6―2

 何もかも元の姿に戻ったかと思えたが、アステリウスとノルトの立っていた場所は、崖の上から森の中の開けた草むらへといつのまにか変貌していた。

 周囲を見回せば、炎上して崩壊したはずのあの小屋が無傷で建っていて、そこには馬がつながれていた。さらに、その小屋の前では、黒こげの人間らしきものが、奇妙な体勢で地上にひざまずいていた。

 それは、明らかに右半身の足りない人間の焼死体だった。顔形もわからないほど焼けこげていたが、何かを腕の後ろにかばうように膝をついている。

 左足一本だけで、なぜ倒れないでいられるのかと不思議に思えるほどだったが、彼とノルトが近づくと、まるで自分の役目は終わったとでもいうように、前に傾いで砕け散った。

 そうなってから、彼らはその焼死体の陰に、淡い黄色い花弁をつけた花が一輪、咲いていたことを知った。派手さはないが、それを見る誰もが心慰められるような、そんな感じのする花だった。


「そういえば」


 花を見下ろしたまま、ノルトが言った。


「おまえを連れ出したとき、あいつがあの金髪の人間の死体を花に変えるのを見た。あのときは何の悪ふざけかと思ったが」


 そこでノルトは言葉を切り、苦笑いして首を左右に振る。


「だから、俺はこの世界に長居はしたくない。……守らなければ逃げられただろうに」


 それに対して、彼は何も答えなかった。結末がどうであれ、あの存在が己の欲望のために、グシオンとサレオスを犠牲にしたことには変わりない。

 しかし、この世の神は、己を殺しにきた外なる神が命を賭して守りたかったものは消し去らず、そのまま残した。……彼の元副官は残さずに。


「ライルはどこに行ったんだ」


 花を見つめながら問うと、ノルトは彼を一瞥してから答えた。


「世界の底……と俺は勝手に呼んでいる。あいつが思いきり落ちこんだときに引きこもる、隠れ家のようなものだ。でも、奴はもうおまえに会う気はないだろう。少なくとも、今のおまえには」

「なぜ」

「おまえに自分の正体を知られてしまったからだ。おまえにさえ知られなければ、あいつを倒した後でも、この世界に留まることができたのに」


 ノルトは、彼がすでにサレオスの口からライルが人間ではないと知らされていることは知らないらしかった。だが、彼はそれをノルトに教えるようなことはしなかった。そんなことは些末なことだ。


「私に知られたからといって、なぜ私の前から消えなければならない?」

「では、おまえは奴の正体を知ってもなお、以前と変わらず接することができるというのか? 自分が奴の被造物だと知ってもなお」

「そんなことは知るか。だが、このままでは納得できん。ライルの口から直接話を聞くまでは」


 ノルトに向き直り、正面からその顔を見すえる。


「頼む。どうすればライルに会えるのか教えてくれ。そのために必要なら、私の命を捧げてもかまわない」

「馬鹿を言うな。奴はおまえのためだけに、この世界を変えずに復元したんだぞ。それでおまえを死なせたら、元も子もないだろうが」

「私はライルと引き替えの世界など欲しくなかった」


 ノルトは目を見開き、薄く笑った。


「奴が聞いたら何と言うかな」

「自分のことだろう?」

「まあ、そうなんだがな。実際のところ、おまえはどこまでわかっているんだ? 紅蓮のアステリウス」


 何と答えればよいか悩んだ彼は、自分が考え得る限り端的にまとめた。


「ライルが、あの神殿の神だった」

「ああ、そうだ。あそこで俺と会ったとき、奴はさぞかしあせったことだろうよ。で、他には?」

「――私なのか?」


 それはまったく答えにはなっていなかったが、ノルトは彼が言いたいことを正しく汲みとった。


「そうだ。正確にはおまえのすべての前生、おまえと同じ魂を持つ男たち、それらを偲んで奴は泣いていた。きっとこの世界では、おまえのためだけにしか涙を流したことはないだろう」

「なぜ? 神だろう? 世界をあれほど簡単に消して、また作り出せるような存在が、なぜたった一人の人間の男のために、それほど泣きつづけなければならないんだ? 神ならいくらでも、自分の思いどおりにできるだろう?」


 興奮してそう言いつのる彼に、ノルトは醒めた眼差しを向ける。


「それをおまえが言うのか? 三千年の長きにわたってその神に逆らいつづけ、その誘いを拒みつづけた、おまえがそれを口にするのか?」


 彼は大きく目を見張り、この世の神の友を名乗る青年を見つめ返した。


「何?」

「人を捜していると、あのときおまえは言ったな。だが、おまえの尋ね人は人ではなく、そもそも捜す必要すらなかった。すでにその者はおまえのそばにいて、おまえの従者として仕えていた。ついでに言うなら、前生でもそうだ。このときは今よりもっと傑作だった。奴はおまえの許婚で、もちろん女で、しかし、おまえはその許婚にまともに手も触れないまま死んだ。国などという、奴がいくらでも思いどおりにできるもののために」


 国を守るために殉死したと、あの盲目の女占い師は言っていた。同じ人間の死に対して、神と人とでは、これほどに価値観が違う。

 しかし、タユナは本当に自分にわかるすべてを話していたのだろうか。本当に彼の敵の正体はわからなかったのだろうか。あのとき、彼女は言った。――あなたとあなたの敵に幸あらんことを。


「では……私の〝殺せない敵〟とは神なのか? 私はいつも、神に挑んでは殺されていたのか?」

「そう。この世に生まれた人間なら、決して勝つことのできない相手だ。だが、おまえは神に逆らいつづけることで神に勝利した。神に支配者であることを放棄させ、逆におまえに支配されたいと思わせた。おまえが望みさえすれば、奴はこの国どころか、全世界すら差し出しただろう。もちろん自分自身さえも」

「そんなものはいらない」


 言下に彼は拒絶する。


「私が今欲しいのは、私の知っている、あのライルだけだ」


 ノルトは真顔で冷やかしの口笛を吹いた。


「おまえにとって、あの元副官は何だったんだ?」

「私がこの世で絶対勝てないと思っただ」

「なるほど。結局、おまえはそういう相手にしか興味を持てないようにできているんだな」


 さりげなく呟くと、ノルトは両腰に手を置き、地表に目を落とした。


「さて。俺の親友特権がどこまで通じるかな。さすがの俺も、直後に訪ねたことはないからな」

「どうする気だ?」

「おいおい。引きこもりを決めた神様に会いたいって言い出したのはそっちだろう? 俺は別にこのままでもいいんだ。ほとぼりが冷めた頃にまた来ればいい」


 ノルトの言い分はもっともだったが、彼は横目で睨まずにはいられなかった。


「とりあえずだな。その無駄にでかい剣を地上に残していけ。そいつはおまえの分身みたいなものだから、万が一のときの命綱がわりになる」

「あ、ああ……」


 戸惑いながらも、彼は今まで手に携えつづけてきた大剣を草むらに突き刺した。


「これでいいのか?」

「ああ、いいね。そのまま墓標にもなりそうだ」


 ちらりと見やって軽口を叩いた後、ノルトは爪先で地面を蹴り、すぐに離れた。他の場所と比べて、特に変わったところがあるようにも見えなかったのに、蹴ったところを中心に白い光が生じ、人一人が立てるくらいの広さまで広がると、まるで沼地のように波打ちはじめた。


「さてと」


 ノルトは彼を振り返って手を伸ばしかけたが、ふと我に返ったように顔をしかめ、自分の手のひらを見つめた。

 いったい何事かと思い、ノルトを眺めていると、突然ノルトの姿が消えて、次の瞬間には白い鳥が空中で羽ばたいていた。

 それは白鷺によく似ていたが、それよりももっと力強く、そのくせ優美だった。鳥は彼に向かって飛んできて、何を思ったか、彼の緋色の頭の上に留まった。


「ノルトだな?」


 頭皮に食いこむ爪の痛さに耐えながら問うと、鳥はノルトの声で答えた。


「そうだ。この世界では自由に姿を変えられると言っただろう」

「それにしても、なぜ鳥?」

「おまえと手をつなぐなんざ、まっぴらごめんだ」


 そういえば、この外なる神は、彼をここから連れ出したときも襟首をつかんでいて、彼の手には触れなかった。短時間なら、腕は許容範囲内らしい。


「別に、手をつなぐ必要はないだろう」

「残念ながら、そういうわけにもいかないのさ。俺が触れていないと、おまえはしまう。おまえも常に自分は紅蓮のアステリウスだと言い聞かせてろ。奴に会ったとき、自分が誰だかわからなくならないようにな」


 ノルトの言うことは彼にはよくわからないことばかりだったが、とにかくこの神が、彼の願いを叶えるべく手を貸そうとしていることだけは間違いなかった。


「わかった。よく留意しておく。しかし、頭はやめてもらえないか。できたら肩か腕にしてほしい」

「頭がいちばんお互いにとって都合がいいと思うがな」


 そう言いつつも、ノルトは彼の頭から舞い上がり、改めて彼の左肩に留まった。が、何が気に入らなかったのか、再び飛び上がって、彼に左腕を上げろと言った。言われるまま、左腕を胸の高さまで上げると、その腕にノルトは留まった。

 近くで見ると、その目は人間の姿をしていたときと同じ紺碧をしていた。それだけがかろうじて同じものだと思える名残だった。


「なぜ肩はやめたんだ?」

「おまえの顔を至近距離で見なくちゃならないことに気づいたからさ」

「では、私はこれからずっとこの体勢でいなければならないのか?」

「おまえが自分から肩か腕にしてくれと言ったんだろうが」


 ノルトは嘲笑うように胸を反らせてから、黒い嘴で白く光る地面を指す。


「さあ、アステリウス。あそこから世界の底へ落ちていけ。奴に会えるかどうかは確約できないがな」

「可能性があるだけでもありがたい」


 そう応じて一歩踏み出そうとしたが、ふと気になって、自分の腕に留まっているノルトを見下ろした。


「自分で頼んでおいて何だが、あんたはなぜ、私に協力してくれるんだ?」

「勘違いするな。俺はおまえに協力しているわけじゃない。自分の楽しみのために行動しているだけだ」

「楽しみ? 覗き趣味か?」

「まあ、それもあるけどな。俺はこの世界の始まりを知っている。だから、今度は終わりが知りたいのさ」


 嬉々としたノルトの声に、彼は思わず苦笑を漏らす。


「そんなものを知ってどうするというのは、この世界が終わったら先のない人間の発想なのだろうな」

「俺たちがおまえたちの最期を見るように、俺たちの最期もきっと誰かが見ているさ」


 彼は驚いてノルトを見たが、今は鳥の姿をしている神は、それ以上語ることを拒むように目を閉じている。

 追及をあきらめた彼は、白い光を放つ地表に歩み寄り、覚悟を決めてそこに足を乗せた。

 表面の凝固した泥水を踏んだような感覚がした。と、一気に体が沈みこんでいく。

 大地はエルカシアの元将軍とその腕に留まる白い鳥とを完全に呑みこむと、光るのをやめ、何の異常も起こらなかったふうを装った。

 そこで起こった怪異を知っていたのは、元将軍の残した剣と、の残した花と、そして一頭の馬だけだった。

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