第6話第六章 絶体絶命
飛音は伯父の雄一郎の家で目を覚ました。すでに外は明るくなって、セミが鳴いている。昨日は家に帰る気力も無く、雄一郎の家に泊めてもらったのだ。枕元に置いておいた羅刹斬を鞘から抜いて見るが、やはり光は無い。
雄一郎と一緒に、碓井の実家に行った。まず美代の置き手紙を回収した。置き手紙には鬼人講のことが書いてあって、警察には見られたくない。いま鬼人講の講主が警察に補導されると、講主を殺せなくなってしまう。美代が自殺したことも警察には伏せて、ただ失踪したということで、飛音と雄一郎は口裏を合わせた。
飛音はいま一度、美代の置き手紙を読み返した。ボクを鬼人講に行かせたくないばかりに、自殺するなんて。飛音は母親と祖母を失い、頼れるのは伯父の雄一郎だけになってしまった。
飛音は雄一郎の前だというのに、声を出して泣いた。慟哭だった。涙が汗のように流れた。感情を押し殺すことなく泣いて、ようやく飛音は落ち着いた。
雄一郎は飛音が泣き止むのを待ってくれていた。それから実家の固定電話から警察に電話した。話しているのは、祖母の美代が失踪したことと自殺をほのめかしたことだけで、母親の真美が鬼人講に連れ去られて殺されたことは一切話してない。
やがて警察が来た。雄一郎は警官からいろいろ聞かれていた。そのうちに飛音も呼ばれ、祖母のことを聞かれた。何を聞かれても、鬼人講のことを話すわけにはいかない。雄一郎が佐助のウスゴロの生まれ変わりである講主の修斗を殺すまで、警察に鬼人講のことを気づかれたくない。
「ところで、君のお母さんが連れ去られたことで、何か思い出したことはない? この家では立て続けに事件が起きているけど」
警官の問いに飛音は口ごもった。警官の顔に不審の色が浮んだのがわかり、飛音は内心あせった。鬼人講のことに感付かれるとまずい。その時、急に警官たちがざわつき始めた。
「係長、どうしてここへ?」
警官の言葉で、係長の肩書きを持った人が来たことがわかった。係長は真っ直ぐ飛音の前に来た。五十代半ばぐらいの、中肉中背の男だった。どこかで見たことある。一瞬そう思ったが、気のせいだろう。
「君が碓井飛音君か。君には色々と訊きたいことがあるんだが、今はそれどころではなくてね。小さな村の小さな警察では、人数が少なくて困る。弘前からでも応援に来てもらわないとね。後でニュースでも見なさい」
係長と呼ばれたその警官は、他の警官を連れて帰って行った。それにしても、なぜ伯父の雄一郎でなく、真っ先にこちらに来たのだろう。訊きたいことがあるとは何だろう。そういえば、ニュースを見ろと言っていたな。
飛音は雄一郎を呼んで、一緒にテレビのニュースを見た。ローカルニュースの時間だった。狭霧嶽村で獣に食べられたらしい死体が見つかったそうだ。見つかったのは、いずれも手首だけとか、ふくらはぎから下だけとか、食べ残しとみられる体の一部らしい。ニュースでは食べた動物はまだ特定できないとしているが、幽冥鬼に違いない。
幽冥鬼が鬼人講の敷地内から外に出たのだ。飛音は思わず羅刹斬を鞘から抜いた。やはり光は無い。これは持っていても役に立つのだろうか。そしてやはりボクが戦わなければいけないのだろうか。伯父さんが鬼人講に乗り込んで、講主の修斗を殺してしまえばいいのに。しかし鬼人講に乗り込むのが大変なことはわかる。
「飛音。幽冥鬼は夜行性だ。早く始末しないとまずい。今晩、一緒に村をパトロールしよう。鬼人講に乗り込むにはまだ準備が必要だし、作戦もたてないといけないから、まずは幽冥鬼退治を先にしよう」
やはりあの恐ろしい幽冥鬼と戦わなければならないのか。伯父の雄一郎に対して、飛音は嫌とも言えず、ただ頷くだけだった。母の死と引き換えに呼び出された幽冥鬼。退治したいのはやまやまだが、いくら碓井の家が鬼退治の家系だといっても、この羅刹斬で幽冥鬼と戦えるとは思えない。警察が退治してくれればいいのだが。
飛音が鬼人講でスマートフォンを取り上げられたことを聞いた雄一郎は、そのスマートフォンを解約して、新しいスマートフォンを契約してくれた。いざという時に、連絡手段が無いと困るからだ。
やがて夜になった。碓井の実家で雄一郎と夕食を済ませると、飛音は雄一郎に促されて一緒に夜の村に出た。徒歩だった。車でなく歩くのは、そのほうがじっくりとパトロールできるからだ。藪や林、森に山なども多い土地ゆえ、車では不便な場合もある。
街灯も少ない狭霧嶽村だから、雄一郎が手にライトを持ち、暗い道を二人でとぼとぼ歩いた。途中で警戒中の警官に、人喰いの獣が出没するかもしれないので不要不急の外出は避けるように注意された。本当は帰りたいのだが、雄一郎は帰ろうとしない。
蚊に刺されつつ、あてもなくあちこち歩き回って、やっと街灯のある場所に出た。ふと見ると、向こうをポニーテールの女の子が歩いている。こんな危険な時期に女ひとりで歩いて不用心だなと思ってよく見ると、星野楓だった。
雄一郎に声をかけるのも忘れて、気づいたときには飛音は楓のところに駆け寄っていた。もし幽冥鬼が出てきでもしたら大変なことになると、楓を心配したからだ。街灯の明かりに照らされた楓は、ピンクのTシャツにジーンズ姿だった。楓の手には小型のLEDライトが握られていた。
「星野さん。無事に鬼人講から逃げられたんだね。よかった。でも夜のひとり歩きは危険だよ。鬼人講の講主が鬼儺式で、幽冥鬼という鬼を呼び寄せたんだ。信者の人も喰われたよ。ボクの母さんは……。せっかく星野さんが協力してくれたのに」
「そう。お母さんは助けられなかったのね。なんて言ったらいいかわからないけど、気を落とさないでね。私は両親を連れて逃げることができたんだけど、その両親が行方不明なの。きっと私の居ない間に、鬼人講が連れ戻しに来たんだわ。それで鬼人講に探しに行こうと思って」
「ひとりで行くなんて無謀だし、夜は幽冥鬼が出没するから危険だ。ニュースを見ただろ。あれは幽冥鬼の仕業だよ。幽冥鬼が居る以上、夜の外出は命にかかわる」
「だったらなんで碓井君は、夜のひとり歩きをしているの?」
「ボクはいろいろ事情があって。もしかしたらボクは、幽冥鬼を殺せるかもしれない」
飛音は楓に良いところを見せたくて、つい幽冥鬼を殺せると言ってしまったが、果たして光を失った羅刹斬で幽冥鬼を殺せるか、疑問だった。
「碓井君が鬼を殺せるのなら安心ね。こうしてる間にも両親が鬼人講で何かされてないか心配なの。朝まで待てないわ。碓井君、どうか私を鬼人講まで送って。別に碓井君まで鬼人講に乗り込めとは言わないわ。私ひとりでどうにかする。だから、鬼が出るって言うのなら、鬼からは守って。お願い」
楓はそう言って小型のLEDライトを脇に挟むと、飛音の右手を自分の両手でぎゅっと握った。飛音は心を寄せている楓に手を握られて、心臓がドキドキと大きく鳴った。このままだと楓に鼓動を悟られてしまい、恥ずかしいと思って、飛音は慌てて楓から手を離した。本当は、ずっと楓に手を握られていたいのに。
楓に手を握られ、お願いされた以上、鬼人講まで行かないわけにはいかない。それにもし楓が幽冥鬼でも襲われたりしたら、何がなんでも助けないといけない。飛音は星野楓と並んで、夜の道を歩いた。楓と二人きりで歩けるだけで幸せだった。こんな時間がずっと続けばと、そう願った。
「月が綺麗だね」
「星も出ているわ」
夜空には本当に、月も星も明るく輝いていた。楓と夜空を眺めながら、並んで歩く、本当に夢のようだ。これで幽冥鬼も夢で、母も祖母も生きていれば最高だった。とにかく、楓だけは守らないといけない。飛音は、貴婦人を守る騎士のような気分になった。
夜の狭霧嶽村の道。やがて街灯も少ない道に出た。山間にある狭霧嶽村では坂道も多い。今は上り坂で、夜とはいえ夏なので、上り坂をのぼると汗が出る。鬼人講に行くとなると、坂道を歩くことになる。蚊も多い。
飛音は足が滑って転びそうになり、思わず左手をついた。なんだか地面がぬるぬるしている。街灯が遠くて、月明かりだけではよく見えないので、飛音は左手を目に近づけた。金気臭い。まさか血。楓が小型のLEDライトで照らしてくれた。やはり血だ。
グルル。道から外れた森の方から犬の唸り声のような声がした。目をやると、ぼうっと赤い光が見える。
「星野さん。気をつけて」と飛音が言うと同時に、森から何かが、木をめりめりと二、三本倒しながらやって来た。ほのかに赤く光る赤銅色の体、幽冥鬼だった。手に人の腕のようなものを持って、齧っている。グルル。
星野さんを守らないと。飛音は尻ポケットに無造作に突っ込んでおいた羅刹斬を手に取り、鞘から抜いた。左手に血が付いていて滑るので、シャツで左手をぬぐった。やはり羅刹斬に光は無い。楓が居なければ一目散に逃げるところだが、今の飛音には楓を守る使命がある。必ず楓を守る。
飛音は気合いを込めて羅刹斬を幽冥鬼に突き立てた。幽冥鬼は五メートルはある。だから急所を狙う事もできず、その毛むくじゃらの足に羅刹斬で斬りつけたのだが、羅刹斬は簡単に弾かれてしまった。なんどやっても幽冥鬼の体は鋼のように硬く、羅刹斬が通用しない。
やはり光を失った羅刹斬など、幽冥鬼の前では何の役にも立たないのだ。偉そうに楓の前では見得をきったくせに、飛鬼は自分の無力さに落胆した。星野さんを逃さないと。
「星野さん。逃げよう」
楓は幽冥鬼を見て、顔面蒼白だった。おそらく自分もそうだろう。飛音は楓の手を固く握り締めると、駆け出した。後ろは見ない。だが幽冥鬼は犬のように速かった。飛音は後ろから幽冥鬼に体を掴まれた。飛音は楓の手を放した。
「星野さん、いまのうちに逃げて。出来るだけ遠くに」
飛音は絶叫した。そして役に立たないとわかりながら、羅刹斬を幽冥鬼の手に何度も突き立てた。喰われる。そう思った瞬間、飛音は気が遠くなった。雄一郎が居てくれたら。単独行動をせず、雄一郎に声をかけて一緒に来てもらうべきだった。
前を見ると、なんと楓は立ち尽くしている。茫然自失の表情で飛音を見ている。このままでは二人とも喰われる。
「星野さん、逃げるんだ」
飛音が叫んだとたん、幽冥鬼は飛音をぎゅっと握った。あまりの握力に飛音は瞬間的に気を失った。飛音が気づいた時には幽冥鬼は飛音を放り投げていた。飛音は地面に叩きつけられた。体を強く打った。
楓の悲鳴が聞こえた。見ると楓は、幽冥鬼の鋭い爪で切り裂かれていた。野生動物は満腹になると、それ以上は食べないと言う。幽冥鬼も先ほど人を食べて満腹だったのだろうか。楓を食べようとはせず、ただ残忍に楓を切り裂いただけで歩き去った。
「星野さん」
飛音は体の打撲も気にせず、楓に走り寄った。楓は幽冥鬼の爪で切り裂かれ、血まみれだった。楓は虫の息で、両親を頼みますと言い、そのまま目を閉じた。もう息をしていない。死んだ。好きだった女性が、自分の無力のせいで殺された。
飛音はぽたぽたと涙をこぼした。その涙が手に持ったままの羅刹斬の上に落ちた。飛音は、ハッとなった。涙の力で羅刹斬が光ったのだ。これで幽冥鬼を殺せる。星野さんの仇討ちができる。飛音は涙でぼやける目で、もう一度羅刹斬を見た。
だがよく見ると、羅刹斬は光ってなどいなかった。月の光を反射していただけだ。涙の力によって羅刹斬が光るのではないかという思い込みで、羅刹斬が光ったように見えたのだった。飛音はさらにもう一度、じっくりと羅刹斬を眺めた。しかし期待に反して、羅刹斬は光らない。光ってくれ。そう願ったが、羅刹斬は何も反応しない。
それでも飛音は羅刹斬を持って、前を歩く幽冥鬼を走って追いかけた。絶対許さない。幽冥鬼を許さない。飛音は叫び声を上げながら後ろから幽冥鬼の足を羅刹斬で斬った。だがやはり、羅刹斬では幽冥鬼に歯がたたない。どこまで役立たずな短刀なんだ。
幽冥鬼は立ち止まった。そして天に向かって叫んだ。聞いたことの無いような大声だった。幽冥鬼は何度も天に向かって叫んでいる。すると雷鳴が轟き稲光がして風が吹いた。やがて天が裂けた。そこには夜よりも暗い漆黒の無の闇が広がっている。飛音は前にもこの闇を見ている。幽冥鬼が出てくる闇だ。やがて天の裂け目の闇から、新たな幽冥鬼が這い出してきた。
仲間を呼んだ。幽冥鬼は仲間を呼べるんだ。一匹でも勝てない幽冥鬼が二匹になったら、かなうわけがない。しかも新しい幽冥鬼は空腹だろう。今度こそ喰われる。飛音の体を恐怖が支配した。もう楓の仇討ちは頭から消し飛んだ。飛音は森の中に飛び込んだ。道路を逃げるより身を隠せるし、木が邪魔になって、幽冥鬼の巨体では走れないはずだ。
急に水蒸気が漂い始めた。霧だ。狭霧嶽村では霧が多い。あっという間に霧が立ち込めた。風が霧を飛音の顔に吹き付けてくる。風ぐらいで晴れる霧ではない。もしかしたら、霧が幽冥鬼から飛音の体を隠してくれるかもしれない。背後で木の倒れる音がした。幽冥鬼が追いかけてくる。出来るだけ遠くに逃げないと。
飛音は霧で視界の悪い中、森の中を山に向かって走った。山に猟師が使う無人の山小屋があるのを思い出したからだ。村に逃げるより山小屋の方が近いし、上手く身を隠せるかもしれない。風が、霧を切り裂くように吹いてくる。
やがて山小屋に着いた。無人なので鍵はかかってない。急いで中に入った。誰も居ないようだ。玄関の戸を開けてすぐに広い部屋があり、その奥にもう一部屋、そして奥の部屋の右に戸があり、戸を開けて月明かりで確認するとそこは台所だった。
飛音は奥の方の部屋に身を隠した。電灯は点けない。心臓がどきどき鳴っている。汗もだらだら流れて、床にぽたぽた落ちた。しばらく様子を伺ったが、幽冥鬼の気配は無い。うまく逃げられたようだ。だが朝までここに居たほうがいい。
飛音は一息ついた。その途端、大きな音がして、飛音の前の壁に穴が開いた。埃が舞い、前が見えない。めりめりと壁を引き裂く音がして、山小屋が軋む。埃がおさまると、目の前に赤く光った幽冥鬼の顔があった。一匹だけだ。風が入って来る。
見つかった。早く外に逃げないと殺される。飛音は慌てて、玄関に通じる部屋の戸を開けた。飛音が玄関に向かって走ろうとした途端、玄関の戸が開いた。月明かりが差し込む。なんとそこには、あのカラス女が立っていた。カラス女は戸の近くにある電灯のスイッチを押し、部屋を明るくすると飛音に向けて猟銃を構え、ニヤリと笑った。
カラス女は鬼人講でも飛音に猟銃を向け、脅してきた女だ。ボクを殺しに来たのかもしれない。前には猟銃のカラス女。後ろからは幽冥鬼。あとは台所しか逃げ込むところがない。幸い幽冥鬼はまだ外にいる。
飛音は部屋の戸を閉めると、走って台所の戸を開けた。なんとそこは、火の海だった。火事だ。こんな時に限って、台所から火が出ている。さっき見たときは火の気なんてなかったのに、なぜ。早く逃げないと焼け死ぬ。だが玄関に行くとカラス女に猟銃で撃たれるし、幽冥鬼は今にも山小屋に入ろうとしている。
幽冥鬼に喰われるか、カラス女に猟銃で撃たれるか、このまま居ても火事で焼け死ぬ。いずれにしても死ぬ。まさに絶体絶命だった。
火事の煙が部屋に充満してきた。飛音は咳き込んだ。息が苦しい。火事の煙は幽冥鬼が開けた壁の穴から風が吹いてくるせいで、部屋に向かって戻ってくる。気が動転して台所の戸を閉め忘れたせいで、飛音の居る部屋は一気に煙で満たされた。息が出来ない。飛音は気が遠くなった。
このまま倒れたら、幽冥鬼に喰われるか、カラス女に猟銃で撃たれるか、火事で焼け死ぬかだが、もう動けない。飛音は朦朧とする意識の中、ついに幽冥鬼が壁を壊し山小屋に入ってくるのを見た。
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