届かないけど繋がっている 4/7 ~悠の大事な昔話~

 岡本食堂に出勤してからも、悠はその記憶の事ばかり考えていた。仕事には特に支障はきたさなかったが、気持ちは入らず、気付くともう夜になっていた。

「悠ちゃん、心ここにあらずって感じだね。どうしたの? 深刻な顔して」

 夜になってそう声をかけてくれたのは、奥さんと一緒に食事しに来ていた岩田さんだった。悠の表情がいつもと違う事に気付く目は流石だ。

「え…そうですか? ……すみません」

 続いて厨房から大将が出てきて岩田さんに言った。

「こいつ、朝からずっとこうなんだよ。岩田さん、ちょっと話聞いてやってくれよ。こいつの暗い空気がお客さんに移っちゃったら敵わねえからさ」

 何事も大雑把で豪快な大将が、繊細な表情の変化に気付いていたとは意外だ。「お客さんに移る」と言っているが、本当にそれが気になるなら、夜の営業が始まる前に悠本人にそう言っているはずだ。もう閉店間際で、お客さんは岩田さん達しかいない。本当は悠の事を心配して、岩田さんに言ってくれたのだろう。

「悠ちゃん、俺達に話せる?」

 岩田さんにそう聞かれて悠は困ってしまった。岩田さんはきっといい言葉をかけてくれるだろうし、聞いてもらえるだけで悠の気持ちは少し楽になるだろう。だが、奥さんと楽しく食事している岩田さんの邪魔はしたくない。

「いやあ……岩田さんになら話せない事はないですけど、楽しい時間にはふさわしくないですよ。お気遣いありがとうございます」

 悠は笑顔でそう答えると岩田さんはこう言った。

「悠ちゃん。辛い話や悲しい話ってのはね、思いっきりお腹すかせて、ご飯食べながらするもんだよ。お腹すいてるでしょ?」

「でも、せっかく奥さんと……」

「平気だよそんなの。いつでも来られるんだから。いいよな?」

 岩田さんが奥さんに聞くと、奥さんは柔らかい笑顔で二回うなずいた。

「でも……」

「悠!」

 ためらっている悠に大将が後ろから声をかけた。

「岩田さんのご厚意だぞ? そこ座れって」

 悠は大将に言われた通り、エプロンを外して座敷に上がり、岩田さんの斜め向かい、奥さんの隣に座った。

「悠ちゃん、夕飯まだだろ? おごるよ。いいよね大将?」

「あ…いえ、仕事中ですし。それに……」

「悠!」

 また大将が声を上げた。

「ご厚意だって言ってんだろ。滅多にある事じゃねえんだから、ありがたくお受けすんのが礼儀だぞ。もう他にお客さんもいないし。ただし、自分でカウンターまで取りに来いよ?」

「……はい」

 悠が岩田さんに頭を下げると、まず奥さんが言った。

「実はさっきからずっと気になって旦那と話してたの。悠ちゃんの様子がおかしいって。いつもハキハキ動いて、気持ちいい笑顔してるのに、それが曇ってるのを初めて見たから。悠ちゃんが話したければ、何でも話して」

「はい……」

 悠は深呼吸して心の準備をすると、ゆっくりと話し始めた。

「このあいだ、私のアパートの一階に住んでる高齢のご夫婦の奥さんの方が、お亡くなりになったんです。その後……今朝なんですけど、旦那さんの方に久しぶりにお会いしたら、すごく憔悴されてて、まるで別人みたいになってて。ものすごくショックだったんです。だってその姿が、私の……」

 突然、吸った息を押し返すように涙が湧いてきて、悠の視界は一瞬にして光の波になった。声は押し殺したが、涙はどうしても止められないし、体がうねる心に押しつぶされそうだ。少しの間そうやって泣いている間、岩田さんの奥さんが背中をさすってくれた。

 少しの間そうした後、悠は息を吸いなおして話し始めた。

「私の、祖母にそっくりだったんです……」

「悠ちゃんのおばあちゃんが、そんな風になった事があったんだね?」

 悠は岩田さんの言葉にうなずき、泣きながら続きを話した。

「祖母は、七年前に祖父が亡くなった直後、急に元気がなくなって。私、その時一緒に住んでたのに『仕方ないよな。そのうち元気になるだろ』なんて、いい加減に考えてて……何もしなかったんです。そうしたら祖母は、祖父が亡くなって半年もしないうちに、なんにも分からなくなっちゃって。私が何か言っても、なんにも伝わらなくて……私が手を握ったり背中をさすると、『嫌!』『嫌!』って……目の前にいる私の名前も、孫だって事も全部…………全部分からなくなっちゃって……私、そうなっちゃうまで何もしなかったんです。何も…………家族なのに……」

「ゴトッ」と悠の前に定食が置かれた。大将だ。その後大将は店の外に出て暖簾を外し、椅子を持ってきて悠の近くに腰かけた。

「悠ちゃんほら、ご飯来たよ」

 岩田さんに勧められ、悠はお椀を取って味噌汁に二、三回息を吹きかけると、音を立ててすすった。味噌の塩気と香りが体に染み渡って、ふわっと心が和らぎ、胸につっかえていた息が体の外へと抜けていった。悲しい気持ちに奪われた熱も体に戻ってきて、湧いてくる涙も温かくなった気がする。

「ほらね? ご飯食べながらするもんでしょ?」

 悠は目に涙をためたまま、笑顔でうなずいた。

「おばあさまの事、思い出しちゃったのね?」

 岩田さんの奥さんにそう聞かれて、悠は話を再開した。

「はい。祖母に謝りたくて謝りたくてたまらなかったんですけど……それでずっと罪悪感があったんです。それがどうしても拭えなくて……ずっと忘れられなくて。横田さん……最初に話したご夫妻ですけど、横田さんの旦那さんも同じようになったら大変だって思って。今お一人で暮らしてらっしゃるんです。親族の方がどこかにいらっしゃるのかもしれないんですけど……私の祖母みたいにしたくなくて……それで今日一日中考えてたんです。横田さんに何かしてあげたいんですけど、どうしたらいいのかなって……」

 全員沈黙するだろうという悠の予想に反して、すぐに岩田さんが口を開いた。

「悠ちゃん、今その話をここで話して、どうだった?」

 悠の話を聞いて最初に言うべき事ではない気がする。だが岩田さんの事は信頼しているので、ひとまず悠は質問に答えた。

「少し気持ちが軽くなりました。ありがとうございます」

「そりゃよかった。じゃあ、同じようにしてあげなよ」

 悠の気持はもう一段階軽くなった。追いつめられて、難しく考えすぎていたのだ。岩田さんの言う通り、できる小さなことからやっていけばいい。ただ、ちょっと気になる事もある。

「そうですね……でも私、横田さんとそんなに親しいわけでもないので、いきなりお食事とかに誘うのも何だか……それに、私にお話してくださるかどうか……」

 この不安には岩田さんの奥さんの方が答えてくれた。

「悠ちゃん、さっき自分のおばあさまに対する罪悪感って言ってたでしょ? だったら、横田さんのためだけじゃなくて、悠ちゃん自身のためって思ってもいいんじゃない? そう思えば、横田さんに余計な気を使わず、自分の聞きたい事を聞けるでしょ?」

「ああ……でも、それだと私、ちょっと勝手な人に映らないですかね……」

「全部正直に話しゃいいんだよ」

 大将が急に口を開いた。こんな話題に大将が入ってくるとは思っていなかった悠は、思わずその驚きを表情に滲ませてしまった。その顔を見た大将は「あっははは!」と豪快に大笑いした。

「なんだよその顔。これでも俺だって、お前よりずっと人生の先輩だぞ? 岩田さんみたいには行かないけど、俺にもアドバイスさせろよ。全部話せって。横田さんを心配してる事とか、お前のその罪悪感の事も」

 最後に岩田さんが言った。

「そう。横田さんも『悠ちゃんのためになる』って思えば、かえってその方が話しやすいと思うよ。大人だから、話さない方がいい事は、ご自身で判断されるだろうしね」

 悠はふと、詩織と初めて一緒にご飯を食べた時の事を思い出した。(第二話)当時付き合っていた彼氏に浮気された詩織を慰めようと、話を聞かせてくれと言った悠に、詩織はこう聞き返したのだ。


--- 悠、どんな気持ちでそれ聞いてる? ---


 その時悠は、正直にこう答えた。


--- 浮気されてかわいそうだなって事もあるし……あと正直、こういう話するの楽しいから聞きたいってのも……あるよね ---


 これを聞いた詩織は「楽しいなら話す」と言って自分から話を聞かせてくれた。あの時はなぜ詩織が話す気になったのか、あまり深く考えなかった。


 悠は、岩田さん夫妻と大将に頭を下げた後、冷め気味の定食を美味しく食べ、家に帰るとすぐに寝た。

 横田さんと一緒に散歩に行く水曜日が待ち遠しい。

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