第6章 沈む神
6―1
「グシオン……」
アステリウスがかつての上官にして同僚の死体を呆然と眺めていたのは、しかし数秒だった。
天を仰ぎ、もう一人のグシオンを緋色の瞳で睨みつける。
左半身だけしかないグシオンの顔には、表情らしき表情は何一つ浮かんではいなかった。
これほどに憎らしい敵と出会ったのは初めてだった。たとえ殺せなくても殺してやりたい。彼がそう思ったとき、突然背後から頭をはたかれた。
「逃げろと言われたら素直に逃げろと言っただろうが! おまえのこの派手な頭は飾りか、ああ!」
もう少しで自分で自分の顔を切ってしまうところだった。声で誰かはすでにわかってはいたが、文句を言おうとして振り返りかけたとき、まるで猫の子のように襟首をつかまれ、後ろに引っ張られた。
「不干渉が俺の主義だが、この際、そんな悠長なことは言ってられん。ここでおまえに死なれたら、俺の楽しみが減るんだよ」
足が地上を離れた、と、そのまま空中高くに浮き上がり、サレオスとグシオンの死体は、あっというまに小さくなっていった。
白い空に浮かぶグシオンは、確かに彼を見ていたが、攻撃をしかけてくることはなかった。ふいに顔をそらし、地上に向けて手を伸ばす。だが、何をしたのかは彼にはわからなかった。
まったく背後を見ることができないまま、彼は森を越え、山を越えた。再び地に足をつけることができたのは、視界を遮るもののない険しい崖の上でだった。
「こんなことになるんなら、あのとき、何もかもぶっちゃけておくんだった」
苦しかった襟元に手をやりながら後ろを向くと、案の定、あの銀髪の青年が憤懣やるかたない顔をして立っていた。
「おまえが近くにいる限り、奴は力を解放できないんだ。俺が逃げろと言ったのは、おまえの命を守るためだけでなく、奴があいつを倒すためにだ。これでよくわかっただろう。おまえの力ではかなわないと言った意味が。おまけに、あいつはまだ人間の体を器にしていた。そうでなかったら、おまえはとっくの昔に消し炭だ。あいつの気まぐれに感謝しろ」
ノルトがそうまくし立てたとき、彼らの来た方向から地響きが湧き起こった。彼とノルトがそろってそちらに目をやると、見えない巨大な拳によって殴りつけられたかのように、森が、山が、草原が、次々と陥没していた。しかし、それらはすぐに元どおりになる。また破壊される。再生される。
破壊。再生。破壊。再生。破壊。再生。破壊。……
まるで悪い夢のようだ。彼は気が遠くなるような思いがして、自分の額に手をやった。これが神の力か。そして、その力を振るっているのは、自分の元副官と、自分の元同僚の姿を借りた、あの男だというのか。
やがて、地平線の端から、何か白い波のようなものがこちらへ向かって押し寄せてくるのを彼は見た。それは前方からだけでなく、他の三方からもやってきていた。その波が破壊と再生を繰り返す大地に至ったとき、彼はそこで何が起こっているのかを知った。
――世界が消えていく。
あの波に呑まれると、大地は消えて、空と同じ白一色に塗りつぶされるのだった。そうなった場所では、もう再生も破壊も起こらない。ただ無。完全なる無。
その瞬間。
自室にいたセナンの占い師タユナは、数日前に会ったこの世の神の悲嘆の声を聞いて、見えぬ目から涙を流し。
ランティスのバラムは、突然白く染まった空をあっけにとられて見上げていた。
ダンタリアンの妻は、いまだ戻らぬ夫の安否を気遣い。
ミシャンドラから内密に将軍職への復帰を打診されたフルカスは、ほぼ受諾の意志を固めていた。
まだ眠りについていなかった酒場の不幸な人々は、白い空を目にして不安にかられ。
すでに眠りについていた幸福なアドラの老人は、明日も今日と同じように来ることを疑いもしていなかった。
波は国境を問わず平等に押し寄せ、万物を一瞬にして無に帰した。
「あいつを消し去るために、この周囲の世界を維持する最低限の力を残して、残りは全部攻撃に回すつもりだ。――恐ろしいな。俺は間違っても、奴を無理やり目覚めさせようなんて思わない。自分から殺されにいくようなもんだ」
冗談めかした口調だったが、それはノルトの偽らざる本音であっただろう。もしかしたら、この青年の紺碧の瞳には、彼とは違う光景が見えているのかもしれない。神の目でしかとらえることのできない、もう一つの世界が。
波は、彼とノルトの立っているわずかばかりの足場を残して、とうとう世界のすべてを呑みつくした。
自分の手のひらすら見えぬ深い闇の中よりも、何一つ存在しないことが明らかな白い光の中のほうが恐ろしいと、彼はこのとき初めて知った。自分の息遣いと鼓動以外、何の音も聞こえない。
ここは本当に、自分が今までいた世界なのだろうか。実はまだあの小屋の中で眠っていて、今この夢を見ているのではないだろうか。
そんなことを考えたとき、どこか遠いところで、何者かの悲鳴が上がったような気がした。
男か女かもわからない。本当にそのような声がしたのかさえ疑わしかった。だが、その声を聞いたと思った直後、真白い世界に一つの変化が生じた。
――誰かがいる。
白に埋もれるようにして、さらに白い存在がたたずんでいる。
とっさに駆け寄ろうとしたが、ノルトに腕をつかまれ、止められた。彼よりずっと細身の青年なのに、その手の力は彼の腕を握りつぶせそうなほど強かった。
「……ライル?」
探るように名前を呼べば、その人影は顔らしき部分を両手で覆う。
「ライル……ライルだろう?」
答えはなかった。
「ライル……私は」
彼がそう言いかけたとき、その人影の足許が消えた。――否。空間の中に沈みこんでいた。あたかも、底なし沼に沈んでいくかのように、音もなく消えていく。
「ノルト、離せ!」
「駄目だ。あそこには世界がない」
その間にも人影は沈みつづけ、彼らの前から完全に消失した。
――と。
その沈んだ箇所から地表が出現し、白い波に呑まれたときとは逆に、四方に向かって急速に広がりはじめた。
森があったところは森となり、山があったところは山となり、草原があったところは草原となる。
それが地平線の彼方まで広がりきったとき、白々とした空は、一転して元の夜空に戻り、半分以上欠けた月が、何事もなかったような顔をして、東の空で輝きはじめた。
そのとき。
先見で有名なセナンの占い師タユナは、突然、過去を見たいという欲求にかられて、血のように赤い瞳を曇らせ。
ランティスのミシャンドラとバラムは、アステリウスの後任の将軍を誰にするかを肴に、酒を楽しんでいた。
ダンタリアンは自宅で、イポスはアステリウスの屋敷で、それぞれ妻と語らい。
元将軍フルカスは、どうして誰も自分を四将軍の一人に復帰させようとしないのかと憤っていた。
酒場の人々もアドラの老人も、自分たちが一度消され、再び作られたことを夢にも知らず。
世界はその創造主の命じたままに、姿を変えて再生した。
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