずると後退させてくれた。
「俺たちのこと、怖いのはわかる。でも今は、一アーティストとして活動してる、人間なんだ。」
誰よりも早く呼吸を落ち着けた隣の人が、そう言って私を穏やかに見つめた。
「さっき君が見た姿は、追々話はするが、今は関係ない。俺たちが円滑に活動できるように、手伝ってほしいと言ってるんだ。」
「てつ、だい」
その優しい視線に、私はまた絡めとられるような感覚に陥った。その時、引きずられながらまたあの人が
「そうそう、血をもらったりとか~むぐっ」
と発言して、すぐに口を押さえられていた。
「血?!」
「だから、今はそれは関係ない。……ケント、ヒロをちょっと黙らしとけ」
「了解っす!」
「むー!むぐぐ!」
ケント、と呼ばれた若い男の子が、もう一人と協力して、彼を羽交い締めにしている。
「……そろそろ時間になるな。ミヤギ、事務所へ連絡しておけ。今日から俺たちにスタッフをひとり増やすと。後は任せたぞ。」
優しく穏やかな視線は時計に注がれ、そしてミヤギさんに移った。しかし、その言葉は私にはとても聞き逃せなかった。
今日からは、だめ。
絶対、やだ。
だって、今日は——
「はい、ユウヤさん。さ、米原さん、こちらへどうぞ」
「ち、ちょっと待ってください!私は」
ミヤギさんに軽く腕を掴まれて、私は声をあげた。すると、いつの間に起き上がっていた目の前の男の人が、前髪の隙間から私を睨んだ。
「あんたに選択権はない。言われたとおりにするんだな」
「でも、あの、今日は!今日だけは……うちに帰してください!」
これだけは、譲れない。せっかくリナが、私を祝ってくれると言ったのだ。ここで命を落とすならと諦めていたけど、生きているならこれだけは叶えてほしい。
この先何十年会えなかったとしても、今夜だけは、あの笑顔にもう一度会わせてほしい。
「あんたな……!」
前髪男は立ち上がって私を威嚇する。しかし、それを制する柔らかな声。
「俺たちは君を信用したわけじゃないんだ。このままタダで帰すわけにはいかない。」
また、あの視線に言いくるめられそうになる。私は目をそらして、声を張った。
「私は、逃げも隠れも、貴方たちを売ったりもしません。」
だって、妹の大好きなグループだし。この人たちに不利なことをしたって私は何も得しないってことを、この人たちはわかってない。
「でも、今日は、今日だけは、だめなんです。帰りたいんです、家族のもとへ。今日さえ帰してもらえたら、後は身を粉にして働きますから」
唇を噛み締めて、手に力を込めた。私もいつの間にか立ち上がって、俯いていた。
「身を粉にする、って意味、わかってる?」
と、挑むような声が降りかかる。私はひとつ頷いた。
「やっぱりヒワイな……むぐ!」
「私は、本気です」
ここまできたら、もう。やるしかないから。
「言ったな。俺たちは今全員で、君の口から、その言葉を聞いたぞ。」
「ちょっ、ユウヤ!信じるのかよ?」
目の前からは、不審そうな声色。
「……はい、明日の朝、今の会社を辞めるように伝えてきます。その後は、みなさんの言う通りにします」
ケント君が口をふさぐのを抜け出したらしい彼が、わざとらしく口笛を鳴らした。呆れたようにひとつ息をついた後、ユウヤというらしいその人が、ぽんと肩に手を乗せてきた。
「まあ、安心しろ。ちゃんと給料は出す。バイト価格だがな。それ以外は俺たちと同じ条件で雇ってもらうから。生活費を見る分、少なくても我慢してくれ。だからどうか、俺たちについてきてほしい。」
私は思わず、彼を見上げた。最初に思ったのと、違う。この人たちは、私の気持ち以上に、本気だ。
「生活費の心配をしなくていいなら、家族への仕送りの分があれば十分です。」
いつしか手の力も抜け、渇いて痛いほどの喉からは普通に声が出ていた。彼は《信用したわけじゃない》と言ったけど、もしかしたら私は、もう……
「ただし、これだけは守ってくれ。」
ユウヤさんに、瞳を覗き込まれて念を押される。
「俺たちのこと、俺たちと一緒に働くことは、他言無用だ。家族にも、誰にも明かしてはいけない。いいな?」
そっか、このことは、リナにも言えないんだ。それも当然、か。
「……はい」
「じゃあ、あとはミヤギの言うことを聞いて」
そう言ってユウヤさんが微笑むと同時に、ミヤギさんに背中を押され、私はドアに向き合った。
靴を引っかけ、ノブに手をかけて、ふと立ち止まる。私はもう、こちら側の人間なのだ。明日目が覚めたら、それはもう、いつも通りの朝ではない。朝を迎えた時の晴れやかさも、もう二度と味わうことはないかもしれない。私の人生は、運命は、もう、この人たちの中にしかないのだ。
「明日の朝、迎えに行かせるから」
あの、深く甘い声。それに導かれるように、私は振り返った。最初ここに足を踏み入れた時、ほの赤く浮かび上がったあの瞳は、今ではゆるやかにほそめられ、闇夜のように静かで穏やかだ。
「ヨロシク。」
5人の視線が、それぞれの思いを湛えて私に注がれる。
警戒
不安
傍観
挑発
そして、期待。
私はそれを全て飲み込んで、ひとつ頷き、楽屋を後にした。
Next story》
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