第3章 殺せない敵

3―1

 タユナのいる部屋は、小広間よりもいっそう狭く暗かった。明かりといえば、部屋の隅に灯されている、蝋燭の淡い光しかない。その光に照らし出された三方の壁には、年代物のタペストリーが飾られていたが、そこに何が描かれているかは、蝋燭のわずかな光だけでは読みとることはできなかった。

 タユナはその部屋のいちばん奧、柔らかな敷物を幾枚も積み重ねた上に、膝を前に折って座っていた。服と同じ黒いベールを深くかぶっていたので顔はよく見えなかったが、わずかに覗く細い顎や赤い唇からすると、確かに若い女のようだった。アステリウスとライルは、タユナの前に敷かれている絨毯の前まで静かに歩み寄る。


「今おられ、かつておられ、やがて来られるいと高き方」


 突然、タユナが口を開き、エルカシアの元将軍は思わず足を止めた。タユナは彼を見ることなく、深く頭を垂れる。


「今生では初めてお目にかかります。私はタユナと申します。現世ではなく前世を見る目を持って生まれ落ちましたゆえ、前生占いを生業なりわいといたしております。此度はたまたま私どもの店の前にいらっしゃるのがので、ご無礼とは存じながら、一目お会いしたくお声をかけさせていただきました。もし何か私めにできることがございましたら、どうぞ何なりとお申しつけくださいませ」


 朗々たる美しい声で、タユナはよどみなく話した。その間、彼は黙ってタユナを見下ろしていたが、彼女が言い終えると、隣の元副官を見た。


「ライル。どうしたらいい?」


 元副官はタユナの前の絨毯に目を落とした。絨毯の上には座布団が二枚並べて置かれている。


「とりあえず、そこに座ってみてはいかがでしょう。きっと客はそこに座って占ってもらっているのでしょうから」


 ライルの助言はいつでも実践的だ。彼は言われたとおり、座布団の上に腰を下ろしたが、元副官は彼の背後に立ったまま、座ろうとはしなかった。


「ライル?」

「私は自分の前生を知りたいとは思いませんから」


 そっけなく元副官は言った。


「ついでに言うと、あなたの前生もあまり知りたいとは思いませんね。もし場末の酒場の踊り子だったりしたら、もう二度とあなたの顔がまともに見られなくなると思います」


 元副官が例に挙げたものをつい想像してしまった彼は、まずい酒を飲まされたとき以上に大きく顔を歪ませた。


「せめて、酒場の用心棒あたりで勘弁してもらいたいな」

「……前生をお知りになりたいのですか?」


 今まで彼と元副官の会話に耳を傾けていたらしいタユナが静かに口を挟む。腰を下ろすことによって、タユナと目線が同じになった彼は、彼女が〝現世ではなく〟とわざわざ強調した理由を知った。

 ベールの下から見えた彼女の目は、黒い布に覆われていた。


「あなたにはもう見えているんだろう。いや、見えたからここへ呼んだんだろう。今、あなたが見たものを私は知りたい。もともと私はあなたに自分の前生を見てもらうために、このセナンへ来たんだ」


 タユナには、真摯に自分を見つめる彼の顔は見えていないはずだった。だが、彼女は白い顔を正確に彼に向けると、何のために前生をお知りになりたいのですかと淡々と問い返した。


「いつも客にその質問をしているのか?」

「はい。お客様がお知りになりたい前生とは、お知りになりたいと思った動機を裏づけるような前生だけですから。本当に様々なお客様がいらっしゃいますが、どの方にも共通して言えるのは、今現在の自分にご不満を持っていらっしゃるということです。そして、その原因が前生にあるのではないかと疑っていらっしゃる。家庭に恵まれない方は、前生で自分が家庭を大事にしなかったせいではないかと、人をまったく信じられない方は、前生で自分が手ひどい裏切りを受けたせいではないかと、私に前生占いを依頼される前からすでに想像していらっしゃるのです」

「あなたに見える前生は一つだけではないのか?」


 単純に今の自分に生まれ変わる前の前生だけを知りたいと考えていた彼には、タユナの発言は驚きだった。

 しかし、よく考えてみれば、何度も生まれ変わっているのなら、前もその前もそのさらに前も同じ前生なのだ。仮に彼女が恣意的に、前々回の前生を前生として語ったとしても、嘘をついたことにはならない。


「はい。ですから逆に、お客様自身に何をお知りになりたいか決めていただく必要があるのです。すべての前生を見ることはたいへん時間がかかりますし、私も疲れてしまいます。幸いと申しましては不謹慎ですが、たいていの方は毎回同じようなことを繰り返していらっしゃるので、直近の前生を見るだけで事足りるのですが」

「さっき、あなたが見た前生はそれなのか?」

「その前に、何をお知りになりたいのか教えていただけますでしょうか。でなければ、何もお伝えすることはできません」


 彼は少しためらったが、何かを忘れているのだと答えた。


「何か……ですか」


 タユナの顔には、特に表情らしきものは浮かんでいなかったが、アステリウスは彼女に呆れられているような気がしてならなかった。

 こうして口に出すと、あまりにも漠然としすぎていると自分でも思う。それはおまえの思い過ごしではないかと言われたとしても文句は言えない。彼はタユナにそう言われる前に、さらに説明を加えた。


「ああ。自分でもよくわからないが、私は何かを探し出したいと思っている。しかし、それが何なのかが思い出せない。物心ついたときから、ずっとそう思いつづけてきた。私は別に、今の自分や生活に不満があるわけではないんだ。むしろ、満足している。だが、この思い出せない何かが気になって、どうしても頭を離れない。もしかしたらこれは前生に関係があることではないかと思い、今日あなたの前生占いの予約を入れてきたところだった。まさか、その本人に今日招かれるとは思ってもみなかったが。こんなことなら、予約を入れる前にこの店の前に行くのだったよ」

「そうでしたか。知らぬこととはいえ、それはご面倒をおかけいたしました。後で予約は取り消しておきますから」


 タユナは生真面目に頭を下げてから、現世を見られぬ目で彼を見すえた。


「あなたが、その何かを見失ったのは直近の前生からです。それゆえにあなたは必要以上に血を求めました。見失った何かを見出すために」


 タユナの前生占いは、何の前置きもなく始まった。特に何の道具も使わず、ただ客に顔を向けるだけでわかるらしい。

 今、この女の目には何が見えているのだろう。できることなら、自分にも見えるようにどこかに映し出してほしいものだと彼は思った。


「しかし、結局見つけ出すことができないまま亡くなりました。今生でもあなたは同じものを探し出そうとして、前生と同じことを繰り返しています」

「では、その何かとは? あなたにはそれがわかるのか?」


 つい興奮して身を乗り出すと、彼女はそれを避けるように体を後ろへそらせた。生まれつき目が見えないかわりに、気配を察する感覚が発達したのだろう。彼は気恥ずかしくなって座布団の上に座り直した。


「あなたは、何のためにその剣をお持ちですか?」


 タユナは彼が傍らに置いていた大剣に顔を向けた。

 なぜわかるのか。彼は緋色の瞳を見張ったが、それについては問い返さなかった。自分たちをここへ案内した女のように、タユナも感じることができるのかもしれない。


「殺されないためだ。そのためにこれで身を守り、敵を切る」

「――敵。今まであなたに敵はいましたか?」


 タユナの質問に彼は眉をひそめた。なぜそのような自明のことをわざわざ訊ねるのか、その意図がわからなかった。


「自国に攻めこんできた国のことは、敵とは言わないのか?」

「国を剣で切ることはできません。剣で切ることができる敵とは、人間を含む生物だけです。あなたはきっと、自分が切り捨てることができた時点で、相手を敵と見なすことをやめてしまっていたでしょう。あなたが今ここに生きて存在しているということは、今のあなたに敵はいないということを意味するのです」

「タユナ殿。それは詭弁というものだ」


 彼は苦笑いしたが、タユナは静謐な表情を崩さない。


「そう。だから気づけなかったのです。殺されないために剣を持つあなたにとって、あなたが真に求めるものは矛盾した存在でした。その存在と出会ったとき、あなたの人生は終わってしまうのですから」


 タユナは少しの間をおいて、彼が貴重な酒代を削ってまで求めようとした答えを返した。


「あなたが敵。それがあなたが前生で見失い、今生でも探し出せずにいるものです」

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