ウスゴロ夢鬼譚

大宮一閃

第1話 第一章 死者からのメッセージ

注意 残酷なシーンがあります。 


第一章 死者からのメッセージ


 嫌な嫌な夢だった。吐き気を催す、壮絶な夢だ。高柳優香が、その血なまぐさい夢を連日のように見るようになったのは、女子大四年の夏季休暇中の八月に入ってからだった。

 最初に見たのは、確か六月だったが、それほど頻繁ではなかったので、我慢していた。だがやけにリアルな夢なので、気にはなっていた。あえて無視するように務めていたが、やがて徐々にその夢を見る頻度が増えてきて、八月からはほぼ毎日だ。

 夢の中で優香は、男だった。他にも、六人の大人の男がいた。大人は全部で七人だ。大人は、みな三十代ぐらいの男だった。和服を着ていて、江戸時代の人のようだ。着ている服は、粗末な麻のようで、ところどころに継ぎあてがあった。その継ぎも、すり減って、薄くなっているのがわかる。

 大人たちは、みんな一様に、暗い顔をしていた。その暗い顔の大人たちに囲まれて、二十人ほどの子供がいる。子供の年齢は、ばらばらだ。大きい子なら、五歳ぐらい。小さい子は、赤子だった。母親らしい人は居なくて、赤子は床に寝かされて泣いている。場所は、どこかの家の土間だった。夜だが、大人の一人が松明を持っているので、かなり明るかった。子供たちは、全員裸にされていた。みな痩せていて、あばらが浮いて見える。頬もげっそりこけていた。

 五歳ぐらいの子は、三人いた。他はもっと幼い子供で、ひとかたまりになっている。みな、どこか脅えていた。まるで、いまから起こることを悟っているかのように。

 季節は夏らしい。土間には大人と子供と合わせて、三十人近くが集まっている。夜なので、照明に松明をしていて、それもあって蒸し暑い。窓は、格子窓がひとつある。格子には、なにも嵌めてないが、あいにく風がなく、土間の空気は澱んでいる。人いきれもひどい。額から吹き出た汗が眉では止まらず、目に入るので、目がしみる。拭いきれないほど汗がしたたり落ちる。これから、まだひと汗かかなければならない。そう思うと、憂鬱な気持ちになり、さらに表情が暗くなる気がした。

「早よ、すべぇ」

 大人の中の一人が、やる気の無さそうな声で言った。すると大人はみな、んだんだ、と頷いた。そして、大人たちだけで、小声でしゃべった。

「可哀そうだが、天明になってからというもの、岩木山は火を吹いて煙がもうもうと上がって、お日さんは隠れるし、そのせいか夏は暑くならんし、こう天変地異があっては、しかたなかっぺ」

「まずは七つになる前の、三太と佐助と与吉から片付けるべ。今年中に始末せんと、来年になると七つになって片付けられんようになる」

 この時代は年齢は数えなのだろう。五歳ぐらいの子が、七つ前、つまり六つということになるらしい。

「こんな土間に大勢で居ると蒸し暑く感じるけんど、今年の夏も昼間でも冷っこい夏だから、けかちだべ。今年が豊作だったら、生きながらえられたのにな。田の手伝いのできん小さい子から、始末していくしかないんじゃ。堪忍してくれな。もう米櫃も空だ。水ばっかり飲むの、もぅやんだ~。飯が食いてぇんだ。口減らしせにゃ、やっていけん」

「おなごは混じってねぇだろうな。ちゃんと裸さ、確認しただろうな。おなごは、人買いさ売れるからな。おおかた遊郭行きだろうけど、生きられるだけ、まだましだべ」

「ほな、やるべ」と、みなが力なく言った。

 大人たちも、全員着物を脱いで、下帯姿になった。

「わらしっ子たちは、みな目ぇつぶっときな」

 鋭い声でそう命令すると、一人の男が、少年を連れてきた。

「三太、目ぇつぶって、へなかをむけな」

「おっとう、なにすんだ」

 三太と呼ばれた少年は、脅えているようだった。三太を連れてきたのは、三太の父親らしい。脅えながらも、三太は父親に従い、目をつぶって背中をむけた。へなかというのは、背中のことらしかった。

 わたしを含む大人が四人がかりで、土間にある大きなケヤキらしき臼を持ち上げた。大人の男四人で、やっと持ち上げられるような、大きくて重い臼だった。重くて足がぶるぶる震え、汗が目に入る。腕が痺れるが、ぐっと臼を上にあげた。

「ぼのごを一撃でやれよ」

「へば」

 そう言うと四人の大人は、高く持ち上げていた臼を一気に下ろし、臼で三太の後頭部をかち割った。頭蓋骨が割れる不気味な音が響くと同時に、血が吹きあがった。血とは、こんなにも高く吹き出すのか。血だけではなく、思わず漏れたのだろう三太の排泄物も飛び散った。

頭を割られると、排泄物まで飛び散るようだ。血と排泄物は、大人たちにもかかったが、誰も気にしていない。慣れているのだ。それにしても、血というのは生ぬるいものだ。そして、金気臭い。それ以上に、排泄物は鼻をつく臭いだ。でも、いまは気にしている場合ではない。

 土間の床には、ぱっくりと頭が割れ、脳髄が飛び出た三太の死体がある。それを脇にやった。みなは腰に下げた汚い手ぬぐいで、手を拭いている。手に三太の血が付き、ぬるぬる滑るからだ。これでは臼が持てないから、いちいち手を拭かないといけない。そのための手ぬぐいらしい。

「これで一人が、ウスゴロだべ。さっさと片付けねばな」

「次は、佐助だぁ」

 佐助は、さすがに何が行われているのか悟ったらしく、震えていた。そして後ずさりしていたが、佐助の父親らしい男がそばに行くと、黙ってついてきた。父親を信用しているようだ。

「おっとう、なんにもしないべな。なにかしたら、恨むからな。俺らぁだけは、助けてくんろ。俺らぁも働くから」

 佐助の目には涙が浮かび、額からは汗がだらだらと流れていた。それでも、現実から目をそらすように、ぎゅっと目をつぶり、手を合わせて大人たちを拝むようにしていた。

「佐助、目ぇつぶって、へなかを向けな」

 また、この重い臼を持ち上げないといけない。わたしは辟易した気持ちで腰をかがめ、みなと力を合わせて臼を持ち、その臼を頭上へと掲げた。腕も腰も足も臼の重さで震え、痛い。

 冷夏とはいえ、松明の熱と人いきれで、夏にこの作業は暑くてきつい。なにより、子供たちが不憫だ。だが、不憫だという気持ちは、夢を見ている優香の思いで、夢の中のわたしは、この行為を仕方ないと受け入れているように思える。死ぬか生きるかの、飢饉なのだ。子供に憐れみをかけていたら、みなが共倒れになる。そういう時代なのだ。

 そう考えているうちに、不気味な音がして血と排泄物が飛び散った。頭をかち割られた佐助の亡骸が、横たわっていた。無意識に、臼で佐助の頭を割っていたようだ。こんな作業は、無意識にやるにかぎる。そうでもないと、やっていられない。 気配を察した子供の何人かは、目を開けて土間から逃げようとした。しかし、臼を持たないほうの大人三人が、土間の戸の前に立ちふさがっているので、逃げられない。

「次は、与吉だぁ」

 与吉は、わたしの息子らしかった。当然、わたしが連れてくる役だ。与吉は、観念しているのか、素直について来た。

「おっとう、正月にみんなでしたカルタ、楽しかったなぁ。ほんとは、来年もやりたかったんだけど、家のためだから仕方ねぇな。おっかぁは体が弱いから、楽させてやってな。たまには米の飯も食べさせてやってくんろ」

 今年の正月には、正月ぐらいは楽しくと、手作りのカルタを家族でしたのだった。カルタは子供たちが、作ってくれた。与吉は、いまから自分がどうされるか、わかっているのだ。

 わかっていながら、自分のことより母親の心配をしているのだ。間引きたくない。わたしはそう思った。でも、けかちだから仕方ない。

「与助、早よせぇ」

 どうやら、わたしの名前は与助らしい。わたしは与吉の手をぎゅっと握ると、「へば」そう言って与吉を臼のとこまで連れてきた。

「与吉、目ぇつぶって、へなかをむけな」

 いよいよ、お別れのときだ。本当は、与吉には成長してもらって、田の手伝いをしてもらいたかった。立派な大人になってほしかった。天を恨むわけにはいかないが、なぜけかちばかり続くのか。神仏はこの世にはいないのか。そう考えると、はらわたが煮えくりかえってくる。

 大人四人がかりで臼を持ち上げると、与吉の頭をたたき割った。血が噴き出し、わたしの目に入った。その血を洗い流すように、わたしの両目からは涙があふれた。

(与吉、すまねぇ。成仏してくれ)

 感傷に浸る間もなく、残りの小さな子供たちも間引かなければならない。

「後は、ちっこい子ばかりだ。一気にやるべ」

 そう言って、子供たちの頭を次々と臼で割っていった。かなりの重労働だ。わたしの額から、ぽたぽたと土間に汗が落ちる。腰が痛くなってくる。体の節々も痛い。ときどき別の大人と交代はするが、それでも肉体的にも、それ以上に精神的にも辛い。

 逃げる子もいたが、監視役の大人が捕まえ、泣き叫ぶのも構わず臼で頭を割る。土間中に血なまぐさい臭いと、頭を割られた衝撃で飛び散った、子供たちの排泄物の臭いが充満し、吐き気を催した。やっと終わった。耳の奥で、先ほどまでの子供たちの、断末魔の悲鳴がこだまする。

「こい」

 皆が口々にそう言って、土間の戸を開けて外に出た。夜空には、こんな夜にはふさわしくないような、冴え冴えとした白い綺麗な月が浮かんでいた。風が吹いた。今まで大汗をかいていたので、夜風が心地良さを通り越して肌寒く感じられる。ふと、女の声がした。

「その子供たちの死体を、無駄にしちゃなんねぇよ」

「誰だべ、おめぇは」

「神様に仕えるもんさ」

 女の顔は、暗くて良く見えない。年寄りではないようだが。神様に仕える者ということは、巫女だろうか。

 どうやら間引かれた子供たちの、その死肉を食べろと言うことらしい。まるで、地獄絵図だ。おぞましいが、それが飢饉というものだ。現代とは、違うのだ。夢を見ながら、そう思った。それにしても、神様に仕える者までが、人の肉を食べろとは、本当におぞましい。


 優香の脳裏には、目覚めたあとも、まざまざと夢の内容が思い浮かんだ。目から涙が、つーっとひとすじ頬に流れた。これでこの同じ夢を、何回見ているだろう。もしかしたら、この夢は、なにかのメッセージかもしれない。そういう気がした。夢の手がかりになりそうなのは、夢のなかで話している方言だ。たしか「けかち」というのは、東北で飢饉のことを指す言葉だったはずだ。本で読んだことがある。どうも、東北弁のようだ。優香は四歳年上の恋人の、碓井雄一郎に聞いてみようと思った。

 雄一郎は、青森県の山間の狭霧嶽村(さぎりたけむら)という村の出身なのだ。弘前市の近くらしい。雄一郎は、優香の親友の大橋真美の兄であり、真美に紹介され、付き合うことになった。優しそうな温和な顔と、筋肉質で大きな体つきが気にいった。優香は小柄で細身なので、体の大きな男性が好みだった。それに雄一郎は、性格も真面目で親切だったので、ますます気にいった。

 真美は女子大の同級生で、雄一郎に似て背が高く、モデルみたいなプロポーションの美人だ。そのせいか青年実業家に見初められ、学生結婚をしている。そのため、すでに兄の雄一郎と苗字が異なるのだ。

 雄一郎は、東京の医大を卒業し、そのまま東京の病院で就職していた。いまは研修医だ。

雄一郎が田舎に戻って就職しなかった理由の一つは、優香が東京の女子大に在学していて、卒業後も東京での生活を希望していたからだ。雄一郎と会って、優香は聞いてみた。

「背中のことを『へなか』って言う?」

「言うよ」

「じゃ、『ぼのご』って言葉はある?」

「あるよ。ぼのごは、後頭部のこと」

 夢の中では、ぼのごを一撃でやれ、と言っていた。

「『へば』は?」

「へばは、それじゃあとか、さよならってことだよ」

 臼で子供を殴るとき、へばと言ったのは、それじゃあさようならって意味だったのか。

「『こい』は?」

「こいは、疲れるってこと」

 子供を始末したあと、みな口々にこいと言っていた。疲れたってことか。

「『けかち』は、飢饉っていう意味だったよね?」

「そうだよ。むかしの東北は、ときどき飢饉があったらしいよ」

 たしか、冷やっこい夏だから、けかちだと言っていた。やはり飢饉か。どうやら、優香の夢の中で使われている言葉は、青森県周辺のもののようだ。優香は、雄一郎に夢の話をした。

「とにかく、何日も何日も続けて見る夢だから、なにかのメッセージじゃないかと思って。場所は青森かもしれない」

「俺は医者だから、迷信じみたことは言いたくないけど、けっこう不思議なことには興味あるんだ。死者からのメッセージかもしれない。そんなに気になるなら、青森に行くかい。もうすぐ盆休みだし、久しぶりの里帰りを兼ねて一緒に行こう」

「青森に行ったら、夢の意味がわかるかしら」

「青森で死者のメッセージを聞くと言ったら、イタコだよ。恐山とか、川倉地蔵尊のお祭りに、イタコマチって言って、イタコさんが集まるんだけど、盆休みに行くとなれば、お祭りとは時期が合わないな。たぶん恐山へ行けば、観光客相手のイタコぐらいいると思うけど」

「観光客相手のイタコなんて、信用できるのかしら」

「観光客相手でも、本物がやっているんだから、大丈夫さ。一度、行ってみよう」  こうして、八月の盆休みに、優香と雄一郎は恐山に行くことになった。そのことを雄一郎が話したのだろう。雄一郎の妹の真美も、お盆に一緒に実家に帰ることになった。実は真美は、おめでたらしい。その報告もあっての実家帰りだった。残念ながら、真美の旦那さんは仕事が忙しくて、夫婦揃っての青森行きとはいかなかった。雄一郎の勤務する病院の盆休みは八月十三日から十五日までだ。


 八月十三日、さっそく優香と雄一郎、そして真美の三人は青森へと向かった。羽田空港から青森空港へ行き、そこから弘前市を通って狭霧嶽村へと行くルートだ。優香は過去に、雄一郎の親に紹介されたことがあり、碓井の両親にも雄一郎の恋人として公認されている。だから、狭霧嶽村では碓井の家に泊めてもらえることになっている。それなのに、優香の方は雄一郎を自分の親には紹介してないのだ。雄一郎には申し訳ないが、恋人を親に紹介するときは、結婚の話題が出てからと決めていた。

 狭霧嶽村の碓井の家に着くと、碓井の母が出迎えてくれた。碓井の母は、確か五十四歳だったと思う。上品な感じの小柄の女性で、グレーの地味な半袖のカーディガンを着ていた。雄一郎や真美が長身なのは、明らかに碓井の父のほうの遺伝だろう。

 碓井の家は農家で、家は都会の家とは比べ物にならないぐらい広い。玄関を入ると大きな土間になっていて、室内に上がると棚があって、こけしがやたら多く飾ってある。こけしは、かなり古いものらしく、墨で書いてある顔が消えかけていたり、胴体の朱の模様が薄れているものも多い。

「優香さん、遠いとこを御苦労さん。大学も四年生になって、どこか良い就職は決まったかい。雄一郎も真美も、久しぶりだね。客間に入ってお茶でも飲んでおくれ」

 碓井の母は、優香たちにお茶と和菓子を出してくれた。やがて、碓井の父もやって来て、真美は正式に両親の前で妊娠の報告をして、祝福されていた。その後は五人で世間話をして、夕食も碓井の家で御馳走になった。風呂にも入れてもらい、優香は雄一郎と今後の予定を相談した。恐山に行くのは、早いほうがいいということで、碓井の家の車を借りて、明日行くことにした。その話を聞いた真美も、いっしょに行くことになった。雄一郎と真美は仲のいい兄妹だし、なにより優香と真美は親友だから、べつに同行されても邪魔だという気分にはならない。

 雄一郎と優香は、親の公認のカップルとはいえ、まだ結婚前だから、寝室をいっしょにするわけにはいかなかった。むろん東京では、雄一郎のマンションに泊りに行くこともちょくちょくあるが、まさか碓井の実家でそうするわけにはいかない。だから優香は、客間で一人で寝ることになった。明日が早いということもあり、優香は早々に眠った。


 優香は、また夢を見た。いつもの夢だ。土間で子供たちの頭を、大きな臼で割って行く。

 血が飛び散り、脳髄が飛び出す。糞尿も飛び散る。三太が佐助が与吉が、無残に頭を割られる。その後は、まだ物心もついていないような幼子の頭を、つぎつぎと臼でつぶしてゆく。

 土間いっぱいに、悲鳴が響く。阿鼻叫喚とは、このことだ。すべてが終わったとき、土間は血の臭いで充満して、その臭いのせいで吐き気がした。重い臼を持ったせいで、腕も腰も足も痺れ、体中が痛かった。土間の戸を開け、外の空気を吸った。体中が汗まみれで、外の空気に触れると、体がひんやりした。寒いぐらいだ。今年の夏も冷夏か。そう思いながら、井戸に行き、水をごくごくと喉を鳴らしながら飲んだ。けかちのせいで、いつも水ばかり飲んで腹を満たしている。大量に水を飲むせいで、水を飲むだけで吐き気を覚える。水だけで腹を満たそうと思うと、吐き気がするぐらい水を飲まないと駄目だった。そこに例の、神様に仕えるという女があらわれる。


 次の日、優香と雄一郎と真美は、碓井の家の車を借りて、早朝に家を出た。夏なので、三人ともTシャツだった。目指すは、恐山。そこでイタコに会い、夢のことを訊こう。はたして、毎夜のように優香が見る夢は、死者からの、なにかのメッセージなのだろうか。

 今日、夢の問題を解決できるだろうか。

「恐山って、日本三大霊場のひとつなんだよ」

 雄一郎は、運転しながら話を始めた。おそらく、インターネットで情報を検索したのだろう。

「恐山と比叡山と高野山が、日本三大霊場なんだって。恐山に行く前に、冷水(ひやみず)を飲もう。冷水は、一杯飲むと十年若返り、二杯飲むと二十年若返り、三杯飲むと死ぬまで若返るらしいよ。俺ら、これ以上若返っても困るけどさ。ははは。飲むなら、三杯だな」

 雄一郎が勧めるので優香は、恐山街道と呼ばれる山道にある冷水を飲んだ。飲んだ瞬間、優香は夢の中で井戸の水を飲んでいるシーンを思い出した。夢の中では、空腹を満たすために、死ぬほど水を飲んでいた。気持ち悪くなるまで、水を飲んでいた。それを思い出し、優香は吐き気を覚えた。

 早朝に碓井の家を出たので、午前中に恐山に着いた。寺名は「伽羅陀山 菩提寺」。曹洞宗の寺らしい。雄一郎の話では、山を開いたのは、慈覚大師円仁という天台宗の僧だそうだ。

 さっそく門をくぐり、優香たちは湖を眺めつつ、三途の川にかかる赤い太鼓橋を渡った。そして恐山の地獄谷と呼ばれるところに行った。

「うっ! なに、この臭い」

 真美が鼻をハンカチで押さえた。地面に岩があり、裂け目から煙が立ち上っている。辺りには、硫黄の臭いが立ち込めていた。地獄谷には緑は無い。なぜか優香は心魅かれるものがあった。

 優香たちは、賽の河原にも行ってみた。荒涼とした風景の中、供養の石の塔が積まれている。優香も、石を積みたくなった。夢の中で殺した子供の霊を、慰めてやりたくなった。夏の日差しが、頭や体を焼いてくる。あの夢の中の夏も、いまみたいに暑い夏だったら、子供を間引く必要もなかったのに。自然と涙が、優香の頬を伝っていた。そっと風が吹いて、硫黄の臭いを薄めてくれた。

 このあたりは、硫黄の臭いが漂っているだけあって、温泉もあるらしい。優香と雄一郎と真美は、イタコと会う前に身を清めようと、温泉に入ることにした。「花染の湯」「薬師の湯」「冷抜の湯」「古滝の湯」という外湯があり、参拝者は自由に入れるらしい。ありがたく入浴させてもらった。

 優香と真美が温泉から出ると、雄一郎はすでに外で待っていた。参道を歩き、正門の横にある小屋に向かう。そこにイタコがいるのだ。立て看板も出ていた。祭りのときは、イタコも多いらしいが、普段は少ない。イタコの前には、先客が何人かいて、待ち時間は一時間ぐらいだそうだ。小屋の中はクーラーもなく、暑いが、仕方なく待つことにした。せっかく温泉で汗を流してきたのに、またどっと汗が噴き出してきた。

 やっと、優香たちの番が来た。優香はイタコに、夢の話を詳しくした。イタコは、じっと目を閉じて、大きくうなずきながら、優香の夢の話に聞き入っていた。イタコの額からも、汗が流れていた。優香も汗まみれだった。イタコには、夢に出てきた子供の中から、年長組の三太、佐助、与吉の三人のうちの誰かの口寄せを頼むことにした。

「だれの霊を口寄せするか、決めてくれ」

 イタコは、四十歳ぐらいのおばさんだった。ずっと目を閉じているのは、集中するためだろうか。白い着物を着て、黒光りするやたらと長い数珠を持っている。

「それでは、与吉の霊を呼んでください」

 優香は、夢の中で自分の息子だった、与吉と話がしてみたかった。だが、口寄せには、故人の名前の他に、命日も必要らしい。しかし、正確な命日はわからない。それで、命日は夏ということで、なんとかイタコに頼んでみた。

「わかった。一番に山城の国、二番には大和の国、三番は近江の国、四番には摂津の国」

 イタコは、なにやら呪文を唱えはじめた。

「極楽の ほいじの枝に何がなるや 南無阿弥陀仏の六字がなる 極楽のみやまに鳴くやほととぎす 森からか林から来るか 幾日幾日また幾日と 来る道おちゃの道 どこに姿がいるものかや どこに形がいたものかや……これを見て見えずや その声を聞きて形見えずや」

 呪文は続く。イタコは数珠を両手で擦り合わせながら、呪文を唱え続ける。優香は、厳粛な気持ちになった。うしろで雄一郎が震えているのがわかる。武者震いだろうか。突然、イタコがしゃべり出した。

「俺ぁ、与吉だ」

 口寄せで呼び出せたということは、やはり与吉という子供は、本当にいたんだ。夢は本当だったんだ。

「お兄ちゃん!」

 突然、真美が叫んだ。驚いてうしろを見ると、雄一郎が倒れている。

「雄一郎!」

 優香も叫んだ。

「心配せんでもいいだ。その雄一郎ってぇのは、俺ぁの生まれ変わりだぁ。いま魂が、こっちに来てるから、それでぶっ倒れているだけで、心配いらね。じきに戻る」

 イタコ、いや与吉がそう言ったので、優香は、少し安堵した。

「与吉、わたしがわかる?」

 優香は気を取り直して、与吉に話しかけた。もしかしたら、自分は前世で与吉と関係ある人物ではないかと思ったからだ。もしかしたら、与吉の父ではないか。夢では、そうだった。

「ああ、わかるよ。おっとうの生まれ変わりだな。知ってるよ。いつも見てるからな」

 やはりわたしは、与吉の父の与助の生まれ変わりだったんだ。それで、あんな夢を見るようになったのか。優香は納得した。

「そろそろ体に戻らねぇとなんね」

 そう言うと同時に、うしろで雄一郎が起き上がったようだ。

「その男の人の魂が、口寄せで体を抜け出して、オレに憑いたから、それで倒れたんだ。その人が与吉なんだよ。普通は生まれ変わっとるときは、生き霊の中から前世の記憶のある魂の一部だけを呼ぶんだが、目の前だから、魂がすべて抜けてしまったようだの。それに、与吉の魂は、まだまだ生々しいんだな。前世の記憶は鮮明だよ」

 イタコは、驚いた様子もなく、そう言った。ちなみに東北では、女性も自分のことを「オレ」と言うらしい。優香は、雄一郎が倒れて動揺したせいで、与吉になにも訊けなかった。

ただ、夢は現実にあった出来事だったのだと、そのことに驚いた。

 夢は、なにかのメッセージだろうとは思っていたが、自分の息子が転生して、いまは自分の恋人になっていたという事実に、生まれ変わりの縁の不思議さを感じた。イタコの口寄せはもう次の人の順番なので、優香たちはすぐに帰るよりほかはなかった。


 優香たちは恐山を後にしてから、遅めの昼食をとったり、青森市に寄り道して、さくら野百貨店でウィンドーショッピングをしたりしたので、碓井の家に戻ると、すっかり夜になっていた。暦の上では、立秋も過ぎている。昼間は、うだるように暑くとも、夜には秋の気配が忍び寄っていた。空には、冴え冴えとした白い綺麗な月が出ていた。

 碓井の家では、夕食の準備をしてくれていた。優香は、ご飯を盛るのを手伝おうとして、炊飯ジャーの蓋を開けたとたん、吐き気がして洗面所に走った。しかし、なにも出なかった。

雄一郎は心配したのか、あとを追って来た。

「優香、もしかして。いや、なんでもない」

 真美や、碓井の家の親も見に来てくれた。優香の吐き気は、すぐに治まった。優香は、みんなに心配をかけて、申し訳なかったし、照れくさかった。疲れが出ただけだろう。

「すみません。もう大丈夫です。ご飯にしましょう」

 そう言って、優香は食堂に戻った。食堂の窓は、網戸になっていて、外から涼しい風が入ってくる。扇風機もあった。優香は碓井の親に、なぜこの家にはこけしが多いのか、訊いてみた。この家のこけしは、かなり古い物もあり、大量に飾られていることと相まって、なにか由緒がありそうだと思ったからだ。碓井の母が答えてくれた。

「オレも嫁に来てから聞いたことなんだけど。ご飯を食べてるときに、あまり言いたくない話だけどね。ここらへんでは、むかしから、けかちと呼ぶ飢饉が頻発してね。米一粒、粟一粒も無いってときがあったんだよ。むかしのことだから、避妊具も無いし、生まれてきた子供を養えないときは、間引きをしたんだよ。飢饉のときは、ここら辺の組頭をしていたこの家の土間に、たくさんの子供を集めて、臼で叩いて殺したんだって。そうやって殺された子は、骨を臼の下の土に埋められて、ウスゴロと呼ばれたんだよ。臼の下に埋めるのは、臼が重しになって、ウスゴロの祟りを防いでくれると思われたからなんだよ。子供を間引いて口減らしして、それでやっと飢饉でも生き残ることができたんだ。そして、ウスゴロの位牌代わりに、こけしを作ったのさ。『こけし』は『子消し』なんだよ。むかしは、墓を持てるの

は金持ちだけで、一般の百姓は墓も仏壇も持ってないことが、ここら辺では多かったんだよ。

だから組頭だったこの家で、組内の子供を間引き、この家でこけしを作って、せめてもの弔いとしたんだよ。この家は、そういう家なんだよ。こけしの数は、ウスゴロの数さ。むかしは七歳になるまでなら間引いても許される、ここら辺ではそういう決まりがあったんだって。

数えの七歳だから、満でいうと六歳ぐらいかな。飢饉のときは、働き手にならない小さい子が、間引かれていったんだよ。豊かになったいまでも、けかちの歴史は忘れちゃいけないね。

ちなみに『通りゃんせ』と言うわらべ歌の、『この子の七つのお祝いに』と言う歌詞は、七つになったので、これで間引きされなくて済みますという意味なんだって。『帰りは怖い』と言うのは、七つになっても子供はいつ病気で死ぬかわからないから、喜んでばかりはいられない。これからが大変だよという意味だと聞いたよ」

「ここの土間で、そんなことがあったんですか。こけしは飾ってありますけど、臼が見当たりませんが」

「じつはね、臼は江戸時代の天明の時に、近くに神社ができたので、そこに奉納されたんだよ。その神社は奥忍神社(おうにんじんじゃ)という菊理媛神を祀る神社で、菊理媛神と言うのは人の生と死の境界に係わる女神で、死の穢れを払う禊の神様さ。菊理媛神を祀って、ウスゴロを作る罪を祓い清めようとしたんだね。その神社ができてからは、間引きの時だけ神社から臼をこの家に持ってきて、相変わらずこの家で間引きが行われたんだよ。こけしは神社に奉納せず、この家に置いて弔う習慣が続いたらしいね。でも最近になって神社に火事があってさ、大きくて重い臼だったけど、ケヤキの臼だから、火事で燃えちゃったんだよ。

たしか六月に入って、すぐに火事があったんだよね」

 優香はなぜか、鳥肌がたった。いまは夏。それなのに鳥肌。臼が燃えたということが、優香の心の片隅に引っかかった。自分の見ている夢の現場は、この碓井の家の土間かもしれない。雄一郎が、与吉の生まれ変わりだということもわかったし、自分が碓井の家の人間と恋人になり、この東北の碓井の家に招かれることになったのも、なにかの運命だろう。

 優香の実家は石川県の白山市で、白山では白山姫神社という菊理媛神を祀る白山神社の総本宮がある。優香の家も白山姫神社の氏子だ。臼が奉納されていた神社も、菊理媛神を祀る

神社だそうだから、そこにも因縁を感じる。そう思い、優香は無口になって、黙々と食事をすませた。

 食後は、碓井の家の親も交えて、みんなで世間話をして、時間をつぶした。今日も疲れたので、早目に寝ようということになり、優香たちはそれぞれの部屋に行った。部屋にクーラーは無く、古ぼけた扇風機があった。優香は扇風機のスイッチを入れた。扇風機は古ぼけてはいるが、ちゃんと動く。

 外の夜気は涼しくなっているとはいえ、部屋の中はまだ暑いので、優香は布団をお腹にだけかけた。部屋の電気は消したものの、なかなか寝付けない。暗闇の中、扇風機の風切り音だけが、低く響いた。雄一郎と自分が出逢ったのは、やはり運命の糸に操られてのことだろうか。そんなことを考えて、眠れぬままに夜が更けて行った。

 何気なく目覚まし時計のライトを点けて見ると、午前二時過ぎ。急に寒気を覚えた。やはり夏とはいえ、立秋も過ぎた東北なので、夜気は涼しいのだろうと思い、扇風機のスイッチを切った。と、部屋の中に、なにか居る気配がして暗闇の中で目を凝らした。

 部屋の隅になにかが居る。子供だった。浅葱色の着物を着て、髪はおかっぱ。正座をしている。五歳ぐらいだ。性別はわからないけれど、着物からすると、男の子らしい。まるで、民話に出てくる座敷わらしのようだ。優香は気味が悪くて、悲鳴をあげそうになったが、本当に驚いたときは、逆に悲鳴は出ないものらしい。優香は口を開けたものの、その口から悲鳴が響くことはなかった。

 だが変だ。部屋は暗闇なので、見えるはずがないのだ。それなのになぜか子供のまわりだけが、薄ぼんやりと明かりをつけたようになっている。たぶん、夢だろう。そう思ったら、優香は平気になった。いつも見る間引きの夢よりはましだった。

「お姉さんは、身籠っているだ。早よう逃げなきゃ、殺されるだ」

 優香の頭の中に、子供の声が響く。いったい、なにを言っているのだろう。なぜ逃げる必要があるのだろう。優香は疑問に思った。やはり、これは夢なのだ。

「逃げるだ。逃げるだ。早よう逃げるだ」

 そう言いながら、子供の姿は消えていった。子供が消えると、また夏の蒸し暑さが戻ってきた。きっと、夕食のときに、ウスゴロの話なんか聞いたせいで、変な夢を見ているのだ。

 だが、まてよ。恐山のイタコの口寄せで、間引きの夢は、過去にあった事実だということが証明されたではないか。この家の土間で、間引きが行われていたとすれば、殺された子供たち、ウスゴロの怨念が残っていても不思議ではない。碓井のお母さんは、間引きに使用していた臼が、奉納していた神社の火事で燃えたと言っていたけど、それでウスゴロの怨念が復活したのだろうか。わたしは、間引きをしていた人間の生まれ変わりだから、ウスゴロに恨まれているのかもしれない。

 そう言えば、身籠っていると言ったな。生理が来ないので気になっていたけど、もともと生理不順なので、妊娠なんて考えてもみなかった。夕食のとき、炊飯ジャーを開けて、ご飯の炊けた匂いをかいだとき、吐き気がしたのは、つわりだったのかもしれない。わたしは、妊娠しているのだろうか。

 もしウスゴロの怨念が残っているとすれば、妊娠しているわたしか、お腹の子供を殺そうとするのではないだろうか。自分が間引かれた仕返しに、同じことをするのではないか。なぜなら、わたしは間引いたほうの人間の生まれ変わりなのだから。

 優香は、布団から跳ね起きた。念のため、とにかく逃げよう。雄一郎の部屋にでも行こうか。そう思った瞬間、部屋のふすまが開いた。優香は、びくっとなり、全身が総毛だった。

 誰だろう。部屋は暗いが、開いたふすまから、廊下の電灯の光が差し込んでくる。逆光ではあるが、部屋に入ってきたのが、雄一郎であることがわかった。

「な~んだ。雄一郎か。びっくりしちゃった。いま、そっちに行こうかと思ってたんだ」

「優香。おまえは妊娠してるだろう。俺たちは結婚前だ。子供は堕胎しろ」

「えっ、なんで?」

 優香は、雄一郎の冷たい言葉に、ショックを受けた。雄一郎が、そこまで世間体にこだわる男だと思っていなかったので、優香は落胆して、目の前が暗くなった。そして、優香の脳裏に間引きの夢の光景が浮かんできた。いまの豊かな日本で、むかしのような間引きはしちゃいけない。悲劇を繰り返しちゃいけない。子供は産んで、しっかりと育てるべきだ。そう思った。

「もし妊娠しているんだったら、わたしは産むよ」

「駄目だ」

「たとえ、雄一郎が結婚してくれなくても、わたしは産むから。生まれてきた命を、もう無駄にはしたくない。むかしの飢饉の時代みたいな悲劇は嫌。産んで、しっかり育てて、学校にもやる。それが、豊かな時代に生きている、わたしたちの務めでしょ」優香は涙声で抗議した。

 この六月以降になってから、優香が毎夜のように間引きの夢を見るようになったのは、もしかしたら優香に、堕胎をさせないためだったのかもしれない。そう思えてきた。そして夢が八月になって頻繁になったのは、間引きが行われたのが八月だったからなのではないか。

 やはりあの夢は、間引きされた子供たちからのメッセージだったのだ。

「どうしても産むんだな。そうはさせない」

 雄一郎はそう言うと、優香にのしかかってきた。筋肉質で大きな体だ。優香は悲鳴をあげ、雄一郎を押しのけようとした。しかし、男の力は強い。雄一郎は、妊娠している優香の腹を殴ってきた。

「やめて。あなたの子供なのよ」

 優香は、哀願した。

「間引きをしていたおまえに、子供を産ますわけにはいかない」

「間引きをしていたのは前世で、だからこそ今生では子供を産み、育てないといけないのよ。それがわからないの? 子供を堕ろしたら前世の繰り返しよ。いまのわたしたちにできることは、子供を産み育て、次の世代につなげること。それが、前世で間引いた子たちへの供養にもなると思うの。だいたい、なんで雄一郎が前世の間引きのことを気にするのよ。まさか、あなたが与吉だったとわかったから? 前世で間引かれたことへの復讐のつもり?」

 優香は必死で雄一郎に反撃した。お腹の子を守るため、優香はいつも以上の力を出せた。

 優香の決死の覚悟の反撃に、雄一郎は一瞬たじろいだように見えた。そのとき、開けっぱなしだったふすまから、真美が入ってきた。

「お兄ちゃん、なにやってるの?」

 真美は、すぐに事態を察してくれたのだろう。真美と雄一郎が、取っ組み合いを始めた。

 真美が雄一郎を足止めして、時間を稼いでくれているあいだに、優香は廊下に出て、家の中を逃げ回った。

 どこか安全な場所を見つけないといけない。外に出ることも考えたが、道も知らないし、田舎道で街灯もない。この家のまわりは、田んぼばかりで身を隠す場所もなければ、交番も見当たらなかった。それに雄一郎は、わたしが外に逃げると考えるだろう。いまは真美が雄一郎を押しとどめてくれているが、しょせんは女だから、いつまでも雄一郎を押さえつけていることもできないはずだ。雄一郎は、真美を振り切ったら、必ず玄関に行ってわたしの靴を確認する。もし外に逃げたら、慣れない夜道でまごつくわたしを、すぐに雄一郎は発見するだろう。

 優香は玄関に行くと、靴を手に持って、それから玄関の鍵をわざと開けると、碓井の家の中に戻った。これで雄一郎は、わたしが外に逃げたと思うだろう。碓井の家は、すごく広い。

 碓井の両親を起こそうにも、碓井の両親の部屋の位置も知らないし、あまり廊下をうろうろしていると、雄一郎に見つかる危険もある。どこかの空き部屋に隠れないと。

 夏の夜なのに、急に寒気がした。ふと見ると、目の前に子供がいる。おかっぱで、浅葱色の着物姿の子だ。さっき部屋に現れて、優香に危険を知らせてくれた子だ。夢ではなかったのだ。この家の、座敷わらしだろうか。

「お姉さん、こっちさおいで」

 子供の声が、頭の中に直接響いてくる。この子供は、先ほども危険を知らせてくれた。優香は、この座敷わらしのような子供を信じてみることにした。子供は、さっさっと迷いなく歩くと、優香を家の奥の土蔵に案内した。優香は土蔵の扉を開けた。

「ここは、ふだん人が来ることはないだ。朝まで、ここさいるといいだ」

 そう言うと、子供の姿は、かき消すように見えなくなった。土蔵の扉を閉めると、土蔵の中は真っ暗闇だった。とにかく、ここに朝まで居よう。朝になれば、碓井の両親も起きてくるだろうし、雄一郎も乱暴なことはできないだろう。

 どうして雄一郎は、襲いかかってきたのだろうか。心当たりは、ひとつだ。雄一郎は、間引きされた与吉の生まれ変わり。わたしは、間引きをした、親の与助の生まれ変わり。つまり、間引きされた与吉は、今生で雄一郎に生まれ変わり、間引きされたことへの復讐のため、今度は自分が間引く側に回ろうというのだろう。

 与吉は、与助を恨んでいる。その与助の生まれ変わりであるわたしの子供を、流産させることによって、間接的に与助への復讐をするつもりだ。だから雄一郎は、わたしの腹を殴ってきたのだ。おそらく、わたしを殺す気はないのだろう。あくまで狙いは、お腹の子供だ。

 わたしを殺せば、殺人事件で大騒ぎになるが、お腹の子供を流産させるぐらいなら、軽くすむ。

 雄一郎は、きっとイタコの口寄せで倒れたとき、前世の与吉の記憶が、一気に蘇ったに違いない。以前の雄一郎には、前世の記憶などなかったはずだ。イタコの口寄せのせいで雄一郎は、与吉になってしまったのだ。

 優香は、どうしても子供を産みたかった。それが自分の務めに思えた。六月になってから、優香が間引きの夢を見るようになったのも、きっと妊娠したからだ。夢は八月になって、頻繁になった。前世の自分が、今生の自分に、絶対に子供を産めというメッセージを送っているのだろう。そう思うと、やはりなにがなんでも産まねばならない。優香は、そう誓った。

 ただ皮肉なことに、子供の誕生を喜んでくれるべきはずの父親が、その子供を殺そうとしている。

 朝になったら、すぐ東京に戻ろう。雄一郎と顔を合わすのはまずい。雄一郎は、与吉の生まれ変わりで、間引きされたことへの復讐のため、今度は自分が間引く側に回ろうとしているのだ。子供を産みたがっているわたしにとって、子供を流産することが、なによりも精神的苦痛であることを、雄一郎は知っている。だから、与助であるわたしを苦しめるため、なにがなんでも流産させようとするだろう。赤ちゃんが生まれるまで、どこかに避難しないといけない。

 優香は、東京に戻ってからの生活をいろいろ考えてみた。と、土蔵の扉が開いた。まさか雄一郎が来たのか。優香の胸が、早鐘を打った。だが、廊下から差す光でよく見ると、雄一郎ではなく、真美だった。真美が助けに来てくれたのだ。雄一郎を、うまく説得してくれたのだろうか。心強い味方の登場に、優香は涙が出た。

「優香、ここに居たの。探したのよ」

「真美、雄一郎は?」

「お兄ちゃんなら、うまくまいてきたから大丈夫よ」

 優香は安堵して、その場にしゃがみこんだ。次の瞬間、胸に痛みが走った。見ると、真美の手に包丁が握られている。

「なにするの? 真美」

「あはは、あたしはね、あんたたちに殺された三太の生まれ変わりなのさ。あたしも夢を見てたんだよ。あんたに殺される夢をね。それで前世を思い出したのさ。あんときは、よくもやってくれたわね。復讐してやる。そうしないと、あたしの気がすまないのさ。子供を育てられないなら、最初から子供を作るな。それが一番許せないことなのさ」

 真美は怒気を含んだ声で、そう言い放った。逆光ではあるが、復讐を遂げたという、満足げな表情に見えた。

 優香の胸からは血が流れたが、刺し傷は浅いようだ。わずかに急所は外れていたし、女の力だから、包丁で刺されても致命傷にならなかったのだろう。しかし、刺された胸は、ずきずき痛む。早く手当てをしないと。

 いまなら真美は、わたしが致命傷を負ったと思って油断している。逃げるなら、いまだ。

優香は体ごと真美にぶつかると、真美を転ばせた。優香はそのまま、土蔵を飛び出した。窓を見ると、空が白み始めている。夏の夜明けは、早い。優香は思い切って、碓井の家から外に出た。狭霧嶽村と言うだけあって、朝靄が出ていた。

 真美と雄一郎から、一刻も早く逃げないといけない。二人とも、間引きされた子供の生まれ変わりだったとは。荷物を取りに碓井の家に戻るわけにはいかない。財布も、持ってきてない。靴も、どうやら土蔵で真美に体当たりしたとき、落としたようだ。

 いまは夢中で走るだけだった。裸足なので、アスファルトのひんやりした感触が、よく伝わる。日が昇れば朝靄も晴れ、やがてアスファルトも熱くなり、裸足では走れなくなるだろう。足の裏が痛くなってきた。

 それでも、がむしゃらに走り続けると、朝靄の向こうから赤いパトランプが近づいてくる。

偶然にも巡回のパトカーが来たのだ。優香は手をあげ、助けを求めた。警官によると、この村では三時間毎にパトカーが巡回しているそうだ。幸運だった。


 狭霧嶽村には個人の小病院しかないので、緊急時の患者受け入れ病院が無い。そのため優香は、狭霧嶽村の個人病院より設備の整った弘前市の総合病院に救急搬送された。優香は応急処置を受けたあと、命に別条がないことを確認してもらってから、東京の病院に転院させてもらった。

 検査の結果、優香はやはり妊娠していた。二ヶ月だった。優香は何度も警察に、誰に刺されたか訊かれたが、自分で刺したと白を切った。警察は自傷ではないと疑っているようだ。

優香は警察に、事件にしないよう頼んだ。優香は、雄一郎と真美を恨む気にはなれなかった。

 すべては、自分の前世が蒔いた種だ。雄一郎も真美も、まさか二人ともが、自分が間引いた子供の生まれ変わりだったとは。とにかく、いまは子供を産むことに専念しよう。優香は、ひとりで子供を育てる決意をした。むろん、しばらくは実家の親にも協力してもらうつもりだ。

 優香は怪我も治り、病院を退院した。優香は、雄一郎にも真美にも、刑務所に入ってもらいたくなかった。すべては前世の因縁であり、二人は悪くない。むしろ、自分の前世が一番悪いと思っている。優香の嘆願の甲斐あって、警察は事件にしないことにしてくれた。優香は、雄一郎も真美も嫌いにはなってないが、二人が自分に敵意を持っている以上、顔は合わせたくない。

 雄一郎や真美が連絡してくることはないだろうが、東京に戻ったときに、スマートフォンは解約していた。もしも雄一郎や真美から、脅迫電話や嫌がらせの電話があったら、困るからだ。

 いまにして思えば、自分の実家の連絡先を、雄一郎や真美に教えてなかったのが幸いした。

 雄一郎のことは、まだ自分の親には紹介してなかったのだ。優香は、東京で住んでいたワンルームマンションを離れて、石川県白山市の実家に戻り、産婦人科に通いはじめた。

 優香は雄一郎のことを親に話し、子供を産むことを親に告げた。両親は最初は反対したが、優香は熱心に説得して、最終的には親に同意させた。優香がひとつだけ親に言ってないのは、今回の事件が前世の間引きのために引き起こされた事件であるということだけだ。優香が頑なに子供を産むと決めたのも、やはり前世の間引きの悲劇を繰り返さないため、子供を立派に育て上げる決意をしたからだった。

 優香は心労がたたり、体調が悪いので、産婦人科に通いつつ、実家で静養することにした。

東京で住んでいたワンルームマンションは、母親に荷物を整理してもらって、解約した。

 またたくまに時が流れた。出産予定日が近づいてくる。この頃は、お腹の子供が動くのが優香にも感じられ、嬉しかった。そんなある日、優香の実家に、雄一郎から手紙が届いた。

 むろん、優香宛てだ。四月の暖かい昼下がりのことだった。どうして実家の住所がわかったのだろう。

 優香は、椅子に座りながら、手紙の封を開いた。庭に面した部屋の窓格子から、遠くのほうで低く垂れこめている雲が見える。黒雲だった。夜には雲が広がり、雨になるのだろう。

そう思いつつ、手紙を読んだ。


「優香さま。

 うちの実家に来てもらったときは、本当にすまないことをしました。なんの説明もせず、いきなり暴力をふるってしまって。あの時は、どうかしていました。恐怖心から冷静さを失ってしまっていたのです。あの日、恐山に行って、イタコに口寄せをしてもらいましたね。

 私は与吉という子供の生まれ変わりだったらしく、口寄せのあいだ、体から魂が抜けていました。そして、魂が抜けているあいだに、いろんなものを見て、いろんなことがわかりました。本当にあらゆる情報が頭のなかに流れ込んできたのです。いまからこの手紙で、私が知ったことを書きますね。与吉は、間引きされることを覚悟の上で、家族のためだと納得して間引かれました。だから、与吉の生まれ変わりである私も、優香さんにはなんの恨みもありません。あなたのお腹の子を流産させようと、あなたのお腹を殴ったのは、私怨からではありません。

 イタコの口寄せの最中、私にはいろんなことがわかったと言いましたね。妹の真

美が実は、三太の生まれ変わりであり、優香さんを恨んでいることもわかりました。あの日、私があなたを流産させようとしたとき、真美が部屋に来ましたよね。あれは私が部屋に居ることを知らずに、あなたを殺しに来たのです。私は、真美があなたを狙っていることを察知していたので、あなたが安全なところに逃げるまで、真美を押さえていたのです。あなたは、真美があなたを逃がすため、私を足止めしていると考えたかもしれませんが、事実は逆です。

 私が優香さんを追いかけるつもりなら、いくら真美が妨害しようとしても、しょせんは男と女。私は簡単に真美を払いのけ、あなたに追いついたでしょう。でも私の目的は、優香さんに危害を加えようとしている真美を押さえつけ、そのあいだにあなたに逃げてもらうことでした。だが誤算がありました。あなたが私の家から、逃げ出さなかったことです。私は真美から手を離してすぐ、玄関に行って優香さんの靴がないのを確認して安心したのですが、まさか家から出ていなかったとは思いませんでした。あなたはおそらく、ウスゴロに導かれて土蔵にでも隠れたのでしょう。土蔵に、あなたの靴が落ちていました。

 ウスゴロは、民話に出てくる座敷わらしのような姿をした、子供の怨霊です。ウスゴロは一種の地縛霊のようなものなので、家から出ることはできません。それゆえ、ウスゴロはあなたを家の外に出すことは考えられないのです。ウスゴロにとっては、家の外は無の世界だからです。それで、あなたを土蔵に案内したのでしょう。うちの実家の土蔵は、ふだんは誰も出入りしません。しかし、それゆえ逆に、真美に簡単に推測される結果になったのです。真美はすぐに、あなたが土蔵に居ることを嗅ぎつけ、あなたを殺しに行ったようです。優香さんが殺されなくて、

本当によかった。

 ここで繰り返しになりますが、ウスゴロは間引かれた子供の怨霊です。優香さんは、子供を間引いた大人の生まれ変わりです。そのウスゴロが、なぜあなたを助けようとしたか、わかりますか?」


 優香は雄一郎の手紙から、いったん目を上げて、窓格子から庭を見た。部屋が暗くなってきたからだ。ぽつりぽつりと雨が降っていた。優香の予想よりも早く雨が降り出したようだ。

 空は黒雲で覆われ、春の日差しはとざされ、冬の夕暮れを思わせる。その真っ暗な空が一瞬光り、少しだけ間を置いて、遠くで雷鳴が聞こえた。優香は立ち上がると、部屋の電灯を点けた。これで、手紙の続きが読める。また空が光り、すぐに雷鳴がした。かみなりが近づいてきているようだ。早く手紙を読んでしまおう。優香はそう思い、また雄一郎からの手紙に目をやった。ウスゴロが、なぜわたしを助けようとしたか、その続きからだった。

「私が、あなたのお腹を殴ったことと関係するんですが、ウスゴロは、あなたに子供を産んでほしかった。だから助けようとしたんです。そして私は、あなたに子供を産んでほしくなかった。なぜなら、あなたのお腹にいる子供こそ、この世に災厄をもたらす、最凶のウスゴロの生まれ変わりだからです。

 あなたに間引かれた、佐助という子供がいましたね。その佐助という子供が、ウスゴロとなり、仕返しのためにこの世に生れて、あらゆる災厄を起こそうと、生まれ変わりの機会をうかがっていたのです。佐助は、霊力の強い子供でした。霊力

の強い人間が恨みをのんで死んだとき、それはそれは凄まじい怨霊となるのです。ただ佐助の霊は、ある霊能者によって臼に封じ込められたのです。それ故に、いまのいままで転生ができなかったのです。

 佐助の霊は臼に封じられ、神社に祀られ、その霊力を霊能者に利用されていました。霊能者が死亡した後、何十年かして神社を継ぐ人は無くなり、臼は村人によ

って祀られていました。佐助の霊は転生して復讐したかったのですが、臼に封じられてしまっていたため、転生できませんでした。それが最近になり、突然の火事によって臼が消失し、佐助の霊は解き放たれ、前世で自分を間引いた一人である、恨みのある相手であるあなたのお腹に宿ったというわけです。

 前世の自分と因縁のある相手、恨みのある相手の方が、強い怨念を持ったまま転生しやすいのです。恨みの無い人間に宿れば、その怨念は失われてしまう可能性があります。だから佐助は、強い霊力を持った怨霊のまま生まれ変われる相手を探

して、そして、あなたのお腹に宿った。なぜなら、あなたこそ佐助を間引いた人間の生まれ変わり。佐助に恨まれた、縁の深い人間であるあなたこそ、すべての条件を満たす人間だったのです。だからあなたが、この世に生を受け、生まれ変わったときから、佐助はあなたのお腹に宿ろうと狙っていたのです。しかし、臼に封じられていたので不可能なはずでした。

 あの神社の火事は、放火の疑いがあると警察は調べていました。犯人は見つかりませんでしたが、何者かが佐助を転生させようとしたのかもしれません。前世で間引きをやっていたあなたは、臼が燃えた以上は妊娠するべきではなかった。佐助の怨霊さえいなければ、前世で間引きをしていたとしても、普通に結婚して子供を産めたのですが、あなたは佐助の怨霊に狙われていたのです。霊というのは、悪霊だろうが善霊だろうが、霊体のままでは人間に直接には影響を与えることはできません。だから佐助の怨霊は、人間の体を欲しがっていたのです。それも、強い霊力を持った怨霊のままの魂を宿して生まれることのできる、恨みのある母親を探していたのです。

優香さん、あなたのお腹にいる子供は、将来、人々に大きな不幸をもたらす、とんでもない人間になるのです。それがわかっていたから、私はあなたを流産させようとした。いまから考えると、きちんとあなたに説明して、納得してもらってから

堕胎してもらえばよかったのですが、あのときのあなたは子供を産むことに強い決意をもっていて、とても説得できそうになかった。それで私もあせって、いきなり暴力をふるってしまったのです。優香さん、いまからでも遅くない。なんとかして流産してください。佐助の生まれ変わりを、この世に産まないでください。その子は、本当に危険な人間になるのです。

 そのことに恐怖して、私はついあなたに暴力をふるってしまった。暴力と恐怖は裏表だったのです。きちんとした説明もせずに暴力をふるってしまうほど、私は恐怖で動転していたのです。許してください。

 追伸

 優香さんの怪我のことで、警察が家にも来ました。本来なら真美が自首するべきなのですが、優香さんが事件のことをしゃべろうとしないと聞き、真美のことは黙っていました。真美も妊娠していることもあり、事件にしたくなかったのです。こちらの勝手で、すみません。

 警察での取り調べが一段落してから、この手紙に書いたような内容を優香さんに伝えようとして、電話をかけたのですが、スマートフォンを解約してしまったようですね。

 顔を合せ辛くて、優香さんのワンルームマンションには行かないようにしていたのですが、思い切って訪ねたら、引越しの後でした。私も、研修医として非常に多忙を極め、なかなか優香さんの引っ越し先まで調べる時間的余裕がありませんでした。もしかしたら実家かと思い、失礼ですが調査会社に住所を調査してもらいました。多忙ゆえ、今のいままで手紙を書けず、すみません。もう時間があまり無いと思って、必死にこの手紙を書いています。もしこの手紙を読んだなら、必ず返信をください」


 手紙には、そう書かれていた。雄一郎は嘘を言うような人間ではない。この手紙の内容は、事実だろう。優香は、そう確信した。

 優香はなぜか、佐助のウスゴロに味方したくなった。原因は、何度も繰り返し見る、あの夢だった。碓井の家での事件の後も、優香は夢を見続けた。そして、夢を見れば見るほど、間引きが許せなくなってきた。

 養えもしない子供を産んでおいて、平気で間引く。その行為は許せない。自分も含めて、間引きをした大人たちが悪いのだから、その代償は何らかの形で支払わないといけない。お腹の子は、けっして堕ろしてはいけない。それが、前世で間引きをしたことの償いになるだろう。

 そう決意を強くした瞬間、優香のお腹が猛烈に痛くなった。陣痛だ。優香の母親が、優香のうめき声を聞きつけたのだろう。あわててやってきて、電話で救急車を呼んでいる。

 優香はあまりの痛みに、意識が遠くなった。この子は、産まなければいけない。この子を殺したら、間引きをした前世と同じことをすることになるからだ。この子が成長したら、どんな人間になるのだろうか。どう育てたらいいのだろうか。優香は、夢を思い出した。

 あの夢は、お腹の子が見させていたのだろうか。優香は、夢の中の間引きのシーンに嫌悪感をおぼえている。間引かれた子供たちのため、復讐の機会を与えてやらなければならない。

 とにかく、この子を出産するしか道がないのだ。

 いま、大きな災厄が、この世に生まれ出ようとしている。優香は、激痛で薄れゆく意識の中で、そう考えた。

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