ひとつの部屋
澤村在昌
ひとつの部屋
人は生きている内に何度未知・・の物に出会うだろうか。
この高度な情報化社会に生きている以上、真の未知と出会う機会は、もしかしたらもう無いのかもしれない。
そんな風に考えていた時期が俺にもあった。
だが、俺は今そんな過去の俺に声を大にして伝えたいことが一つある。それは、この世界は未知の物であふれていると言うことだ。
今、俺の目の前の足の低いテーブルの上にぽつんと置かれた何の変哲もない濃い緑色の箱のように━━━
♦♦♦♦♦♦♦
俺がその部屋に引っ越した理由についてだが、それは俺の個人情報なので伏せておく。
とにかく、俺はその夏どうしようもない事情から前に住んでいた場所から都心のワンルームマンションに越してきた。
期限ぎりぎりの新生活応援プランとやらで、家具が初めから付いてくるお得な物件を見つけた俺は、下見をすることなくそこに決めた。
俺には荷物と呼べるような持ち物がなかったので、着の身着のまま早速新居へとやってきたのだった。
最寄りの駅から徒歩十五分。賑やかな駅前の様子が分からなくなった、人通りのまばらな路地の突き当たりにそれは建っていた。
築数十年と言うことで、外装はくたびれているが俺は嫌いではなかった。
部屋自体は数年前にリフォームしたと言うことで、床はすべてフローリング、壁の白さもまだ眩しさを残している。
備え付けの家具も、それほど使い込まれてはいないようで、どれも真新しい。
俺は、たった一歩部屋に入っただけでそこが気に入った。
だが、ただ一つその部屋で気になる物を見つけた。
それは、今に置かれた足の低いテーブルの中央に置かれていた深緑色の不思議な箱だった。
♦♦♦♦♦♦♦
それは、硬式の野球ボールがやっと入るかどうかの小さな箱だった。
表面は動物の皮で出来ていて、部屋の蛍光灯を反射して不気味に光っている。
真新しい、小綺麗な部屋にそれだけ不自然に目立っていた。
備え付けの家具。と言うことでもないだろう。
前の住人の忘れ物か?と思い不動産屋に電話したが、この前来たときにはそんな箱は無かったという。
要らないなら捨てておいてかまわない。
不動産屋はそう言って電話を切った。
無責任だと思ったが、自分の好きにしていいのなら質屋にでも売りに行けばいいかと考え、俺はその箱を手に取った。
それは、予想より重い、だが持てないと言うほどでもない重さだった。
見かけと腕にかかる重力とのギャップに、俺はすぐにそれを机の上に戻した。
箱に蓋と呼べるような物はなく、一枚の革がつなぎ目無く繋がっている。
もっとその箱のことをよく調べるのが普通なのだろうが、生憎そのときの俺にはそんな余裕はなかった。
個人的な事情で、懐事情が最悪だった俺は箱への興味を早々になくしバイトを探した。
♦♦♦♦♦
部屋に越してきて二週間。なんとか生活が安定してきた頃、俺はまだあの箱が机の上に置きっぱなしになっているのに気が付いた。
俺はその時心底驚いた。
箱の存在に驚いたのではない。
箱の存在を忘れ、気付くことなく二週間も過ごしていたという事実に驚いたのだった。
それは、あまりにも目立ち、かつ奇妙だった。
それなのに、俺は気付かなかったのだ。
俺はその時していた作業を止め、机の前に正座した。
顔を箱に近づけ、初めてまじまじとそれを観察した。
見れば見るほど奇妙だが、何の変哲もないと言われれば頷いてしまうほど特徴がない箱でもあった。
心なしか、前に見たときよりも膨らんでいる気がする。
俺はゆっくりと手を伸ばして、それを持ち上げた。
ぐっと腕に力を入れると、それは何とか浮き上がった。
この前よりも重くなっている。
ハッキリとそう感じた俺はすぐにそれを机に戻した。その時の俺の心にあったのは得体の知れない未知の物へ対する恐怖だった。
何かが恐ろしいのではない。何か分からないことが恐ろしかった。
俺はその瞬間、すぐにそれを売ることを決意した。
別に、その時は二週間前ほど金銭的に余裕がなかったわけで無いのだが、一刻も早くそれを手放したかったのだ。
だからと言って、道端のゴミステーションに投げ入れるのも心に引っかかるものがある。
だから俺は、翌日早速それを売りに出かけた。
♦♦♦♦♦♦
なんだいそりゃ?そんなもん家では買い取れないよ。
俺が訪れた質屋の店主は目を細めてそう言った。
別にお金がほしいわけではない。とにかくこれを受け取ってほしいのだ。
と、頼み込んだが結局店主は首を縦に振らず、その箱は俺の手から放れることはなかった。
別の店を回るという手もあったのだろうが、なぜか俺はそれが無駄なことだと分かっていた。
これが、俺の手から放れることがない。買い手は誰も現れないというのが分かっていたのだ。
俺はそのまま、重みを増していく箱を持って部屋に戻った。
♦♦♦♦♦♦
部屋に戻って箱を見てみると、それは元の倍の大きさに膨れ上がっていた。
一目見ただけで危ないと感じた俺はそれを押し入れの奥にしまいこんだ。
これで、俺はその箱をみなくて済むようになった。
そこからの生活は、平穏そのものだった。
バイト先での人間関係も上々で、少しくらいなら贅沢をする余裕さえ生まれてきた。
裕福とはとても言えない生活ではあったが、それでも、ここへ来る前の生活とは雲泥の差がある。
……あれ、そういえば俺はここへ来る前どこにいて何をしていたんだっけ?
今が楽しいから、苦しかったときの記憶は曖昧になってしまっている。
だが、それでもいいと俺は思った。
人間は忘れる生き物だ、辛い記憶を何時までも背負い込んでいたら壊れてしまう。
といっても、その記憶が本当に辛いものだったのかどうかさえ、今の俺には思い出せなかった。
♦♦♦♦♦♦
半年が過ぎた。
俺は、恋をしていた。
相手は俺が一ヶ月前から通い出したスポーツジムのインストラクター。
いつも明るく笑顔が絶えない俺とは真反対の存在に、いつの間にか心を引きつけられていた。
この想いは伝えていない。完全な片思いだ。
それでも、誰かを愛せるということはそれだけで幸福な気持ちになった。
♦♦♦♦♦♦
五年が経った。
それは俺にとって最良の年になった。
かねてより、俺が恋していた彼女に昨日プロポーズをした。
彼女の返事はYesだ。
何があっても物怖じしない、何をされても怒らない懐の広さに引かれたと彼女は言ってくれた。
確かにここ数年、俺は怒っていない。
昔の俺はもっと怒りっぽかったはずだけど……。あれ、昔の俺ってどんな奴だったっけ。
♦♦♦♦♦♦
彼女と同棲を始めることになり、俺は五年間住んだこの家から出て行くことになった。
荷物を整理しなければならなかったので、俺は衣類をまとめるために押し入れを開けた。
その瞬間、はちきれんばかりに膨れ上がったあの箱が勢いよく飛び出してきた。
始めてみたときは拳大だった箱は、俺の身長と変わらないくらい大きくなっている。
それは、今にも弾けそうにガタガタと小刻みに揺れておる。
この押し入れは、毎日使っていたはずだ。それなのに、今まで気づかなかったのはなぜだ?それ以前に、どうしてこんなに大きくなっっている?
俺の頭はパニックだった。
明日には、彼女が引っ越しの手伝いにやってくる。
俺は急いでそれを捨てに行こうと決意し、箱を持ち上げようとした。
だが、出来なかった。
拳大の時ですらそれなりに重かったその箱は、今ではびくとも動かなくなってしまっていた。
こうなってしまっては仕方がない。俺は思い切ってこの箱を開けることに決めた。
台所から一番切れ味の鋭い包丁を持ってきて箱の上によじ登ると、それを箱に突き刺した。
予想に反し、それはすんなりと通った。
その瞬間、箱の切れ目から真っ黒な、ドロっとした空気とも液体でもない何かが溢れ出てきた。
それは、あっという間に俺の体を覆い心に進入してきた。
怒り、憎しみ、恨み、妬み、僻み、哀しみ、孤独、復讐心、絶望感、無力感、自己嫌悪、虚無感、劣等感、罪悪感、後悔……
ありとあらゆる負の怨念が心に流れ込み、心を支配し、そして心を焼き尽くした。
♢♢♢♢♢♢♢
殺したい。誰でもいいから殺したい。
この苛立ちを、この怒りを早く沈めたい。
殺したい、殺したい、殺したい、殺したい、殺したい、殺したい、殺したい、殺したい、殺したい、殺したい、殺したい、殺したい、殺したい、殺したい、殺したい、殺したい、殺したい、ころしたい、ころしたい、ころしたい、コロシタイ、コロシタイ、コロシタイ、コロシタイ、コロシタイ……
人を殺すこと以外、何も考えられなくなったとき、俺の目の前に一人の肉塊が現れた。
好都合だった。
俺は手に持っていた包丁でその肉塊の心臓をえぐった。
死に逝くなかで、その肉塊は俺の名を呼んだ気がしたが、俺は人を殺す以外のことに気を配る余裕がなかった。
街に出て、目に入る全ての肉塊の心臓をえぐった。返り血で服は真っ赤。
腐った鉄の匂いで、鼻は曲がりそうだったが、怒りを発散出来る喜びで俺の心は咽び泣いていた。
そう言えば、こんな気持ちになったことが前にも一回あったような……
♢♢♢♢♢♢
『新しい情報が入ってきました。
婚約者を含め、通行人三十五名を殺傷した今回の事件の犯人ですが、両親を殺害した罪で五年前まで服役していたことがわかりました。
その事件で容疑者は、精神に異常があるとして減刑されています。
その、精神の異常というのは、怒りや哀しみなどの負の感情のコントロールがうまくできず、ストレスをこまめに発散できないというものです。
そのため、容疑者は溜まりに溜まったストレスを爆発させ、今回の犯行に及んだものと思われます。
ただ、事件後自宅へ逃げ込んだ容疑者が、婚約者の隣で自ら首を切り自殺したため真相解明は困難を極めると考えられています。
ひとつの部屋 澤村在昌 @Sawamura03
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