その出会いはクッキーのように (2)
遠く、遠く。火柱が見えた。
遅れて、腹の底を揺らすほどに重い重い轟音。
ここは、線路をまたぐ坂道の頂上。爆発のあったガソリンスタンドからはそれなりな距離がある場所だ。
「な……。なんなんだよアレ。とんでもないな……」
自転車にまたがった少年が、遠く、炎に赤く染められる建造物群を見つめていた。少年のどこか優しげな雰囲気の目は細められ、口は遠くに広がる光景にあっけにとられたか半開きになっていた。
背丈は170cm程度であろうか。体つき、顔つきから察するに、年の頃は大体高校生くらい。服装は白いワイシャツに紺のネクタイ、黒のズボン。端的に言えば学生服だ。胸ポケットには校章であろうか、ちょっとしたエンブレムがあしらわれていた。
深夜とは言え、季節は夏。ここまで自転車で来たからか、彼のネクタイはゆるめられ、ワイシャツの第一ボタンは開けられていた。額には、汗の玉が見て取れた。
短く切りそろえられた黒髪が、夏特有の湿度を帯びた夜風になびく。
少年の名は、佐藤クロウといった。「九」に「郎」と書いてクロウ。
別に上に8人兄が居るというわけではない。ただ、父親がハチスケであり、その家系には、生まれた順にその名に数字を与えられるルールがあっただけ。九が確定していたので、特に意味もなく「郎」が付けられただけだ。
名付けられた本人は、自身の名について特に何とも思っていない。名の理由を聞かされた時には「無難なチョイスだなぁ」程度の感情しか抱かなかった。
ちなみにクロウの家系の命名規則上、数のリセットは任意であり、クロウは自身の息子ができた暁には「ゼロ」と当て字で名付けてやろうという小さな野望があったりもするが、これは全く関係のない話。ともかく、彼の息子が生まれる頃には、そういったある意味アレな名前が一般的であることが願われる。
クロウの居る坂の下には、道路を封鎖するように警察車両がいくつか並んでいた。それらの警察車両から先は警戒区域。【キルヒェの予言】で指定された場所。クロウのような一般人は立ち入りが禁止されているエリアになる。
一般人はすべて避難しているからであろうか。街灯の明かりこそあるものの、どこか暗く不気味な雰囲気だ。
普通であれば、あえてそんな場所に近付こうとする人間などいないであろう。しかし、クロウは違った。警察車両が作る壁の向こう。戦闘行為が行われているであろう警戒区域内のとある場所に用事があった。
「絶対に大丈夫。僕は、きっと、必ずできる」
クロウは、軽くうつむき、ちいさく言葉を転がした。
それは彼の癖のようなものだ。引っ込み思案だった自分自身を勇気づけるための自己暗示。幼稚園を卒園したあたりから、彼は何かを成す際にはその言葉をつぶやくようになっていた。
この言葉は、クロウが幼い頃に流行っていたヒーロー物のアニメ【ジーンドライバー】、その主人公の口癖だった。
【ジーンドライバー】とは、遺伝子の力を応用して変身を行うことを可能とする道具「ジーンドライバー」を持つ主人公と、彼を支える遺伝子生物≪ジーンモンスター≫が協力し、悪の科学者の野望を打ち砕く、という内容のアニメであった。
主人公はこれといった特徴のない少年であったが、遺伝子の力と正義感だけは人一倍あり、次々に押し寄せる強敵に苦しめられつつも「人々を救うのだ」という意思を持って戦う、典型的なヒーロータイプのキャラクターであった。
元々正義感が強く、曲がったことが嫌いであったクロウは、そのアニメの主人公の影響強く受けていた。
どのような困難に直面しても、その勇気でもって乗り越えていく主人公の姿に、自己犠牲を顧みず、自身の正義を貫き通す姿にクロウは目を輝かせていたのだ。
強く、優しい人間になりたい。そんな風に思っていたクロウが、【ジーンドライバー】の主人公の真似をするのは自然な流れだったのだ。
クロウは顔を上げ、正面を軽く見据えると、自転車の前カゴに入れていたバッグから、水筒を取り出し、その中身を口に含む。
刺すような、甘い、甘い水だった。
砂糖水、と呼ぶには物足りないほどに甘い水。
そう、その水は……砂糖の4200倍の甘さを持つ人工甘味料キルコロースを飽和量限界まで溶かした水だ。
クロウはこの水のことを重糖水≪じゅうとうみず≫、もしくは重糖水≪キルコロースすい≫と呼んでいる。
重糖≪じゅうとう≫、とはキルコロースの和名である。
キルコロースは、上白糖や三温糖等の天然の甘味料だけでなく、人工甘味料の中でも飛び抜けた甘さを誇っているため、「甘さの重い」糖として日本では重砂糖という和名が付けられ、重糖とも呼ばれていた。口に入れた瞬間に突き刺すような甘さを放ち、後味もねっとりと長引く、その味を実に的確に表す和名であった。
「んーっ! おいしいっ!」
重糖水の甘さに歓声を上げ、満面の笑顔を浮かべながら自転車から降りるクロウ。彼は幸福そうな笑顔をそのままに、チェーン式の鍵を前後車輪にふたつかけ、「ここで待ってろよ。相棒」と軽くサドルを叩いた。
そして前カゴのバッグを背負いつつ自転車から少し離れると、大きく伸びをし、屈伸運動。
腰をひねって左右旋回。
まぶたを閉じる。重糖水を飲んだ時の笑みを止め、ゆっくり、ゆっくりとひと呼吸。……ふた呼吸……。……次の呼吸で、カッとクロウは目を見開いた。
瞬間、彼の体が、薄く発光した。オーラ、という表現が一番的確であろう光は、どこか神聖さがあった。力ある光。クロウの纏う雰囲気がガラリと変わったように感じられた。
「目指すは、ばあちゃんの家っ」
光をその身に湛えたままクロウが走り出す。最初の一歩から猛烈な速度を出していた。その速度は、確実に常人のそれを遥かに超えていた。
風のようにクロウは坂を下る。ただでさえ速い速度で走り出したにも関わらず、前傾姿勢となり速度を更に上げる。普通であれば恐怖を感じるような、転倒をすれば大怪我は免れないであろう速度を超えてもまだ上げる。
一瞬の内に、坂道の終端が迫ってきていた。そこにはクロウの身の丈ほどの高さの壁。このままでは激突してしまう。
疾風のように、異常とも言える速度となったクロウは、しかし焦りの表情を浮かべることなく……むしろその速さを楽しんでいるかのような表情を浮かべた。
そして坂道終端の壁の手前、数メートルの位置まで辿り着くと、ぐっと地面を強く蹴り、大跳躍をした。
十六夜の月を背景に、クロウの体が夜空を舞った。
それはあたかも大砲から撃ち出された砲弾のように、地上約20mはあろう高さへと飛び上がった。
坂道の下で道を封鎖していた警察車両を軽々と飛び越えて。
坂の終端から綺麗な弧を描き、その遙か後方へ。
クロウは手を広げる。道路脇の広葉樹の枝に触れて速度を殺す。
そして、その二本の足でアスファルトの上を滑るように着地した。
「ぃよっしゃ、まずは成功っと」
昨年の春先からだろうか。クロウは自分の体の奥底というか、脳の中心というか……。明確に言葉として表現できない「自分自身のどこか」に《力》があることに気がついた。
大きく、どこか恐怖を感じるような《力》だった。
その《力》は、普通に生活している上では決して「認識する」ことがない《力》であった。しかし、「あること」をした時だけは、その存在を強く認識することができた。
その「あること」とは、甘い、ひたすらに甘い水を……。
キルコロースを溶かし込んだ水、重糖水を飲むことだった。
クロウは物心ついた時には既に重糖水が好きだった。
理由など全く見当がつかない。ただ、体が欲しているという表現がしっくり来るくらいに、ごく自然に、なんとなく大好きだったのだ。
両親からは「キルコロースを溶かしただけの水なんて、変なもの飲むのはやめなさい」と言われたりもしたが、それでも彼の本能は重糖水を求めたのだ。
なぜ飲みたくなるのか。クロウ自身にもよくわからなかった。
しかし、《力》の存在に気がついたとき、自身の行為に大きな意味を感じたのだ。
重糖水は、自分にとって必要不可欠なものである、と。
そしてこうも思った。
《力》を自分のものにしたい、と。
《力》の認識のためにキルコロースを溶かす水は、腐ったり、混ざり物が多かったりして「味が壊れていなければ」どんなものでも大丈夫であった。ミネラルウォーターでも、水道水でも、果ては雨水でも、だ。
クロウは思いつく限りの「とりあえず飲めそうな水」を試してみた。
全ては自分の内にある《力》に近づくために。
たまに「それなりにヤバい水」を試して盛大に腹を下したこともあった。もちろんそんな水では《力》を認識することはできなかったわけではあるが、ともかくクロウは色々な水を試したのだ。
それに加えてキルコロースを溶かす量も研究をした。はじめは少量で。そして徐々に量を増やして……。家にあったはかりで計量し、最も強く《力》を認識できる量を調査したのだ。
そしてその結果として、「砂糖の4200倍の甘さを持つキルコロースを飽和量まで溶かした水」を飲むこと。それによってクロウは自身の中の《力》を最も強く認識できるという結論に辿り着いたのだ。
《力》を強く認識できるようになった後はスムーズであった。
クロウにとって、《力》はもう「そこにある」ものだった。
《力》を「手に掴む」ようなイメージで手繰り寄せる。
イメージ、としか表現しようのない、自身の意識を、感覚を用いた「行為」によって《力》を引き寄せのだ。
上手く引き寄せることができた時、薄い発光と共に自身の体に《力》が宿る。
《力》が宿れば、多少というレベルを超えた無理ができるほどの身体能力を得ることができた。
先ほどの大跳躍も、その《力》を利用したものであった。
これまで《力》を使いこなすために、実は相当痛い思い――例えば先の跳躍のようなことをして着地に失敗し、錐揉みしながら地面を転がったり――をしてきたわけであるが、クロウの中ではそんなことは非常に小さなことだった。
なぜなら、クロウは自分自身が《力》によって【ジーンドライバー】の主人公ようなヒーローになれると思ったからだ。
クロウは特に目立つことなく日々を過ごしてきた少年ではあったが、その眼には世の中の理不尽が、それに屈する弱き者が映り続けていたのだった。
力なく、ただただ見ているだけだった自分に決別できる。
そう、自分は選ばれた者になれる。
ヒーローになれる。
誰かのために、何かができる。
自分自身の正義を、守ることができる。
だからだ。
だから、《力》の使い方を、彼なりに探究した。
あらゆる水を試したことも、傷つきながらも《力》を制御することも。
彼にとっては、ヒーローになるための試練だった。
そして彼はそんな試練の先に、《力》を我が物としたのだ。
深呼吸ひとつ。
クロウは《力》の出力を落とす。同時に、彼からの発光も治まっていった。
《力》は強力であり、長時間使用していると体への負担が大きい。先のように発光を伴う出力での使用は30分が限界であった。
それを超えると、強烈な倦怠感に襲われ、立っているのがやっとといった状態になってしまう。
以前、クロウが限界を迎えた時は、ちょうど田んぼの脇を走っている時であり……。それはそれは酷い目にあったものだった。
「こんくらいセーブしときゃいいかな」
呟き、クロウは走り出す。
《力》の出力を落としてはいるが、その速さは常人とは思えないものであった。
一瞬でも早く、自分の目的を果たすために。
誰かの笑顔を、人々の小さな幸せを守るために。
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