第2話 朝の衝撃

 翌日。ペタは重い気分を引きずって登校した。


 結局昨日は殆ど眠る事ができなかった。騙された事に怒りを感じるのもあるが、何より色恋は自分とは関係ないとタカをくくっていたのに、のこのことあんな悪戯に引っかかってしまったのがどうしようもなく惨めだった。


「おう、おはよ……って、ペタ、どうした!?」


「流星、おはよう。どうした、って、何が?」


「何がってお前……」


 声を荒げ、大きく目を見開いた流星がペタの顔をマジマジと眺める。その合い間にも、ペタはのそのそと鞄を机に引っ掻け、ぐったりと沈み込むように席に着いた。


「自分で気が付いてないのか? 凄まじい顔色をしてるぞ、お前」


 流星に言われ、ペタは自分の顔を触って見たもののそれでは良くわからなかった。そういえば、両親も随分驚いていたような気がすると今更ながら思い出す。


「とにかく今日は早退したほうがいいぞ」


 流星に真剣に身を案じられ、ペタも自分の状態を少しずつ認識していく。どうやら、ペタ自身が思っているより余程重症なようだった。


「そう、するかな……」


 折角来たのにとんぼ返りするのも抵抗がないではなかったが、今帰れば公子の顔を見ずにすむ。そういった消極的理由に後押しされ、ペタは帰るために机に下げたばかりの鞄を手に取り、立ちあがった、その時。


「昨日のマジ受けるよねー」


「あはは、あんまし人に言ってやんなよ? 流石に可哀想だしさ」


「言わないよー。あたしらが悪く言われたりしてもたまんないし」


「もう、いい加減その辺で……」


 最悪のタイミングで入ってきた公子と取り巻き達。公子がいさめようと口を挟んだ瞬間、ペタと思いっきり眼が合った公子が言葉に詰まる。しかし、気を取り直したかのようにするっと笑顔で挨拶を投げてきた。


「……おはよう、ペタ君」


「お、おはよう」


 挨拶を返すのも一苦労だったが、ペタは何とかそれを乗りきった。しかし、次の公子の言葉に我が耳を疑う。


「昨日はごめんねっ! ちょっとしたアクシデントだと思って、軽く流しといて?」


 片手を立てて気楽にお願いするようなポーズで放たれた公子の言葉に、ペタは土管で頭を殴られたような衝撃を受けた。彼女は、ペタの事を悪戯に利用したことについてそれほど重大に受け止めてはいないのだ。ただ、ちょっと悪ふざけしてごめん、その程度の謝意しか持ち合わせてはいないのだ。


 ペタは、自分の頭の中を今までに感じた事の無い言い様の無い感情が支配していく様に戦慄する。怒りとも違う、憎しみとも違う、悲しみとも違う。ただ、一つ確かな事は、それ以上公子の傍にいることが出来ないという事だけだった。


「あれ、ペタ君、その顔色……」


 公子が何かを言いかける前に、ペタは既に全力で走り出していた。それ以上、1秒たりとも同じ教室にはいられなかったのだ。


「ペタ君……?」


 背中に投げかけられた言葉は、ペタの速度を速めるだけだった。


 職員室へまっすぐ向かうと、ペタは担任の真澄 紀伊(きい ますみ)を捕まえて早退したい事を伝える。ペタのもはや青くなっている顔色を見て、真澄先生は驚き


「きゅ、きゅ、救急車を呼ぶ!? 死ぬの!?」


 凄まじく慌てていた。ペタは青い顔ながら苦笑するしかない。


「いえ、死にません。でもそれなりにしんどいので、救急車ではなく自分で家に早退したいんです」


 基本的にお人好しで面倒見の良いこの先生は、それを聞くやくわっと目を見開いて


「私が車で、送ります! 超特急で!」


「法定速度は守ってください。それに先生も仕事があるでしょうし、俺は自分で帰れますので、大丈夫です」


「だ、大丈夫! 私、職員会議いてもいなくてもあんまり変わらないし」


 などと悲しい事実を告白しながらも、尚も食い下がってくる。


「いえ、本当に大丈夫ですから」


「子供が遠慮しちょいけまえん!」


 テンションが上がりすぎたせいなのか、真澄先生が思いっきり噛んだ。しかし、自分が噛んだ事などまるでなかったかのように・うーと唸り声を上げてぺたを睨む。自覚している証拠の頬の赤みだけは隠し様がなかったが。


「とにかく、職員会議なんかどーでもいいから、都築君を家までおく――」


「紀伊先生、今の発言は聞き捨てなりませんなあ」


 真澄先生の背後から投げかけられた恐ろしい声音に、真澄先生はひっと一瞬にして顔を青ざめさせる。それからぎぎぎと油切れのロボットのようにぎこちない動きで振り返った。


「く、く、九条(くじょう)先生……」


「それで、先程のセリフもう一度聞かせて頂けませんかな? 余りに感動的な言葉だったのでついつい聞き逃してしまいました」


 等と声音は穏やかだが、震えている。更に、額には血管がびしばしと浮きあがっていて、なのににっこりと微笑んでいて、自分が言われているわけでもないのにペタですら震えあがるほど恐ろしかった。


「あ、いや、あうその……」


「もう一度、お願いできますか?」


「はひぃっ!? つ、都築君、残念だけど先生は職員会議がありますので、送って上げる事は出来ません……」


 涙目の真澄先生は怯えながらようやく諦めた。それを見て、学年主任である九条先生ははぁっと小さく溜め息をつく。


「先生、確かに生徒を思うあなたの気持ちは立派だが、自分の職責を放棄してはいけません」


「は、はいいぃ……」


「お仕事、がんばってください」


 体調が悪いのもあるが、九条先生の恐ろしさを目の当たりにしてペタは真澄にそう声を掛けるのがやっとだった。


「君は都築か。本当に体調が悪そうだな……ちゃんと自分で帰れるのか?」


 今度は九条先生がペタに目を向ける。しかしそれは、真澄先生に向けていた叱責の表情とは全く違い、気遣うような優しいものだった。


「ええ、ご心配おかけしてすみません。ちゃんと帰れます」


「ふむ……なら、余り無理はせず、道に気をつけて。紀伊先生が君の早退手続きを全て済ませてくれるから、もう帰りなさい。もちろん、悪化するようなら病院に行き、ちゃんと学校へ連絡するように」


 九条先生は一見口やかましく見えるが、その実本当はかなり優しい人柄なのだった。ペタはもちろん、その優しさに感謝して、職員室を後にした。

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