3―3

 アドラの神殿を次の目的地とすることに、ライルは反対はしなかったが、あまりいい顔はしなかった。


「言い伝えはしょせん言い伝えでしょう。よしんば、その鏡の中に誰かが見えたとして、その人物がどこの誰なのかも一緒にわかるのですか? そこがいちばん肝要でしょうに」

「まあ、たぶんそこまで親切設計ではなかろうな」


 確か鏡の製作目的が、恋人の姿をいつでも眺められるように、だったような気がする。


「おまえはその神殿や鏡の話を今まで聞いたことはないのか?」

「私は自分の前生以上に宗教関係にもまったく興味はありませんので」


 元副官はにべもなく答えた。


「神は信じていないのか?」


 話の流れで訊くと、元副官はそれまでの硬い表情を和らげた。


「私が信じるのは、アステリウス様と自分だけです」


 彼は平静を装うのに、かなりの苦労を強いられた。


「そのアステリウス様が行きたいとおっしゃるのでしたら、私はどこまででもお供いたします。アドラでもサイスでも地獄でも」


 アドラはセナンの北東、隣国サイスとの国境近くにある辺鄙な村だ。

 これまで二人は特に急ぐ旅でもなかったので徒歩で移動していたが、今度の目的地は遠く離れた辺境であることもあり、馬に乗っていくことで意見は一致した。

 気は進まなくとも、副官の習性は抜けないのか、ライルは馬の手配も旅支度も迅速に済ませ、タユナの店を出た翌々日の朝にはもう出発できるようにしていた。


「なるべく街道を通って行こうかと思いますが、野宿になることもあるかもしれませんね」

「野盗でも出ないものかな」


 元副官には聞こえないように呟いたつもりだったのだが、元副官は地図を見たまま、さりげなく言った。


「また後で絡まれたら面倒ですから、今度は首を切り離してください」


 自分よりもこの元副官のほうが過激な性格をしていると常々彼は思っていたが、そう周囲に主張しても同意されることはないだろう。ライルは彼にしか毒を吐かない。

 馬を使っても、アドラへはそれから五日かかった。なるべく夜には宿場町に入れるように調整していたのだが、やむをえず野宿になったことが二日あった。彼は自分が殺せる敵の登場をひそかに期待していたが、向こうもそれを察知したのか、二日とも現れることはなかった。


「やはり、おまえと一緒にいるからかな」


 馬上で隣の元副官に言うと、元副官は呆れたように柳眉をひそめた。


「それほど野盗をお切りになりたいんですか?」

「別にそういうわけではないが、他におまえの役には立たんだろう」

「なぜあなたが私の役に立たなければならないんですか?」

「いや、普段おまえに世話ばかりかけているからな。私にできるのは剣を使うことくらいだ」

「お気持ちは大変ありがたいですが、今の私の最大の望みは、無事にアドラの神殿にたどりつくことです。どうかアステリウス様は役立たずのままでいてください」


 ひどい言われようだが、元副官の毒舌に慣れすぎてしまった彼は、素直にわかったとうなずいたのだった。

 信じられていなくとも、神は元副官の願いを聞き届けたのか、二人は野盗に襲われることも天災にあうこともなく、セナンを出発してから五日目の夕方近く、無事アドラへと到着することができた。

 アドラは小高い丘が背後に控える小さな村だった。緑のまばらな丘の頂上には、崩れかけた白い建築物があるのが遠目からでもわかった。おそらくあれが例の神殿なのだろう。

 よく言えば素朴な家の前で縄を綯っていた白髪の老人に声をかけ、神殿のことを訊ねてみると、やはりあの建物がそうだとの返事が返ってきた。


「かれこれ三千年以上あそこに建ってるって話だけどね。誰にも本当のことはわかりゃしないよ。その頃から生きてる人間は一人もいないんだから」


 服装から身分のある者だと勝手に解釈してくれたのか、老人の口調は存外丁寧だった。


「あそこに鏡があるという話を聞いたのだが、それは本当だろうか?」

「ああ、鏡ね。あんたらもあれが見たくて来なすったのかね。でも、あれには近づかないほうがいいよ。あれは不吉な鏡だから」

「不吉? 何かあったのか?」

「今はとんとなくなったけどね。時々、あの鏡は泣くんだよ」

「泣く? 鏡がか?」

「と、この村の人間は思ってるがね。俺もまだ二、三回しか聞いたことがないが、夜中にあの神殿のほうから泣き声が聞こえてくるんだよ。男か女かはわからないが、とにかく悲しそうな声でね。昔、誰が泣いてるのか確かめに行った人間が何人かいたが、みんな翌朝には死体になって見つかったって話だ。だから、泣き声が聞こえた夜には、誰もあそこには近づかない。それ以外の夜でも昼でも、この村の者ならまずあそこには行かないね。でもまあ、あんたらが行きたいっていうんなら止めやしないよ。年に何人か、あんたらみたいな物好きが鏡を見にくるが、今んとこ誰も死んでないし、第一、みんな口をそろえて、そんな鏡なんかなかったって言うからね」

「ないのか?」


 鏡が泣く云々はともかく、それは実に残念な情報だった。いったい何のために五日もかけてここへ来たのか。彼の表情で落胆していることがわかったのだろう、老人は少し同情したような気色を見せた。


「盗まれたって話は伝わってないが、いつか誰かが盗んでたってわかりゃしないね。でも、俺は今でも神殿のどこかに鏡はあると思ってるよ。たまたま見つけられなかっただけでさ。神様が作ったっていう鏡なんだから、いろいろ不思議はつきものだろう」


 老人に勇気づけられた彼は、まだ日が高かったこともあり、さっそく神殿へ行ってみることにした。そのように老人に告げると、だったら馬は置いていったほうがいいと助言された。


「ここから見てわかるとおり、高さはたいしてないが、道が荒れてるからさ。よかったら俺が預かっとくよ。もちろん、ただじゃないがね」


 抜け目ない老人に、彼は自分が紅蓮のアステリウスだということを明かした上で馬を預け、ついでに今夜の宿を頼んだ後、元副官と共に神殿へ向かった。

 この時間はまだ畑仕事をしているのか、村に人影はまばらだった。だが、旅人が珍しいのか、この二人連れ自体が珍しいのか、どの村人も目を丸くして二人を見送っていた。

 あの老人に言われたとおり、人が通わなくなって久しい道は決して楽なものではなかった。しかし、彼も元副官も一月前まで軍人だった身である。一般人が上るよりははるかに短い時間で、丘の頂上にある神殿の前へとたどりついた。

 異教徒によって破壊されたとタユナは言っていたが、大理石造りの神殿はまだかろうじて建築物としての体裁を保っていた。入り口付近の天井や壁は一部を残して崩れてしまっているものの、内部はまだ健在で、外から見ただけは見通せないほど薄暗くなっている。


角灯ランタンでも用意してくるべきだったかな」


 彼が呟くと、元副官が冷静に答えた。


「明かりとりの窓があるようですし、日のあるうちでしたら大丈夫でしょう」

「なら、急いだほうがいいな」


 瓦礫の散らばる足許に注意しながら、彼は神殿の中へ入った。その元副官は入るのをためらうようなそぶりを見せたが、結局、元上官の後に続いた。

 元副官の言うとおり、目さえ慣れれば、中の様子は壁の高い位置にある小さな窓からの外光だけでも充分見てとることができた。さほど広くはない空間の両端には太い石柱が立ち並び、正面のいちばん奧まったところには、人の身長の倍以上の高さのある巨大な岩が鎮座していた。


(何だ、これは?)


 どう見ても鏡には見えなかった。もともとここにあったものなのか、それとも後に誰かが持ちこんだものなのか。彼には見当がつかなかったが、この神殿の中に他に目につくものはない。

 彼が近づいて調べようとした、と、あたかも岩がしゃべり出したかのように、その声は神殿内に響き渡った。


「神様はいないよ」


 若い男の声だった。驚いて声のしたほうを見ると、あの岩の上に男が足を組んで座っていた。今の今まで、誰もいなかったはずの場所に。

 年の頃は元副官と同じくらいか。銀色の髪を短く切りそろえた、快活そうな青年だった。青年はにやりと笑うと、さらに言葉を継いだ。


「ここに神様はいない。惚れた男を追いかけるのに忙しくて、ずっと留守だ」


 この青年がただ者ではないことはわかった。しかし、敵意のようなものはまったく感じられない。彼はいつでも剣を抜ける心構えだけして、思ったままを訊ねた。


「ここの神は女なのか?」


 一瞬、青年は目を見張り、肩を震わせて失笑した。


「いや、まあ……男にでも女にでもなれるらしいから、そこは深く追及しないでおいてやりなよ」

「つまり、その男と会ったときの性別は訊いてくれるなということか?」

「そういうこと」

「私もここの神様の趣味嗜好がどうであろうと興味はないんだが、ここにあるという鏡を探している。どうやらあんたはここの神様に詳しそうだから訊くが、そんなものが本当にこの中にあるのか?」

「さあてね。俺は確かにここの神様のことはよーく知ってるが、この神殿についてはさほど詳しくないんだ」

「では、なぜここにいる?」

「俺が来たいと思ったからさ」

「……その岩を調べたいんだが」


 だからどいてくれと言外に告げると、青年はまたにやついた。


「これは鏡じゃないよ。だいたい、何であの鏡が必要なんだ? 見たとこ、過去に執着する質じゃなさそうだが?」


 青年は岩の上から床へと飛び降りた。けっこうな高さから降りたにもかかわらず、音も砂埃もほとんど立てなかった。

 同じ床の上に立つと、青年は元副官よりはやや背が高かった。銀髪だが白子というわけではないらしく、瞳の色は紺碧をしていた。銀髪でさえなかったら、どこにでもいるありふれた青年と言えたかもしれない。


「過去? 思い人を映す鏡ではなかったのか?」

「まあ、そうだけど……あれは、自分の記憶の中の思い人しか映せないぜ?」


 彼は青年の顔を凝視した。


「……何?」

「いや、だから、もともとあの鏡は、外の世界を見るために作られたんだよ。面白そうなことを探すためにね。でも、男に惚れてからはその鏡を、自分の記憶を映し出すのに使うようになった。神様でも、一から新たに作り直すよりは、すでにあるものを利用したほうが楽だからさ。ここの神様は、男が恋しくなったらここに来て、鏡に自分の記憶の中の男を映し出しては泣いていたんだ。――何だ、肝心なところが落っこちて伝わってるんだな。今の思い人が映し出せるんなら、あんなに苦労して世界中を捜し回る必要はなかっただろうに」

「ちょっと待て。ということは、この村で時々聞こえていた泣き声というのは、その鏡が泣いていたわけではなく……」

「鏡を見て、神様が泣いていたんだよ」


 青年がそう答えた瞬間、その背後にあった岩が音を立てて二つに割れた。

 偶然なのかもしれないが、彼にはこの会話を当の神が聞いていて、怒りのあまり壊したように思えた。


「何にせよ、ここへ来たのは無駄足だったというわけか」


 彼は嘆息して緋色の髪を掻き上げた。タユナに罪はないが、もっと正確な情報を持っている人間の前生を見てほしかったと恨みたくなる。


「思い人を捜しているのか?」

「いや、思い人というわけではないが、人を探している」

「人ねえ……」


 青年は呟き、見事に真っ二つに割れている岩を叩いた。


「まあ、気長に探してみてくれとしか俺には言いようがないなあ。案外、探すのをやめたら見つかるかもしれないぞ」

「今さらやめるわけにもいかん。連れもいることだし」


 とたん、青年は噴き出して、腹を抱えて笑い出した。


「何がおかしい?」

「いや、その……大変だな、それは」


 苦しそうに笑いながら、青年は岩の後ろへと回る。


「俺の名前はノルト。姿、そう名乗ることにしている。紅蓮のアステリウス。とにかくここで鏡を探してみろ。見つかるか見つからないか。見えるか見えないか。それがおまえの探しているものの出した答えだ」

「おい、それはどういうことだ?」


 彼はあわてて青年――ノルトの後を追ったが、岩陰にいるはずの青年の姿は、もうどこにもなかった。


「……あれも神か?」


 独りごち、再び岩の正面に戻った彼は、自分の元副官が最高潮に不機嫌な顔をしているのに気づき、思わず怯んだ。


「ど、どうした、ライル?」

「申し訳ございません、アステリウス様。しばらく私には話しかけないでいただけますか? 村に戻る頃には落ち着くと思いますので」


 今ならば、発する声だけであらゆるものを凍りつかせることができそうだ。何がそれほど気に食わなかったのかはわからないが、それを訊くことすら、今のライルにはできそうもない。どこに鏡が隠してありそうか、意見を訊こうと思っていたのだが。


(たまにはライルを頼らずにやってみるか)


 彼は溜め息をつき、もし自分がここの神だったら、どこに鏡を置くだろうかと考えてみた。

 誰も近寄らない神殿とはいえ、万が一、人に見られたら困る(というか、恥ずかしい)。泣くのなら、見られてもすぐにはわからないところにしたい。とすると、いちばん適当なのはこの大きな岩の裏側だ。彼はそう考えて、もう一度そこへ歩いていった。

 裏側も表側と同じく、ただの岩にしか見えなかった。ノルトのように叩いてもみたが、やはり岩。

 この岩は鏡ではないとノルトは言っていた。ならば、鏡はこの岩の中に隠してあるのではなく、どこか別のところにあるのだろう。彼は振り返り、岩の表側からは見えない壁に目をやった。

 特に何の変哲もないただの石壁だ。だが、その前の床が他に比べて妙にきれいなのに気がついた。まるで何度もそこで行き来をしたかのようにすり減っている。彼はその床の上に立ち、片膝をついた。

 鏡を長時間眺めるのなら、立ったままではなく座る。座って眺められる位置に鏡を置く。そう、たとえばこのあたりに。

 彼は手を伸ばし、自分の目線の高さにある壁に触れた。石壁のごつごつとした感触がした。何も起こらない。

 やはり、私にも見つけられないのか。そう思って彼が苦笑したとき、壁に触れている手を中心にして、光る円が浮かび上がった。熱くはなかったが、反射的に手を離すと、光の円は光量を減じ、やがて闇の穴となった。


(……これが鏡?)


 直径は人の片腕ほどの長さがあろうか。漠然と女の手鏡のようなものを想像していた彼にとっては、予想外の大きさだった。しかし、さらに予想外だったのは、その鏡に映るものが何もないということだった。彼もその後ろにある岩も存在していないかのように、ただ空虚な闇だけが広がっている。

 おそるおそるその表面に触れてみると、ひんやりとした鏡の感触がした。が、この鏡は何の像も映し出しはしないのだった。


(どうしたものかな……)


 正体はつかめないながら、ここの神については詳しいらしいノルト――そういえば、彼が紅蓮のアステリウスであることも知っていた――は、彼が鏡を見つけられるか見つけられないか、あるいは何か見えるか見えないかが、彼の探しているもの――殺せない敵の出した答えだと不可解なことを言った。

 鏡は見つけられたが何も見えない場合、敵は何と言っていると解釈すればいいのだろう。探されたくないとでもいうのだろうか。よく考えてみれば、神の作った鏡によって敵の気持ちがわかるというのも妙な話だが。


(とりあえず、ライルにも見せるか)


 話しかけるなと言われたが、この場合は仕方あるまい。彼は鏡から手を離して、岩の向こうにいる自分の元副官の名を呼ぼうとした。

 そのとき、彼の手が離れるのを待っていたかのように、鏡に亀裂が走った。亀裂はさらに数を増やして鏡の表面を白く覆い尽くし、やがて鏡は砂のように下へと崩れ落ちた。


「ライル!」


 鏡のなれの果てを見つめたまま名前を呼ぶと、声の調子で緊急事態が起こったとわかったのか、彼の元副官が駆けつけてきた。


「どうしました?」

「……鏡はあったが、割れてしまった」


 彼の視線の先にあるものを一瞥した元副官は、驚いた様子もなく問いを重ねる。


「割れる前に、何か見えましたか?」

「いや、何も。私の姿すら映らなかった。これはいったいどう解釈したらいいのかな、ライル」


 時間を置いて機嫌が直ったのか、元副官はすでにいつもの状態に戻っていた。どことなく笑みを含んだ声で答える。


「さあ。あなたの敵のことはわかりかねますが、ここの神にはもう鏡は必要なくなったということではないでしょうか?」

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