5―3
アステリウスが目覚めたとき、小屋の中にライルの姿はなかった。
(小用か?)
そう思ったが、何となく違うような気がして、傍らの大剣に手を伸ばす。
元副官は彼がいつでも熟睡しているようなことを言っていたが、それは元副官が彼に害意を持っていなかったからであって、そうではない場合、彼の眠りは非常に浅くなった。その自分が目を覚ましたのだ。必ず何かある。
(人の気配はなさそうだが)
小屋の壁の隙間から、注意深く外を窺う。
ここから見るかぎり、元副官の姿すら見あたらない。
外見はたおやかだが、元副官の剣の伎倆は彼も一目置くほど優れている。たいていのことは一人でも対応できるだろうが、もし不意を突かれたり、相手が大人数だったりしたら。
(万が一恥ずかしい場面に遭遇したとしても、すぐに忘れてやるから)
今のうちに心の中で詫びてから、彼は剣を携えたまま小屋の外へ出た。
空にはまだ月は出ていなかったが、闇に慣れた目なら星明かりだけでも周囲の様子はある程度わかる。森は彼以外のすべての生命が死に絶えたかのように静まり返っていた。
(妙だな)
別にこれといった根拠はない。ただ、いつもと違うと彼の直感が告げていた。
こういうとき、彼は理性よりも感性を信じた。そうして、今まで生き抜いてきた。
大剣を鞘から抜いて身がまえる。相変わらず人の気配はない。
「アステリウス様!」
静寂を悲愴な声が切り裂いた。
「ライル!」
とっさに叫び返したが、森の暗がりから飛び出してきたのは、彼の元副官ではなかった。
「ああ、よかった、起きていらっしゃいましたか!」
彼に走り寄り、嬉しそうに大きく息を弾ませているのは、彼にも見覚えのある青年だった。
「サレオスか。……どうしてこんなところに?」
この金髪碧眼の青年は、グシオンの副官である。あのグシオンの。彼は警戒を解かなかった。
「アステリウス様、詳しい話は後です。とにかく、今すぐここからお逃げください。これから起こることは、人知の及ばぬ事です」
「何を言っている、サレオス。それに、まだライルが戻っていない」
「……ライルはたぶん戻らないでしょう。私は一刻も早くこの場からアステリウス様を連れ出すようライルに言われたのです。馬はどこですか?」
アステリウスの答えを聞く前に、小屋の横につながれていた二頭の馬を見つけたサレオスは、彼の脇をすり抜けて近づこうとしたが、彼に肩をつかまれて阻まれた。
「待て、サレオス。話がさっぱりわからん。なぜおまえがここにいてライルがいない。ライルは今どこにいる?」
「森の中にグシオンといます。私はグシオンに連れられてここへ来ました」
動揺していた彼は、サレオスが自分の上官を呼び捨てにしたことには気づかなかった。
「グシオン? あいつがライルに何の用がある? あいつが殺したいのは私だろう?」
「いいえ。グシオンの標的は、最初からあなたではありませんでした。グシオンは」
サレオスがそう言いかけたとき、空が白く染め変えられた。一瞬、空高くに浮かぶ人影のようなものが浮かび上がり、すぐにまた夜の闇の中に沈みこんだ。
「今のは……グシオンか?」
信じがたいが、あの痩身は間違いなくグシオンだった。
「今のグシオンは、人間ではないのです」
怯えた顔でサレオスが告げる。
「アステリウス様が軍を辞められた後、ある夜を境に、突然変わってしまいました。アステリウス様たちを追う理由を作るためだけに、アステリウス様に謀反の濡れ衣を着せ、イポスやダンタリアン様を人にはできない方法で殺しました。しかし、グシオンの真の目的は、あなたをとらえて殺すことではなかったのです。……ライルです。ライルだけが欲しかったのです」
「ライル? なぜ?」
呆然と問い返す彼を、サレオスは恨めしげに見上げた。
「なぜ? アステリウス様、あなたもライルを選んだではありませんか!」
「グシオンはそれほどライルを副官にしたかったのか?」
「もう副官どころの話ではないでしょう。その先のことは、我々の関知するところではありません。とにかくもうこれ以上、ここにいてはいけません。繰り返しますが、グシオンは人間ではないのです」
「だが、ライルはどうなる? 私にはライルを見捨てることはできん」
「アステリウス様……あなたはあれほどライルと共にいて、まったく何も感じなかったのですか?」
サレオスの彼を見る顔には、呆れたような気色があった。
「何を?」
「今、あの場にグシオンを縛りつけているのは、ライルです」
彼は言葉を失い、サレオスを見つめ返した。
「何だと?」
「ライルもまた人間ではありません。おそらく、グシオンと同じものでしょう。さあ、アステリウス様。ライルがグシオンを抑えている間に、早く」
サレオスはアステリウスの腕をつかんで引こうとしたが、サレオスの細腕では、彼を動かすことはできなかった。
彼はグシオンが浮かんでいた場所を見上げて睨んでいた。そこにまだグシオンはいるはずだったが、今はなぜかどんなに目をこらしても見ることはできない。その脳裏にノルトのあの言葉がよみがえる。
――俺の親友を強制的に目覚めさせるために、無理矢理この世界へ潜りこんできて、この世界にいる親友の分身を殺そうとしている。
「ライル!」
どこにいるともしれぬ元副官の名を彼は呼んだ。
「どこにいる! 聞こえているなら返事をしろ! 何がどうなっているのか、私にきちんと説明をしろ!」
「アステリウス様、いけません! ライルは」
「直接ライルの口から聞かねば納得できん。私は自分とライルだけを信じている」
「アステリウス様……」
サレオスが嘆くような声を漏らしたとき、再び空が白く染まった。
「残酷なことを言うな。アステリウス」
先ほどと同じ体勢のまま、グシオンは世界中に響き渡るような大音声を上げた。
「なぜ何も問わずに立ち去ってやらぬ、
言い様、グシオンは無造作に彼に向かって左手を振り下ろした。その手の先から青白い閃光がほとばしり、宙を駆ける。彼はサレオスを突き飛ばし、横へ跳んだ。
光は小屋を直撃し、炎上させた。馬たちは恐慌状態に陥って縄を引きちぎり、人間たちを置き去りにして、森の奧へと逃れていった。
「……約束が違う? どうせおまえがこの世界で死ねば、すべては消え去るのではないか」
彼には何の声も聞こえなかったが、グシオンは笑いながらそう言った。
「そうだ。遅かれ早かれ、すべては消えるのだ。おまえが作り上げたもの、支配したもの、愛したもの、残らずすべて。その順番が先になろうが後になろうが、たいした差はないだろう」
グシオンの体が左右二つに分かれた。左はその場に留まり、右は彼のいる地上へ向かって降りてくる。途中、それを妨げるように火花が散ったが、グシオンはそれを強引に突き破り、地上へと降り立った。
と、左半身が現れて両足がそろう。グシオンは彼に向かってゆっくりと歩き出した。
「アステリウス様!」
サレオスは悲鳴のような声を上げて彼を移動させようとした。が、逆に彼はサレオスを自分から引きはがし、自らグシオンに歩み寄った。
「顔は同じだが、私が知っているグシオンではないな」
淡々と彼は言った。だが、それに答えたグシオンの声音は彼以上に平坦だった。
「記憶は残っているぞ。この男はおまえを妬んでいた。だが、それと同じだけ、おまえに憧れてもいた。自分がやっとの思いで手に入れた将軍の座を、どうしてそうも簡単に捨てられるのかと、憤りつつもおまえらしいと思っていた」
「それは本人の口から直接聞きたかったな」
「この男は一生口にはすまい。最後だから、私が代弁してやっている」
グシオンは両手を天に掲げると、それぞれの手の中に剣を出現させ、自分の胸の前で交差させた。
「そして、これはこの男の最大の望み。――紅蓮のアステリウスに、剣で勝つ」
そのとき、グシオンに向かって幾条もの稲妻のような光が走ったが、すべてグシオンに届く前に弾き返された。
「それこそ、私がまだ将軍だったときに言ってほしかった」
そう答えつつも大剣をかまえる。その間にも、稲妻は流星のようにグシオンに降り注いだが、いずれも彼の体を刺し貫くことはなかった。
「アステリウス様……」
対峙する二人の剣士を、サレオスはただ見守ることしかできなかった。今、不用意に近づけば、自分が斬られる。
「参る」
グシオンが呟き、その異名の由来でもある二本の剣を踊らせた。
斬る。受ける。退ける。
また斬る。進む。受け流す。
二人の力はほぼ互角。どちらも一歩も譲らなかった。
いつしか、サレオスは今の状況を忘れて、二人の斬り合いに見とれてしまっていた。気づけば、あの稲妻も落ちてこなくなっている。
燃え上がる小屋の炎を背にして剣を切り結ぶ男たちは、まるで高度な舞踏でもしているかのように美しかった。今、自分たちが何のために戦っているのかすら忘れてしまっているのかもしれない。
相手に勝つことよりも、全力で戦えることを嬉しいと思う。ここにいるのは、そういう種類の男たちだった。
一対一の戦いは、永劫に続くかと思われた。しかし、少しずつだが、グシオンが押されるようになってきた。
そろそろ決着がつくのかもしれない。ほっとして周りを見る余裕の出てきたサレオスが、ふと白い空を見上げると、グシオンの左半身が奇妙な動きをしているのが目に留まった。
帯が半分しかないのになぜか下へ落ちない剣帯から、そろりそろりと剣を引き抜き、手を離す。剣は下へ落ちずに空中に留まり、その切っ先を微妙に動かすと、弓で放たれたかのように地上へ向けて飛んだ。
(まさか!)
剣が向かう先には、サレオスが副官になりたかった男の広い背中があった。
逃げろと叫ぶ時間はもうなかった。サレオスは走り、自らの体でその剣を受け止めた。
「サレオス!」
アステリウスが叫んで、倒れるサレオスの体を左手で支えた。だが、このとき彼と共に二人のグシオンも自分の名を叫んでいたことに、サレオスは最後まで気づかなかった。
「グシオン! 貴様!」
剣をかまえたまま、かつての同僚を睨み返す。
グシオンは、サレオスがもう一人の自分が放った剣に胸を刺し貫かれたと同時に攻撃をやめていたが、その青白い痩せぎすの顔には、何の表情も浮かんではいなかった。
「やはり貴様はグシオンではない。あの男なら、何があってもこんな卑怯な真似はしない」
アステリウスが一喝した、まるでそれを受けたかのように、あの稲妻の雨がグシオンを襲う。
不意を突かれて防御が間に合わなかったのか、グシオンはそれらをすべてまともに食らい、まだ激しく炎を上げている小屋の中へと叩きこまれた。
「サレオス、しっかりしろ!」
大剣を地に突き立ててから、慎重にサレオスを横たえさせる。
グシオンの剣はサレオスの心臓付近を刺し貫いていた。ごふりとサレオスが鮮やかな赤い血を吐く。もう助からない。彼はグシオンの動きに気づけなかった自分を激しく悔やんだ。
「すまん、サレオス……私がうっかりしていたばかりに……」
「いいえ……アス……様さえ、ご無事なら……それで……」
痛みに震えながら、サレオスは満足の笑みをかすかに浮かべた。
最後の最後に、ようやくこの男の目を自分に向けさせることができた。副官の座を手に入れることはできなかったが、この男の腕の中で死ぬことができるのは悪くない。むしろ、これ以上の死に方はないと思った。この男は深い後悔と共に二度と自分を忘れないだろう。
「早く……ここ……から、お逃げ……ください……グ……死んで……ない……」
「もういい。しゃべるな、サレオス」
「今度……生まれて……くる、ときは……私を……あなたの……」
サレオスは彼に手を伸ばそうとしたが、彼がその手をつかむ前に下へと落ちた。
「サレオス……」
彼が後悔と共にその名を呟いたとき、背後からあの声が響き渡った。
「おまえにはわかるまい」
振り返ると、あの男が立っていた。その体はまったく無傷で、火傷ひとつ負っていない。
「どれほど欲しても選ばれなかった者の、悲哀。絶望。嫉妬。おまえには決してわからぬだろうな。この世の神にただ一人、選ばれたおまえには」
彼はサレオスの瞼を閉じさせてから立ち上がり、右手で自分の剣を引き抜いた。
「グシオンの声で、顔で、姿で、そのような女々しいことを言うな、見苦しい」
低く彼は言い放った。
「たとえおまえの語る言葉が奴の本心だったとしても、それを語らぬことを奴は選んだのだ。これ以上、奴の姿で奴を愚弄するような真似をするな。私が知っているグシオンなら、今頃自分で自分の首を刎ねている」
そのとき、グシオンは笑った。
嘲笑でも冷笑でも失笑でもない。それは彼が一瞬毒気を抜かれたほど、晴れやかな笑みだった。
「そうだ。アステリウス、思い出した。俺は本当はこうしたかったのだった」
グシオンは両手に提げた剣を振り上げると、それを交差させて己の首にあてがい、一気に押し切った。
いったいどれほどの力が加わったのか、頭は完全に体から切り離されてぼとりと地表に落ち、その後を追うように頭のない体がゆっくりとくずおれていった。
双手のグシオンは、最期の自分が果たせなかったことを、今ようやく成しとげたのだった。
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