第5話第五章 脱出
飛音は鬼人講の裏庭にいた。いかつい体の男に後ろから羽交い絞めにされ、身動きがとれないうえに、別の男に首元にナイフを突きつけられている。皮肉にもそのナイフは、飛音がいざという時のために、護身用に持ってきたナイフだった。
目の前にベッドがあり、飛音の母親の真美が裸にされ、両手両足をベッドに縛られている。
そしてベッドの横には、大きな剣を持った男がいる。その向こうに講主とその母親だろう、飛音と同い年ぐらいの子供と、母と同い年ぐらいの女が、金の飾りの付いた紫色の法衣のようなものを着て座っている。
母親の真美は、ベッドに縛りつけられている手足を激しく動かして、なんとかロープをゆるめようとしているようだが、ロープは固く縛られているようだ。真美は目隠しをされているが、猿轡は無い。「飛音、飛音、あなたは逃げて」今から生け贄にされようとしているのに、その口からは自分の命乞いではなく、飛音を心配する言葉がひっきりなしに発せられている。飛音は、母の愛に感動した。この母親をどうしても助けたい。
ベッドの周りには、大勢の信者らしき人が、法衣のようなものを着て集まり座っている。法衣の色は濃紺だ。ベッドの近くにはかがり火がいくつも焚かれ、夏の夜空を焦がしている。
かがり火の熱気が熱い。夜とはいえ季節は夏。そこに持ってきての複数のかがり火。飛音は汗をかいた。そういえば、カラス女らしき人はいなくなっている。
なんとかして母親を助けたいが、羽交い絞めにされているし、動くと首をナイフで刺されそうだ。こいつら狂信的信者なら、ためらわず刺すだろう。カラス女の猟銃さえなければ、なんとかなるんじゃないか。そうは思うものの、体が動かせない。
「アチメオーオーオー。天鬼、空鬼、地鬼、霊鬼、百鬼。鏡と剣と勾玉が集い、天空より冥帝鬼の現れて、この世のすべてを従えしとき。まず幽冥鬼が出現して、地をならし……」
祝詞のようなものを講主の母親らしき人が唱え出した。鬼儺式が始まってしまったのだ。
早く母親を助けないと。祝詞はしばらく続いた。でも飛音は羽交い絞めにされているので、もがくことしかできない。
飛音の耳には祝詞はほとんど聞こえなかった。それどころではないからだ。祝詞が終わり、講主らしき子供が右手を挙げるや否や、大きな剣を持った男がなんの躊躇いもなく、剣を真美の胸に刺した。
真美の断末魔の叫びと共に、真美の胸から血が噴き出した。真美の血は飛音の近くまで飛んできたが、剣を持った男は血を気にする様子もなく、真美の胸から心臓らしきものをえぐり出し、頭上高く掲げた。あまりにもあっけない母の最期だった。
母親を助けられなかった。十六年も自分を育ててくれた人が、目の前で無残に死んだ。飛音は涙すら出ず、ただ息を飲み込んだだけだった。飛音は息を飲み込んだまま吐くことを忘れ、胸が苦しくなった。顔から血の気が引き、目の前が暗くなる。絶望が襲って来た。そして後悔。もっと早く、もっと上手く母親を逃していれば。飛音は腹の底から、鬼人講に対する怒りが湧いた。ちくしょう。カラス女が猟銃なんか持っているからだ。
「幽冥鬼よ、いでよ」
講主らしき子供が天に向かって叫んだ。すると、綺麗な満月だった夜空がかき曇り、風が吹き出した。空がピカッと光ると同時に、雷鳴が轟いた。鬼人講の信者たちがざわつく。見ると空が割れていた。
空が割れて、虚空の闇が広がっている。夜なので分かりにくいが、夜空よりも暗く、無の世界が広がっているのがわかった。そして、その虚空から鬼が姿を現した。空の割れ目を押し拡げるようにして、鬼が地上に落ちて来た。
鬼が地面に降りると、地震のように地が揺れた。そして砂ぼこり。砂ぼこりは風に吹かれて飛音のところまで漂って来て、鬼の出現に思わず口を開けた飛音の口の中に入った。飛音が慌てて口を閉じると、ジャリッと口の中で音がした。
鬼の身長は五メートルほどだろうか。頭には確かに二本の角があり、まさしく鬼だ。目はぎょろりと大きく人間の大人の手のひらぐらいで、血走って赤く見える。鼻は高く尖っていて大きい。口は耳まで裂け、巨大な牙が見えている。髪の毛は赤く長く縮れて、振り乱している。体の色は赤銅色で全身がうっすらと赤く光っている。まるで、体が炎に包まれているようだ。上半身は筋骨隆々。指は太く、指先には鈎のような爪があった。下半身は獣のような毛でびっしりと覆われている。足先はまるで鷲のような爪があった。これが幽冥鬼か。
風がさらに激しく吹き出した。幽冥鬼の髪の毛が風でなびく。幽冥鬼はわけのわからない声で、吠えた。
鬼人講の信者の何人かが、歓声をあげて幽冥鬼に近づいた。その瞬間、幽冥鬼が信者の一人をわし掴みにすると、信者を頭から飲み込み、一気に上半身を齧った。辺りに血が飛び散った。金気臭い血のにおいが漂う。
幽冥鬼は、残った下半身を飲み込むと、近くであっけにとられている別の信者を掴み、またしても頭から噛みついた。それを見た信者たちは、一斉に逃げ出した。逃げ遅れた信者が、さらに幽冥鬼に喰われる。講主母子らしき二人はこれを知っていたのか、すでに姿は無い。
風はますます強く吹き、かがり火が風で倒れた。
「鬼は我々の味方ではないのか。鬼人講の神ではなかったのか」
口々に叫びながら、蜘蛛の子を散らすように信者たちは逃げる。飛音を羽交い絞めにしていたいかつい体の男も飛音を放して逃げ、飛音にナイフを突きつけていた男も一目散に逃げた。飛音は自由になった。雷鳴が轟く。
幽冥鬼は叫びながら、鬼人講の裏庭を囲っていた二メートルぐらいの高さのブロック塀を一撃で崩した。恐ろしい腕力だ。ブロック塀の近くにプレハブ小屋があるが、幽冥鬼はそれは壊さず、鬼人講の建物の方に歩いた。信者たちは鬼人講の建物に逃げ込もうと、入り口に殺到しているので、一度には入れず、最後尾にいる信者が、幽冥鬼に捕まった。
幽冥鬼に捕まった信者の叫びを聞きながら、飛音は冷静に、建物ではなく、幽冥鬼が壊したブロック塀の、崩れているところから外に出た。まさか、あんな鬼が本当に実在するとは。
ブロック塀の外は、森になっていた。飛音は森に入った。かがり火の明かりも届かず、満月も隠れたので、辺りは漆黒の闇だ。相変わらず風は強い。
幽冥鬼はしばらくは信者の殺到している場所に居るだろう。こちらには来ないはずだ。飛音は暗闇に目がなれるまで、少し待った。幽冥鬼はこちらには来ないと思いつつも、もしこちらに来たら命は無いので、耳を澄まして気配を伺った。遠くから悲鳴が聞こえる。
暗闇に目がなれてきた飛音は、少しずつ歩き始めた。幽冥鬼から離れたほうがいい。それでいて、なんとかして伯父の雄一郎と合流しなければ。母親の死と、幽冥鬼による惨劇。それらがフラッシュバックして脳裏に浮ぶ。飛音の目からは、やっと涙がこぼれた。
どこをどう歩いたか記憶が無いが、飛音は伯父の雄一郎の車の前に来ていた。暗闇の森をさんざん歩き、鬼人講の建物に近づかないように迂回したのだけは覚えている。しかし細かい記憶は無い。いつの間にか月が出ていた。風は、もう無い。
やはり母親のことが無念で、頭が混乱している。飛音は雄一郎の車の窓をドンドンと叩いたきり、ドアも開けずにその場に崩れ落ちた。気づくと雄一郎が傍らに立っていて、飛音の肩に手を置いていた。力を込めず、そっと飛音の肩を撫でると、優しい声で「残念だったな」そう言った。飛音の姿を見て、すべてを理解してくれたのだろう。
「飛音。今から俺の家に来てくれ。渡したいものがある」
雄一郎もショックを受けているはずだが、冷静のようだ。飛音は起き上がれず、母親の真美の最期の姿ばかりが頭に浮ぶ。鬼人講の連中なんて、みんな幽冥鬼に食べられてしまえばいい。そう思った。なにもできなかった自分が、ものすごくちっぽけな存在に感じられて、消えてしまいたい。
雄一郎は、そんな無気力になった飛音を立たせてくれ、車に乗せて、シートベルトまでしてくれた。飛音はやっと正気を取り戻してきた。水が飲みたい。飛音は雄一郎からミネラルウォーターのペットボトルをもらい、一気に飲み干した。さっきまでは、喉が渇いていたことにさえ気づかなかったのだ。
雄一郎は静かに車を走らせた。飛音も雄一郎も無言だった。母親のことばかり考えていたが、伯父さんも車で待っていて、さぞ心配していただろう。それに星野さんは、親を連れて上手く逃げられただろうか。鬼人講の連中に捕まってないといいが。もし幽冥鬼にでも喰われたりしたら。それだけは想像したくない。
車内での沈黙が続いたまま、いつしか車は雄一郎の家の前に来ていた。雄一郎は黙って車を降りると、家の戸を開けた。飛音も何もしゃべらず、車を降りて雄一郎の家に入った。うつむいた飛音の目から、ぽつんと涙が落ちた。
「飛音、これを受け取ってほしい。頼む、受け取ってくれ」
雄一郎は、なにやら文字の書かれた縦長の桐の箱を差し出した。飛音が受け取って蓋を開けると、中には朱塗りの鞘の短刀が収まっていた。柄の部分は布で覆われて、金の糸で刺繍がしてある。鞘の上の方には握る時の滑り止めだろう、綺麗な紐がぐるぐると巻き付けてあった。飛音が短刀を抜いてみると、銀色の刃が鈍く蛍光灯を反射して光っていた。
「これは、なに?」
「碓井の家に代々伝わる守り刀だ。守り刀と言っても葬式用のではなく、まさに碓井の家を守ってくれる、神様から授けられた神剣だ。碓井家の先祖の碓井貞光様が、都からこの地にお下りになられたとき、夢で菊理媛神から授けられ、起きてみると光り輝くこの短刀が枕元にあったとのこと。貞光様は祠を作ってこの守り刀を奉納し、この地に終の棲家を構えられた。それが碓井の家だ。貞光様は都に居るとき、鬼退治を朝廷より命じられていた。そして晩年になって次の世代の育成のため、鬼退治の素質のある者を探して諸国をさすらった。ちなみに、この守り刀を奉納してあった祠は、奥忍神社(おうにんじんじゃ)を造るときに取り壊され、この守り刀は碓井の家で保管することになった。その時分には、短刀は光を失っていたという。奥忍神社が菊理媛神を祀っているのは、この守り刀を奉納していた祠の跡に建てたからなんだよ。この守り刀は、この地で唯一、鬼を殺せる刀なんだ。名を羅刹斬(らせつぎり)と言う。この守り刀は、もともとは白く光り輝いていたそうだ。この守り刀に白い光が戻るとき、羅刹さえ斬り殺せると伝えられている。飛音よ、この守り刀で幽冥鬼と戦ってくれ」
飛音は羅刹斬をじっと見ていた。刃渡り六寸、柄の部分を入れてちょうど一尺あるそうだ。一尺ということは約三十センチで短刀としては長い方かもしれないが、あの恐ろしい幽冥鬼と戦うには短すぎる。こんな短い短刀で戦うだって。伯父さんは幽冥鬼を見ていないから、簡単にそんなことが言えるんだ。
「ボクは嫌だよ。そんな危険なこと。伯父さんが戦えばいいだろ。なんでボクに押し付けるんだ」
「この羅刹斬は、鬼を見たことのある十八に満たぬ童に授けよと伝えられている。その可能性があったから、お前に急所を教えてたんだ。俺は十八までに鬼を見ていない。羅刹斬は碓井の家の守り刀として、代々碓井の家の男子が継承してきた。俺も親父が死んだ時に継承した。今度はお前が継承する番だ。お前は鬼を見たんだろ。碓井の家の血をひいている以上、飛音、お前はこの羅刹斬を使いこなせるはずだ。お前にも鬼退治を生業としていた碓井貞光様の血が流れている。幽冥鬼と戦えるのは、お前だけなんだ。頼む飛音。羅刹斬を受け取ってくれ」
「だけど伯父さん、この短刀、さっきから握っているけど、ぜんぜん光らないよ。ただの言い伝えじゃないの。ボクには無理だよ」
「飛音。自分の母親を殺されて悔しくないのか。怒りは湧いてこないのか。それでも男か。真美が殺されたのも、幽冥鬼が原因だろ。どうして幽冥鬼に復讐してやろうという気力がないんだ」
雄一郎は、力を込めた大きな声で言った。
「飛音よ。俺は悔しいよ。俺が戦えるなら、俺が幽冥鬼と戦ってるよ。でも俺じゃだめなんだ。だから飛音に頼んでいるんだ。俺だって、好きで飛音に危険な役を押し付けてるわけじゃないんだ。俺もサポートするから、どうか戦ってくれ。お前にナイフで人間の急所を刺す練習をさせていたのは、この時のためなんだ。鬼の急所が人間の急所と同じか、俺にもわからない。だけど何も教えないよりはマシだと思って、教えてたんだ。幽冥鬼はやがて村の人を襲うだろう。その前に始末するんだ。飛音、母親だけでなく、村人まで犠牲になってしまってもいいのか。お前を可愛がってくれた近所の人が、殺されるかもしれないんだぞ」
飛音は伯父の雄一郎に早口でまくしたてられ、断れなくなった。とりあえず羅刹斬は預かっておこう。でも五メートルはあろうかというあの幽冥鬼と、こんな短刀で戦えるとは思えない。
「飛音。明日、警察にお祖母ちゃんの捜索願いを出すよ。早く遺体を見つけてもらって、葬式を出さないとな。だけど鬼人講が真美を殺したことは言えない。なぜなら講主の修斗が補導されてしまったら、修斗を殺せなくなる。ウスゴロの生まれ変わりの修斗がいる限り、幽冥鬼は召喚され続けるだろう。そしてやがて冥帝鬼が召喚される。そうなったら、もうお終いだ。修斗は俺の子供だ。俺が殺す。飛音に人殺しはさせない。だけど鬼人講に一人で乗り込むのは無謀だ。なんとか作戦を考える。要は修斗ひとりを殺せば済む話だから、なるべく信者は殺さないようにしたい。とにかく俺が修斗を殺して、幽冥鬼が召喚されなくなるまで、飛音は幽冥鬼と戦ってくれ。村人を守ってくれ」
幽冥鬼と戦わなくても、伯父さんが佐助のウスゴロの生まれ変わりの講主を殺してくれれば、幽冥鬼は消えてくれるだろうか。そうすれば助かる。しかし鬼人講に潜入するのは大変だ。星野さんみたいに、協力してくれる人がいればいいのだが。
とにかく今日は疲れた。寝よう。飛音は寝床で目を閉じたが、疲れているはずなのに、なかなか眠れない。目覚まし時計の秒針の音が、やけに大きく聞こえる。大人だったら酒でも飲んで眠るところだが、未成年なのでそれはできない。それでも、目を閉じているうちに、やがて眠ったようだ。
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