5―2

 慧眼のダンタリアンが、双手のグシオンに疑惑を覚えたきっかけは、グシオン自身の言動からというよりも、その副官サレオスの怯えたように彼を見る目からだった。

 かの有名なアステリウスの副官ライル――この〝かの有名な〟は、アステリウスとライルの両方にかかる――と同期のその青年は、いかにも名家の生まれらしい品のよさと鼻につかない適度な機転のよさを備えていて、美しいが抜き身の剣のような鋭さも持つライルよりもずっと好ましく思えたのだが、そのサレオスが自分の直属の上官に対して、どこか距離を置きたがっているように見受けられたのだ。

 もともとサレオスは上官に対して常に礼儀正しく接していたが、それでも親愛の情のようなものはほの見えた。それが例のアステリウスの密書騒ぎ以降、ぱったりと見られなくなった。

 客観的に考えてみれば、今回の件は怪しい点が多すぎた。

 まずあの密書。もしあれが本当に本物であったとしたら、なぜアステリウスはあんなものをわざわざ人に貸す屋敷の中へ残していったのか。普通なら処分するか持ち出すかして、人目に触れないようにしていくだろう。

 そして、その密書を発見したという商人イポス――アステリウスとは古なじみで、屋敷を借りたというよりは、その管理を任されたようなものだった――のその後の行動と自殺。

 なぜ、彼は将軍の中でもグシオンに密書を渡し、その後、自分の首を切って自殺してしまったのか。

 密書の件に関しては、グシオンとも面識があったらしいからよいとしても、彼が自殺しなければならない理由はどこにもない。遺書も残していなかったため、どのようにして密書が発見されたのかは、グシオンがその商人から密書を渡されたときに聞いたという話を信じるしかないのだ。

 密書そのものは、よく。このような手紙の常で、差出人の名は書かれていなかったが、文面のそこかしこにその名を暗示させるものがちりばめられており、そこから導き出される名は、確かにサイスに実在する有力貴族のものだった。

 だが、その受取人がアステリウスというのが、どうしてもダンタリアンには納得いかなかった。これはダンタリアンだけでなく、グシオン以外の将軍たちも同じだった。特にミシャンドラは、同じような異質同士でアステリウスに仲間意識を持っていたのか、誰よりも真っ先にありえないと断じた。

 しかし、密書は存在し、それを発見したという人物はもうこの世に存在しなかった。

 グシオンも最初は密書に対して否定的な態度をとっていたのだ。それが、気づけばアステリウスは裏切り者として処刑すべきだと強く主張するようになっていた。

 今でもダンタリアンたちや宰相はそれに賛同できずにいるが、王はかなり乗り気になっている。アステリウスが国軍に追われている理由は、今のところ軍の末端や一般大衆には伏せられているが、それが漏洩するのも時間の問題だろう。


(やはり、おかしい)


 今のグシオンは、ダンタリアンたちの知るグシオンではない。

 もしかしたら、サレオスもまたそう感じているからこそ、彼を恐れているのではなかろうか。アステリウス関連以外では、グシオンに異常はまったく見られないが、あるいは彼は心の病にかかっているのかもしれぬ。思い悩んだダンタリアンは、一度グシオンと二人だけで話をすべきだと考えた。

 年齢でも将軍としての年数でも、ダンタリアンのほうが上だった。グシオンに苦言を呈すことができるのは、現職の将軍たちの中では自分だけだ。ダンタリアンはそう判断したのだった。

 その夜、ダンタリアンはたった一人でグシオンの執務室を訪ねた。名乗ると扉を開けたのは、ひどく驚いたような顔をしたサレオスだった。

 彼を押しのけるようにして室内に足を踏み入れると、部屋の隅に灯された燭台が、執務机の向こうで腕を組んだまま眠るように目を閉じているグシオンを照らし出していた。


「グシオン殿。突然で申し訳ないが、あなたと二人だけで話をしたい。サレオスを退出させていただけますか?」

「その必要はない」


 目を閉じたまま、グシオンは答えた。


けいがここへ来た目的はわかっている。いま少し先延ばしすればよかったものを」

「私はもっと早くにこうすべきだったと後悔していますよ」

「いずれにしろ同じことだ、慧眼のダンタリアン。いくらその目で見抜けても、人の身ではどうにもならぬ。――動けるか?」


 問われてダンタリアンは体を動かそうとし、愕然とした。

 顔以外、指先一つ動かすことができなくなっていた。


「実際のところ、俺はアステリウスの命などどうでもよいのだ。ただ、早急に奴らを捜し出すためにおまえたちを煽り立てたまで。だが、さすがにこの世の神に愛された男。神があらゆる手段を使って、あの男の身を守ろうとする。やはりよそ者には厳しい世界だな、ここは」

「何を言って……」

「卿はすでにわかっているだろう。だからここへ来たのだろう。そのとおりだ、ダンタリアン。俺は卿の知るグシオンではない」


 ダンタリアンは叫ぼうとした。だが、すでに声帯までもが彼の支配下から奪われていた。


「本当に、あと少し来るのが遅ければな。このような屈辱的な死に方をせずとも済んだのに」


 その声にはわずかながら憐れみのようなものが含まれていたが、グシオンの目がダンタリアンを見ることはなかった。

 ダンタリアンの手は本人の意志に反して勝手に動き、腰に提げられた剣を引き抜くと、その剣先をダンタリアンの心臓の位置に正確に向けた。

 ダンタリアンは一言も発することができないまま、普段は穏和な表情をたたえている顔を恐怖に引きつらせた。


「案ずるな。すぐに卿の妻子もそちらへ行く」


 グシオンがそう言ったとき、ダンタリアンの剣はその持ち主の心臓を一気に貫いた。ダンタリアンは苦鳴一つ上げることなく床に崩れ落ち、そのまま二度と動かなかった。


「何も殺さなくても……!」


 扉の前でただ立ちつくしているしかなかったサレオスは、いまだに目を開けようとしない己の上官を睨んだ。


「俺も別に殺したくはなかったが、もうここに〝グシオン〟としている必要がなくなった。……先ほど、俺の捜し物が俺を呼んだのだ。早くここへ来いとな」


 そこでグシオンはようやく目を開いた。燭台の光を受けてか、その瞳は金色に光っている。


「アステリウス様の居場所がわかったのですか?」

「あの男のことは知らん。近くにはいるのだろうがな。それにしても、おまえもよくわからぬ奴よな、サレオス。俺に命じられたからとはいえ、あの男を慕いながらあの男を陥れるための策を考え出すとは」


 偽りの上官の揶揄にサレオスは苦悩するように眉をひそめた。が、うつむいて言った。


「あの密書は本物です」


 グシオンが意外そうに目を見開く。


「本物? では、あの男は本当にあの密書を受けとっていたのか?」

「いいえ。アステリウス様はまったく関係ありません。あの密書は昨年の暮れ、私が受けとりました。……グシオン様の代わりに」


 おそらく、その心が入れ替わってから初めてグシオンは驚いた表情を見せた。


「馬鹿な! この男の記憶にはないぞ!」

「それはそうでしょう。グシオン様にはお渡ししないで、絶対人には見つからない場所に私が隠しましたから。まさか、それがこのように役に立つとは、あのときには夢にも思いませんでしたが」

「裏切り者はあの男ではなく、この男だったのか」

「いいえ。グシオン様は裏切ってなどいません。おそらく、この国の出身ではないグシオン様なら、他の将軍様方より与しやすいと考え、商人を使ってあのような文書を送りつけてきたのでしょう。もともとあの文書に宛名はなく、今回、私が字を真似てアステリウス様のお名前を書き入れました。しかし、その部分以外はすべて本物です」

「なぜ、この男に見せなかった」


 サレオスは決然と顔を上げ、姿だけは以前と変わらぬ上官を正面から見すえた。


「見せられるはずがないでしょう。あのような文書を送られただけでも、あの方にとっては屈辱です。揺さぶられれば落ちるかもしれないと敵国から見なされたということなのですから。でも、今はあのとき燃やしておけばよかったと心から後悔しています。そうすれば、私はグシオン様もアステリウス様も裏切らずに済みました。……今となってはもう、何を言っても詮無いことですが」


 しばらく、グシオンは黙っていた。骨張った顔にも表情らしい表情は浮かんでおらず、今この男が何を考えているのか、外から窺い知ることはできなかった。


「そうか」


 そう言って、グシオンは椅子から立ち上がった。


「俺は今から俺の捜し物のいるところへ行く。おまえも一緒に来い、サレオス。約束どおり、アステリウスはおまえにくれてやる。俺は奴さえ手に入れば、もうこんな世界に用はない。俺がいなくなれば、謀反の嫌疑などいかようにも打ち消せよう。後はおまえの好きなようにすればよい」

「はい」


 サレオスのほっとしたような吐息を聞いて、グシオンは口の中で呟いた。


「世界が消え去るまでの間には、別れの言葉くらいは交わせよう」

「何かおっしゃいましたか?」


 グシオンの独語を聞きとれなかったサレオスが問い返したが、グシオンは答えず、ダンタリアンの死体の横を通ってサレオスに近づいた。反射的にサレオスは逃れようとしたが、グシオンは強引にその腕をとらえて自分の胸の中に抱きこんだ。サレオスが自分の上官にそのようにして抱かれたのは、それが最初で最後だった。

 その直後、サレオスは立ちくらみのような不快感に襲われ、思わず目を閉じた。グシオンの手が離れたのを感じて、おそるおそる目を開けると、二人は執務室の中ではなく夜空の広がる屋外にいた。

 どこかはわからないが、森の中のようだった。所在なく辺りを見渡したサレオスは、木立の間にたたずむ人影に気づいて息を呑んだ。


「ミシャンドラ様!?」


 まったく予測もしていなかった人物だった。グシオンは明言していなかったが、〝捜し物〟とはライルのことだと頭から思いこんでいた。

 しかし、普段は陽気で少々品性に欠ける男だったはずのミシャンドラは、かつてサレオスが一度も目にしたことがない感情をあらわにしていた。

 ――憤怒。嫌悪。侮蔑。

 あらゆる負の感情を集積したような表情で、ミシャンドラは睨んでいた。

 サレオスの前に立つ、中身は別人の同僚を。


「ほう、今はを使うか」


 からかうようにグシオンは言った。


「二つの分身を同時に使えるとは、実に器用なことよな。俺は一つで精一杯だ」

「何のつもりだ」


 これほど冷然としたミシャンドラの声も初めて聞いた。彼の中身も別人に変わってしまったのか。それとも、最初からこれが本性だったのか。


「おまえがいっこうに目を覚まさないものだから起こしにきた。いつまで己の夢にうつつを抜かしている。夢は夢でしかないものを」

「余計なお世話だ。勝手に私の世界へ入りこみおって」

「あいつには許すくせに」

「あいつはこの世のものには何もしない。貴様のように私の世界を荒らしたりはしない」


 二人の会話の意味はサレオスにはさっぱりわからなかった。だが、今のミシャンドラが彼の知るミシャンドラではなく、今のグシオンと同じものだろうという想像はついた。そして――おそらく、ライルも。


「入れもしないうちから荒らすとよくわかるな。あいつと俺とどこが違う? 根本は同じではないか。あいつも昔からおまえのことを――」


 空気が密度を増していた。息苦しさを感じてサレオスが咳きこむ。と、二人の人ならぬ者たちは、初めてサレオスの存在に気づいたような顔をして、目には見えない力を弱めた。同時に、サレオスの呼吸が楽になる。


「なぜ連れてきた?」


 ミシャンドラが訝しげにグシオンに問う。


「ある約束をした。内容はおまえには言えぬ。だが、おまえはこやつに恨みなどなかろう。このままここで我らが争えば、こやつは確実に死んでしまう。退避させてもよいな?」

「それはかまわないが……」


 言いかけて、思い出したように緑色の目を見張る。

 ほんのわずかな動きだったが、グシオンはそれを見逃さず、嘲笑うように言った。


「今のおまえにも、そういう人間がいるのではなかったか? いくらあの男でも、しょせんは人。我らの争いに巻きこまれれば、死ぬぞ」

「サレオス」


 自分の名を呼んだのがミシャンドラだとわかるまでに、サレオスは少し時間がかかった。


「は、はい!」


 正体はつかめないながらも、相手は将軍の一人である。サレオスはあわてて返答した。


「今、この近くにある小屋にアステリウスがいる。たぶん、まだ寝ているんじゃないかと思うが、どんな手を使ってもいいから叩き起こして、できるだけ遠くまで逃げてくれ。馬もいるから、それに乗って逃げればいい。とにかく、急いで逃げろ」


 この将軍に命令されたのは、これが初めてかもしれない。そして、たぶんこれが最後。

 きっと、グシオンはミシャンドラがそう命じることを見越して、ここにサレオスを連れてきたのだ。彼とした約束を守るために。

 その内容はミシャンドラには伏せたことといい、この偽物のグシオンも本物と同様、義理堅い性格をしているようだった。

 思えば、アステリウス以外のことでは、以前とほとんど変わりなかった。だからこそダンタリアンも、すぐには気づけなかったのだろう。


「承知しました」


 余計なことはいっさい訊ねず、サレオスはミシャンドラが指さす方向へ向かって走りかけた。

 が、ふと、本当にふと、もうこのグシオンと会うのもこれが最後になるのだということに気がついたとき、彼は振り返って叫んでいた。


「グシオン様!」


 中身が入れ替わっていることを知ってから、サレオスは人前以外でその存在をグシオンと呼んだことはなかった。そのせいなのか、グシオンの姿をしたものは、緩慢にサレオスを顧みた。


「あの……私を選んでくださって、ありがとうございました!」


 そう言ってしまってから、あれは自分を副官に選んだグシオンではないことを思い出した。決まりが悪くなり、逃げるように走り出す。

 その後ろ姿を見えなくなるまで見送った後、グシオンはミシャンドラに向き直った。


「あれも、おまえがそのように言わせているのか?」

「私は何もしてはいない」


 静かにミシャンドラは首を横に振る。


「あの人間がそう言ったのなら、それがあの人間の意志だ。……この世界では時として、私の予想外のことが起こる。だから面白い。だからつらい」

「だが、しょせんは幻。おまえが目覚めれば、すべて消える」


 グシオンは低く呟き、ここにはいるはずのない同僚を金色の目で凝視した。


「俺のために死ね、ミシャンドラ。いや――ライル」

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