第4章 外なる神々

4―1

 村へ戻り、馬を預けていた老人に神殿であった顛末を話すと、老人は加齢のために濁った青い目を大きく見張った。


「神殿の中に男がいた?」

「ああ。銀髪の若い男で、ノルトと名乗った。たぶん違うと思うが、この村の人間ではないな?」

「ええ、この村にそんな名前の若い男なんていませんよ。将軍様と同じ旅の人だったんじゃないんですか?」


 彼があの紅蓮のアステリウスだと知った後の老人の態度は、卑屈なまでに丁重になっていた。今さらながら、自分の悪名の高さ(だろう、たぶん)に驚かされる。


「おそらく違うな。突然現れて、突然消えた」

「じゃあ、あの神殿の神様だったんじゃないですかね。これ以上人間に鏡を探されるのが嫌で、鏡を壊しにきたんですよ」

「本人は違うと言っていたぞ。あそこの神にはとても詳しいようだったが。この村には、あの神殿に祀られていた神について、何か伝わってはいないのか?」

「さあ……とにかく古い神殿ですからねえ……この世界を作った神様だとしか聞いてないです。昔、あの神殿が荒らされたとき、あそこを守ってたこの村の人間も一緒に殺されちまったそうですから、誰にもはっきりしたことはわからないんですよ」

「せめて、鏡の話くらいは正しく伝えてほしかったな」


 彼は深く嘆息した。まったく、の話は当てにならない。

 この老人は、彼とライルが神殿へ行っている間に、村中に彼のことを触れ回ったらしく、村へ戻ったときには、今晩の宿は、村の集会所も兼ねているという村長の家に変更されていた。

 さすがに村長の家は、老人や他の村人たちのそれよりも一際大きく立派だったが、なぜかそこには大勢の村人が集まってきており、彼と元副官の困惑をよそに、勝手に酒盛りが始まってしまった。

 趣旨は、三年前にサイスの侵攻を退けたエルカシアの英雄を歓迎して、らしかったが、ようするに酒を飲んで騒ぎたかっただけだと彼は早々に理解した。彼もセナンを出てからろくに酒を飲んでいなかったので、酒を飲む機会を与えてくれたこと自体はとてもありがたかった。

 あんたのおかげでこの村も襲われずに済んだと涙を流して礼を言う者、何で将軍を辞めたんだと臆測する者、こんなに若くていい男だったんだねとしなを作る者、その他諸々いろいろいたが、そのつど彼は適当にあしらい、ただひたすら好きな酒を飲んだ。

 口約どおり、村に戻ったときにはかなり機嫌を回復させていたライル――この元副官を自分の元部下だと紹介したときには、元軍人で性別は男というのが信じられなかったらしく、村人たちは皆一様に驚いた顔をした――は、特に女性陣に大変受けがよろしく、幅広い年齢層から、話しかけられたり酒をつがれたりしていた。

 泊めてもらう都合上、無下にするわけにもいかず、多少疲れた笑顔で元副官はそれらに対応していたが、時折助けを求めるような視線を彼に投げてよこした。が、彼はそちらはまかせたと目顔で答え、やはり酒を飲みつづけた。

 よほど娯楽に飢えていたのか、酒盛りがお開きとなったのは夜半前で、村長が用意してくれた狭いながらも寝台つきの部屋で、ようやく元副官と二人きりで話せる状態になったのは夜半過ぎだった。


「アステリウス様。ひどいですよ」


 酒はあまり好きではないというわりに、酔った顔は一度も見せたことのない元副官は、彼と二人きりになるなり、恨み言を言った。


「よかったじゃないか、女たちに大人気で。酔っぱらいどもに群がられるより、よほどいいだろう」

「ああ……よくもあんな状態で、平然と飲みつづけていられますね。あなたの酒に対する妄執には、いつも空恐ろしいものを感じさせられます」

「ライル。いくら何でも、その感想はないだろう」

「他にどう思えと?」


 冷ややかに睨み返されて、彼はつい目をそらせる。


「まあ、酒の話はともかくとして、明日からどうなさるおつもりですか? アステリウス様」

「そうだな。結局、ここの鏡はまったく敵探しの役には立たなかったしな。他の村人にもそれとなく訊いてみたが、やはり、あの神殿の神はこの世界を作った神だとしか伝わっていないそうだ。名前も神話も残されていない。ずいぶん念入りに消されたんだな。この国には、他にもそうやって歴史から抹殺された神がいるのだろうか?」

「この国に限らず、世界中にそのような神はいるでしょう。現在、エルカシアの国教はグノス教ということになっていますが、これから先もそうでありつづけるかは、誰にもわかりません。グノス教の神父はそうは言わないでしょうが」

「こんなことなら、あのノルトという男に、もっとあの神殿の神のことを詳しく訊いておくんだったな」


 元副官は、今度は呆れたような眼差しを彼に向けた。


「訊いて、いったいどうするんです?」

「いや、別にどうするということもないが。ただ、世界を作ったと言われる神が、なぜ惚れた男を鏡に映して泣かねばならないのか、それがひどく奇妙に思えてならない。神とは何でも自分の思いどおりにできるものではないのか?」

「さあ。私は神ではありませんから」


 すげなく元副官は答える。


「でも、世界を作ったからといって、必ずしもその世界をすべて自分の思うとおりにできるとは限らないのではないでしょうか。たとえば、人は夢を見ますが、自分の思いどおりの夢を見ることは、ほとんどできないでしょう? 神にとって世界とは、そのようなものなのではないですか?」

「この世界は神が見ている夢だというのか? 宗教関係にはまったく興味がないと言ったが、そうでもなさそうだな、ライル」


 彼が意地の悪い笑みを浮かべて見やると、元副官は気まずそうに長い睫を伏せた。


「あくまで喩え話ですよ。それで、とりあえず明日はどうします?」

「もう用もないのに、居座りつづける理由はあるまい。明朝早々に立ち去ろう。ところでライル。この国で、ああいう抹殺された神の神殿に詳しい人間には、どこに行けば会える?」

「は?」


 元副官は唖然としたが、すぐに我を取り戻し、菫色の目を眇める。


「アステリウス様。まさかとは思いますが、これからその人間に会ってその神殿の場所を教えてもらい、順に巡り歩こうなどというようなことを考えているのではないでしょうね?」

「おまえが相手だと、本当に話す言葉が少なくて済むな。――そのとおりだ」

「なぜです?」


 神殿にいたときの、あの最高に不機嫌なライルが戻ってきたようだった。


「そんなことをして、いったい何がどうなるというんですか?」

「単なる興味だ、ライル。私の最大の目的は〝殺せない敵〟探しだが、そちらはそう簡単には果たせそうもないことがわかったし、それなら自分の興味のあることをしつつ探したほうが、一石二鳥だろう」

「ですから、どうしてそんなものに急に興味を持たれたんですか? アステリウス様もその手のものには関心はなかったはずでしょう?」

「そうだが、実際ああやって神が作ったという鏡を目の当たりにするとな。神の実在を信じたくもなるだろう。それに、タユナはたまたま知らなかっただけで、他にもああいう事物がどこかに存在しているのかもしれん」

「馬鹿馬鹿しい。どうしてあの鏡が神の作ったものだと言い切れるんですか? もしかしたら、大昔の人間が作ったものかもしれないでしょう。私はそのほうが信憑性があると思いますよ」


 どうも元副官は、宗教関係に関心がないというよりも、神様関係が嫌いなようだった。彼自身、信仰心は希薄だが――少なくとも、神の実在を疑うほどには――元副官はさらにその上を行っている。もしかしたら、元副官があの神殿であれほど不機嫌になったのは、神の力に頼ろうとする彼が気に入らなかったからかもしれない。


「そうすると、大昔の人間というのは、今の人間よりよほど優れていたことになるな。今の人間には、何も映さない鏡を作ることも、その鏡をあんな形で壁の中に隠しておくこともできないだろう」

「では、そういうことなのでしょう。この世には、時の経過と共に良くなるものと悪くなるものとがありますから」


 そこで元副官は大きく溜め息をつき、わかりましたと言った。


「これはあなたの旅です。そして、私はそれにどこまでもお付き合いしますと申し上げました。――先ほどの神殿に詳しい人間の件ですが、それなら、ランティスに戻られたほうがよろしいかと。大学になら専門の研究者がいるかもしれません」


 それを聞いて、思わず顔をしかめる。


「今さらまたランティスに戻るのか? それはできんな。絶対グシオンに俺と戦いにきたのかと嫌味を言われる」

「そうしましたら、あとは可能性がありそうなのはミブダルですね。ここからだと、南の方角にある学都です。馬だと……そうですね、十日くらいかかりますでしょうか」

「ここへ来るまでのさらに倍だな。今度こそ野盗は出るかな」

「それはわかりませんが、次の目的地はミブダルということでよろしいですか?」

「ああ。では、明日以降の予定が決まったところでもう寝るか。今夜は屋根つき、しかも寝台の上で眠れるぞ、実にありがたい」


 そう言いながら、彼は今まで自分が座っていた寝台にさっさと横になった。


「あなたはどこででも変わりなく、ぐっすり眠っていらっしゃるように見受けられますが」


 向かいの壁際に置かれた、もう一つの寝台から冷然と嫌味を言う元副官の顔を、彼は横になったまま、じっと見つめ返した。


「そういえば、ライル。私は今までおまえの寝顔を見たことがないぞ。ちゃんと眠っているのか?」

「ご心配なく。あなたが眠った後に寝て、あなたが目覚める前に起きているだけのことです」

「それでは、確実におまえのほうが睡眠時間が短いことになるぞ」

「もともと長くは眠っていられない質なんです。明け方に二、三時間眠っただけで、充分事足ります。どうぞ私のことはお気になさらず、先にお休みください。もし明日早くにここを出発したいとお考えでしたら」

「あ、ああ……」


 彼はうなずき、元副官に背を向けた。それを確認してから、元副官は寝台から立ち上がり、部屋の隅にあった卓上の蝋燭の炎を消した。窓があったので、部屋は完全な暗闇にはならなかったが、それでも元副官の表情が読みとれなくなるほどには暗くなった。

 元副官は寝台には戻らず、そのまま窓の近くへ歩いていって、そこで立ち止まった。眠くなるまで外を眺めているつもりなのだろうか。

 彼のほうからは後ろ姿しか見えなかったが、そのとき、黒いはずの元副官の髪が妙に白く光って見えた。月明かりのせいだろうか。ぼんやりそう考えたとき、彼は強い眠気に襲われ、急速に意識を失った。

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