第2章 過去を見る女

2―1

 紅蓮のアステリウスが、要約すれば武者修行という、彼以外にはとうてい許されそうもない理由で将軍職を辞してから一月あまり。

 円卓に一つだけ空いた席に座る者は、いまだ決まってはいない。


「別に無理に五人にしなくてもいいんじゃねえかと俺は思うんだけどな」


 疾風のミシャンドラが甲高い声で愚痴ると、剛腕のバラムがその巨体に見合った野太い声で応じた。


「それが建国以来の決まりなのだそうだ。こんなことなら、アステリウスに後任を決めさせてから辞めてもらうんだったな」

「まったくだ。おまけにあいつはライルまで連れていきやがった。あの噂は本当だったのかもしれねえな」


 下手をするとアステリウスよりも若く見える童顔に、ミシャンドラは下卑た笑みを浮かばせる。癖のある金髪と鮮やかな緑色の目を持つこの小柄な男は、黙ってさえいれば、その出自にふさわしい気品ある容姿をしていた。あくまでも、黙ってさえいればだが。


「噂?」


 黒髪黒瞳のバラムは、怪訝そうにいかつい顔をしかめる。


「何だ、おまえ、知らないのか? 有名な話だぞ? ライルがあいつの愛人だっていう……」

「それはないでしょう」


 慧眼のダンタリアンが、灰色の瞳を細めて苦笑いする。褐色の長髪を一つに束ねている彼は、四人の将軍の中で最年長であったが、相手が同じ将軍であっても一兵卒であっても、丁寧な口調で話をした。そのせいで、将軍というより聖職者のような風情がある。


「確かに、非常に気に入ってはいたようでしたが。まるで気心の知れた友人と話しているようでしたよ」

「俺には、友人というより古女房のように見えたがな」


 ぼそりと、双手もろてのグシオンが口を挟んだ。彼の短い黒髪には、白いものがいくらか交じりだしていたが、あのアステリウスと互角に戦えるのは、将軍たちの中では唯一この男だけだろうというのは、衆目の一致するところだった。その鋭い瞳は琥珀色をしていたが、光の加減で金色に見えるときもある。


「アステリウスよりも、あの副官のほうがよほど恐ろしかった」

「何かあったのですか?」


 ダンタリアンが訊ねたが、グシオンは片頬を歪めたまま、何も答えなかった。


「何にせよ、早いとこ空いた穴を埋めなきゃな」


 にやにやしながら、ミシャンドラが同僚たちに問いかける。


「いったい誰が本命だ?」

「それですぐに名前が挙げられるのなら、きっととっくの昔に決まっていたでしょう」


 ダンタリアンが笑って答える。それにバラムが賛同した。


「同感だな。今のところ、めぼしいのはいない。宰相殿もお悩みのことだろう」

「やっぱり、アステリウスを呼び戻して決めさせろよ」


 すでにここを去ってしまった人間なのに、いまだにこうして将軍会議のたびに話題に上る。そのこと自体が、アステリウスの影響力の強さを如実に物語っていた。

 三年前のサイスとの戦において、世間の耳目はアステリウスばかりに集中したが、ここにいる四人を含む五人の将軍も、決して無能だったわけではない。あの戦はアステリウス一人の活躍で終結したわけではないのだ。

 だが、そのことを不満に思う将軍は誰一人としていなかった。当時アステリウスの上官だったグシオンも、彼のことを誇りに思いこそすれ、目障りだとは考えなかった。漆黒のフルカスは、アステリウスに将軍の座を譲るべく自ら勇退し、その後任に将軍たちがアステリウスを推挙すると、王と宰相は喜んで同意した。

 もしもアステリウスが自分と同じ将軍にさえならなかったら、グシオンは今でも彼に対して反発のようなものは感じなかったかもしれない。彼が自分と同じ場所に立ったとき、改めてその違いをまざまざと思い知らされたのだ。


 ***


 アステリウスがこの国の生粋の人間、しかも貴族であったのに対して、グシオンはもともと傭兵としてやってきた異国の人間だった。

 このような経歴を持つ将軍は、現職の中では彼しかいない。あの口の悪いミシャンドラでさえ、信じられないが貴族の出身なのだ(幼い彼に剣を教えた傭兵あがりの指南役の影響らしい。周囲が気づいたときには、もう手遅れだった)。

 サイスという厄介な隣国を持つこの国では、将軍を選ぶ基準に品格や出自は問わなかった。ただ有能であること。それだけを求めた。それゆえにグシオンは、将軍という軍内における最高位まで上りつめることができたのだが、その道は決して平坦なものではなかった。

 どれほど優秀であっても、将軍の座は五つしかない。将軍のうちの誰かが死ぬか席を譲るかしてくれなくては、いつまでたっても将軍にはなれない。さらに、残りの将軍全員の推挙と、王と宰相の同意とが必要となる。

 数多くの戦と画策を重ねた末、ようやくグシオンが将軍になれたのは、フルカス、ダンタリアンより後、バラム、ミシャンドラよりは前だった。気がつけば、初めてこの地に来たときから、二十年以上の歳月が流れていた。

 それに対してアステリウスは、何の障害もなく、最年少で将軍の座を手に入れた。本人は将軍になりたいとはまったく考えていなかったのにもかかわらず、だ。おまけに、グシオンが苦労して得たその座を、あんなふざけた理由で――しかし、アステリウスを知る誰もが納得する理由で――何の未練もなく捨てた。

 元上司と部下という関係もあり、将軍仲間の中でいちばん気安く話ができたのはアステリウスで、同時にいちばん遠ざけたいと思っていたのもアステリウスだった。

 嫉妬――だったかもしれない。自分がひそかに目をつけていたライルをアステリウスが副官にしたと知ったとき、先に行動を起こさなかった自分が悪いとわかっていながらも、彼にライルを横取りしたと大人げない発言をしてしまったこともあった。

 グシオンがライルを副官にしたいと考えたのは、彼が士官学校にいたときから秀才の誉れ高かったのと、やはりその並はずれた美貌ゆえだった。

 もっとも、グシオンはミシャンドラのいうような愛人としてライルを副官にしたかったわけではない。ただ、士官学校に在籍していたときならともかく、軍の中では権力を笠に着て己の思いどおりにしようとする不届きな輩もいるだろうと、彼としては親心から(確かに、自分の息子でもおかしくない年齢だった)、保護者役を買って出ようとしたのだった。

 だが、アステリウスの副官となったライルと間近に接したとき、グシオンはそれが自分の杞憂であったことを知った。


 ――これは、自分が認めた相手にしか頭を下げない。


 そして、ライルはその相手として、アステリウスを選んだのだった。

 おそらく、グシオンがアステリウスより先に副官にならないかと声をかけていたとしても、ライルは何らかの理由をつけて断っていただろう。だから、アステリウスと一緒にライルが軍を辞めたと知っても、グシオンはまったく驚かなかった。アステリウスのいないエルカシア軍など、あの黒髪の青年には何の価値もない。

 アステリウスは、よくもあのような情のこわい人間を副官にできたものだ。その意味では、やはり並の神経の持ち主ではなかったと感嘆する。

 ライルがアステリウスの副官になった後、グシオンはライルの同期でアステリウスの副官候補でもあった青年サレオスを自分の副官にした。豪奢な金髪と碧玉のような青い目をしたこの青年も、ライルに匹敵するほど優秀であったし、好事家が食指を動かしたくなるほどには美しくもあったからだ。しかし、なぜ自分なのかとサレオスに問われたとき、彼はとっさにこう答えていた。


 ――選ばれなかったからだ。


 選ばれないみじめさを、彼もまたよく知っていた。選ばれなかった者が、同じく選ばれなかった者にかける同情。それがサレオスを副官にした感情の正体なのだと、このとき初めて自覚した。

 だが、グシオンはそれをサレオスに告げることはせず、サレオスも追及してこなかった。主従というよりは同志。それがサレオスとの真の関係なのかもしれなかった。


(今頃、あやつらは、どこで何をしているのやら)


 自分の執務室で、グシオンは窓の外にかかる月を見上げた。まだ満月には足りないが、窓際の自分の席を照らし出すには充分だ。

 独り者のグシオンには、自宅に帰ったところで、彼を迎えてくれる家族も恋人もいない。今さら寂しいとは思わなかったが、アステリウスがいなくなってから、ここでアステリウスのことを考える時間は増えた。

 思えば、友人と呼べるような存在は、あの赤毛の男くらいしかいなかった。向こうは冗談じゃないと、思いきり嫌な顔をすることだろうが。


 ――なるほど。がおまえの望みか。


 グシオンは自分の両腰に佩いたままにしていた剣に手を伸ばした。彼の異名〝双手〟とは、二振りの剣の使い手であることに由来する。


「誰だ?」


 誰何するが、執務室内には誰もいない。


 ――名乗っても意味はあるまい。おまえは〝俺〟になるのだから。


 声はグシオンの頭の中に直接届いているようだった。男女の別さえわからなかったが、どうやら男らしい。彼は立ち上がり、剣を抜いた。


 ――今まで適当な器を探していた。俺に手頃な器を。そのかわり、俺がおまえの望みを叶えてやろう。おまえが心の奥底にしまいこんでいるその望みを。


(どこにいる?)


 どれほど気配を探ってみても、自分以外の存在を見出すことはできない。


(もしや、俺は狂ってしまったのか?)


 もしそうなら、即刻、首を切り落とす。


 ――そうはいかん。つなげるのが面倒だ。


 間髪を入れずに返事が返る。と、グシオンの全身は絡めとられたように動かなくなった。


(何をする!)


 もはや、口を動かすこともできない。


 ――言っただろう。おまえの体をもらう。さらばだ、双手のグシオン。


(こんなところで……こんな無様な形で、俺は死ぬのか)


 きっと自分は戦場で死ぬのだと漠然と思っていた。かつて自分が殺したように、最後は自分も誰かに殺されるのだろうと。

 それがこんなわけのわからないものに、わけのわからないうちに殺されるとは。無念だ。あまりにも無念すぎる。


 ――安心しろ。おまえの体は死なない。おまえの心は死ぬがな。


 同じことだと罵った、その次の瞬間。

 グシオンは、生きながら死んだ。


 ***


 その夜、サレオスがグシオンの執務室へ引き返したのは、手に入れたばかりの葡萄酒を彼に届けるためだった。

 近頃、グシオンは特に用事があるわけでもないのに、執務室に残ることが多くなっていた。そういうとき、彼は後はもういいと言ってサレオスを先に帰らせた。一人にしてくれということなのだろう。今日もそのようにして、執務室を退室したのだった。

 グシオンはあのライルよりもさらに表情も口数も少ない男だったが、決して偏屈なわけではなく、気難しくもなかった。ただ自分の感情をうまく表現することが苦手なのだ。

 そんなグシオンが、唯一自然に会話できていた相手は、意外なことにアステリウスだった。会えば嫌味の言い合いをしていたが、実は気は合っていたのかもしれない。たった一月ほど前のことなのに、なぜかひどく懐かしく思える。

 アステリウスほどではないが、グシオンも酒を嗜んだ。しかし、彼は騒がしい酒場で飲むことよりも、自室で一人静かに飲むことのほうを好んだ。それを知っていたサレオスは、グシオンの好みに合わせて求めたこの葡萄酒を、今夜のうちに届けようと考えたのだった。少しでも彼に喜んでもらいたくて。

 外から見たところ、執務室の窓に明かりは灯っていなかった。もう帰ってしまったのかもしれない。だが、念のためサレオスは執務室の扉の前へ行き、遠慮がちにその扉を叩いた。


「閣下、グシオン閣下。サレオスです。まだいらっしゃいますか?」


 返事はなかった。やはりもう帰ってしまったのか。そう思って立ち去りかけたとき、扉の向こうから、低い――まるで地の底から響くような声が返ってきた。


「サレオスか。入れ」


 それは聞き慣れたグシオンの声に間違いはなかった。が、どこか違和感を覚えた。今まで黙っていて、急に声を出したからだろうか。サレオスは訝しく思いながらも、失礼いたしますと声をかけて扉を開けた。

 執務室内には蝋燭一本灯されてはいなかったが、窓から落ちる月明かりで、ぼんやりと中の様子は見てとれた。グシオンは執務机の前にはおらず、部屋の中央に立っていた。両手に抜身の剣をぶらさげて。


「閣下、どうなさいました?」


 驚いてそう問うと、グシオンは嘲るように笑った。


「恐るべき執念よ。心は死んでも、体は首を切り落とそうとした」

「は?」


 言われて気づく。グシオンの首からは黒い液体が滴り落ちており、グシオンの剣の白い刃先には、黒い染みのようなものが付着していた。


「グシオン様!」


 サレオスはグシオンに近寄ろうとしたが、彼はそれを剣で制した。


「大事ない。すぐに治る」


 グシオンは剣から黒い染み――おそらくは己の血――を振り落とすと、相変わらず見事な手際で両腰の鞘に収めた。

 そうしてから、椅子に掛けられていた外套を手に取り、それで無造作に自分の首を拭う。再びサレオスに向き直ったとき、その首には汚れはもちろん、傷もなかった。


「グシオン様……?」


 違う、とサレオスは思った。確かに、姿や仕草は彼が仕えてきた将軍のものだ。だが、根本の、肝心な部分が違う。


「賢いサレオス。


 グシオンは言い、サレオスは葡萄酒の瓶を取り落とした。

 瓶は割れ、床に血と見分けのつかない黒い染みを作った。


「もったいない。それは俺に飲ませようとして持ってきたものではなかったのか」


 残念そうにグシオンは床に目をやったが、サレオスは震えながら叫んだ。


「あなたは誰です! グシオン様はどこに!」

「もうグシオンだ。おまえ以外にはそうとわかるまい。サレオス。心配せずとも、おまえには何もせん。余計なことを口外しなければな。その見返りとして、おまえにはおまえの欲しかったものをやろう」


 グシオンは――グシオンの姿をしたものは、鈍く光る金色の目を細める。


「俺には欲しいものがある。そのためだけにここへ来た。それさえ手に入れば、俺はもうこの体にも世界にも用はない。おまえはただその日まで、沈黙を守っていればよい。それでおまえの欲しかったものは手に入るのだ。利害は一致しているだろう?」


 グシオンの顔と声で、グシオンが決して口にはしないだろうことを話す男。

 もしかしたらこれは悪魔なのかもしれないと思いながらも、サレオスは神に救いを求めることも、首を横に振ることもできなかった。

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