第2話 第二章 意外な訪問者
第二章 意外な訪問者
高柳優香の前に、一人の子供が立っている。裸だ。暗い目をしていた。でも満足気な顔に見えた。ああ、これは夢なのだな。優香は、気づいた。
「おっ母」子供が呼びかけてきた。
「あなたは誰?」
「俺らぁ、佐助だ。あんたのお腹に宿ったんだ。だからあんたは、俺らぁのおっ母だ」
これが雄一郎の言っていた、この世に災厄をもたらすウスゴロか。
「なぜ、わたしの夢に現れたの?」
「あんたに頼みたい。俺らぁは、あんた達に殺された。その日からずっとずっと、もう一度生まれる日を夢見てた。人間みんなに復讐するためだ。あんたが何も知らずに俺らぁを産んでくれるなら、それでよかった。だが、あんたは知ってしまった。俺らぁがウスゴロだと知っている。俺らぁが力を使えるようになるためには、ある程度成長しなきゃなんねぇ。それまで無事に育ててほしいんだ。仲間になってほしいんだ。前世での行いを悔いる気持ちが少しでもあるなら、俺らぁの味方になってくれ」
この子が生まれてきても、赤ん坊のうちに殺してしまえば、人間は救われるのかもしれない。だけどわたしは、産みたい。前世で多くの命を奪ってしまった。その償いをしたい。血の臭いがした。わたしの体には、ウスゴロ達の血が染み付いている。洗っても洗っても、落ちない血だ。このウスゴロ達の血の臭いが、わたしの理性を狂わせる。人間に復讐したい気持ちが、わたしの心の中に充満する。もうわたしは、人間の側に立てない。ウスゴロの味方にしかなれない。たとえ佐助の生まれ変わりの我が子に、自分が殺されるとも構わない。そういう気持ちになる。
わたしは血の償いをしたい。そうしないと、わたしの体に染み付いているウスゴロ達の血は、何度生まれ変わっても、わたしに付いてまわるだろう。佐助の生まれ変わりを産み、育てる。それがわたしの使命に違いない。優香は、そう確信した。
高柳優香が病室で目覚めると、碓井の母がいた。優香は一瞬、言葉を失い、次いで驚愕した。一体どうして、ここがわかったのか。優香は先ほど自分の母親に立ち会ってもらって、男の赤ん坊を出産したばかりなのだ。それで疲労困憊し、少し睡眠をとっていたところだ。
そういえば、雄一郎はわたしの実家の住所を調査会社に調べさせたと手紙に書いていた。実家の住所を知っているなら、その気になれば、わたしの入院している病院も調べられるだろう。実家のある白山市の産婦人科を、片っ端から調べればいいだけだ。
碓井の母というのは、優香が産んだ赤ん坊の父親である碓井雄一郎の母親で、名前を碓井美代という。五十代の、小柄だがふっくらした体つきの優しい顔の女性で、雄一郎と真美の母親であり、優香とは親しい仲だ。だが優香は、その美代の娘である真美に、殺されかけていた。だから、碓井の家の人間とは、一線を画すつもりだった。それなのに、遠く青森の狭霧嶽村にいるはずの碓井美代が目の前にいる。
碓井の母が話しかけてきたので、優香はようやく事態が飲み込めた。碓井の母はどうやら娘の真美の傷害事件を、優香が警察に訴えないか、それを心配しているらしい。それではるばるやって来て、たまたま優香の出産の日に立ち会ったのだ。碓井の母は何度も何度も、碓井の家であった雄一郎による暴行や、真美による傷害(殺人未遂)を謝してきた。そして、どうか事件にしないでくれと、くどいぐらいに頼んできた。
「オレはそのために、わざわざ狭霧嶽村から来たんだ。優香さんの面倒は見させてもらう。雑用でもなんでもやる。だからオレに免じて雄一郎も真美も許してやってけれ」
碓井の母は深々と頭を下げた。「オレ」と言う言葉は、東北では女性も使う。碓井の母は東北訛りの言葉で、何度も何度も雄一郎と真美の罪を謝った。
優香はもともと、雄一郎も真美も恨んでないし、事件として警察に訴える気はなかった。それより、今は少し休みたい。碓井の母にも、出て行ってもらいたかった。病院の消毒液臭い匂いが鼻につく。
ちなみに優香の母親は、優香の出産に立ち会った後、すぐに仕事に行った。冷たい態度のようでも、高柳の家は貧乏で、両親が必死に働いて、やっと生活できている状態だから、むしろ仕事に行ってくれたことに感謝したいぐらいだ。
碓井の母はその後も、仕事のためになかなか見舞いに来られない優香の両親の代わりに、ずっと優香の世話を焼いてくれた。こんなに長く狭霧嶽村の家を留守にしていていいのか、というぐらい優香につきっきりで面倒を見てくれた。宿泊はどうしているのだろうかと、心配になる。
碓井の母はほとんど毎日、優香の面倒を見るため病院に来てくれている。そういえば、碓井の母の娘の真美も、同じような時期に出産の予定のはずだったが。そのことを碓井の母に伝えると、碓井の母は少し動揺したが、やがて落ち着きを取り戻し、ぽつりぽつりと話し始めた。
真美の出産は優香の出産の少し前に無事に済み、その赤ちゃんの顔を見ていると、万が一にも真美が警察に逮捕されて母子が離れ離れになるようなことになると困ると心配になって、居ても立ってもいられず、それで優香のもとに馳せ参じたらしい。そして何度も何度も、事件にしないでほしい、真美を許してほしい、真美と赤ちゃんを引き離さないでほしいと訴えるのだ。優香は、少しうんざりした。
優香はくどいくらい雄一郎も真美も恨んではいない、事件にする気はないと伝えているのに、碓井の母は娘の心配をいつまでもしているのだ。毎日のようにわたしの見舞いに来るなんて、なにもそこまでして、わたしの機嫌をとらなくてもいいのに。
優香は、産後の肥立ちが悪かったが、ときどき見舞いに来てくれる両親と、毎日来る碓井美代と、そして看護師さんたちのおかげで日に日に回復してきた。赤ん坊はまだ新生児室にいるが、優香はそろそろベッドから立ち上がれるようになったので、新生児室に赤ん坊を見に行くことにした。まだ体調は本調子ではないから、看護師さんに付き添われて、そろりそろりと病院の通路を歩き、時間をかけて新生児室まで行った。病室も新生児室も、同じ二階にある。
新生児室は壁がガラスになっていて、廊下から赤ん坊が見えるようになっている。すぐにも新生児室の中に入って、我が子を抱き抱えたかったが、まだ優香は体調が万全ではないので、うっかり赤ん坊を落としたりしたら大変だと、看護師さんに釘を刺されている。
赤ん坊がまだ新生児室から優香の病室に移されていないのも、看護師さんの居ないときに優香が赤ん坊を抱こうとして、うっかり赤ん坊を落とすことを心配してのことだった。
慌てなくとも、優香の体調がもっと回復すれば、赤ん坊は優香と同じ病室に寝かされることになるのだ。そう思い、優香は新生児室には入らず、ガラス越しに我が子の寝顔を見て、また病室に戻ることにした。やはり長時間立っていると、まだ体が辛い。今は一刻も早く体調を治すことだ。
優香が病室に戻るために、看護師さんに支えられながら、ゆっくりした歩調で廊下を歩いていると、前方の奥の階段を女が下りていく。見覚えのある後ろ姿だ。もしや真美。そう思えた。もともと親友だったし、後ろ姿でも見ればわかる。体型も髪型も雰囲気も、大橋真美そのものだった。だが、真美がこの白山市の病院に居るのは不自然だ。真美も出産したばかりなのだ。
真美が出産するとすれば、嫁ぎ先の東京か、実家のある狭霧嶽村で出産するのが普通だろう。考えられるとすれば、赤ん坊を置いて、母親の碓井美代に付き添って白山市に来たということぐらいだろう。しかし、産んだばかりの赤ん坊を放っておいて、そこまでして母親に付き添う必要があるだろうか。もしや、まだわたしを狙っているのだろうか。
その時、窓の外が光った。間髪をいれず雷鳴が轟いた。そう言えば、ずっと病室に居るので、このところ天気予報をチェックしてない。続けざまにかみなりが鳴り、窓の外にはいつの間にかに黒雲がたなびき、夜のような暗さだ。まるで雄一郎からの手紙によって、わたしの子供が佐助のウスゴロの生まれ変わりだと知らされた日を思い出す天気だ。
耳をつんざく雷鳴が轟き、その直後にあきらかに雷鳴とは違う轟音がした。優香が窓に顔を近づけてよく見ると、なんと大量の雹が降っているではないか。いまは四月だ。いくら北陸とはいえ、春にこれだけ雹が降るとは珍しい。道路には瞬く間に、まるで冬場の雪ででもあるかのように、雹が積もっていく。
やがて風が強く吹き、病院の窓に雹が叩きつけられる。今にも窓ガラスが割れそうだ。天は知っているのかもしれない。この病院で佐助のウスゴロの生まれ変わりが誕生したことを。
しかもそれは、この世に災厄をもたらす最凶のウスゴロの生まれ変わりだということを。優香には轟く雷鳴と、降りそそぐ雹の騒音と、吹き荒ぶ風の音が、まるでファンファーレのように聞こえた。
その天によるファンファーレをかき消すように、病院の非常ベルが鳴り響いた。続いて院内放送が流れた。
「ただいま三階のリネン室から出火しました。看護師の誘導に従い、落ち着いて避難して下さい。すぐに消防車が到着しますので、荷物を持たずに避難して下さい」
大変。赤ん坊を連れて来ないと。だが今の優香は走れる体調ではない。焦る。優香は付き添いの看護師さんに、わたしの赤ん坊を連れて来てと叫ぼうとした。その瞬間、後ろで声がした。
「優香さん、赤ちゃんを連れて来たよ」
見ると、碓井美代が赤ん坊を抱いて走ってきた。息を切らしている。大汗だ。碓井の母にとっては、赤ん坊は大切な孫だ。息子の雄一郎の子供だ。それで慌てて、新生児室にいた赤ん坊を優香のところまで連れて来たのだろう。
優香は赤ん坊を碓井の母の手からひったくろうとして、看護師さんに止められた。いまの優香の体調では、赤ん坊は碓井の母が連れて一緒に逃げてもらった方が早く避難できていいとのことだ。一理ある。我が子を抱きたいのは母心だが、逃げるのが先だ。
出火は三階。ここは二階。焦げ臭いにおいはしているが、煙は二階までは来ていない。冷静に逃げれば大丈夫だ。階段にはすでに人の列が出来ているが、みな冷静だったので、すぐに列に割り込ませてもらえた。優香はそろりそろりとしか階段を下りられないので、碓井の母には、赤ん坊を連れて先に下りてもらった。
看護師さんに支えてもらいながらようやく外に出ると、道路は先ほどの雹が積もって歩きにくい。幸い雹はすでに止んでいたが、相変わらず風は強く、かみなりも続いていた。四月だというのに、冬の寒さだった。病院の三階の窓からは煙がもうもうと吹き出している。火事の熱気はあるのだが、それを上回る寒さだ。
冷たい風に吹かれ、優香の全身には鳥肌が立った。赤ん坊は寒くないだろうか。風邪をひいたら大変だと心配になる。それにこの強風では、早く消火しないと類焼する。風に乗って、煙たい火事の臭いが鼻をつく。ようやく消防車のサイレンが聞こえてきた。季節外れの雹のため、到着が遅れたようだ。
「面白い見ものだね。これからどうなるか」
後ろで声がするので振り返ると、黒の帽子に、黒の上着、黒のパンツ、黒の靴、おまけに黒のサングラスまでした、まるでカラスのような女がこちらを向いて立っている。サングラスのせいで顔はよくわからないが、四十歳ぐらいだろうか。
女は独り言のように「これからどうなるか」と言い、ニヤニヤ笑っているのだ。火事だというのに、「面白い見もの」とか、「これからどうなるか」とか不謹慎な女だ。火事を見物に来た野次馬だろうか。こんな女には、関わらないようにしよう。
優香は、先に外に避難していた碓井の母と合流し、我が子の顔を見て、やっと安堵した。早く暖かいところまで避難しないと。知らぬ間に涙が頬を伝っていた。この子のこれからの未来を暗示するような一日だ。
それにしても、碓井の母がいなければ、こんなにスムーズには避難できなかった。碓井の母が赤ん坊を連れて来てくれなかったら、きっと赤ん坊が心配で、病院からすぐには出なかっただろう。碓井の母に感謝だ。碓井の母も赤ん坊と優香を交互に見て、笑みをこぼしている。これで優香が雄一郎と結婚していたら、碓井の母はもっと喜んだことだろう。
やがて優香の母がタクシーで駆けつけた。優香は赤ん坊と共にタクシーに乗り、実家に帰ることにした。この病院は、しばらくはバタバタするだろう。どうせ部屋で寝ている生活なら、退院しても同じだ。
碓井美代には、狭霧嶽村に帰ってもらうことにした。優香と、優香の母とで、何度も碓井の母に礼を言った。赤ん坊との別れを名残惜しそうにしながらも、碓井の母は手を振ってくれた。碓井の母の目が潤んでいた。
優香は、赤ん坊の名前を修斗とすることに決めた。「斗」は「闘」の代字だ。闘いを修めるという意味を込めた。「闘」でなく、代字の「斗」にしたのは、さすがに「闘」では名前として相応しくない気がしたからだ。それでいて人類に闘いを挑む子供に似つかわしい名前にした。
この子をどう育てるか。優香は頭を悩ませた。雄一郎によると、この子はこの世に災いをもたらす、最凶のウスゴロの生まれ変わりらしい。優香はウスゴロの立場に立ち、ウスゴロに復讐をさせる手伝いをすると決めていた。あの間引きの夢が、前世の記憶が、ウスゴロ達の血の臭いが、優香にそう決意をさせたのだ。
だが困ったことに、優香は根っからの悪人にはなれそうもない。それが心配だ。その一方で、間引きの夢を思い出すと、言いようのない怒りを覚える。悪人になれそうもない自分と、ウスゴロの味方をしたい自分。葛藤がある。
そもそも自分は前世で間引きをしていた立場なのに、ウスゴロの復讐に手を貸すなど、おかしな話だ。でも間引きをしていたからこそ、今生ではその償いをしないといけない気がする。
実家に戻りテレビのニュースを見ると、病院の火災のことをやっていた。全国ニュースになっている。雹が積もったせいで消防車の到着が遅れ、そこに持ってきて強風だ。それでも類焼が無く、病院の一部が燃えただけらしい。放火の疑いもあるそうだ。
そう言えば、真美によく似た女を見たけど。後ろ姿だったが、真美のような気がする。まさか真美が。
優香が退院して、赤ん坊の世話をして生活していたある日、雄一郎から手紙が届いた。いったいなんだろうと思いつつ、優香は開封して手紙を読んだ。
「優香様。とうとう佐助のウスゴロの生まれ変わりを産んだそうですね。詳しいことは、母から聞きました。優香さんは、その子にどういう教育をされるつもりですか。魂とは不思議なもので、生まれる前までは前世の記憶を鮮明に覚えていますが、一度生まれると前世の記憶を忘れます。前世を覚えている子供なんていませんよね。たとえ記憶が無くとも。おそらく十五歳頃から、徐々に特殊な能力を発揮するようになるでしょう。やがては幽冥界から鬼を呼び寄せることができるようになると思います。間引きされた子供の怨念が集まり、凝り固まって誕生した幽冥鬼を呼び寄せてしまうのです。
私は恐山で幽体離脱した時、さまざまなビジョンを見て、いろんなことを知りました。だから断言します。その子は、人間の敵になる。タイムリミットは十五歳です。十五歳までに、人間の敵にならないように、幼い時から教育してください。そうすれば特殊な能力に目覚めても、人間の敵に回らないかもしれない。それができるのは、母親である優香さんだけです。徹底的に、人間を愛するように教育してあげてください。
追伸
もしその子が人間の敵になるようなら、私はその子を殺さなければなりません。そうすると、私は我が子を殺した殺人犯になります。優香さん、私を殺人犯にしないでください。どうかその子に、人間を愛する気持ちを教えてあげてください。私もすき好んで殺人をしたいわけではないので、十五歳まで待ちます。十五歳になった時、その子が人間の敵に回るなら、私の手で始末します。優香さん、その子の未来、そして人間の未来が、あなたにかかっているんですよ。
いま私が、その子を殺すほうがたやすいのでしょうが、本当にその子が人間の敵になるのか、確証もなく殺すのは乱暴すぎます。それに人を殺すのは、やはり抵抗があります。私も前世で殺された側の人間です。人を殺したくない気持ちは、人一倍です。優香さんの、愛の教育に期待します。どうかどうか、その子を人間の敵にしないよう、教育してください」
優香は、手紙を読み終わると、封筒に戻した。なるほど、十五歳になれば、我が子はなんらかの能力を発揮するわけだ。それまで大事に育てればいい。そうして、人間どもに復讐させてやればいい。
この子が中学を卒業したら、狭霧嶽村に連れて行こう。まずは狭霧嶽村の人間から復讐の対象にするほうが、筋が通っている。この子は、狭霧嶽村で殺された子供の生まれ変わりなのだから。
赤ん坊の修斗は、優香の傍らで、すやすやと眠っている。この子の成長が楽しみだ。人間など、取るに足らない存在だと教育してやろう。優香は、顔から笑みがこぼれるのを止められなかった。
優香もようやく、ウスゴロの母としての自覚に目覚めてきた。人間に復讐してやればいいのだ。そう自分に言い聞かせた。
雄一郎が敵に回るなら、その幽冥鬼とやらに襲わせよう。 わたしを殺そうとした真美にも、情けをかける必要はない。
優香は覚悟を決めた。
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