第5章 人知の及ばぬ事
5―1
選ばれないという屈辱を、サレオスに初めて教えたのはライルだった。
それまで、サレオスはいつでも世界の中心にいた。兄弟は多かったが、母親は彼を私の太陽と呼んで溺愛し、父親は自慢の息子だと周囲に誇った。友人知人も多く、大人たちは神の寵児と彼を讃えた。この世で思いどおりにならないものは何もない。そう信じていた。
王とも血縁関係のある大貴族の嫡子の一人として生まれたサレオスとは違い、ライルは三流貴族のしかも庶子だった。認知もされずにランティスから遠く離れた田舎で育てられていたが、跡継が次々と亡くなってしまったために急遽呼び戻され、皮肉にもそれまで自分を冷遇しつづけてきた父親の跡を継ぐことになった。
エルカシアの王族や貴族の子弟は、身体に問題がない限り、通過儀礼的に二年間だけ士官学校へ通う。卒業後軍人となるのはその中の半分にも満たない。サレオスもライルにさえ出会わなければ軍人の道は選ばなかったはずだ。
ライルを初めて見たのは、士官学校の入校日の朝。
校舎の前で、自分と同じ新入生たちが集まって、何やら騒いでいた。
いちばん外側にいた顔見知りに何事かと訊ねてみると、彼は興奮した様子ですごい美人がいるんだと答えた。
男だけしかいないはずの士官学校になぜ美人が。場をわきまえないどこかの馬鹿が、妹か恋人でも連れこんだのか。
そうは思ったが、興味はあった。人をかきわけて輪の中心に至ったとき、サレオスはその存在を知ってしまったのだった。
――自分とは違う。
一目見てそうとわかった。より正確には、自分たちとは違う。
髪は黒曜。肌は真珠。瞳は紫水晶。唇は珊瑚。
後に誰かが、月が人の形をとったようだと評したが、それを過剰表現だと否定することは、サレオスにもできなかった。それほどにその存在――ライルは美しかった。ただ美しいだけでなく、人を無言のうちにひれ伏せさせるような高貴な威厳に満ちていた。
彼はやや迷惑そうな顔をして立っているだけだったが、一言下がれと命じれば、たやすく一人になれただろう。こういう種類の人間を、サレオスはこの国でただ一人知っていた。
――王。
だが、たぶんライルはその王よりもはるかに多くの人間を従わせることができるだろう。この美しい青年は、生まれながらにして支配者なのだ。
――自分はきっと、この男には勝てない。
言葉一つ交わさないうちに、サレオスは己の敗北を予感していた。
サレオスが想像していたとおり、ライルは美しいだけでなく、その中身も優れていた。
美貌ではかなわないまでも、学芸や武芸では負けたくないと思った彼は、かつてない熱心さで日々努力を重ねたが、ライルはいつも涼しい顔で、そんな彼を軽く飛び越していった。たまに彼がライルを上回るときがあったが、そういうときはライルが意識的に手を抜いたときなのだった。
人の上に立つために生まれついたかのようなこの青年は、意外なほど目立つことを好まず、口数も表情も少なかった。話しかけられれば丁寧な口調で答えるが、自分からは決して声をかけない。サレオスが唯一ライルに勝っていたのは、友人の数の多さだけだったかもしれない。
しかし、それはライルがサレオスより劣っていたからではなく、友人を作ることに興味を持っていなかっただけのことなのだ。――否。ライルは周囲の人間たちに、まったく関心を持っていなかった。サレオスのことも、その他大勢の一人としか考えていなかっただろう。
この美しく優秀な士官候補生の存在は、またたくまに人々の間に知れ渡ったが、その実父と義母は自宅の不審火であっけなく焼死してしまったため、それを鼻にかけることはほとんどできずに終わった。
やはりわだかまりがあったのか、ライルは家の跡は継がずに自ら爵位の返上を申し出、平民となった。士官学校に入れるのは王や貴族の子弟に限られるが、在校中にそうでなくなった場合は退校しなくてはならないという決まりはなかったため、ライルはそのまま士官候補生でありつづけた。もっとも、彼をやめさせたいと思う人間は、サレオス以外存在していなかっただろうが。
この憎らしいまでに完璧な月のために、サレオスは常に二番目になることを強いられた。それは士官学校に入る前までの彼にはありえなかったことだった。彼の名前はいつでも最初に呼ばれ、選ばれていたのだ。
いちばん悔しかったのは、父も母も自分たちの息子がライルより劣ることを、すでに認めてしまっていることだった。なぜ、あんな三流貴族の庶子に負けるのかと罵り、蔑んでくれないのか。そちらのほうが彼にはつらかった。
ライルに勝つこと。それはいつしか、彼の悲願となった。
だが、誇り高い彼は、それを友人たちには包み隠した。たとえ敗れても、仕方ないなと笑って認める。そのようなふりをして、自分に余裕があるように見せかけた。そうしながら、彼はひそかにライルを観察した。あの完全なように見える月にも、どこか欠けた部分があるのではないかと。
あるとき、ライルが窓際に立って外を見下ろしていた。そのこと自体は珍しくはなかったが、いつもは無表情に近い美しい顔が、かすかにほころんでいた。
それはライルに敵意を持つ彼でさえ、つい見とれてしまうような幸福そうな微笑みだった。何があのライルにそんな顔をさせているのだろうと興味を持った彼は、ライルが見ている方向に目をやった。
(あれは……アステリウス様か)
あの特徴的な緋色の長髪で、遠目からでもすぐにわかる。当時まだ師団長の一人だったアステリウスは、何の用事があったのか、演習場の隅で数人の男たちと立ち話をしていた。この距離では話している内容はわからないが、何となく退屈気味なのは仕草でわかった。思わず笑ってしまう。
代々軍人の家系に生まれたアステリウスは、その卓越した剣技ゆえに、百戦錬磨の傭兵たちにさえ恐れられるほどの剣士だったが、良く言えば豪放磊落、悪く言えば大雑把な性格をしていたために、軍の内部だけでなく外部でも異端児扱いされていた。
しかし、彼の一見無謀と思える言動は、実はいつもそれなりに筋の通ったものであったので、彼より目下の者たちからは絶大な支持を得ていた。彼もご多分に漏れず、この師団長には以前から強い憧憬と好意を抱いていたのである。
(ライルは誰を見ているんだ?)
目立つので真っ先にアステリウスに目がいってしまったが、あの場には他にも人間がいる。どうすれば特定できるだろうかと悩んでいたところ、ふいにライルが窓際を離れてしまった。
さては気づかれたと彼は内心あせったが、再び地上に目を戻して、そうではなかったことを知った。
用が済んだのか、これ以上そこに居つづけることに耐えられなかったのか、アステリウスが愛用の大剣を提げて立ち去ろうとしていたのだ。
(では、アステリウス様を?)
折り目正しいライルとは対極に位置しているような男である。サレオスはひどく意外に思ったが、あの何にも執着を示さないライルが、アステリウスに対しては特別な関心を寄せているらしいことは事実だった。現役軍人であるアステリウスが、士官候補生の前に姿を現す機会は少なかったが、そのつどひそかにライルの様子を窺ってみると、彼はやはり微笑を浮かべてアステリウスを見つめている。
単なる憧れであったかもしれない。現にアステリウスにそのような眼差しを向ける者はライル以外にもいくらでもおり、サレオス自身もその一人と言ってよかった。
だが、ライルがアステリウスを見つめる目には、憧れ以上の感情が含まれているような気がしてならなかった。舞踏会で恋する男を見つめていた、あの娘の目にとてもよく似ている。
弱点とはまだ言えなかったが、ライルがアステリウスに対して、人には口外できないような思いを抱いているかもしれないことについては、深く心に刻みつけておくことにした。いつかどこかで使えるかもしれない。
それからほどなく、サイスが三度目の侵攻をしかけてきたが、ほぼ半年にわたる激闘の末、休戦条約を結ぶにいたり終結した。アステリウスはこのときの巧みな用兵とそれを上回る自身の化け物じみた働きが評価され、史上最年少で将軍の称号を得た。いつかはそうなるだろうと彼も周囲も思ってはいたが、その時期を早めたのは間違いなく、この侵略戦争だった。
結局、この戦争の前線に士官候補生が駆り出されることはなかったが(もう少し長引けば、あるいはそうなっていたかもしれない)、彼にとってもアステリウスの名は、さらに特別なものとなった。英雄と呼ぶには物騒すぎる男だったが、その下で働くことができたら、何と誇らしいことだろう。
しかし、彼の前には常にライルの存在があった。ライルは士官学校を卒業した後は、間違いなく軍人となるだろう。少しでもアステリウスに近づくために。
(そうはさせない)
これまで自分からあらゆるものを奪いつづけたライルに、アステリウスまで手に入れさせてなるものか。サレオスはそう思い、両親を説得して、自分も軍人になる道を選んだ。三流貴族の庶子は、ついに大貴族の嫡子の人生設計をもねじ曲げたのだ。
士官学校を出て軍人となっても、アステリウスとの接触が増えたわけでもなかったが、ライルとは別の部署に配属されたことは、望外の喜びだった。ライルのいない場所でなら、彼はかつてのように選ばれた者でいられたからだ。
思えば、このときが彼がライルを知ってから初めて心安らげた時期であったかもしれない。そしてそれが最後だった。
――アステリウスが自分の副官を募集している。
その情報を知ったとき、サレオスは千載一遇の機会がやってきたと歓喜したが、すぐに今の自分と同じことをライルも考えているに違いないと気づき恐怖した。
今度こそはっきりとわかってしまう。それも最高に残酷な形で。たとえ自分が選ばれなくても、ライルさえ選ばれなければいい。だが、もしライルが選ばれたら? そのとき自分はいったいどうすればいいのだろう。
サレオスは深く悩んだが、ライルが応募することだけは疑いようがなかった。もしこのまま何もしないでライルが副官に選ばれたとしたら、自分はさらに後悔するだろう。彼は覚悟を決めて、他の多くの同輩と共に応募書類を提出した。
応募数が多かったのか、アステリウスは書類選考を行って、副官候補を五人まで絞った。
もちろん、その中にライルの名前はあった。同時に、彼の名前も。
アステリウスが選び出した五人は皆若かったが、彼の同期生の中で選ばれたのは、彼とライルの二人だけだった。さすがに人を見る目はあるのだなと、サレオスは不遜な感心をした。
最終選考は面談だった。アステリウスと話をするのはこれが初めてだったサレオスは、ひどく緊張した。
どうやって順番を決めたのか、サレオスはいちばん最後で、ライルの次だった。各自の面談時刻はかなりの間隔をあけられていたので、彼がライルと顔を合わせることはなかった。本人にはそのつもりはなかったとしても、サレオスはアステリウスの決定に心から感謝した。
サイスとの戦いで、〝紅蓮〟の異名を不動のものにしたアステリウスは、やはり常人とは違った。髪と同じ緋色の瞳でまっすぐに見すえられると、思わず身がすくみそうになった。
そんなサレオスに、アステリウスは、おまえは自分の副官になったらまず何がしたいかといきなり訊ねてきた。
低くて快い声だったが、その質問は彼の想定外だった。内心あせりながら、アステリウス様のご指示を仰ぎますと答えると、将軍は少しがっかりしたような顔をして、もう帰っていいと言った。
一瞬、サレオスは自分が聞き間違いをしたかと思った。終わってみれば、サレオスがアステリウスの執務室の中にいたのは、わずかな数分のことだった。
この時点で、サレオスは自分が副官に選ばれることはないだろうとわかっていた。アステリウスが望む答えを返せなかった自分は、それだけでもう失格なのだ。
今でもあのとき何と答えればよかったのかわからない。いや、知りたくない。もしその答えを口にできていたとしても、はたしてアステリウスは自分を選んでいただろうか。
――ライルさえ選ばれなければいい。
残る望みはそれだけだった。ライルさえ選ばれなければ、それで彼は満足だった。しかし。
アステリウスはその日のうちに、ライルを副官に任命した。
もしかしたら、ライルとの面談を終えた時点で、すでに彼を副官にしようと決めていたのかもしれない。あのとき、サレオスがどのような回答をしていたとしても、それは覆らなかったのかもしれない。いずれにしろ、ライルは選ばれ、サレオスは選ばれなかったのだった。彼が最も選んでほしいと思った人間に。
(結局、アステリウス様もライルを選ぶのか)
誰も彼もがライルを選ぶ。だが、ライルが選ばれたいと望んだのは、あのアステリウスだけだ。ライルはとうとう何もかも、サレオスから取り上げた。
失望した彼は軍を辞めることも考えたが、選ばれなかったために辞めるのだと思われるのが嫌で、そのまま在籍しつづけた。
そんなある日。
サレオスは、あのグシオンに、自分の副官にならないかと声をかけられた。
まったく夢にも思わなかったことだった。五将軍の一人であるグシオンのことは、無論、以前から知っていたが、彼の副官になりたいとは一度も考えたことはなかった。
断る理由は何もなかった。しかし、サレオスはグシオンの機嫌を損ねるかもしれないと思いつつも、こう問わずにはいられなかった。
「なぜ、私なのですか?」
それに対して、グシオンが返した答えは短かった。
「選ばれなかったからだ」
正直言って、サレオスにはその真意ははかりかねた。だが、この将軍も彼が味わった痛みを知っていて、それゆえに副官に選んでくれたような気がした。
サレオスはそれ以上は訊ねず、グシオンの副官となった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます