第八話 本音は言えない

本音は言えない 1/7 ~悠のキツイ一日、前半~

 深夜、悠は岡本食堂で少しイライラしながら仕事をしていた。もうとっくに閉店時間を過ぎているのに、三人の男子大学生がお酒を飲みながらいつまでも騒いでいたからだ。

 優しい大将は、バイトの学生をいつもの時間で返してしまい、店には大将と悠しか残っていなかった。大将はお客として来る学生達にもかなり優しいので、悠はそれに従って普段の通りに接客して、彼らが帰るのをひたすら待ち続けるしかなかった。

「なぁ、あの店員さん、めっちゃかわいくね?」

「お前あんなのタイプなの?」

「え、めっちゃかわいいだろ!」

 学生達は悠に聴こえないように話しているつもりだろうが、一言一句全て丸聴こえだ。

「だったら声かけてみろよ」

「そうだよ。とりあえず何か言ってみろって」

 うんざりしながらカウンターテーブルを拭いていると、ついに学生の内の一人が悠に声をかけてきた。

「お姉さん!」

「はい?」

「えー、ビールお願いします」

 他の学生が大笑いした。

「ごめんなさい。ラストオーダーの時間もう過ぎてるんですよ」

 閉店時間も過ぎてるんですけどね。という本音は隠して悠がそう答えると、すぐに大将が奥から出てきた。

「よし、じゃあこれ、最後の一杯ね!」

 注文を受け付けてしまった大将によって、悠のイライラ度が上がった。二十パーセントといった所だろうか。


 ビールを学生のところへ持って行くと、さっきとは別の学生が話しかけてきた。

「店員さん、彼氏とかいますか?」

 彼氏はいない。だがここで「いない」などと言うとまた学生達が興奮しそうだ。悠は角が立たないように、そして嘘にならないように「いるっぽい」雰囲気を作った。

「んー……」

「あ、いるんだ」

「その彼とどこまでいきました?」

「お前、それセクハラだよ!」

 学生達はまた大笑いした。実に下品な笑い声だ。悠のイライラ度が三十パーセントに上がった。

「店員さん、こいつにチャンスあげてよ。オイお前ほら、何かやれよ何でもいいから」

「やれやれ! ほら、飲めよ!」

 他の二人にけしかけられて、学生が持っていたビールを一気に飲み干し、空になったジョッキを高くかかげた。他の二人は拍手して大はしゃぎだ。

「よくやった! いいとこ見せた!」

「店員さん、どうですかコイツ」

「体に悪いですよ」

 あからさまな作り笑顔で悠がそう言うと、学生達はまたまた下品な笑い声を上げた。

「撃沈! 撃沈じゃん!!」

「これはダメだ! お前もう諦めろ!」


 少しすると学生達はやっと落ち着いてきて、帰りの支度を始めた。悠は心の中で胸をなで下ろしながら、レジの所に向かった。やっと今日の仕事が終わる。

 ところがその時、後ろからさっきの男子学生の唸るような声が聴こえてきた。「まさか!」と思って悠が振り返ると、男子学生が、座敷から降りたところで吐いていた。最後の最後に…というか、最後まで、やってくれましたね。

「おい、何やってんだよ!」

「自分でイッキして吐くとか、最悪だなお前!」

 学生達はまたゲラゲラ笑い出した。「最悪なのはお前ら全員だよこの馬鹿が!」と、本音を言うわけにもいかず、悠は掃除用具を取りに走った。

 一人の学生が、吐いてしまった学生を一旦座敷の方に引き上げようと手を握って引っ張った。それと同時に悠は掃除を始めたのだが、引き上げていた学生がふざけて手を離し、吐いた男子学生がドカッと倒れ込んで悠を押しつぶした。

 重い。痛い。イライラ度、四十パーセント。

「お兄ちゃん、危ないよ」

 さすがに大将がそう注意してくれたが、悠に言わせれば甘すぎる、優しすぎる言い方だ。しかし、だからといって自分がきつく怒って、もし店の評判が落ちれば大将に迷惑がかかってしまう。

 悠は「大丈夫ですか」と倒れた学生に手を貸して起こした。学生はおしぼりで口を拭うと、三人でひそひそと話しながら店を出て行った。


「なあお前、倒れた時どさくさでどっか触ったべ?」

「触ってねえって。まあ、手は握ってもらったけど」

「俺分かんねえな。お前、本当にあんなのがいいの?」

 悠は掃除をしながら「ありがとうございました」と告げると、ドアが閉まるのを確認してつぶやいた。

「『あんなの』ってどういう事だよ……」

 これを聞いてレジに出てきていた大将が豪快に笑った。大将にも全部聞こえていたらしい。実にデリカシーの無い笑い声だ。悠のイライラ度、五十パーセント。


 大将はその後すぐ「明日は朝早くから仕事だから」と悠を置いて引き上げてしまった。大将が朝早い時、悠はもっと早くに来なければいけない。悠は一人で掃除した後、火の元を確認し、戸締りして家に向かった。いつもより二時間半も遅い。

 詩織が亮太の面倒を見ていてくれるはずだが、こんなに遅くなるとは思っていなかっただろう。悪い事をしてしまった。自分に落ち度はないけど。


 家に帰ってみると、亮太はもう寝ていた。詩織の「麻婆豆腐食べさせたよ。宿題も終わらせておいたから。眠くなっちゃったから帰るね」という書置きを読んで時計を確認すると、もう深夜二時だった。

 今から寝てしまうと明日起きられない。もう明日の朝まで起きていよう。そう判断して、悠は亮太が寝る隣の部屋で漫画を読み始めた。



                   *



「ねえ悠……。ねぇえ。ねぇ!」

 次の日の朝、悠は亮太の声ではっと気付いた。いつの間にか床に横になって眠ってしまっていた。

「えっ! 今何時?!」

「八時くらい」

 予定の出発時刻をもう一時間以上過ぎている。


―― ええ寝ちゃった?! 私何やってんの?! いや、これは夢なんじゃ…ってそれやっぱり寝てるよ! 早く起きないと! 今起きれば本当はまだ六時かも……何考えてんだ私は。


 今は紛れもなく午前八時。悠のイライラ度、六十パーセント。

「んんんんん!!!」

 悠は唸り声を上げながら体を起こし、亮太をテーブルに座らせ、その前に食パンと牛乳を放るように置く。

「私もう行かなきゃいけないから!」

 そう言って昨日持って帰ってきたままのカバンをつかんで出て行こうとすると、亮太がそれを引き止めた。

「ねえ待って! 牛乳パックは?!」

「え? テーブルに出てるよ」

「違う! 図工で使うやつ!」

 そうだ。今日は図画工作の授業で牛乳パックを用意しなければならない。悠はあらかじめ亮太に言われていたのにもかかわらず、すっかり忘れてしまっていた。

「ごめん! ない!」

 そう言って悠が出て行こうとすると、また亮太が止めた。

「ねえ! これは?」

 亮太は今テーブルに置いてある、まだ中身の入っている牛乳パックを指さしている。

 悠は一旦カバンをテーブルに置くと、食器棚から一番大きなマグカップを取り出して牛乳を注いだ。あふれるほどいっぱいにしたが、まだ無くならない。パックの中を覗き込むと、少ないとは言えないが多いとも言えない、微妙な量が残っている。亮太の方に目をやると、じっと悠の方を見ている。

「今日、船作んの」

 悠はもう一度牛乳パックを覗き込んだ。やっぱり結構残っている。もう一度亮太の方を見ると、やっぱり悠の方を見ている。

「おれ海賊船にする」

「分かったよ!」と心の中で叫んで、悠は牛乳を一気飲みし始めた。そしてほぼ同時に後悔した。飲んでも飲んでもなくならない。思っていたより遥かに量が多い。

 太平洋みたいな量の牛乳を口に流し込みながらも何とか飲み干して、口周りを拭いながら牛乳パックをすすぎ、亮太の方に投げた。

「ありがと」

「ん」

 悠は牛乳太平洋一気飲みの副作用で吐きそうなほど気持ち悪くなり、昨日の学生を思い出した。あの下品で馬鹿な学生と同じ事をやっているみたいだ。悠のイライラ度、七十パーセント。

「おれもう行くね。翔聖と校庭で遊ぶ約束してるから」

 亮太はランドセルをしょって出ていった。

「いってらっしゃい。気を付けてね」

 悠は自分も出発しようと、カバンを持ち上げた。その時、カバンの持ち手がテーブルに引っ掛かった。牛乳がなみなみ入っていたマグカップが倒れ、テーブルの上には牛乳大西洋が、テーブルの端には牛乳ナイアガラができてしまった。ああこれは。実に壮大な、心を揺さぶる絶景。

「だあああもう!!」

 イライラ度、八十パーセント。大急ぎで拭こうと雑巾を引っ張り出してテーブルに駆け寄ると、テーブルの上に何か食器じゃない物が乗っている。


―― 牛乳パックじゃんか!


 それをつかんでドアをぶち開け、大声を上げた。

「りょうたああああっ!! 牛乳パック忘れんなああああ!!」

 道を渡っている亮太には聞こえないらしく、振り向きもしない。悠が届けに行こうとすると、七号室のドアが開いて山崎さんが出てきた。


「あんた! うるさいよ!」


 七号室の山崎さんは通路で誰かが物音をたてるとすぐに出てきて注意する。平日の昼間でも急に出てくる事があって、ある意味神出鬼没。

 何故か隣の家(悠の家)の「中」からうるさい音がしても注意にはやってこない。通路での物音のみにやたら厳しいのだ。


 無視してドアをガシャンと閉めて鍵をかけ、かかとを無理やり靴に押し込んだ。

「うるさいって言ってんのが聞こえないの?」

 実に攻撃的でとんがった声だ。悠のイライラ度、九十パーセント。

「すいません!」

 悠は大急ぎで亮太を追いかけて牛乳パックを手渡すと、自分も仕事に向かおうと走り出した。ところが、ふと近くの電信柱に目をやると、何かのカゴが置いてある。


―― あ! 今日ビンカン回収!!


 このところ連続で出すのを忘れていて、家にはかなりの量のビンカンがたまっている。詩織が悠の家に来てビールを飲むようになってから、カンの量が爆発的に増えてしまったからだ。次回こそは出さないと、と悠は心に決めていた。

 どうせ遅刻は決定だし、もう一度戻りなさい。

「んんんっ! あああもう!!!」

 悠は限界を迎えそうなイライラを必死に抑えながら、走ってまた部屋に戻った。台所の隅に置いてある、いっぱいになったビンカンの袋を持ち上げ、ドアを乱暴に「ドバン!」と開けると、袋を外に放った。

 耳を貫くような「ガチャガチャ!」という音を立てて袋が通路に転がり、それを追って悠が出て行こうとすると、また山崎さんが出てきた。

「あんた! うるさいよ! 何回言わせんの!」

 イライラ度、百二十パーセント! 次の瞬間、悠は思わず通路の手すりを思い切り蹴飛ばし、ものすごい剣幕で山崎さんを怒鳴りつけてしまった。

「『うるさいうるさい』ってうるっさいなぁっ!!!」

 山崎さんは全くひるまなかった。

「あんたがうるさいから言ってんでしょ! 言われるのが嫌なら静かにしなさい! ここはあんただけが住んでんじゃないの! 人の迷惑考えなさい! 朝っぱらからガチャガチャ大きい音たてて! あんた常識ないの?!」

 山崎さんのマシンガン攻撃に、悠のイライラ度は二百パーセントを超えた。だが、イライラしすぎて何だか逆に冷静になってきた。それに、そもそも明らかにこっちが悪い。何も言い返せないが、それでも謝るのは癪だ。

 まくしたてる山崎さんを無視して悠がドアに鍵をかけると、すぐに五号室から騒ぎを聞きつけた詩織が出てきた。

「悠、どうしたの?」

「ごめん、大丈夫」

 詩織は悠の顔を見て何となく状況を察し、通り過ぎる悠に何も聞かずに「いってらっしゃい」と後ろから声をかけた。山崎さんはまだ詩織の後ろからマシンガンを撃っていた。

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